21世紀最初の年も残り時間3時間あまり。20世紀がヴィクトリア女王の死で始まり、ある意味でそれが少なくともその世紀の第一クウォータを象徴していたように、9月11日の同時多発テロはおそらくこの世紀の第一クウォータを暗示するものになるような気がする。

 善かれ悪しかれアメリカ合衆国がこのクォータの主役をつとめることは間違いない。しかし、アメリカの凋落も存外早かろう。アメリカの体内時計の速さがその寿命を縮めるからだ。実態を伴わない情報経済が躓きの石になるかもしれない。エンロン破綻のバリエーションがこれからも打ち続くことだろう。国際社会における手前勝手な振る舞いも、正義のつまみ食いも、いずれは各国の信任を失わせるもとになろう。問題は、その「没落」が決定的になるまでの間に、アメリカが凶暴な性格故に、どれほどの厄災を世界にもたらすかということだ。

 帝国の夢から醒めるのに、ヨーロッパは二度の大戦を経験しなければならなかった。星条旗のデザインの野暮ったさに気付くのに、アメリカは何を経験しなければならないだろうか。どちらも観察者の眼からみれば何も経験する必要などない。歴然と存在している事実は、その気があればいつでも見えているのだから。しかし、それが見えないのが人間の愚かさなのだ。(12/31/2001)

 TBS「噂の東京マガジン」は拡大版。最後の方であの刈羽村の「ラピカ茶道館」を取り上げていた。

 一畳十数万の設計費にも関わらず、実勢価格一万にも満たないペラペラ畳が使われていたというので有名になった原発補助金施設。まあ、その工事の手抜きぶりの凄まじいこと。天井を支えるはずの柱が途中で切れていたり、木組みがかみ合っていなかったり、電気配線は途中で切り飛ばされたままになっていたり、よくもまあこんなものの完成検査が通ったものだと呆れ果てる。刈羽村という村はこんなものになんと7000万もの金を払っていたというのだから驚く。

 原発関連電源三法がいかに村をだめにし、これに関わる人々の心を荒廃させるものかを如実に表す映像だった。ふと25日の夕刊「窓」の記事を思い出した。

 「地道に、身の丈に合った町づくりを目指すことが大切です」と彼は言った。
 「美しい森こそ良質のヒノキを育てる」と、環境保全の経営を心がけ、昨年は日本で初めて、国際的な森林保護組織から認証を受けた。
 有名な熊野古道も通る所有林では、常勤の従業員24人が働く。経済的にも成り立つ林業は注目され、今年は全国から数千人が見学に訪れた。
 「原発で金は落ちるかもしれないが、目先の損得にとらわれるべきではない」。その言葉に、「あの人が言うなら」と反対に回った町民も少なくない。土建・商工業者が中心の推進派には痛かった。

 三重県海山町、先日、住民投票で原発不要の結論を出した町の林業家、速水亨を紹介したものだ。

 「目先の損得にとらわれた」商工会の幹部連が目指していたのは、ラピカ茶道館のような薄っぺらな文化施設と電源三法による補助金シャブ常習者への道だったのだろう。(12/30/2001)


注)

海山町商工会のホームページをみて、面白いことを発見しました。商工会の組織と役員名簿のページです。

会長と副会長、一部理事、計6名分のところが組織図に隠されて読めなくなっているのです。なぜ、なんでしょう。

隠れている部分をソースで読んでみました。
会長さんのお名前は、 植村馨一さん
副会長さんのお名前は、植村恭行さん と  尾崎好紀さん
隠れている理事さんのお名前は、畑内謙志さん と 浜田勝志さん と 浜田耕輝さん
です。この皆さんが、原発誘致推進の旗頭だったかどうかは分かりません。

会長の植村馨一さんは、「町民には、協力金が出る」などとカネでつろうとする発言を繰り返したそうですから、ひょっとすると、恥ずかしくて、名前を出したくないのかもしれません。

でも、ご自分の信念に基づいて、運動し、嘘ではないと信ずることを発言されていたのでしたら、何も恥ずかしがることなどありません。堂々としていらっしゃれば、いいと思います。

 ビンラディンの新しい演説映像がアルジャジーラテレビから放映された。撮影時期がいつかは分からないが、夕刊には「アフガン東部の町ホーストで11月16日にあった米軍によるモスク爆撃について、『数日前のこと』と述べていることから、一番早くても11月下旬以降とみられる」とある。新聞写真にみる限りはかなり頬がこけた印象。

 彼が生存しているのか、アフガニスタン国内にいるのかそれともパキスタンなりどこかに出国したのか、気にかかるのは今月13日に起きたインド国会議事堂襲撃事件とこれが引き金となったカシミール周辺での軍事的緊張状況。もし、議事堂襲撃事件がビンラディン一派によるものだとしたら、パキスタンのアフガニスタン国境警備力を減殺する巧妙な一手かもしれない。

 オフィシャルな姿勢としてはビンラディンの越境をチェックするとしていても、パキスタン軍と国民感情の本音はカシミールにあることは確か。心情的に隠れビンラディン支持である軍の関係者にしてみれば、カシミールは絶好のイクスキューズにもなりうる。(12/27/2001)

 不審船からの反撃は銃撃だけではなかったという続報。ロケット砲も使用されており、2隻の巡視船のそれぞれに対して発射されていたという。どうやら、肩に担ぐランチャータイプだったため、しけの影響で照準が定まらず、幸運にも当たらなかったということのようだ。ニュースによれば、もし命中していたなら、巡視船のブリッジは軽く吹き飛んでいたとのこと。

 不審船は北朝鮮のものという見方はより強まった。では、なぜ、あれほど遅い船だったのか?

 手品師が右手に観客の注意を集めるときは、左手が何をしているかが問題だ。それを東シナ海ではない別の海域と見るか、そもそも海ではない別のことがらと見るか、いろいろ想像はできるが具体的なことは分からない。(12/25/2001)

 昨日来の話題は「不審船」。経過は次の通り。21日16時頃、自衛隊の哨戒機が奄美大島沖を国籍不明の不審船が航行しているのを発見。22日1時30分、自衛隊哨戒機が再確認し、海上保安庁に連絡。6時20分、海上保安庁機も同船を確認。12時48分、巡視船も確認して追尾を開始。13時12分、停船を命令、従わないため14時36分、威嚇射撃を開始。不審船は船体火災を消すため停船するなどしながらも逃走を続ける。接舷という段になり、不審船側から発砲があり巡視船の乗組員2名が負傷、これに応戦するうち、22時13分に沈没したという。

 不審船の外観は2年前に日本海で追跡を振り切って北朝鮮の港に逃げ込んだものに酷似しているが、海域が東シナ海であること、速力が前回に比べて格段に遅いなど、北朝鮮と断定するには疑問もある。

 政府側が「正当防衛による発砲」を強調しているのは、どうやら不審船の船首に命中した威嚇射撃が領海内ではなく排他的経済水域であったためらしい。しかし、不審船側の発砲後の応戦とそれ以前の威嚇射撃弾の船体命中とをごちゃごちゃにするのはおかしい。今後、船籍と航行目的の解明のため、沈没した不審船の引き上げが必要となるだろうが、正確な「正当防衛」概念の適用なくして、中国の経済水域に沈んだ船のサルベージは簡単には認められないだろう。(12/23/2001)

 通勤電車は面白い。一様に混み合っているわけではなくて、すごく窮屈なところと妙にゆったりしているところがほんの数十センチと離れていないところに存在する。大体は「女性」それも「美人」が「ゆらぎ」の原因のようだ。背中の感じで右後ろは空いているのに左後ろが安定しない、無理な姿勢をしていないで右に一歩来てくれればいいのになどというときは、たいていその左後ろ隣の隣にちょっと様子のいい若い女性が立っている。近くには必ずその女性に対していいポジションを占めようと熾烈な押し合い圧し合いをしている輩がいる。若い男に限らないのも可笑しい。あれほどもみ合いに注力して、会社に着く頃には体力を使い果たしてしまわないかと心配になる。

 最近は会わなくなったが東久留米から乗ってくる「ねずみ男」。とにかくたくみにねらった女性に密着する。着く駅ごとの乗客の流れ、カーブでの傾斜、ブレーキや加速、どの様な外乱に対しても見事に密着姿勢を維持する。自動制御の教科書に乗せたいほどの名人芸。奴が賢明なのは女性を限定しないというところ。その日だけの「ちょっとな奴」で済んでいるのが秘訣か。(12/20/2001)

 昨日の続き。

 アメリカが白兵戦を避ける方法が一つだけある。すでにビンラディンが死んでいると発表することだ。しかし、その発表には、ビンラディンがあのテロの首謀者であるとした際に行った説明以上に説得力のある「証明」が必要になろう。ヒトラーの自殺でさえ、長い間、疑われ続けた。

 他の事柄と違いこの証明を捏造することは、嘘をつくことをためらわないアメリカとしても難しかろう。なぜなら、アメリカの発表の後に、アルジャジーラからビンラディンの生存演説でもオンエアされた日には、アメリカの威信は瓦解することになるのだから。ちょうど意外な脆さであっさりと崩れ落ちたワールドトレードセンターのように。

 と考えてくると、ビンラディンがアメリカの発表通りに追い詰められて後がなくなっているとしても、彼には逆転勝利の切り札が一枚だけ残っていることに思い当たる。部下に命じて、自分を殺させ、その死体を完璧に隠させる、それができれば、ビンラディンには「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ことが可能なのだ。(12/18/2001)

 アフガニスタンの反タリバン勢力はトラボラのタリバン・アルカイダは制圧されたと発表。一方、アメリカはその発表を打ち消し、まだ制圧されたとはいえないと発表している。タリバンの排除に対しては、北部同盟を含むアフガニスタンの各勢力はアメリカとベクトルが一致した。しかし、アフガニスタン全土の政治支配が貫徹すれば、アフガニスタンのほとんどの勢力はそれ以上働こうとはしない。彼らが口をそろえて、ビンラディンはトラボラにはいない、すでにパキスタンかどこかに逃亡したと言っているのは、そういう事情によるのだろう。

 アルカイダの殲滅とビンラディンの拘束・殺害はアメリカが自分の手でやらなければ、誰もやってはくれない。遠いところからミサイルを打ち込んだり、高いところから爆弾を落としているだけのミリタリハイテクによる「きれいな戦い」のステップは終った。殺人ロボットはまだない。相手を特定して撃つのは白兵戦以外にはない。

 アメリカの固い決意を示してもらおうではないか。そうでなくては空爆によって死んだ無辜のアフガン市民の霊は報われない。ブッシュよ、早くやれ。この期に及んで臆することは許されない。まさか無辜の民を殺すことは簡単だからやれたが、おまえが決めつけた極悪非道の悪魔を殺すことは難しいからできないなどということはなかろう。さあ、早くしろ、世界中が見ている。(12/17/2001)

 週末のいくつかの番組で繰り返しビンラディン・ビデオを見た。ジャララバードの民家で見つかったというこのビデオの出所については、誰もが釈然としないものを感じていることだろう。そして、アメリカが「おそらく11月中旬に撮影されたもの」とコメントしているにもかかわらず、アルジャジーラの映像に比べて、ビンラディンがいくぶんふっくらした感じであるのも何か違和感がある。湾岸戦争当時、クウェートの病院でイラク軍の暴行にあったと証言した少女が真っ赤な偽物であったとか、油まみれの水鳥の写真が縁もゆかりもない別の場所で撮られたものであったとか、かつてアメリカがでっち上げた数々の「証言」、「証拠」に欺かれた側とすれば、簡単に信じるわけにはゆかない。いずれ世界中のマスコミが声紋鑑定などいろいろな検証をしてくれることだろうからそれを楽しみに待ちたい。

