クシとスコアを忘れてきた。人通りが少ないうちにと思い7時前に起き出し、自転車を飛ばして所沢に取りに戻った。柳瀬川の橋を渡ったところで犬が気張っていた。飼い主は手にシャベルとビニール袋を持っていた。家で顔を洗い髪をとかし、頼まれたものや朝刊を自転車のカゴに入れ、ほどなく橋まで返して来た。さっき犬が気張っていたところにはとぐろを巻いた黒々した糞がそのまま鎮座ましましていた。あのシャベルとビニール袋はただのアクセリーだったらしい。やっぱりコイズミが大勝するような国だよなぁ、むかつくなぁ・・・と引きずっていたら、空堀川沿いの遊歩道で久しぶりにムカシマドンナとすれ違った。軽く会釈。その瞬間にジャベルケイブ(軽侮すべきシャベル男につけたあだ名)のことは忘れた。

§

 **(母)さんは至って元気。しゃぶしゃぶも松阪牛の方は全部食べた。

 所沢だと、長源寺の鐘の音が聞こえ、ふだんは静かなうちの前の道から初詣に向う人のざわめきが伝わってくるのだが、新座のこの家あたりはほとんど人の往来がない。悔恨の年が暮れてゆく。(12/31/2005)

 所沢から羽毛布団と毛布、その他、3日までの着替えやら生活用品、米、野菜などを運び込む。リビングと仏間の二部屋だけはなんとか使えるようになった。昼前には洗濯機の据え付けも完了。

 4時に**(息子)が病院から**(母)さんを乗せて到着。4泊5日の親孝行のスタート。

あいみての後のこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり

 百人一首のなかでももっともポピュラーな恋の歌。ことしはこの歌が心に染みる年になった。

 正月、**(父)さんはかなり呆けたなとは思うものの、**(母)さんは元気そのものだった。迂闊な息子はそれがことしもそのまま続くと思っていた。**(父)さんが倒れたのは松の内あけすぐ、**(母)さんが検査入院をしたのは6月末。7月には**(父)さんが逝き、**(母)さんもそのまま入院を続けることになった。**先生は正月まではもたないかもしれないと言った。傘寿を過ぎる親を持ちながら、何も考えていなかった迂闊さにはじめて思い当たったのだから、「ものを思は」ないのにもほどがあった。

 思い出すのは**(父)さんを乗せ、窓外のサクラを見ながら狭山湖を回るドライブをしたこと。

願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

 **(母)さんにもあのサクラを見せたい。それがリフォームと年越しを家族でと考えた動機だった。とにかく小刻みに行事を設定してそれを目標に引っ張ろう。それがこちらの作戦だ。

 ただ、そういう息子のセンチメンタルな思いを裏切って**(母)さんはやたらに元気だ。さっきは「あなたの誕生祝いにフランス料理を食べに行こう」などと言い出した。ほんとうにものごとは予想通りには運ばないものだ。こればかりはその方がいいのだけれど。(12/30/2005)

 阿佐ヶ谷の社宅からここに越してきたのは69年の11月のことだった。当時は「市」ではなく「町」だった。埼玉県北足立郡新座町大字西堀字***。大字・字という住所は後にも先にもあの時だけ。清瀬駅からは十分もかからない。**(父)さんとしては名を捨てて実を取ったような買い物だったわけだ。

 **(祖母)さんが小平のおばさんに宛てた葉書を預かりポストに入れる前に読んだ。「**(父)が家を求めて、ここに越してきました」と書いてあった。あの人にしては珍しくちょっと自慢するような匂いがして、そうか、樺太の家を捨てて以来ずっと借家住まい、ついに持ち家は望めぬものと決めていたのか、などと思ったことを、たったいま、思い出した。

 日銀マンだったという前の持ち主(**さん)が建てた家はゆったりした平屋でその増築部分の二部屋を**(弟)と分けあった。いま斜め前に建つマンションのあたりは畑で水道道路の向こうには雑木林が見えた。風の強い日は母屋に比べれば少し造作がお粗末な増築の部屋にはすきま風が吹き込み、机の上が砂でざらざらになった。それでも大きめの本棚を作りつけにしてもらったことから本の収納スペースには困らず、その点でまずはお気に入りの部屋だった。

 会社に勤めてからは揺り椅子を買い、自室用にステレオも買った。プレーヤーはビクターのJL-B77、カートリッジはシュアのV15 typeV、アンプはラックスのSQ-38FD、スピーカーだけは受験をひかえた**(弟)のことを考え、スタックスのコンデンサー型イヤー・スピーカーSRX-MkUにした。その音はじつに繊細だったが、オケを聴くには少し不足があって最初は室内楽曲ばかりを聴いていた。ウィークデーは連日残業、そのかわり特別の繁忙期以外の土日はほとんどその部屋でレコードを聴くか、本を読むかしていた。自宅通勤のおかげでレコードも本もかなり潤沢に買うことができた。

 結婚にあわせて二世帯住宅に建て替えこの家ができたが、同居をしたのは数年のことで**(息子)が生まれてほどなく我々は所沢に家を買って独立した。懐かしく思い出すあの家は既に記憶の中の存在。畑はテニスコートになり、いまはマンションになってしまった。(12/29/2005)

 **(家内)は北の六畳と仏間に仮置きした台所用品を収納、こちらはきょうも**(父)さんの部屋の片づけ。それにしてもおびただしい薬の山。調剤薬局が添付した「お薬カード」、A4で3ページ、1ページには6種類くらいの薬が記載されている。十数種類もの薬を処方してもらっていたことになる。薬でかえって体を壊していたのではないかなどと思うくらいだ。

 日付と時刻に数字をびっしりと書き込んだ紙もかなり出てきた。血圧計があるから数字は血圧と脈拍数らしい。数分おきに連続して十回以上測っている。一人、部屋にこもって、ひたすら血圧計を操作しては記録している様子を想像したとたんに涙が出てきた。

 あれは勤め始めた頃、冬の夕方だった。バス停から家に向う前をコートの男が歩いていた。(親父?)と思った。しかし後ろ姿がいかにも寂しそうというか、貧相だった。**の人事部長、十分な地位も評価もある男の後ろ姿にはとても見えなかった。(親父かな)、(親父じゃないな)と迷ううちに、男は角を曲がりじきに家の呼び鈴を押した。追いついて声をかけた。「おお、おまえか」、振り向いた表情はいつもの親父の表情で、後ろ姿に染み出ていた情けないような空気は微塵もなかった。その時は寒さのせいだったろうと思った。家庭を持ち、父親となって、誰の眼も意識しないとき、まるで無防備な時の男の背中はああいうものなのかもしれないと分かるようになった。

 もう寂しさを跳ね返す力もない老境にいたって、どんな思いでいたのか。ああ、なぜそんなときの一回くらいそばにいてやれなかったものか。後から後から涙は止めどなく出た。(12/28/2005)

 朝、まずアーチホールに電話。荷受け番号を確認して佐川急便のホームページを検索。なんと「21時半、不在」とある。いくら年末の道路事情が悪いとしても、配送指定が「午後」となっているものを、21時30分はないだろう。しかも「遅れる」という連絡すらなかった。たしかに「午後」には違いない。だが普通の宅配業者の用語ではこれは「夜間」だろう。

 さっそく扱いの練馬店に電話をするが何度呼び出しても出ない。意地になって数回連続でかけ直すと「お話し中」になる。「飛脚の心」というのがキャッチフレーズだったが、「飛脚」は電話の使い方を知らないという意味とは知らなかった。

 お昼過ぎ4回連続の呼び出しをかけた直後に電話がかかってきた。「回線が混んでおりまして」などといいわけにならないいいわけをする。「ウソをつくなよ。回線が輻輳している場合は話中音にはなるが、呼出音にはならないよ。鳴っている電話に出ないというのはいったいどういう社員教育をしているんだッ」。「佐川急便では夜の9時半は午後なのかッ」。「暮れのことだから遅れることもあるだろうさ。だったら『午後の指定になっていますが大幅に遅れて9時をまわるかもしれません』くらいの連絡はしろよ。電話一本かけられないのはどういうことだッ、できないのか、しないのか、どっちだッ」。