 その上で、これが本物だとしても、「決定的な証拠」というのにはやはり無理があるだろう。なぜなら、すべてが既報のことばかりで目新しい事実は何ひとつなく、かつ犯人しか知り得ない「秘密の暴露」もまたひとつも語られていないからだ。その点でこのビデオもまた「疑わしさの積み重ね」のひとつでしかない。もっとも、「疑惑の銃弾」以来、この国でも「疑わしさ」をどんどん積み上げることにより、人々の感性を鈍磨し、「彼以外に疑わしい者がいない以上、彼が犯人に違いない」と思わせるある種の「人民裁判」が横行しているようだから、これはこれで大衆的には十分な「有罪」の証拠になるのかもしれない。(12/16/2001)

 10時50分からの「ザ・スクープ」を見る。この番組はかつて桶川のストーカー殺人に対する埼玉県警の怠慢を指摘したことで知られる番組。おおもとの土曜日深夜の放送枠から日曜日ゴールデンタイムへ出世、視聴率競争の中で今は土曜のお昼に移り地方局の中継も少なくなっているが、相変わらずいいものを作っている。今日は「仙台筋弛緩剤点滴事件」。非常に緻密に構成されており、十分な説得力があった。

 疑問点は被害者たちの血液や尿から検出されたとする筋弛緩剤の鑑定にある。起訴されているのは殺人が1件、殺人未遂が4件。このうち殺人未遂の3件について被害者の血液が採取され、それぞれから筋弛緩剤マスキュラックスが検出されたとされている。鑑定結果は文献に見られる「体内にマスキュラックスが入ってから所定時間経過後の血液中の残留濃度値」とぴったり一致している。問題はまさにここにある。文献データの前提条件は、「静脈注射により一気にマスキュラックスを入れた場合」であって、この事件の検察側主張のように「点滴によりじわじわと入れた場合」ではないということだ。マスキュラックスは代謝・排泄により比較的早く体外に出るものだという。従って点滴などでじわじわと注入したのでは、片端から排泄されるため文献値よりははるかに数値が下回るはずで、検察側の主張は不自然だというのだ。

 鑑定の不思議はこれにとどまらない。殺人未遂に擬せられている4件のうち一番症状が重かった11歳の女子は事件一週間後に尿が採取され、これも鑑定にふされた。ところが、マスキュラックスの代謝・排泄の速度から考えて一週間後に尿から検出されることなどあり得ないというのが専門医の意見。これについてザ・スクープは全国の特定機能病院81に質問書を出し、61病院から回答を得た。その答えは、57%が「科学的にあり得ない」、43%が「分からない」という答えであり、「あり得る」と答えた病院は皆無だったという。

 なんと不思議な鑑定結果だろう。

@ データの前提条件がまったく異なるにもかかわらず、鑑定された残留濃度値は、文献値とドンピシャリ一致している。
A 一週間後の尿から科学的に出ないはずのものが検出されている。

 この世にも不思議な鑑定をしたのは、大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所の技術吏員、西川眞弓氏と土橋均氏だ。

 鑑定に疑問が持たれれば再鑑定をすればよい。これが常識だが残念ながらそれは適わない。なぜなら、出廷した土橋均鑑定人の証言によれば、「鑑定に全部使ってしまった」からだそうだ。鑑定に回されたものの数量を上げておこう。被害者三人の血液、6ml、1ml、5ml、尿は一人、3ml、点滴ボトル残液、30ml、7ml、50mlだ。分析には0.1mlもあれば十分だというのに、西川眞弓氏と土橋均氏は一体どんな使い方をしたのだろうか。50mlもあったとすれば、相当余ったと考えられるが・・・。それとも、お腹でもすいていて、点滴液がおいしそうだったので、飲んでしまったのだろうか。

 大阪府警科研の「西川眞弓」、「土橋均」という技術吏員の名前は記憶しておこう。(12/15/2001)

 火曜日のポートランド市警の記事の続き。記事には市警のマーク・クロカー所長のインタヴューが載っている。印象的な言葉があるので書き抜いておく。

 「長い警官生活の中で、法律を破ってでも行動しろ、と世論が求めたことはこれが初めてだ」。「被疑者の人権を守るオレゴンの州法は20年前に制定された。今日の事態を想定していたわけではないが、『今は戦争だ』という理由で法を無視することはできない」。「ボスニアやルワンダで、文民警察官として働いた経験から得た教訓です。オレゴン州くらいの大きさしかないボスニアでは25万人が戦争で死んだ。ナショナリズムや民族の価値が、法の支配より優先したからだ」。「ルワンダでは、対立するフツ族の囚人200人を監視しているツチ族の警官に会った。彼は家族全員をフツ族に殺された。『囚人に復讐したいか』とたずねたら、彼は『私はすべてを失い、持っているのは法だけだ。法を曲げたときに何が起こるかを我々は学んだ』と答えた」。

 記事にはポートランドの土地柄に触れた部分もある(そういえば、ポートランドは札幌の姉妹都市。AFSで旭丘に来ていたR・S君はどうしているだろう・・・)。「・・・星条旗だって東海岸に比べると少ない。代わりに『肝心なのは憲法だろう。愚かもの!』というステッカーを貼った車さえ走っている」。

 オレゴンは西海岸、ニューヨークからは遠い。もし、同じ西海岸のどこかの町で同様のテロ事件が発生したとしたら、このステッカーが見られるかどうか、それは分からない。しかし、星条旗による連帯より盟約としての憲法こそ安定した社会の基盤であることは疑いのない事実だ。もっとも、ベトナム戦争当時、合衆国憲法をどこか社会主義国のものと答えるアメリカ人が多かったという笑えない現実があの国にはあった。権力に制限を加える憲法を嫌う人々はどこにでもいるもののようだ。(12/14/2001)

 昨日の夕刊のトップ見出しは「発泡酒20円の増税」だった。しかし、朝刊には「発泡酒増税見送り」と出ている。帰宅が午前様だったせいもあり、昨日の午後の顛末をまったく知らぬものには、まるで一夜ですべてが変わってしまうように思える。

 相沢英之会長が自民党税調で会長一任を取り付け「さあこれで増税」と安堵した後のどんでん返し。財務官僚の無念さはいかばかりか。何年か前、ビール会社の技術力を見くびり、麦芽比率規定をいじることによりビール並み課税を実現した、いかにも木っ端役人らしい小手先の芸当が祟ったのだ。

 しかし、彼らはあきらめないだろう。既存市場にこだわる企業は今や消え去るものと決まっているが、役人は市場環境が変わってもルールを変えて市場を維持しようとするからだ。(12/13/2001)

 朝刊にアメリカ社会の強さが見て取れる記事が載っていた。オレゴン州ポートランド警察がアラブ系留学生のプライバシーに触れるFBIの事情聴取捜査依頼を拒否したというもの。「オレゴン州では81年に定めた通称『反マッカーシー法』で、具体的な容疑もないのに、人種だけを理由に特定の人々に尋問することを禁じている」。「アメリカ」か「反アメリカ」かの二者択一を迫って、自らの思考を極めて狭い範囲に追い込んでゆく病的な傾向、それがマッカーシズムの時代の特徴だった。

 かつて竹山道雄は「自由を否定するものにまで自由を保証せねばならないのか」という深くかつ厄介な問題をさして考える風もなく非常に浅い感情論に転換して「反共」に結びつけていた。ブッシュ政権は「無差別テロ」の恐怖をバイアスに自らの政治権力の強化を図ろうとしている。ブッシュはマッカーシーとあまり遠くはない。マッカーシーが頭から尻尾まで嘘とハッタリで固められていたのに対し、ブッシュはテロ事件という客観的事実から入ったことが違うだけ。入ってみれば横行する論理はまったく同じ。ブッシュが狙っているのは大統領の座をインチキで勝ち取った政権基盤の空虚を天ぷらナショナリズムの熱狂で埋めること。マッカーシーが上院議員の再選を企図したことと同じ構造だ。マッカーシズムは足掛け5年ほど猖獗を極めた。今回の天ぷらナショナリズムの興奮が5年もってくれればブッシュはもう一期続けられることになるが、果たしてどうなるものか。(12/11/2001)

 朝刊のコラム「ON AIR」から。

 「小泉さんは政治に大道芸を導入した。おおげさな言葉を並べ立て、何かが起こっているかのように見せる政治手法だ」とたとえたのが無所属の中村敦夫参院議員。「三方一両損という言葉は面白いが、患者と保険者は同じだから三方というのはおかしい。製薬会社、医療機器会社などの業界が抜け落ちているのも問題。見せかけはものものしいが、大道芸というか奇弁だ」と超辛口だった。

 批評と批判は楽だということは事実だ。舌鋒鋭かった青島幸男が都知事としては丸出だめおクンだったことは記憶に新しい。しかし、コラムが結びとしているように「言葉先行型の首相が言葉による攻撃を招くのも仕方がない」というのも、小泉首相の場合、確かな事実。(12/8/2001)

 タリバンがカンダハルを反タリバンのパシュトゥン人勢力に明け渡し全面投降したというニュース。約2ヵ月のアメリカによる空爆、アメリカの援助を受けた北部同盟や影響力を考慮したパシュトゥン人内部の反攻に敗れ去った形だ。

 10/8の日記に二つの可能性を書いた。ひとつはアメリカが旧ソ連の轍を踏んで長く泥沼に足を取られる可能性、もうひとつは地上戦を展開しても相手を制圧する可能性。そして、アメリカが勝つためには「戦いの相手をビンラディンとタリバン強硬派に限定」し、「テロリスト対世界」という看板を維持することが条件となるだろうと書いた。当初のブッシュの愚かな発言は比較的早く修正されたこともあって致命傷とはならず、アメリカは一応の勝利を収めることができた。

 しかし、ビンラディンの影響力をこの世界から完全になくすることができない限り、本当にこの戦いに勝利したとはいえない。ビンラディンを殺しても、捕まえて処刑しても、彼がイスラム世界のみならず世界中の貧困地域のすべての人から一顧だにされないゴミのような存在にならない限り、アメリカの真の勝利はあり得ない。

 結局のところ、ブッシュが達成できた目標は、せいぜいがところ、ミサイル防衛計画のような国防産業の利益に血道を上げて、本当の意味での安全を確保できなかったブッシュ自身の無能さからアメリカ国民の目をそらせた、たったそれだけのことに過ぎない。(12/7/2001)

 夕食後、昨日、脱税容疑で逮捕された野村沙知代の話になる。「どれくらいの刑になるの、私、刑務所に入ればいいと思ってるけど」と家内。たぶん世の中の素朴な人の多くはそれを期待していることだろう。「懲役刑になるとしても、執行猶予付きじゃないか」というのがこちらの意見。

 テレビではなんだかとんでもない犯罪を犯しているような取り上げ方だが、とんでもなかったのはかつて彼女を出演させてその好き勝手な「意見」を面白がっていたということそのもの。脱税の手口としては巧妙でも、悪質でもないようだ。タレントに限らず、自由業者にとっては、ほぼ全員身に覚えのあることに違いない。あえていえば、あれほどの額をごまかしているか否かの違いだけだろう。

 そこでふと思いついた。リストラで職を失った人々に一ヶ月程度の講習を受けてもらってから、マルサになってもらうのだ。摘発によって上がった税収の何%かを彼らの報酬にする。もちろん、すべての人がマルサに向いているわけではなかろうが、ある種のルサンチマンをかかえているだけに迫力のある査察が望めるかもしれない。(12/6/2001)

 一度は「お受験殺人」と名付けられた文京区の女児殺害事件の判決があった。被告山田みつ子に対して懲役14年。なんだかいかにもの量刑という感じ。被害者の祖父が「極刑を望んでいた。納得がいかない」と言うのを夜のニュースで見た。極刑というのは死刑のことだろう。なるほど被害遺族には同情を禁じ得ないし、かわいい孫を殺された祖父の気持ちは想像に余りあるものと察する。しかし、死刑判決のための要件を考慮すれば、懲役刑は妥当なところ。それが最高刑の15年から1年減じられたところが、なんとなく「いかにも」と思わせる点だ。