 洗濯機が届いたのは、結局、夕方4時過ぎのことだった。たいした運送会社だ、佐川急便は。

 **(母)さんのことを考えて全自動、先日の日立のリコール内容を考慮して、松下のヒートポンプ乾燥タイプを選んだ。しょせん洗濯機だ、据え付けぐらいは**(息子)と二人でやればなんとかなると考えたのは間違い、なんと自重は95キロ、とても洗面所の狭いスペースで素人が配水管の取付をしたり、据え付けられる代物ではない。思案のあげくにきのう冷蔵庫の配送・据え付けをしてくれたスリーエス・サンキューに依頼することにした。8,500円。高いか安いかは分からないが廃品の引き取りもしてくれるのは有り難い。(12/27/2005)

 **(息子)に新座に送ってもらって片づけ開始。**(息子)はケーキ持参で**(母)さんの見舞い。

 ほとんどはかどらないままに5時開演の加藤登紀子に間に合うように切り上げた。例年の如く後半の終了は開演から2時間半くらい、その後の「第三部」を終えて8時半頃。

 最後はクリスマスということで「Silent Night」を大合唱。歌いながら星新一のショートショートを思い出していた。こんな話だ。

 対立する二国はついに抜き差しならなくなり互いに核ミサイルのボタンを押す。兵士が死に絶えた後も憎悪すべき敵を殲滅するよう、それぞれが用意した核兵器は自動的に相手の頭上へ放たれるようにセットされていたために、彼らが住んでいた惑星は燃え上がった。

 落ちはこのようにつけられている。「・・・遠く遠くはなれた地球から眺めると、それは夜空で不意に輝きをました一つの星であった。砂漠のなかの町、ベツレヘムの貧しい小屋のなか。星の光は一筋の糸のようにそのなかにさしこみ、マリアという名の女性を照らし、みどりごの誕生をうながしているようであった」。(12/25/2005)

注)このショートショートは「宇宙のあいさつ」所収、「その夜」です。

 外構を除いてリフォーム完了。思いついてから2ヵ月。天候に恵まれたとはいえ、よく間に合わせてくれたものと**(リフォーム業者)さんには感謝。台所、お手洗い、風呂場、洗面所、一階の水回り部分はすべて改装、居間も掘りごたつを撤去、フローリングにして床暖房に変えた。引き渡しが午後になったせいもあり本格的な整理作業はあしたから。

 夕刊に「行革重要方針を決定」の見出し。全部で10項目。項目と主要な指標を書き写しておく。@政策系金融改革・・・一機関に統合し、08年度までに貸出残高をGDP比で半減、A独立行政法人の見直し、B特別会計改革・・・5年間で31会計を半分から三分の一にし、財政の健全化に20兆円貢献させる、C国家・地方公務員の総人件費改革・・・5年間で国家公務員(郵政を除いて68万7千人)を5%、地方公務員(308万3千人)を4.6%以上、純粋に、削減する、D政府資産・債務改革・・・10年間でGDP比で半減させる、E社会保険庁改革、F規制改革・民間開放の推進、G政策評価の改善・充実、H公益法人制度改革、I民間人による「行政減量・効率化有識者会議」(仮称)の設置する。

 さて、どのようになりますやら。かつてわが宰相は自ら国債発行30兆円枠を公約しておきながら達成できず、野党党首(菅直人)に指摘されるや「この程度の公約、破ってもたいしたことではない」と開き直った。その彼も来年の秋には辞めるそうだ。後継もまた「この程度の方針、達成しなくたってどうということもない」と言ってのけるような奴が総理になるのか。楽しみにしておこう。

 そういえば、幕府を開くつもりだったシンタロウさん、横田基地の返還はいつになったら実現してくれるのかな。あれもまたできなくて当然の空手形だったのかしら。それとも、あんたに投票したバカな都民はとっくに忘れていると踏んで忘れたふりをしてるのかい?(かつて三島は石原をさして「彼は武士ではない」と言ったそうだが、さすがに三島の眼力は確かだったということか)(12/24/2005)

 天皇誕生日。以下は誕生日を前に開かれた記者会見での今上の言葉の一部。

 日本は、昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに、正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また、日本人が世界の人々と交わっていくうえにも、極めて大切なことと思います。戦後60年にあたって、過去の様々な事実が取り上げられ、人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により、過去の事実についての知識が正しく継承され、将来に生かされることを願っています。