 最近、「被害者の人権」という声が大きくなりつつある。なるほど「被害者の人権」は尊重されて然るべきだ。しかし、その中に、「被害者遺族の人権(というよりは主張)」が混入しているように思う。「被害者遺族」はある意味で「弱者」や「身体障碍者」に似ている。十分に配慮されるべきであるが、同時に間違った優遇は何の解決にもならぬという点で。

 例えば、法廷に被害者の遺影を持ち込むことを認めるべきだという主張がある。これを拒み続けてきた裁判所が最近これを認めた例があるときいた。もし自分がその立場になれば、小さな遺影を定期入れにでも入れて胸ポケットに忍ばせて臨むだろう。これ見よがしに額縁入りの写真を法廷に持ち込んで、本来裁判所が果たすべき機能に何らかの影響を狙うというのは、法律の支配を受け入れているもののすべきことではない。しかし、このような主張をいかにも当然のものであるかのように扱う風潮が蔓延しつつある。非常に安易な感傷論だ。時代はここまでウェットになったものか。

 タリバン支配下のアフガニスタンでは、公開の処刑、それも刑の執行にあたり被害者遺族が鞭打ちなり、殴打に参加することが行われていた。にわかにアフガニスタンに興味を持つようになった我々は、その映像を見て「イスラム原理主義の恐るべき常識」に瞠目した。もし、我々が裁判に復仇を求めるのならば、これに習うべきだろう。つまり、呉智英の主張通り「仇討ちを復活すべき」なのだ。被害者遺族は「仇討ち許可願い」を提出し、裁判所が被告の有罪を認めたならば、これを実力で討ち果たす。これでこそ「被害者遺族の人権」を権利のための闘争によって実現することが可能となろう。その気概があっての主張か?(12/5/2001)

 朝刊に「ご出産特番 視聴率伸びず」の見出し。土曜日の内親王(というのだそうだ)出産に際して各局が組んだ特番の視聴率、NHKの7時のニュースが通常なみの16.3%だったほかは日本テレビの9.9%が最大、特番を組まなかったテレビ東京の土曜スペシャル「鍋料理」ものが17.5%とNHKを抜いて最高視聴率を獲得した由。そういえば、うちはその時、前に録画しておいた寅さんを見ていたっけ。(12/4/2001)

 日経夕刊にはアメリカのエンロン社が破産法の適用申請をした記事。負債総額は160億ドル(1兆9600億円)。最も別面の詳細記事によれば、これは帳簿上の債務で簿外には最大270億ドルの債務が別にある由。この関係で円建て債1050億円分が債務不履行になる見通しとも伝えている。

 朝日夕刊には「エンロン株価は昨年8月には90ドルを超えていたが、先月30日に26セントまで暴落」ともある。自社株を担保にした簿外の金融取引がエンロンの急成長を支えたとのことだが、成長も早かったように破綻も早かった。なんだかアメリカという国の特性を象徴しているような気がする。「成長する」と見るや余るほどの金が集中し、いったん不振が伝えられると一気に金が逃げ出してゆく。マネーゲームが経済活動の大部分を占めている証拠だ。アメリカ型ビジネスというものはせいぜいがこんなものなのだろう。振り回された投資家たちは自業自得という気もするが、なかには401Kのカネをつぎ込んだ人々もいるだろう。それでも自己責任による損失。これがはやりのグローバルスタンダード、いや、アメリカンスタンダードだ。(12/3/2001)

 昨日からテレビを見ながら何度も嗤った。ろくに使いこなしもできないくせに、まるで強迫観念に追い立てられているかのように何とか敬語を使おうとする。おかげで吹き出してしまうような変てこりんな日本語をずいぶん聞かせてもらった。敬語をきちんと使いこなす自信がないのだったら、黙ってにっこりと笑って「女のお子さんですか、それはおめでとうございます」とでも言っていれば、馬脚をあらわすこともなかろうに。

 もっと盛大に嗤ったのは提灯行列だ。提灯行列そのものは趣味の問題(なんと貧しい発想よ)だから、とやかく言うものではないが、その中継でTBSのアナウンサーが「7時の出発ということでお客様も集まり始めました」と伝えたのには、思わず「お客様かい」と半畳入れたくなった。(12/2/2001)

 雅子妃、女児出産。どうでもいいことだが、14時43分、身長49.6センチ、体重3102グラム。これでいよいよ皇室典範の改正が必要になろう。まあ現実に責められねば、何事も変えることができないこの国らしくて、それもいいかもしれない。

 ワールドカップの組分けと対戦チームが決まった。初戦はベルギー。奇しくも同じ年に皇太子妃が女児を出産した国同士の対戦となった。(12/1/2001)

 ジョージ・ハリスンが亡くなった。58歳、ガンだったとのこと。ビートルズへは回り道をして入門した。流行り物は敬遠するというのがポリシーだったから、女の子がキャーキャーいうビートルズはもうそれだけで聴く気になれなかった。しかし、ブラザーズ・フォアが歌ったビートルズナンバー、これがビートルズの曲に親しむきっかけになった。4人の中で地味だったジョージは、ジョン・レノンがオノ・ヨーコに出会って急速に凝縮された世界を作り上げるようになるまで、一番のお気に入りだった。(11/30/2001)

 格付け会社S&Pが日本国債の評価をダブルAプラスからダブルAに引き下げ。2月にダブルAプラスに変更されてから半年で再度の引き下げ。ダブルAにはイタリアがいるとはいうものの日本は「ネガティブ」評価、実質的にはG7中の最低ランク。小泉政権のメッキがはげてみれば、これは当然の評価かも知れぬ。それにしてもシングルA落ちまで後二段階とはちと厳しい。

 一方閣僚の株取引自粛の閣議申し合せを見直す話が出ているという。誰が言い出しっぺなのか。マクドナルド株を所有しホクホクしていた竹中経済担当相、狂牛病騒ぎの売上げ激減を前に居ても立ても居られず主張しはじめたと考えるは下衆の勘繰りか。(11/28/2001)

 夕刊に「『第2ポンピドー』に期待」という見出しでパリ郊外に建設予定の近現代美術館の建設に関する記事。施主はピノーという実業家、設計コンペの結果、安藤忠雄に決定というニュースが記憶にあった。そのニュースのちょっと前の書評に安藤氏の「連戦連敗」という本が取り上げられていたから。「連戦連敗なんて謙遜だったのね」と思ったものだ。

 セーヌに浮かぶ<創造の宇宙>――安藤氏は当選案をそう説明する。3万2千平方メートルに及ぶ敷地を、中空のガラスの箱が覆う。建築の輪郭は島の水際線に沿った三角形で、美術の展示スペースはその箱の内部に配される。屋外には川面に向かって腰かける階段状の場も設けられる。

 完成は2006年の予定とか。できれば、その頃に行ってみたい。(11/27/2001)

 アメリカが海兵隊をアフガンの戦線に送り込みはじめた。地上戦部隊の本格投入は初めてときいて、ヘェーと思った。テロの黒幕ときめつけたビンラディンを捕まえるか殺すことを目的にしていたはずなのに、やってみせるのは国内向けのショーとしての空爆と特殊部隊のヒットエンドランだけ。本当の意味での真剣な戦闘はアフガンの傀儡軍にやらせていたわけだ。自分のケツぐらい自分で拭けよ、chicken Bush。(11/26/2001)

 パソコン周りの山を片づけなくてはと思い、手をつけたところから新聞の切り抜きがこぼれてきた。朝日、6月17日付の風というコラム。「カブールから 流浪するアフガン音楽家」というタイトル。これを読むから片づかないんだ、と思いつつ・・・。

 「カブールでタクシーに乗ったら、若い運転手が大胆にもアフガニスタン音楽やインドの流行歌のカセットを次々かけた。国の大半を支配する原理主義のタリバーンは、独特のイスラム法解釈で音楽や踊りを禁じ、映画館を封鎖、テレビもいけない。・・・市民から鬼のように恐れられている宗教警察が、日本製の四輪駆動トラックで巡回し、違反者の摘発を続けている。そんな厳命にカブール市民は面従腹背で抵抗している。その若い運転手も、タリバーン兵の姿が間近に見える時だけ音量を下げるのだった。聞き覚えのある曲が流れ出した。哀愁を帯び、切々と訴えかけてくる」。その曲は5年前の9月、タリバンが首都を落とすまでアフガニスタン全国で大ヒットしていた「カブールは燃えている」という曲。コラムニストはその作詞作曲をしたシャムスディン・マスロールを思い出す。タリバーンを避けた彼はマザリシャリフに移住し、コラムニストはその頃に会ったことがあった。しかし、そのマザリシャリフもタリバンの支配下となり、彼の消息は分からなくなっていた。

 「この曲はとっくに消えたと思っていた。それが今も生き残っている。驚き、感動した。恐怖政治を敷いても、人々の心まで完全支配はできないのだ」。あらためて作曲家の行方が気になり伝手を辿ったコラムニストはパキスタンのペシャワールに難民として移り住んでいる彼と電話で話をする。「99年に家族全員でここに来ました。絶望の連続でしたが、今は幸せです。毎日、若い人たちにアフガン音楽を教えています。民族の伝統を絶やしたくない。後世にぜひ伝えたい」、これが作曲家の語ったこと。

 それにしても6月の時点でアフガンにそれほどの関心があったかしら。なぜ、このコラムを切り抜いたのか、ほとんど心当たりがない。裏を返して合点がいった。切り抜きの裏は憲法についての国会調査会の記事だった。(11/20/2001)

 昨日の海山町の投票結果を書いておく。

             得票    投票数での比率 有権者での比率
原発誘致反対   5,215票      67.26%       59.61%
原発誘致賛成   2,512票      32.40%       28.72%

 ダブルスコアで原発誘致推進派の惨敗。

 少しだけ考える力があれば、ことの本質は簡単に見極められる。電気を流す電線には抵抗がある。電線が長くなれば抵抗値も大きくなり、送電によるエネルギーロスは大きくなる。したがって、発電所は電気の消費地に可能な限り近いところに設置するのがよい。ここまでの理屈は小学校の高学年以上ならば、誰にでも分かることだ。もし、原子力発電が安全なものなら、電力会社は、かつて広瀬隆が呼びかけたように、「東京に原発を!」建設すべきだ。現に火力発電所は臨海工業地域に建設されており、都会からはるかに隔たった僻地に建てられたものはひとつとてない。

 しかし、東京電力は東京に原発を建設していない。北海道電力は札幌に原発を建設していない。東北電力は仙台に原発を建設していない。関西電力は大阪に原発を建設していない。中国電力は広島に原発を建設していない。四国電力は松山にも高松にも原発を建設していない。九州電力は福岡に原発を建設していない。殊更に消費地から遠い送電ロスのありそうな海沿い、それも海以外の三方を山で囲まれたこれまたいかにも送電線工事のしにくい場所を選んでいる。(いま思いついたが、なぜ、東電は鎌倉に原発を作らないのだろう?) なんとも不思議な話だ。なぜか。このことこそ、電力会社自身、原発を火力発電所ほどに安全と考えていない証拠だ。

 もうひとつ。海山町で赤恥をかいた地元商工会議所の関係者が狙っていたのは、俗に電源三法と呼ばれる法律に基づく各種の交付金だった。「電源立地等初期対策交付金」、「電源立地促進対策交付金」、「原子力発電施設等立地地域長期発展対策交付金」、「電源地域産業育成支援補助金」、「広報・安全等対策交付金」、・・・、これらが原発を引き受ける自治体に支払われるカネだ。自分たちの知恵と努力で産業振興を図る気概のない無能で無気力な商工会関係者がヨダレを垂らすのもむりはない。と同時に、ごくまっとうな判断力を持つ人間ならば、二重三重に支払われるカネ、交付金のものものしさを一瞥するだけで、原子力発電所なるものが単なる「迷惑施設」とは明らかに一線を画するものだと知るはずだ。

 今回、際立って興味深いことがあった。それは、原発誘致のための住民投票とあって、いままで住民による直接投票に否定的だった人々も、海山町の住民投票に注目し、ある種の期待をかけていたことだ。しかし、彼らは、結果が「反対」と出るや否や、またぞろ「地元エゴが出る住民投票になじまない」という旧態依然たるコメントを出している。「住民は愚か者だ、だから議員に決めさせろ」というのが彼らの主張らしいが、愚かなのは彼らだ。そして、彼らは知性だけではなく、勇気と誠実さも欠いている。

 彼らは住民ひとりひとりの言葉と意見を聞くことが怖いらしい。素直に真実を見通してしまう「眼」、そして見たままを直截に「王様は裸じゃないか」といってしまう人を恐れているようだ。たとえば、今回の住民投票に入れ込んでいた「21世紀のエネルギーを考える会・みえ」なる団体のホームページ、その「ご意見・ご要望」書き込み欄にはこんな注意書きがされている。「個人・法人等に対する中傷誹謗や、当会のマナーに反するもの、活動主旨と異なるご意見についてはご遠慮下さい」と。よほど自分たちのスタンスに、自信も誇りも持てないものらしい、気の毒なことだ。(11/19/2001)

注)電源三法についてはここ
  ものものしい交付金の概要についてはここをご覧ください

 朝のテレビで先週行われた衆議院の予算委員会の情景を見た。田中外相に対する質疑のお粗末シーン。イラン外相との会談に遅れたのはなぜか、指輪はなくなったのか、指輪を買いに行かせたのか、その指輪はいくらだったのか、・・・。これがG8への出席を差し止め国会優先にして実現させた質疑かと思うと可笑しくなる。

 たしかにさしたる見識があるとも思えぬ田中真紀子が外務大臣ときいた時は驚き、大丈夫かと懸念したものだったが、ここ半年の動きを見ていると、外務官僚とはかくも陰湿な連中か、永田町の男が女を苛めるときはかくもネチネチやるものか、そちらに対する驚きの方が大きくなってしまった。

 さらにいっそう驚いたのは、田中を任命した他ならぬ小泉がまるで他人事のように、事態を成り行き任せにしていることだ。男気のない奴だね、小泉純一郎という男は。

 ここで嗤えるニュースが入った。三重県海山町の原発誘致の可否を問う住民投票で誘致反対が投票の三分の二を占めたとのこと。カネ欲しさに原発誘致を狙って住民投票条例を成立させた推進派はモノ嗤いのタネになった形。(11/18/2001)

 たばこと発泡酒の税率を上げる話が持ち上がっているらしい。ちょっと税収が悪くなると気軽に増税するのがたばこと酒。まあ、たばこは吸わぬし、酒はなめるのが精一杯だから、増税されようが何されようが、どうでもいいのだが、それでも少し腹に据えかねる。あまりにイージーではないかと思うから。

 たばこは健康に害があるのだから国民の健康を重視する優しい政府としては増税して当然という屁理屈があるらしく、とかく気楽に持ち出されるきらいがある。前回は旧国鉄の赤字解消が予定通り進まないからという何の関係もないことが理由だった。

 一方の発泡酒の増税は明らかなルール違反だ。もともと発泡酒は、麦芽比率が低い場合、酒税も低くなることに着目して開発されたアイデア商品。メーカーがおさえた麦芽比率の中で、いかにビールに並びうる味わいを出すかに知恵を絞った不況下の成功例でもある。大げさにいえば、景気低迷の中で望まれているイノベーションによる市場創出の一例なのだ。政府としては顕彰し、優遇税で応えて然るべきはず。それが「ビールと変わらないのに税率が変わるのはおかしい」などという木っ端役人の浅知恵で課税強化するというのだからあきれ果てる。なぜ、「どうぞたくさん売り上げてください、我々は薄利多売で税を稼がせていただきますから」と言えないのだ、財務省のバカ役人どもよ。

 どうにか持ち直した景気を見て消費税アップという冷や水をかけ、一気に景気の急降下を呼び込んだのは97年4月のことだった。今回もそれを習ってのやり方なのだろう。どうやら景気のいいものに税金をかけ不景気を招き寄せる、これが財務省の役人どもの崇高な職務らしい。(11/16/2001)

 日経夕刊の「ニュースなるほど」が面白かった。テーマは「産業の空洞化」。2000年の日本の対外投資額は329億ドル、イギリスの7分の1、アメリカの4分の1の水準。ドイツ・フランスと比べても少ない(この額の中には企業買収の費用も含まれるために必ずしも空洞化につながるものではないとの留保つき)。つまり、企業の流出は各国と比べてみると多いわけではない。これに対し、2000年の対日直接投資は82億ドル、アメリカの34分の1、ドイツの21分の1、先進7カ国中最低、日本の異常さは海外企業による直接投資が際立って少ないことにあるとの指摘。

 つまり、日本企業が海外に出て行くのに対して、かわりに日本に入ってくる外国企業は少ないというのだ。その不均衡の原因として、コラムは、人件費の高さ・インフラコスト・法的規制など常識的なものを列挙したのち、さらに根深い原因として「人」をあげている。立地条件などの良好な投資環境は当然として、「企業の将来を左右する研究開発拠点などを選ぶ際に」は優秀な人材を確保できる環境があることが企業を引きつける条件になっているというわけだ。IMDというビジネススクールがまとめた競争力ランキングの「大学教育が経済のニーズにあっているか」という項目で、日本は世界第49位なのだそうだ。コラムは「大学教育や人材確保の問題は対内投資の低迷だけでなく競争力のある企業が育ちにくい問題にもつながる。産業空洞化は人件費や為替レートの問題だけで論じるにはあまりに大きすぎるテーマである」と結論している。経済のニーズに応えることがそのままストレートに大学教育の目的だなどとは思わないが、近頃とみに知識も教養も衰えている学卒者がめだっていることは事実。(11/15/2001)

 朝刊にこんな数字が列挙されていた。橋本内閣だった97年末と現在の比較だ。

1997年末(橋本内閣) 2001年秋(小泉内閣)
国内総生産(名目、前期比%) 0.7 −2.6
鉱工業生産指数(95年=100) 103.1 92.8
企業設備投資(前年同期比%) 3.5 2.3
新設住宅着工戸数(前年同月比%) −18.6 −2.9
消費支出(名目、前年同月比%) −3.2 −4.7
完全失業率(%) 3.5 5.3
不良債権額(兆円) 29.7 32.5
消費者物価指数(2000年=100) 100.9 99.2

 プラスイメージの数字といえば住宅着工戸数だけ。しかし、これは「構造改革」の中に住宅金融公庫の完全廃止があげられているための駆け込み需要かもしれないとすると、ただ一輪のあだ花。小泉首相によれば「構造改革なくして景気回復なし」なんだそうだが、いつまでたっても、なるほど、経済の力強さを回復するのに役立ちそうだという改革はさっぱり見えてこない。聞こえてくるのは、医療機関の株式会社化だとか、ハローワークの株式会社化だとか、なんだか市場「原理主義」にマインドコントロールされたけちくさいアイデアばかり。どこが「改革」なんだ、一昔前に流行っていまや借金漬けの醜態を満天下にさらしている「中曽根民活三セク」の焼き直しではないか。(11/14/2001)

 ニューヨークの墜落機はエアバスA300だった。アメリカ政府機関は事故という見方。事件から約2ヵ月、場所がニューヨーク、時間帯もほぼ同じ、国際線にもかかわらず会社がアメリカン航空、・・・とくるとテロという連想が生まれたのは当然。それにしても、フライトレコーダーもボイスレコーダーも回収されていないうちから、事故だ事故だという当局のアナウンスは少しばかり早過ぎる気も。だいたい、垂直尾翼が吹っ飛んで、墜落地点からかなり離れた海で見つかっているというのは、単なるエンジン事故では説明がつきにくいと思うのだが。

 もうひとつ。カブール陥落のニュース。ほとんど戦闘らしい戦闘もなく、北部同盟がカブールを占領したという。タリバンは潰走したのか、それとも戦略的な「転進」を図ったのか。先週末からの急展開の状況を見ると「潰走」なのかもしれない。(11/13/2001)

 「クレオパトラの鼻」のような話が夕刊に載っていた。見出しは「ゴア氏、フロリダ制していた」。昨年の大統領選挙で最後までもめたフロリダ州の票の再点検をAP通信、CNNテレビ、ニューヨーク・タイムズなど主要メディアが進めた結果、もし、州全体の票を手作業で数え直していたら、42票から171票ゴアが上回っていた可能性があることが分かったというもの。

 もしフロリダ州の知事がブッシュの弟ではなかったら、もし不正確さを誘発するパンチカード投票機が使用されていなかったら、・・・、そんな「もし」ではない。もしジョージ・ブッシュではなくアル・ゴアが大統領になっていたら、9月11日の同時多発テロに対してどのように対処しただろうかという話。

 と、ここで、ニューヨーク郊外の住宅地にアメリカン航空のボーイング767型機が墜落というニュース。またかい。(11/12/2001)

 同時多発テロから2ヵ月、アフガンへの空爆開始から約1ヵ月がたった。相変わらずビンラディンは捕まってもいないし、殺されてもいないようだ。

 一方、最新のニュースでは北部同盟側がマザリシャリフという戦略上の要衝を占領しカブールへの侵攻の足がかりを確保したとか。北部地域のいくつかの州でタリバンは都市部から撤退しつつあるとも。空爆のニュースと反タリバン勢力の優勢のニュースが続くと、そもそもこの「戦争」が何のために始まったのかを忘れてしまいそうだ。

 当のアメリカの国防長官ですら、この軍事作戦の目標がビンラディンの身柄拘束ではなくアルカイダの弱体化にあると言ったり、あげくには「(ビンラディンをとらえることは)干し草の山から針探すようなもの」などと愚痴り、「アフガン戦は数ヶ月で終わる」と言ったかと思うと、「2ヵ月から23ヵ月までの間には終わらせたい」と訂正するなど揺れに揺れている。ひょっとすると、アメリカ政府自体、本当は何をしたいのか意思統一されていないのかもしれない。

 空爆の開始の前後から始まった炭疽菌騒ぎも奇怪な話。あの有能なFBIがばらまかれている炭疽菌の素性についてすら確定的な発表ができずにいるのは信じられないことだ。炭疽菌のDNAを解析したら、made in USAの刻印がされていたので、どのように事実を公表してよいか関係機関の意見調整ができずにいるという話さえ、まことしやかに流れている。最近、一部に報道された「炭疽菌をばらまいているのはアメリカ国内の極右組織という見方もでてきた」というのは、「驚愕の真実」とやらが露見した時の緩和のための予防策と見えぬでもない。(11/11/2001)

 「サンケイ抄」が嗤えた。まず、文体不統一。「だ体」に突然「ですます体」が混じる。こんな具合だ。

 小紙の改革で恐縮ですが来年四月から首都圏で新しい朝刊紙に生まれ変わる。思い切って夕刊を廃止するという発表をどう受け止めて下さいましたか。「一日の出来事が、丸ごと一紙でわかる」二十四時間編集の新聞をめざします。

 いつもの皮肉な口ぶりの独善的なお説教調が影を潜めて、ひたすらおずおずと陳弁これつとめようという低姿勢がめだつ。続きは・・・。

 新聞の歴史的変転というと手前みそだが、ニューヨーク・タイムズにしろワシントン・ポストにしろ、世界の一流紙がみな朝刊専門紙であるのは偶然だろうか。もう一つ、値段のことをいうのはなんだが、一カ月三千八百五十円が二千九百五十円になるのも"みそ"といいたい。