 天皇が元首であるかどうか、国内的には論議の余地がないほどに合意されているわけではない。ただほとんどの国は日本をモナーキーと見なしており天皇は元首と見なされている。上記の言葉が日本の元首のメッセージとして海外に伝えられるならば、愚かしいわが宰相によって損なわれつつあるこの国への信頼の改善にはずいぶんと役立つことだろう。

 また、女性天皇についても「回答を控えようと思います」と言いながらも、あえて言葉を継いで「女性皇族の存在は、実質的な仕事に加え、公的な場においても私的な場においても、その場の空気に優しさと温かさを与え、人々の善意や勇気に働きかけるという非常に良い要素を含んでいると感じています」と述べ、一般論に借りて「女性皇族」をポジティブに評価する言葉を連ねている。おそらく三笠宮寛仁(彼は正式には「宮」ではない)が主張した男系天皇論とバランスさせるための発言と思われる。もしもヒゲの抜作殿下と同じ考えならば黙して語らなければそれで済むのだから。

 ところで毎日にだけこんな記事が載っている。

 宮内庁の高橋美佐男総務課長は、宮内記者会が事前に陛下に伝えた質問のやりとりを終えた時点で、記者会見を打ち切った。例年の会見で陛下は関連質問を受けており、宮内記者会の抗議に対し、高橋課長は「ご負担を考えて私の一方的な思い込みで打ち切った。混乱を招いて申し訳ないと思っている」と話した。

 件の宮内庁課長は今上の「語り過ぎ」をどこぞの筋から押さえるように言明されていたのかもしれぬ。昔とは異なる意味で「宮仕えとは辛いもの」だ。(12/23/2005)

 夕刊トップは「人口初の自然減」。ことしはじめて生まれた人の数が死亡した人の数を下回ったとのこと。日本人のみではマイナス1万人、居住する外国人を含めてもマイナス4千人とか。実感ではことしは例年以上に香典を包んだ気がしていた。**(父)さんの死で特にそういうことに気がいったせいと思っていたが、そうばかりではなかったようだ。記事によると厚労省は「今春のインフルエンザ流行で約2万人が死亡した影響」と見ている由。

 国立社会保障・人口問題研究所の推計では「現在1億2千万人余りの人口は緩やかな減少が続いて2050年に1億人まで減る」のだという。エン振協の部会で人口問題を取り上げたとき、世の中のこの問題のとらえ方は「高齢化」であったが、その後、焦点は「少子化」から「人口減少」へと変わったようだ。

 既に「右肩上がり」という常識は破綻しているのだから驚くほどのことではないが、既存の社会システムのほとんどが常に増加する人口供給を前提にしているから騒ぎにならざるを得ない。だから多くの人は経済成長だとか年金財政のことを心配している。

 たしかにそれは大問題だ。しかしマルサスの「人口論」を裏読みすればどうなるか。それよりなにより、最近特に勇ましい連中が「日中戦争」を口にしているが、労働人口の制約はいろいろな意味で愚かしい軍事冒険主義を掣肘してくれるだろう。とすれば人口減少も悪いことばかりとは限らぬ。

 それともいっちょう新日中戦争でもやらかして、よりいっそう人口を減らすのも悪くはないか。(12/22/2005)

 朝刊のすみに「扶桑社の公民教科書/問題部分にシール」という見出しでこんな記事。

 扶桑社の中学用公民教科書にアイヌ民族の写真が無断で掲載された問題で、同社は19日、抗議していた旭川チカップニアイヌ民族文化保存会(川村兼一会長)に対し、各地の教育委員会に配布した見本約1万部や、図書館が購入した市版本の問題部分にシールを張るなどの措置を取ることを約束した。同社は謝罪文で「アイヌ民族の権利回復の主張や取り組みの認識を欠いた」などとする文を加えた。アイヌ民族側は「歴史認識をめぐる同社の姿勢を認めたわけではないが、肖像権の問題については成果があった」としている。

 いまどき、「アイヌ民族の権利回復の主張や取り組みの認識を欠いた」というのもお粗末な話だが、なにより「回収」と「スミ塗り」のふたつを提案して、実質的には手抜きをしようという「せこさ」の方がよりお粗末。公民という教科はこのような実社会の「狡さ」を教える教科であったのか。そうだとすれば、この扶桑社の姿勢は実によいお手本、つまり扶桑社の「教科書」ではなく、この「対応方法」こそが理想の公民教科書になっているということだ、呵々。

 ところでこの記事、当然のようにサンケイ新聞のサイトには見あたらない。こちらも都合の悪いことには頬被りという実社会を生き抜く「智慧」を教えていて、なかなかよい「教材」かもしれぬ。(12/20/2005)

 吹上工場で品質保証部会。武蔵浦和の埼京線ホームにあがると目の前に富士が見えた。少し雪が少なめの感じで冬の富士として見慣れた姿ではなかった。吹上は入社時の工場見学以来。駅前の交番で教えられた道筋はとんでもない回り道で、余裕を持って出たはずが開催5分前の到着。

 午前中が規程論議などで、午後、エクサスの事業所診断。プリント板の製造に関しては素人同然。インタビューなしで現場を見るだけでは所見らしい所見などない。ただグループ全社のプリント板製造工場という位置づけであるのに、現場ラインの随所に配置されたパソコンその他の機器の設置状況がひどく気になった。ちょっとした規模の地震で相当の混乱が起きそうだ。

 本社の照明のよい役員会議室でグループトップが「BCP」などと口にしていても、明確な指示がなされない限り子会社末端にはその意識は伝わらない。グループとしてのシナジーを発揮するために効率を求めて専門子会社を作る。その発想はよくても機能を一点に集約したリスクについて必要な手当がされていないならそれが命取りになりかねない。(12/19/2005)

注)BCP:Business Continuity Plan 事業継続計画

 民主党大会がきのう・おとといの日程で開催された。先日行った「中国脅威論」や「集団的自衛権容認論」を批判された前原の受け答えを聞いて嗤った。「党代表としての発言なのだから、その方向で党内をまとめて欲しい」。まるでコイズミ・ロジックそのものではないか。

 グローバル・スタンダードへの移行が時代の流れということになっている。「グローバル」が額面通り「世界的」とは思わないが、少なくともアメリカ型ということだろう。図式的にいえば、アメリカ型はトップダウン、日本型はボトムアップといわれてきた。コイズミ流というのは「オレを総裁に選んだのだから、オレが主張する方向でまとめろ」、つまりトップダウンということらしい。同じ口ぶりの前原の発言もトップダウンでやるぞということなのだろう。

 トップダウンとボトムアップのいずれかが正しいということではなかろうし、いずれか一方が優れていて、もう一方がダメということでもなかろう。ただ手法というものは慣れて身についたものであること、前提がきちんと備わっていることが不可欠だ。前者はおいおいに身につくということがあるだろうが、後者はいわば成立条件であるから最初から整っていなければなるまい。

 ではトップダウンの成立条件とは何か。ぐらぐらしない、ぶれない、毅然としているなどということばかりがあげられそうだが、それよりなによりトップに見識と器量があること、これがいちばん大切なことだろう。見識はあらかじめそれまでにどれくらいの蓄えがあるかということであり、器量はどれほど足りないものを自覚し聴く耳を持っているかということだろう。

 ジョージ・ブッシュを精一杯好意的に解釈してあげるとすれば、イラク戦争は智慧のないものが思い込みのトップダウンを行った好例ということになる。

 コイズミとマエハラ、トップダウンを成立させるはじめの一歩でもう転んでいるではないか。(12/18/2005)

 先日の耐震強度偽装問題に関する証人喚問のニュース、なぜ自民党の渡辺具能の質問場面があまり流されなかったか、週末の週間ニュースでよく分かった。「絵」にならなかったということだ。

 はやりのブログには渡辺をけちょんけちょんに書いているものがいくつもある。あのWIKIPEDIAにさえこんな記事が掲載された。(さすがに「削除依頼」が出ているようだが)

 渡辺具能(わたなべともよし 1941年4月7日-)は、福岡4区(宗像市・福津市・古賀市・糟屋郡)選出で福岡県糟屋郡須恵町出身の自民党・山崎派の政治家である。平成13年5月に自民党国土交通部会建設専任部会長に就任した。また、自民党港湾議員連盟事務局長である。 2004年5月、衆議院本会議中に携帯電話のゲーム「テトリス」に熱中する姿がTV中継され、国会内で謝罪する。2005年7月、郵政民営化法案の衆議院決議に於いて法案に不備があるとして棄権した。2005年12月、構造計算書偽造問題における元建築士の証人喚問に於いて、偽造設計の具体的解説等の技術的センスある質疑を展開するなど、既に知られている内容を延々と話して証人から貴重な情報を取得する時間を浪費した(持ち時間42分の質疑のうち、証人が発言した時間は計約7分)。翌日、2005年12月15日の関西圏のローカル放送関西テレビ14:00〜15:30放送の2時ワクッ!では、木曜レギュラーの浅草キッドが同氏に対して「渡辺無能」「渡辺不能」と言い放ち問題となっている。当選させた選挙民の責任も今後問われるであろう。