 欧米の新聞の多くは最初から朝刊ないしは夕刊の専門紙だった。つまり朝夕刊セット販売だったものを、販売不振が理由で朝刊専門紙に退却したわけではない。サンケイ抄よ、本当の理由を堂々と述べたら良かろう。売れないから、その負担を何とか軽くしよう、それはそれで立派な知恵だ。実力がなければ分相応にするのは、当然のこと、少しも恥ずかしいことではない。考え方も、生き方も、すべてが違う「世界の一流紙」にむりに名前を並べることはない。だれもサンケイ新聞をクオリティペーパーだなどと思ってはいないし、よもや、サンケイも、そう思ってはおるまい。

 つい昨日、サンケイ抄は、アメリカのアフガン攻撃の「泥沼化」に懸念を示す我が国の一部論調を批判し、仲良し同盟の精神を鼓舞していた。しかし、「泥沼化」とか「ベトナム化」という言葉の震源地は、まさに、「世界の朝刊専門一流紙」、ニューヨークタイムズだということを知らぬわけではあるまい。

 さらに書けば、クオリティペーパーの読者は、「値段が安くて、お得だから、この新聞にしよう」などとは、あまり考えない。そういう点でサンケイの読者とは決定的に違うだろう。賢明な人間は「安物買いの銭失い」はしないものだ。

 サンケイ抄は、続けて、こんなことを書いている。

 といっても夕刊廃止は首都圏だけで、近畿圏はこれを存続する。ならばお前の書く朝刊専門紙礼賛の理屈は矛盾するじゃないかといわれそうだ。なるほどご指摘の通りだが、この背景には東と西の地域特性というか生活習慣というか、読者のライフスタイルの差がある。

 この後には、首都圏は若い人が通勤時間1時間以上のアパートに住み仕事も厳しい競争にさらされているのに対し、近畿圏は年配者が仕事場から30分程度の持ち家に住んでゆとりある暮らしをしている、東西でこれほど状況が違うのだという、なんともまあ興味深い考察が続く。手前勝手な屁理屈が身上というサンケイの面目躍如というところだが、売れるから売り、売れないからやめるだけのこと、それ以上でも以下でもあるまいに、ご苦労なこと。

 サンケイ抄の指摘が正しいのなら、関西に引っ越して、厳しい競争のない仕事環境の下で、ゆっくりと夕刊を読む生活をしたいものだ。劇評だとか、音楽評だとか、美術展の案内だとか、そういうものを夕刊で読んで、新幹線で首都圏まで見に来るかな、呵々。(11/9/2001)

注)11/9の「サンケイ抄」全文はここで読めます。−−−>現在は読めなくなりました。

 ****へ。行き帰りの電車で一昨日買ってきた辻信一の「スロー・イズ・ビューティフル」を読む。前のめりになって、ひたすら「効率化」と「スピードアップ」の奴隷になっているわれわれが耳を傾けるべき主張。

 ある団体が若者を対象にアンケート調査をやったところ、多くの若者が「将来のために今を犠牲にするのはバカげている」と考えていることがわかった。この結果について、これは現代の若者が刹那的になっていることを意味しており深刻な問題だ、と新聞で論じているそうだ。・・・(略)・・・我々の現代社会は「準備社会」だ。そこでは、人々がいつも将来のための準備に忙しい。胎児は生まれた後のために胎教を施される。幼児はいい幼稚園に行くために準備し、幼稚園児はいい学校に行くために準備する。小学校ではいい中学を、中学ではいい高校を、高校ではいい大学を目指して準備に忙しい。いい大学はいい就職をするためのものだし、いい職場は自分たちのいい老後と、子供たちのいい教育を確保するためのもの。そのいい教育はもちろん彼らのいい就職を準備し、そのいい就職は親の老後がよりよいものになるのを助けてくれるだろう。

 もちろん、頭の片方には「アリとキリギリス」の話がチラチラしないではない。しかし、「直近の次工程との関連だけに目を奪われた最適化を積み上げさえすれば、大きな目的は自ずと達成できる」というある意味では十分に刹那的な考えにとらわれ、立ち止まって全体を俯瞰する時間さえも無駄なものと見なしているいまの状況を考えてみれば、準備社会の弊は確実に現代人をむしばんでいる。(11/7/2001)

 日経夕刊のコラムに中西準子がカリフォルニア大学のブルース・エイムス教授の研究を紹介していた。植物は外敵に攻撃されると、これに対抗するために自分の体内に持っている毒物を増加させるのだそうだ。セロリには皮膚障害を起こすソラーレンという一種の毒が含まれており、カビがついたり折れたりすると、この毒が通常の100倍も増加し、収穫する作業者や検査員に職業病を起こすこともあるという。これはすべての植物に共通する話なのだという。教授はこれを「自然農薬」(少し意図的なネーミングという気もしないではないが・・・)と呼んでいて、時に合成農薬以上の発ガン性を持つ場合さえあるらしい。「では、植物を食べるのは体に悪いかというとそうではなく、がんと闘うために、野菜や果物を毎日食べることを勧めてもいる。少々の毒物の害よりも、効用の方が大きいのである」とあって、ここのところの理屈は限定されたコラムスペースには書ききれなかったのか、少し分かりにくい。末尾の部分が、なるほどと思わせたので書き写しておく。

自然のものは無害で、合成化学物質だけが有害だとわれわれは考えがちである。しかし、そうではない。自然物の有害性をよく知らないと、有効なリスク削減対策は立てられないことをエイムス教授の仕事は教えてくれる。このことは、組み替え遺伝子導入植物のリスク評価でも、ひとつのポイントになると思う。組み替え植物で自然農薬が増えないか、わたしはひどく心配している。(11/6/2001)

 BSでワールドシリーズ最終戦のダイジェスト版を見る。先発はダイヤモンドバックスがシリング、ヤンキースがクレメンス。ともに6回表までに三振を8個づつ取る投手戦。6回裏ダイヤモンドバックスが先取点をあげるが、直後の7回表ヤンキースが同点に追いつき、続く8回表にリーグチャンピオンシップシリーズで佐々木からサヨナラ2ランを打ったソリアーノがソロホームランで勝ち越し。その裏からはポストシーズンで98年以来の23連続セーブを続けているリベラがマウンドに登った。二者連続三振の後、ライト前にシングルを打たれるが後続を三振。ヤンキースは4連覇にぐんと近づいた。

 9回裏、先頭の7番バッターがセンター前に抜けるヒット。続く8番は最悪のピッチャー前に転がる失敗バント。ところがこれをリベラがセカンド右方向へ悪送球して、劇的な幕切れのお膳立てをしてしまった。ダイヤモンドバックスはここでさらに送りバントをするが、リベラ、今度はきっちり処理して三塁封殺。1アウト1、2塁というところで、トップにかえりウォマックがライト線にツーベースを打ち同点。続くこのシリーズのラッキーボーイ、カウンセルがデッドボールで満塁。もうこうなると、よほどのピッチャーでもおさえることは難しい。3番のゴンザレスのあたりはレフト・センター間のポテンヒット。3−2でダイヤモンドバックスがシリーズを制した。

 昨日、中継の解説をしている高橋直樹が「もしダイヤモンドバックスが優勝したら、MVPはどちらになるのでしょうね」といっていたが、結局、シリングとジョンソンの複数受賞となった。複数受賞は81年以来、20年ぶりとのこと。再放送で見ても、十分に見応えのある試合。日本シリーズを含めて、どうも消化不良気味のシーズンだったが、最後の最後に好試合を堪能できた。できれば、休んでナマで見たかった、残念。(11/5/2001)

 少し、寝坊。それでも10時少し前には、テレビの前に座り、ワールドシリーズ第6戦をテレビ観戦。ダイヤモンドバックスはランディ・ジョンソン、ヤンキースはペティートの先発で始まったのだが、ペティートがはやばやと打ち込まれ、3回を終わったところで12対0。面白さは半減。結局、ダイヤモンドバックスはシリーズ記録の22安打を打ち、15対2でダイヤモンドバックスが3勝3敗の五分に持ち込んだ。

 本当に面白い試合は、最終戦ということか。(11/4/2001)

 文化の日。このところ必ずしも文化の日は晴天にはならない。今年も曇で始まり、午後には雨が降り出した。

 日経の朝刊、海外論調欄にロサンゼルス・タイムズの社説が載っていた。面白いので書き写しておく。

 テロに対する戦いが簡単に短期間で終わるなどとはだれもいっていなかった。ブッシュ米大統領や米高官らは当初から「長く厳しい戦いになるだろう」と説明してきた。
 空爆開始からわずか三週間。地上軍投入の公式発表から一週間強しかたっていない。攻撃停止の呼び声があがるには早すぎる。
 米国とその支援国は、アフガニスタンのタリバン勢力へ圧力をかけ続ける必要がある。空爆や地上軍による攻撃はそのひとつだ。テロ資金の凍結やテロ容疑者の逮捕もまた立派な手段。敵は信仰と重装備と複雑な地形を利用して迎え撃つ。簡単には降伏しない。
 短期的な結果を求める米国民を非難するのは簡単だが間違っている。ベトナム戦争は複数政権をまたいで続いた。
 テロとの戦いは未曾有の戦いだ。軍事行動が三週間で終わると考えるのは現実的ではない。
 米国民と指導者たちの忍耐と決断力抜きに、テロ組織壊滅をめざす作戦の遂行は不可能だろう。

 日経が翻訳の手抜きをしたのでなければ、これが全文、そして意味内容はこの通りなのだろう。読みながら思わず嗤ったのは、「テロ容疑者の逮捕もまた立派な手段」というくだりだ。どうやら、現在、アメリカ世論の大勢は、既に軍事行動によるタリバンの壊滅自体が「目的」になり、あの自爆テロを計画し実行した生き残りメンバーの逮捕は「手段」(いったい、何のための手段だというのだろう?)でしかなくなってしまったということらしい。森などはもうとっくに見失ってしまって、この社説子には木しか見えていないようだ。

 さらに「短期的な結果を求める米国民を非難するのは簡単だが間違っている」という文章の意味も、全体の文脈からすると分かりにくい。長く苦しいテロとの戦いはアメリカ政府と国民の継続的な努力を必要とするというのが言いたいことだとすれば、このセンテンスの意味するものは何なのだろう。なにがなんでもスピードを求めるアメリカの精神病的な風土の中で、短期的な結果の見えない状況に、アメリカ国民の苛立ちの兆候が既に見え始めたと、この社説は読むべきなのかもしれない。(11/3/2001)

 田中宇のメールマガジン、土曜・月曜と「テロの証拠を示せないアメリカ」の前後編が配信された。田中はこう書いている。

・・・米当局は、ビンラディンが大規模テロ事件の黒幕である証拠を、イギリスのブレア首相やパキスタンの最高指導者ムシャラフ将軍には示したものの、犯人側に捜査状況を知られないよう、証拠の一般公開はしないと発表している。

 しかし、米当局が証拠を一般公開しないことが、事件後のアラブ諸国における反米意識の高まりに結びついていることを思うと、米当局が人々が納得するような証拠を持っていながら公開しないという選択をしたと考えるのは無理がある。CIA長官は事件発生の1週間後、事件を未然に防げなかったことを受けた省内の幹部向けの訓告で、派閥争いをやめるよう求めている。CIAは米議会からも厳しく批判されていることも合わせて考えると、一般公開して人々を納得させられるような証拠を集められていない可能性が大きい。

 同時多発テロの首謀者がビンラディンであるとしたイギリス政府の公表文書の全文が毎日新聞のホームページに掲載されている。書き出しは「この文書は、法廷においてウサマ・ビンラディンに対する検察側の陳述として用いられることを想定したものではない」という断り書きから始まっていて、読者は最初から「何だ」という気持ちになる。本文を読めば、さらにがっかりする。疑わしいという理由をいくつ並べ立てても、それが犯人である立証にはならない。英米の予審法廷でこの程度のデータでビンラディンの拘留決定を勝ち取ることは、マスコミなどによる事前の強力なバイアスがかかっていても、適うまい。