 テトリス渡辺が再選されるのがいまのこの国の選挙民の平均的センスなのだ。(12/17/2005)

 起き抜けのNHKニュース。赤字解消のトライアルとして行政事務の民間委託を取り上げていた。これからの適用例として、ハローワーク、社会保険事務所、刑務所などが考えられている由。ハローワーク、社会保険事務所、・・・、たしかに仏頂面で偉そうにされるよりは、笑顔で接客、親切、丁寧とくれば、民間委託の方がいいかもしれない。でも刑務所まではねぇ・・・。

 民間委託ということはビジネスとして業者が請け負うということだろう。ビジネスで最も重要なのは安定的な収益が継続して得られることだ。顧客満足というのはそのひとつ実現方法である。最近はすべてのものがビジネス化へとなだれをうっている感がある。だからちょっとした病院では「患者さん」などとは呼ばない。「患者さま」である。あれに倣うなら民間委託された刑務所では「受刑者さま」ということになるのだろうか。「受刑者のみなさま、毎度ありがとうございます」とか、「再度のご利用、お待ち申しあげております」とか、・・・、ひそかに嗤いながら家を出た。(12/16/2005)

 朝刊の「ワールドクリック」というコラムが、最近報ぜられたアメリカによる秘密収容所におけるテロ容疑者への拷問を取り上げている。

 疑惑は三つある。CIA工作員がイタリアやマケドニアからイスラム活動家を拉致し、拷問を疑われる国に移送したとされる「拉致疑惑」。CIAがポーランドやルーマニアなどに闇の施設を設けていたという「秘密収容所疑惑」。そして、CIA関係の民間機が欧州各地で頻繁に離着陸し、容疑者輸送に使っていたという「運搬ネットワーク疑惑」だ。
 英王立国際問題研究所のウィルムズハースト国際法部長は、「現地政府の承認なしにCIAが拉致していたなら、国家主権の侵害にあたる。もし拷問の目的を知りながら、欧州各国の政府がCIA機の給油や経由を容認していたとすれば、拷問禁止条約など国際法違反の幇助にあたる」という。
 キューバの米グアンタナモ基地や、イラクのアブグレイブ刑務所での米兵による虐待事件と違って、今度の疑惑は欧州が舞台だ。疑惑が事実なら、欧州政府は知っていればその加担の責任を、知らなければその怠慢を問われる。神経質にならざるを得ない。
 無差別に市民を殺傷するテロリストと戦うには、国際法や人権擁護の基準を緩めてでも、容疑者から自供を引き出さねばならない。米英政権の基本にあるのは、9・11後の対テロ戦争で「ルールは変わった」という考えだろう。だが欧州の世論の主流は、米国のその一方的な「ルール変更」の主張には冷ややかだ。

 「拉致」、そして「秘密収容所」か、アメリカもどうやら北朝鮮と五十歩百歩の国のようだ。アメリカがICC(国際刑事裁判所)規程に対し、クリントン政権時代にいったん署名しながらブッシュ政権になるや前代未聞の「署名撤回」宣言をしたのはどうやらこうしたダーティな国家犯罪をいくつも企てているからのことなのだろう。

 ところで、なぜ、ヨーロッパは冷ややかか。こういうデータがあるかららしい。

 ロンドン大国際政策センターのクラーク所長は最近グアンタナモ基地を訪ね、当局に話を聞いた。
 「基地で拷問したり、警察の尋問以上の圧力をかけたりしている様子はない。しかし、1人の収容者に200回尋問するなど、通常とはかけ離れた手法を取っている」
 通常の尋問では、供述の矛盾を丹念につき、細部の虚偽を取り除いて真実に迫る。だがそれも30回が限度で、それ以上尋問を続けると、再び供述にウソや幻想が交じってしまう。まして拷問されると、人は「尋問者が聞きたがること」を話し、仮に真実があっても見分けられなくなる。情報を入手するうえで、拷問は無意味だ。しかも計り知れない害をもたらす。

 クラークはこんなことも言っているという、「米国は対テロ『戦争』では司法手続きを軽視しがちだ。厳正な司法手続きでテロに対処しようとする欧州では、受け入れがたい。しかも米国が人権を侵害すれば、テロリストに拘束された米軍人が同じ危険にさらされる」、「最も重要なのは、民主国家が拷問を大目に見るようになれば、我々が非難してやまない独裁国家と、道徳的に同じ存在に成り下がってしまうことだろう」。つまりフセインを妥当するためにフセインになり、アルカイダを掃蕩するためにアルカイダになるということだ。

 「目的は手段を正当化するか」というのは人間のあらゆる意図的活動、就中、反体制運動では永遠の問題だ。「奴隷状態にある人民を救済する最終目的に誤りがない以上、あらゆる手段は過激なものを含めて許容される(どこかオウムの「救済のためのポア」というロジックに似ている)」という考え方は、周到に独善を排除し得たとしても、実践過程で必ず目的そのものの価値を毀損する結果につながる。

 夕刊にはブッシュが14日ワシントン市内で行ったスピーチでイラクの大量破壊兵器保有に関して「誤った情報」に基づいて開戦に踏み切ったことを認め、それでもなお「フセイン政権を打倒した戦争は正しかった」と述べた由。おやおや、最近では「手段」の前提であるべき「目的」そのものが詐欺師ほどに信頼できないものになりつつあるようだ。

 この記事の脇にはもっと絶望的なことが報ぜられている。

 安倍官房長官は15日午前の記者会見で、ブッシュ大統領がイラクの大量破壊兵器に関する情報の取り扱いの誤りを認めたことについて「実際にイラクが大量破壊兵器を使った事実がある中で、彼らが大量破壊兵器を持っていると(米政府が)考える合理的な理由があった。イラク攻撃への日本の支持について言えば合理的な判断だったと思う」と述べ、イラクへの武力行使を支持した開戦当時の日本政府の判断に問題はなかったとの考えを強調した。
 安倍長官は「イラクが過去実際に大量破壊兵器を使用した事実や国連の査察団が指摘した数々の未解決の問題にかんがみれば、イラクへの武力行使が開始された当時、大量破壊兵器があると(米国や日本政府が)想定するに足る理由があった」と強謝した。

 安倍よ、気をつけてものをいった方がいい。世の中の半分くらいの人はお前よりははるかに頭もいいし、記憶力もいいのだから。貧弱な頭で理屈をこね回してくだらないことをペラペラとしゃべらないことだ。

 論理的なことを論理的に考えられぬ者に指摘しても可哀想というものだから、たった一つの事実だけ、思い出すことを促すというのが望みうる最低線。安倍よ、他ならぬ国連査察団、UNSCOMの査察官スコット・リッターがどんなことを主張していたか、思い出してみろ。

 それにしても、こいつ、ホントに、岸信介の孫か?(12/15/2005)

 耐震強度偽装問題に関する衆議院国土交通委員会の証人喚問。喚問された証人は、元一級建築士の姉歯秀次、木村建設社長の木村盛好、同社元東京支店長の篠塚明、ホテル建設コンサルタント(総合経営研究所)所長の内川健の4名。

 全体を通しで見たわけではない。だからオンエアされた部分の前後にどのようなやり取りあったかは分からない。しかしこれまでの数々の参考人招致、証人喚問で、やっただけのことはあったという印象のものは少ない。質問する側の意識、能力、準備、テクニックはいつもプアだ。

 姉歯のようにある意味もう覚悟を決めて証言をしようとしている相手ならよいが、それ以外の3名となるとある程度の駆け引きが必要になる。夜の各局のニュースはどういうわけかいちばん割当時間が長かったはずの自民党の渡辺具能ではなく、主に民主党の馬淵澄夫の質問を取り上げていたが、その馬淵にしても資料の提示はもう少し引っ張ってからの方がいいのではないかと思わせた。