 田中宇は

 米当局が確たる証拠を集められない理由としては、アルカイダなどテロ組織が人間関係をたどりやすい上意下達型ではなく、数人で構成される細胞組織が互いに緩やかな横の連絡を取り合っているだけのゲリラ型組織だから、ということが考えられる。ビンラディンのような指導者は直接指示を出さず、闘争のイデオロギー的な方向性や、犯行時に使える一般的なノウハウは各細胞に伝授するが、個別の犯行を指揮しないため、実行犯を特定できても、そこから上位の黒幕へのつながりを証明することが難しい。

と書いているが、これはおそらく本質をついた指摘だろう。ブッシュが「犯罪」に対する手続きではなく、「戦争」という手段を選択した理由もここにあるのかもしれない。(10/31/2001)

 9月の完全失業率が5.3%、前月から0.3%の下落は1968年以来のことということで、今夜のトップニュース。朝刊には富士通の秋草社長の「雇用は経営目的ではない」という言葉が載っている。なるほど、それはその通りだ。しかし、雇用が安定しないで一般需要が安定するはずも延びるはずもない。コンシューマ向け商品が売れなければ、それを生産し、流通させ、販売する業者の施設投資が喚起されることはない。雇用調整により企業の体力を高め、競争力をつけても、シュリンクした市場では勝ち取る利益は薄かろう。目先の経営指標の良さは経営者の個人能力の高さは表すかもしれないが、企業の成長を保証するものではない。数字が良くても縮小均衡が続けば、企業体力は下落するばかりだ。そのまま進めば、朔太郎がうたった水族館の蛸になってしまうかもしれぬ、呵々。(10/30/2001)

 テロ特措法と略称される法律が参議院でも議決され成立した。正式名称がとてつもなく長い。記録のために書き写しておく。「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」という。

 この法律名はあまり正確とはいえない。少し正確を期そうとするならば、「2001年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる犯罪行為に対しその被害の甚大さ故にアメリカ合衆国政府が自国民からの深刻な批判を恐れて行おうとしている一連の軍事的報復活動に対して我が国がアメリカ合衆国の虚実取り混ぜたキャンペーンに欺かれた国際連合安全保障理事会決議を根拠として湾岸戦争トラウマの反動及びアメリカ合衆国属領としての我が国の地位保全のために行おうとしているパニック的措置に関する特別措置法」とでもいうべきものだ。

 この法律の中味がいろいろと取りざたされているが、問題はそんなところにあるのではない。本当の問題は、この国が、相も変わらず、「バスに乗り遅れるな」というかけ声に弱く、「ドカ貧」がチラチラすると冷静な判断力など吹っ飛んでしまうパニック性から逃れきれていない未成熟な国家だということだ。愚かな祖国よ、どこへ行く。(10/29/2001)

 天気は予報よりも早くくずれてしまった。少し暗鬱な感じの日曜日。

 8時半から中継のはじまったワールドシリーズを観戦。初回、ヤンキースがデッドボールで出たジータをウィリアムズが当たり損ね気味のレフト線ツーベースで返せば、その裏ダイヤモンドバックスのカウンセルがライトスタンドにソロホームランで追いつく、さすがワールドシリーズと思ったのはここまで。3回裏ツーランにエラーがからんで一気に4点入ってからは、一方的な試合になってしまった。シリングが好投して、結局、9−1でダイヤモンドバックスが地元の初戦を飾った。もう少し、競り合う試合が見たかった。(10/28/2001)

 やはり、土曜日にはじまって次の土曜日ぐらいまではやっていて欲しいものだ、日本シリーズは。ついでに書けば、土・日の試合くらいはデーゲームにして欲しい。秋の陽光を浴びながらやる試合、あの雰囲気が懐かしい。

 朝刊に、シリーズ総括データが載っていた。バッファローズの防御率は6.00、シーズン中が5をわずかに切る値で12球団ワーストだったのだから、これは実力通り。そして「いてまえ打線」の打率は1割7分1厘、これは日本シリーズ史上最低の打率。一方のスワローズは防御率2.66、打率3割1分7厘、これは5試合で決着したシリーズとしては最高打率だったというから、いかに情けないシリーズだったかということ。

 もうひとつ、朝刊から。「ベルギー王室に王位を継ぐ女児」の見出し。25日、ベルギー皇太子妃が女の子を産んだ由。はやばやと王位継承者の男女同権改正を行った先見の明がいきたわけだが、さて、この国は、どうなるのかな。(10/27/2001)

 小泉政権ができて半年になるのだそうだ。朝のラジオ「スタンバイ」で小沢遼子が「ハンセン病訴訟の英断っていうけど、あれは裁判官が偉かった。だって、厚生大臣の時、小泉さんはどうしてたの?」と言っていた。なるほど。

 そう、そういえば、いま発売中の「週刊文春」には「なぜ首相の過去の失政に口をつぐむのか?」というタイトルで、狂牛病の警告を無視した当時の小泉厚相を批判する記事が載っている。なるほど、なるほど。

 その狂牛病騒ぎを夜のNHK「特報首都圏」が取り上げていた。検査体制も問題が多そうなのだが、それよりも事件発生までに解体された肉の扱いをどうするかということも大きな問題。一部の経済連では全頭検査実施前の肉であることを断った上で割引販売するところもあるという。肥育に関して絶対の確信を持ち品質を保証できるならば、問題はないのかもしれない。しかし、そういう条件が満たされるものは限定されるだろう。事件発生前までに処理された肉はいわば「ババ」、そのババを持たされた業者の中に、検査合格の肉に混ぜてデッドストックの解消を狙う不心得者が必ず出てくる。そのババを確実にすべて廃棄処分をすることが不可欠だ。とはいえ零細な業者に負担を強いるのでは絶対にことは解決しない。

 すべてのことを公のカネで処理をするというのは好ましいことではないが、今回の事態は特別だ。200億から300億の金額はけっして少額とはいえないが、国の負担でババを買い取り、確実に廃棄処分する必要がある。もし、そのための財源がないのであれば、必要とする額に達するまで臨時的に牛肉の販売に特別消費税を上乗せしてもいい。そのことにより、不安感が一掃されるならば、牛肉を扱う業者も、それを食べたい消費者も、「安いものだ」というに違いない。

 イギリスの狂牛病の成り行きを座視した不作為責任の当事者である小泉首相よ、それくらいのことならできるだろう、如何か。(10/26/2001)

 なんだか土曜日はないような気がして早めに帰宅し、テレビにかじりついた。結果は予想通りだった。4−2でスワローズ。バッファローズは今年も「日本一になったことがない唯一のチーム」という看板を下ろすことはできなかった。

 試合そのものは、はっきりいって凡戦。スワローズはほとんど毎回のように満塁まで責め立てながら得点したのは1回と4回のみ、あとは残塁の山。普通これだけチャンスを逃せば、形勢は逆転するものだが、バッファローズは守り疲れなのか、神宮では確信を持ってバットを振ることができない事情でもあるのか、点が入りそうな感じが少しもしない。試合時間は長かったが、それは両チームが合計12人もの投手を繰り出したから。

 結局、今年の日本シリーズは、「フロックでリーグ優勝するのはご遠慮いただきたい」といいたくなるようなシリーズだった。口直しはワールドシリーズということか。(10/25/2001)

 ワールドシリーズはダイヤモンドバックス対ヤンキースの対戦に。マリナーズは今年もヤンキースに1勝4敗で退けられた。第3戦をバカあたりで勝ったマリナーズだったが、あれはヤンキースタジアムでの予定3試合をきっちり消化するためのヤンキースのたくらみだったのかもしれない。それくらい完璧なヤンキースの試合運びだった。

 ディヴィジョナルシリーズで打率6割と当たりまくったイチローだが、ヤンキースの投手陣には徹底的に押さえ込まれた。メジャーリーグはどうも地区によって相当の実力差があるのではないかという印象がぬぐえない。打者はなんといっても相手投手のレベルが高ければ、そうそう打てるものではない。

 一方、日本シリーズ第3戦は9−2の大差でスワローズ。第2戦でバッファローズらしいホームラン3本が出て、のるかと思われた「いてまえ打線」は、ふたたび「ねてまえ打線」に戻ってしまった。しかし、広い大阪ドームではポンポンと出るホームランが、狭い神宮球場ではまったくでないのだから不思議。空調機の風は追い風になっても、天然の風は追い風にはならぬものらしい。(10/23/2001)

 朝刊から。10日から15日まで開催されたフランクフルト・ブックフェア、今年は直前になって参加を取りやめたところが多かったという記事。全56社の参加取りやめ、うち34社がアメリカ。これは分からないでもないが、日本も13社がキャンセル、かなりめだったようだ。取りやめた会社の顔ぶれ、小学館、講談社、集英社、角川書店、学習研究社、福音館書店、白泉社、サンマーク出版、至光社、大日本印刷など。予定通りの参加は、岩波書店、オーム社、山と渓谷社、雄鶏社、フレーベル館、凸版印刷など。

 面白い。とかく「平和ボケ」と揶揄される言論をサポートしている岩波書店がテロを恐れず堂々と参加しているのに、「Sapio」などのタカ派雑誌で勇ましい進軍ラッパを吹き続けるあの小学館がテロが怖くて逃げたというのだから。

 戦争を煽り立てるのは小児的ミリタリーマニア向けの営業上パフォーマンス、実体は使命感も矜恃も持たぬ本当の意味での「平和ボケ出版社」とわかってみれば、妙に納得できる話ではあるけれど。みっともないぞ、小学館。(10/22/2001)

 ノーベル化学賞を受賞した野依良治がこんなことを言っていた。「『50年でノーベル賞30人』という目標は、国家として不見識極まりない」。「学術は芸術と同じで、自分が面白いと思うものに全力を尽くす」。「大学の機能は教育と学術研究。大学が全面的に産業界に貢献すべきだという議論があるが、全く違う。産業の状況が深刻なのは産業界の研究者の能力が足りないから」。

 まったくその通り。「50年30人」には人気番組「プロジェクトX」の通奏低音である安っぽい技術ガンバリズム風ナショナリズムに似た臭みが漂っているし、「産学協同推進」には識見を持たぬ凡庸な仕切り屋が支配するチマチマした研究テーマの市場化がちらつく。

 彼の指摘をひとつだけ修正したい。産業状況の深刻さの原因は産業界の研究者の能力不足というより、すべてを短期成果主義で評価しようとする経営者の縮み上がった肝っ玉にある、と。

§

 日本シリーズ第2戦がやっと終ったところ。前半、スワローズらしく小刻みに点を入れるが、4回裏に中村にホームランが出たあたりから、バッファローズお得意のどこか不思議なホームラン(水口の3ランで同点に追いつくなんて)が出はじめて、6−6で迎えた8回裏にローズがこれもなんだかどんな球種の球がどこに来るのか分かっていたかのような確信に満ちたスイングで勝ち越し3ランを打って、バッファローズの逆転勝ち。(10/21/2001)

 午前中、ナショナルリーグの優勝決定戦、アトランタ・ブレーブス対アリゾナ・ダイヤモンドバックスの試合を見る。アリゾナのピッチャー、シリングの好投で地元アトランタは手も足も出ないという展開。試合が終わってから**に行く。所沢の西武にまわったせいもあって、うちに着いたのは8時ちょっと前。それから日本シリーズを見る。

 スワローズの石井が好投。この試合も地元バッファローズ、手も足も出ないという展開。7−0。いてまえ打線ではなく、ねてまえ打線だね、あれじゃ。(10/20/2001)

 狂牛病対策として、今日から牛の全頭検査開始。そして同時に「安全宣言」ときた。バカも休み休みに言え。これから数ヶ月経って、この半年の間に解体された牛肉がすべて市場からなくなって、初めて「安全」だと言えるのだ。全頭検査体制は評価する。しかし、所詮、行政は生産者の方を向いている。そのことは、「安全宣言」の出し方に如実に現れている。

 もし、肉骨粉の給餌禁止が生ぬるい行政指導などではなくきちんとした禁止措置であったなら、今回の事態は発生しなかったか仮に発生したとしても覚悟しなければならない危険度を下げられたであろう。生産者の顔色をうかがって、おずおずと「指導」などするから、かえってこのような事態を招いたのだ。

 一部のスポーツ紙に、先月都内の病院に入院した十代の女性にクロイツフェルト・ヤコブ病の疑いありとの記事が出ている。イギリスでの狂牛病確認から数人の若者の発症までの時間間隔が、ちょうどこの行政指導から現在までの年限に相当している。たぶん、何人かの発病例を覚悟しなくてはならないと考えたほうがいい。(10/18/2001)

 朝刊にアルジャジーラのワシントン支局長へのインタヴュー記事が載っている。当初アメリカはアルジャジーラがビンラディンの演説ビデオを放映していることにカタール政府を通じて圧力をかけたらしいが、最近は積極的に出演しアメリカとしてのプレゼンスを発揮する方向に転換した由。「これまでも何度も(アメリカ政府高官へのインタヴューを)申請したが、応じてくれるようになったのは先月11日の同時多発テロ以降だ。やっと問題の根深さに気づいたようだ」。「なぜ米国人が(イスラム圏で)嫌われるかというイメージの問題だ。政府だけを相手にしてもだめだ。たとえば、パキスタン政府に基地使用で圧力をかけても、基地に行けば、民衆に襲われる恐れがある。人心をつかむことの重要性を遅まきながら悟り始めた」。「実は米国外交政策の問題だ。人々が期待しているのは、パレスチナ問題などで、一貫性のない二枚舌政策の見直しだ。多くの独裁者を友人と見なしているのに、なぜイラクのフセイン大統領だけを独裁者と呼ぶのか。宗教や民族で差別しないというのなら、みんなに同基準を適用すべきだ」。

 二枚舌外交は中近東を含めてアジア・アフリカ地域のすべての場所で昔からアングロサクソンが一貫して続けてきたものだ。その嘘つき野郎の腰巾着をつとめるチンピラを宰相としていただく身としては苦い指摘だが、そのことにとんと気づかぬ鈍感野郎も多い。

 ホノルル空港沖の浅瀬に移送されたえひめ丸の船内捜索がはじまり2遺体収容というニュース。無責任極まりない原潜のお遊び運行による事故に対し、ついに責任者の処罰はなかった。(10/17/2001)

 朝刊にホノルルに移住していた張学良の死亡記事。西安事件の立役者。侵略者と戦わず、中国皇帝を夢見て内戦に血道をあげていた蒋介石にガツンと一発くらわせ、大恥をかかせた男。(10/16/2001)

 昨日の朝刊のオピニオン欄に堀田力が「メディアはもっと基本的疑問を探れ」と書いていた。法律家らしい筋道の通った要望。書かれていた「疑問」は二つ。ひとつは「米軍などによるタリバーン攻撃について」、もうひとつは「不良債権の処理について」。タリバン攻撃に関する部分を書き写しておく。

 これははたして「自衛権」の行使なのか。
 攻撃者に対する反撃は、個人の場合については、ローマ法以来の議論を経て先進各国ともに認めているが、通常「やむをえない防衛行為」という制限が付されている。つまり、攻めてくるテロリストを撃ち殺すことはできるが、テロリストの仲間をかくまっている家に銃弾を撃ち込むことは許されないのである。そういう場合には警察が仲間(共犯者)を捕まえてくれるから、自衛の権限を拡大して解する必要はない。
 しかし、国家の場合には世界警察はいまだ存在しないから、自衛権を個人のように限定すると、不正な攻撃者や攻撃を企てる者が逃げおおせるおそれが出る。だから、彼らを逮捕するために必要な武力を用いることは当然である。しかし、その権限は「自衛権」と呼ばれるものの、本質は「警察権」ではないかと思われる。そうすると、その権限行使は、目的達成のため必要最小限でなければならない。つまり、相手やこれをかくまう者が抵抗する時、やむを得ず殺すことは認められても、無辜の市民を殺すことは最大限の努力を尽くして避けなければならないのである。国家の自衛権の法的、あるいは道義的限界についての議論を詰めてほしい。

 もともと今回のテロは間違いなく「犯罪」であって「戦争」などではない。「犯罪」に対する処理の中に「軍事攻撃」が出てくるのは「鶏を割くのに牛刀を用いる」たぐいの話だ。犯罪被害者アメリカを含め世界中の少なからぬ人々は被害者の数に目を奪われて本質を見失っているだけのこと。20世紀の初めに起きた第一次大戦は、いまの我々から見ると、何とつまらないことを原因として先の見通しも持たず悲劇に突っ込んでいったものかとその愚かさを嗤いたくなるが、今回も一部それに似たところが見える。それが「国民国家」というものの通性なのかもしれない。

 限りなく(やぶにらみの)「報復攻撃」に近い今回の空爆で民間の家が爆撃され一般市民に死者が出ているとアルジャジーラは伝えている。もっともこういう話はタリバン側の誇張したPRである可能性もないとは言えない。しかし、数日前には、国連の地雷除去活動に関わるNPO事務所が爆撃され死者が出た。国連が抗議をしアメリカも「誤爆」と認めたそうだから、タリバンの軍事施設と戦闘員のみを狙った空爆を行っているというアメリカの主張も、信用度においてはタリバンとどっこいどっこいというところなのだろう。

 思い出せばアメリカは「誤爆の名人」だ。ユーゴでは中国大使館を「誤爆」し、イラクでは粉ミルク工場を「誤爆」し、イランから飛び立った民間旅客機を「誤射」で撃墜してしまったこともあった。中国には謝ったようだが、イラン、イラク両国に謝ったという話は聞かないから、そういうやり方がアメリカ流のマナーらしい。相手を見て態度を変えるやり方はこの国では嫌われてきたが、アメリカ人にとっては当然のことらしく、最近はこの国でも「グローバルスタンダード」とかいって見習うべきこととされつつあるようだ。(10/14/2001)

 朝刊にノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ氏のインタヴュー記事。その末尾に「現在の日本の政策については、『大胆な構造改革のタイミングは考えたほうがいい。不況時に行うと、不良債権がますます増え、さらに不況を悪化させる』と語った」とある。先日読んだ山家悠紀夫の「景気が良くならないから不良債権がなくならない」という主張とまったく同じことを言っている。どうやら、小泉首相のバカの一つおぼえ、「構造改革なくして景気回復なし」は、少なくとも、今年のノーベル賞受賞者には否定されてしまったようだ。(10/13/2001)

 ちょうど一月が経った。テロ犠牲者の遺族のうち、貿易センタービルの被害遺族がいちばん辛い思いをしているのではないか。ハイジャックされた旅客機の乗客はある意味でその死が確認されているのに対し、ビルにいた人々は「シュレーディンガーの猫」なのだから。遺体が確認されない間、遺族はほとんどその死を認めながら、なお、生きているのではないかという気持ちを捨てることができない。「生きていたら連絡をするはずだ。その連絡がないのだから・・・」と思いながら、「ひょっとすると生きていても記憶を喪失しているために連絡がないだけなのかもしれない」などと思い浮かぶ限りの可能性に心を悩ませ続ける。喪失の悲しみだけではない心のストレス、無惨なテロの傷は深い。

 一方、アメリカはアフガンを空爆しながら、あわせて食料を投下している。「アメリカ国民からの贈り物」と書いたペーパーをつけて・・・(これほどの偽善を恥じることなく行える国なのだ、アメリカは)。カタールのテレビ局アルジャジーラは、「アメリカはアフガニスタン国民を羊と思っているようだ。食料で太らせてから爆弾で殺戮している」とコメントした。

 この「戦争」はいま「非対称の戦争」と呼ばれている。国家対非国家の戦争。圧倒的ハイテク軍隊とまったくのローテク軍事組織の戦い。いや、もともとナイフという武器で数千にものぼる人々を殺したこと、それ自体、恐ろしいほどの非対称な犯罪であった。そして、不確定な死に懊悩する人々と、ビーンズのケチャップ煮の爆弾添えという贈り物。これも「非対称」の一場面なのかもしれない。(10/11/2001)

 ノーベル化学賞が名大教授の野依良治氏に。化学賞は昨年の白川英樹氏に続いて二年連続の日本人受賞。野依氏は昨年文化勲章を受章しているので、今回はどうにか面目を保てたと言うところ。

 湾岸戦争の際のCNNテレビの役割をカタールのアルジャジーラという衛星放送局が果たしている。夕刊にその放送局が流したアルカイダのスポークスマンの声明が載っていた。曰く「米英軍のアフガンへの攻撃は十字軍によるテロ」、曰く「数千人の若者が死ぬ用意ができている」、曰く「航空機乗っ取りによる攻撃には終わりがないことを知るべきだ」。これはいったい誰に向けられた言葉なのだろうか?

 これを額面通りアメリカやそれに同調する国々に向けられたものだと解釈するなら、これで同時多発テロの犯人が彼らであることが明白になってすっきりしたと同時に、ハイジャックによるテロを絶叫するくらいにそれが既に実行困難になっていることをあらわしているとみていいだろう。キャンキャンとほえる犬はじつはそれほど怖くはないものだ。

 しかし、これはイスラム世界の同調者とその予備軍に向けたものとも考えられる。このメッセージを「イスラムのために尽くせ」と受け取り、体がしびれ、血が騒ぐ連中を、義勇兵として招き寄せるためのアジテーション。要するに「悠久の大義に生きて、陛下のために死のう」とか、あの有名なストライプ柄の帽子をかぶった眼光鋭い親父が「United States, want you !!」とみる者を指差すポスターとか、その手のプロパガンダの一種。そう考えると、底なしの怖さを感ずる。死を覚悟した戦士たちの無差別な攻撃に対する怖さではない、自ら目隠しをして扇動にのせられる人間の心象風景が怖いのだ。(10/10/2001)

 朝刊のアフガン空爆をテーマとする「私の視点」に辺見庸、松波健四郎、片倉邦雄、北沢洋子が、主張の基本は違うものの読ませる内容の一文を寄せていた。共感したのは辺見庸だ。辺見は、まず、この報復攻撃の正当性の有無、民主主義対テロという構図の当否、文明対野蛮の戦いというブッシュの主張の正否、これらのすべてに「ノー」と主張する。そして、「富対貧困、飽食対飢餓、、奢り対絶望――という、古くて新しい戦いが、世界規模ではじまりつつあるのかもしれない」と書く。さらに、見逃せない兆候として、「テロ攻撃に逆上した米国と、日本をふくむ同盟諸国が、この時期、近代国家の体裁をかなぐり捨てようとしていること」をあげて、「テロ対策をすべてに優先し、法的根拠もなく多数の"容疑者"を身柄拘束し、一切の話し合いを拒否して大がかりな報復攻撃に踏み切るような米国のやりかたは、もはや成熟した民主主義国家の方法とは言えない」と指摘する。続く言葉はさらに痛烈だ。書き写しておく。

 そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかもしれない。建国以来、二百回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下をふくむ、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。おそらく、われわれは、長く「米国の眼で見られた世界」ばかりを見過ぎたのである。今度こそは、自前の眼で戦いの惨禍を直視し、人倫の根源について、自分の頭で判断すべきである。米国はすでにして、新たな帝国主義と化している兆候が著しいのだから。

 世界人口の数%でありながら世界のエネルギー消費の三分一をむさぼり、自ら加わって論議し決めたCO2の制約さえ勝手に蹴飛ばしておいて、「国際正義」などということ自体、ちゃんちゃらおかしいのだ。アメリカがやっているのは手前勝手な「正義のつまみ食い」でしかない。

 「テロは絶対悪」には違いない。急激に露呈した、誰の眼にも見える「悪」は分かりやすい。しかし、緩慢に進行し、想像力を駆使しなくては見えない「悪」は分かりにくい。緩慢な「悪」に気づくことは、自らが緩慢な悪事の被害者で身をよじるほどの悔しさに耐えている人々か、常識にとらわれず現象の背後を見通す眼をもつ人々にしか適わぬことなのかもしれない。

 どちらの悪も許せない。だが、世の中の多数が一方の「悪」についてのみ騒ぐとしたら、もう一方の「悪」のみを言い立てる、それが狷介をめざす者の真骨頂。(10/9/2001)

 起き抜けに深夜1時半頃からアメリカ・イギリス両国によるアフガン空爆が開始されたというニュースを聞く。午前中のテレビ各局はほとんどこのニュース。「ふーん、日曜日のゴールデンタイムにあわせた攻撃の実行か、アメリカらしいね」と、これが第一印象。

 この軍事行動の成否は、「テロリスト対世界」と「イスラム対アメリカ」のうち、いずれの看板がイスラム世界と広く全世界の公認を得るかにかかっている。

 その点で、当初、ブッシュ大統領が口走ってしまった「報復攻撃」とか「十字軍」とかいう愚かな言辞は高くつきそうだ。その後の議会演説で「敵はアフガニスタン市民でもなければ、イスラム教徒でも、アラブの友人たちでもない」と軌道修正したようだが、そういう言い直しが通用するのは自国内や仲間内に対してのこと。その自覚に乏しくても、綸言は汗の如し。

 感情にかられた大統領の発言をうち消すには、この行動が「報復」ではなく、テロリストであるビンラディンの逮捕・拘束に焦点を絞ったものであることを、常に言葉と内容で繰り返し繰り返しアピールするしかないだろう。とにかく、このイメージづくりに失敗すれば、ビンラディンの主張する「ジハード対クルセイド」という土俵が待っている。

 先日来、アフガンでの地上戦というテーマで、旧ソ連の軍人がその困難さを語り、「アメリカは絶対に勝てない」と結論するのをあちこちのテレビで見た。もし、アメリカが「テロリスト対世界」という看板の下で戦うことができるなら、仮に地上戦を展開しても勝機はあろう。戦いの相手をビンラディンとタリバン強硬派に限定できるからだ。しかし、「イスラム対アメリカ」という看板の下に戦うことになったなら、旧ソ連の轍を踏むどころか、アメリカ社会が変質するくらい手ひどい敗北を味わうことになるだろう。

 「犯罪」を「戦争」で処理することに踏み出した以上、「テロは悪」という根拠にたったきめつけはできなくなってしまった。「戦争」は勝てば官軍、弱者にとっては、負けなければ勝ちなのだ。(10/8/2001)

 例によって平日見落とした記事の落ち穂拾いをしていたら、水曜日の日経朝刊文化欄に、橘家円蔵(円鏡という方がピッタリくるが)の志ん朝への追悼文を見つけた。

落語家には三つの道しかない。うまい落語家、達者な落語家、そして面白い落語家。だれが見ても分かると思うが、うまいのは志ん朝、達者なのは談志だ。そうすると私は面白い落語家を目指すしかない。三十年前、自分の路線をそう定めた。

 さすが芸人、円鏡。追悼に借りてしっかりと自分のことを書いている。でも嫌いじゃない。嫌いなのは小利口な芸人だから。(10/7/2001)

 一昨日の国会討論の中でこんなやりとりがあったと5日付の朝日が伝えている。

 こうした両氏の立場の違いは、米政府高官が語ったという「ショー・ザ・フラッグ」(旗を見せろ)をどう理解するか、にも及んだ。
 菅氏は「態度を鮮明にする」「支持していることを示す」といった英和辞典での訳を引いて「テロに対抗する立場を鮮明にしろ、という意味ではないか」と質問。首相は「日本に協力してくれ、と解釈している」と答弁し、踏み込んだ「協力」とする見解を示した。

 今朝の日経の朝刊にはこんな記事が載っている。

 「ショー・ザ・フラッグは、『どちらの味方なのか示せ』という意味」――。米国のべーカー駐日大使は5日、東京内幸町の日本記者クラブで講演、質疑応答の中で国会でも取り上げられた解釈論争に自らの見解を披露した。
 「ショー・ザ・フラッグ」はアーミテージ米国務副長官が9月15日、柳井俊二駐米大使に米同時テロへの反撃に協力を求めた際使った言葉とされる。日本側は「日本の旗を見せてほしい」と受け止め、自衛隊派遣など対米支援策をまとめた経緯がある。
・・・(中略)・・・
 べーカー大使は「(発言時)アーミテージ氏の念頭に自衛隊派遣はなかったと思う。それは日本側が決めること」と述べ、米側として具体的な要請を意味した発言ではなかったとの見方を示した。

 もちろん、これは大使の個人的見解かも知れない。しかし、冷静に考えれば、アーミテージの言葉を「自衛隊がたてた日の丸を見たい」と受け取るのに多少無理があることは誰にも分かる話だ。ところが、駐米大使も、外務省も、伝え聞いた政府も、いや、菅の国会質問まで、ほとんどのマスコミも、「自衛隊が日の丸を掲げて出て行く」ことと受け取って、蜂の巣をつついたような騒ぎになったのだった。いやいや、ふだん、ほとんどのことを眉につばを付けて見よう、聞こう、読もうとしている自分ですら、単に「旗幟を鮮明にしてくれ」と言っただけなのではないかという、当然のことには思い至らなかった。今回の政府決定と、それに対する賛成・反対いずれの論議も、間違いなく「湾岸戦争」というバイアスから自由ではなかったということだろう。

§

 配達された夕刊に、アーミテージが、5日、ワシントンで行った日本報道陣との会見の要旨が載っていた。

 (9月15日の会談で)柳井駐米大使と何を話したかについてはコメントしないが、「旗を見せろ」とは日本国民を代表する日本政府が、この戦いに最大限に関与していることを示せ、という意味だ。
 10年前(湾岸戦争の時には)、日本はまったく旗を見せることができなかった。その状況といまは全く違うということは、たいへん助かる。日本が旗を見せることを期待している。(具体的に)これとかあれとかいう話ではない。この戦いにおいて、日本が米国とともにあるのかどうかということだ。50%とか60%という目盛りはない。(朝日−3版)

 (副長官が柳井俊二駐米大使との会談で発言した)「ショー・ザ・フラッグ」の意味は、日本が対テロ作戦へ全面的な関与を示してほしいということだ。十年前の湾岸戦争で日本が立場を鮮明にできなかったのと比べると現在の状況はずっと良い。パウエル国務長官も日本がこの作戦で適切な役割を果たすことを期待している。(日経−3版)

 同じ夕刊には小牧からパキスタンに向けて飛び立つ航空自衛隊C130輸送機の写真が載っている。15日からそれだけの時間がたっているのだ。つまり、その後いろいろなことがあった上でのコメント、当時の言葉の含意がどうだったのかは、もう、アーミテージ本人にも語れまい。逆にこのコメントには「意外な対応」を喜ぶ米政府首脳の気持ちがよく現れているように見える。

 英和辞典に載っている「show the flag: (会合などに)申し訳に顔を出す」よりは強い気持ちの表れだったのだろうが、より具体的な表現をするにはいまひとつ役不足の相手に使った言い回しだったというのが真相、それ以上でもそれ以下でもあるまい。やはり、賛成・反対を問わず、この言葉に「それ自衛隊の派遣だ」と短絡した日本人の視野狭窄症こそが問題なのだ。(10/6/2001)

 午後、****へ。****までは電車で片道1時間半。たっぷり本が読める。おかげで山家悠紀夫の「『構造改革』という幻想」を読み終わった。

 主題は、90年代から現在に至る経済の長期低迷ははたして「構造問題」なのだろうかというもの。山家はまず「失われた10年」の検証を行い、バブル景気の後遺症としての前期不況と97年の消費税率アップを引き金とする後期不況とを別のものだとする。そして後期不況の原因は消費の落ち込みにあるのだとして、なかなか解消されない不良債権が原因だとする構造改革論を誤りだと説いている。「不良債権問題が片づかないから景気が良くならない」というのは原因と結果とを取り違えており、正しくは「景気が良くならないから不良債権がなくならない」と考えなくてはならないというのが山家の主張だ。

 この本の「不良債権とは何か」に関する説明を読むと、いったん峠を越えたはずの不良債権の処理が終わらないばかりか逆に増えてしまうという奇怪な事情がすっきりと理解できる。なぜか小泉構造改革のもうひとつの目玉である特殊法人問題についての言及がまったくないのは不満だが、少なくとも竹中平蔵に代表される「(他人の)痛みが好きな」俗物どもの主張の問題点を正確に指摘している。

 と、ここでシベリア航空の旅客機が黒海上空で爆発、テロではないかというニュース。しかし、あのテルアビブ空港発の旅客機、乗客は100%ユダヤ人ということを考慮すると、いったい犯人は誰で、いかにして空港のチェックをすり抜けたのか、この疑問は簡単には解けそうもない。(10/4/2001)

 安部官房副長官は「見なくとも信じている」といっていたが、さすがにそういうわけにはゆかなかったのだろう、アメリカはビンラディンのテロへの関与の証拠の説明を、まずイギリス・カナダ・オーストラリアなどの英語圏同盟国に対して、続いてNATO加盟国と日本・韓国などへ、さらにその他のイスラム諸国を含む国々へという順序で行った。その説明は文書ではなく口頭でのものだったという。いまのところその内容についてはどの国も明らかにはしていない。

 疑問はふたつ。ひとつは、なぜ、文書ではなく口頭の説明にとどまったのか。もうひとつは、それぞれのグループに対する説明は同じものであったのか否か。いずれにしても柳井駐米大使を呼び「口頭で説明した」というのだから、込み入ったものではなかったのだろう。それくらい歴然たる「証拠」であったのか、それともその程度しか開示できない「証拠」であったのか、いったいどちらだったのだろう。(10/3/2001)

 インターネットというのは便利なもの。通常は見られない地方版の記事も見られる。以下は、朝日新聞愛媛版の記事。

 「新しい歴史教科書をつくる会」主導でできた中学の歴史教科書(扶桑社版)の採択問題で、加戸守行知事は28日、「戦後のシベリア抑留について扶桑社版以外の教科書に1行も載っていない」とする見解を訂正した。問題の発言は26日の県議会一般質問への答弁で、28日はやはり一般質問への答弁の中で訂正し、陳謝した。
 26日の一般質問では、今井久代議員(共産)が扶桑社版を評価する理由をたずねたのに答えた。その中で、加戸知事は「日本人60万人がシベリアに抑留され、1割が強制労働の結果死亡したことが(扶桑社版を除く中学歴史教科書に)1行も載っていない。教科書としてふさわしいのかと疑問を持っていた」とした。
 しかし、答弁後の県教委の調査で、7社のうち4社で、本文や脚注にシベリア抑留の記載があると分かったという。加戸知事は「私が文部省在任中は、記述が一切なかった。その前提を元に扶桑社が初めて記載したかのように発言した。おわびしたい」と述べた。
 8月16日の定例記者会見でも「シベリア抑留に関する記述は扶桑社以外の教科書には載っていない。日本の子どもを教育する教科書には載っている方がベターだ」と話していた。

 ずいぶんお粗末な知事もいたものだ。結局のところ加戸某なる知事の「判断」と教育長に対する「指示」は事実に立脚しない思い込みに基づく恣意的なものだったということになる。このような「偏見」にとらわれたパラノイアが実権を持っている場合に限って採択の可能性がわずかに発生した。そう分かってみれば、扶桑社版歴史教科書の採択率が限りなくゼロに近かったのは当然の成り行きだったと肯ける。(10/2/2001)

 志ん朝が亡くなった。まだ62。つい先月だったろうか、ニュースステーションの「最後の晩餐」で久米宏と対談していた時には元気そのものに見えたけれど・・・。「火焔太鼓」の最後のたたみかけのところ、先代志ん生とも少し違うあのアップテンポがいまは懐かしい。(10/1/2001)

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