 木村建設の篠塚などは明らかに事前にアドバイスをもらいリハーサルをやって臨んでいるという印象。言質を取られぬために、鉄筋を減らせと言ったかどうかなどについては特に否定せず、「通常のコストダウン要求」として「あくまでも法の要求の範囲内でのこと」という線をつらぬいた。この答えそのものは先週の参考人証言でも出ていたわけだから、そこに揺さぶりをかけなければならないことは「想定内」だったはず。

 篠塚さんはおいくつですか?、木村建設に入社されたのはおいくつの時ですか?、何年くらいこの業界でお仕事をされておいでですか?、営業職につかれて何年におなりですか?、それまではどういうお仕事を担当されていたのですか?、現場のご経験は何年くらいおありですか?、営業をご担当になると現場に出ることはないのですか?、現場にお出になったときはお客様とか現場監督の方とか工事状況を見ながらお話しはされないのですか?、入社された頃またはこの業界にはじめて入られた頃と比べると工事内容などは大きく変わっているのですか?、お忙しい中で建築設計のお勉強などもされておいでですか?、コストダウン要求を強く言うためにはある程度建築士さんと言い合うくらいのことができないといけないですものね?、などなど。

 仕事の背景の中に「法の要求の範囲内」という主張との乖離要素はある。商品知識を持たず、商品内容に無関心な営業であって支店長のイスに座れるはずはない、いくら中小の建設会社だとしても。(12/14/2005)

 「ASEANプラス3首脳会議」が終幕した。マスコミのほとんどはわが宰相の「ひとつの問題で、首脳会談が開けないというのは理解できない。時間がたてば解決するだろう」という言葉を報じていた。首相の支持率はおとといNHKが報じたところによれば58%に達する。ということはかなりの国民は首相に拍手を送り、中韓の首脳に対して反発を感じているのだろう。しかし、さほど遠くない未来、この国の人々はこの言葉の愚かしさを知ることになるだろう。

 注意深い人ならばいまだってこの言葉の愚かしさは分かるはずだ。たとえば、よる7時のNHKニュースはマレーシアのアブドラ首相が日中関係について「両国の間に相違が生じていることを懸念している。日中首脳がよく話し合って問題を解決してほしい」と語り、フィリピンのアロヨ大統領が東シナ海の天然ガスの開発をめぐり日中が対立していることにふれた上で、「南シナ海では中国、フィリピン、ベトナムがエネルギーの共同開発を進めている。日中の間でも参考になるのではないか」と述べたと伝えていた。これらの言葉が背後に隠された感情レベルを含めて日中双方に同じ圧力で語られていると思う人は人間や歴史に対する理解が足りない人だ。

 思えば、80年代中盤、この国が絶好調だった頃、ドルに対抗する基軸通貨への野心を持ち、その野心を注意深い思慮で隠しながら事を進めるほどの人物がこの国のリーダーであったならば、少なくともユーロが現在獲得している程度のポジションに円もまたつくことができたのではないか。たしかに円が基軸通貨になることが幸せであるかどうかはにわかには判じがたいし、クレオパトラの鼻のような話は詮無い話であるけれど。

 いままた東アジアのリーダーのポジション、ひいては世界のリーダーのポジションをとるためのほとんど最後のチェックポイントにさしかかっている。だがこのままではこの愚かな宰相のためにこの国はそのテストに落第し、いずれ歯がみするうちにそのポジションは中国が取ってしまうに違いない。コイズミなどに熱狂した愚かさにこの国の人々が気付くのはいつの頃になるだろうか。

 もともと日本はリーダー型の大国よりはユニークな小国をめざす方がハッピーになれると思っているからそんなことに痛痒は覚えないが、不思議でならないのはやたらに自衛隊を海外に出したがったり、安保理常任理事国になりたがっている人々が、かえってそのリスペクトの試金石となる「ひとつの問題」で国としての格や器量を疑わせているということだ。

 コイズミは「靖国は外交カードにはならない」と言った。交渉材料などにはなり得ないという点でこの言葉は正しい。靖国は外交カードではなく格付票だ。日本という人物が小人物か大人物か、小人か君子かという判定票なのだ。アブドラやアロヨの忠言が耳に届かないようでは君たる資格はない。(12/13/2005)

 アメリカ産牛肉の輸入再開が決まった。養老孟司が日本はアメリカ合衆国の一つの州になればよいと書いていたが、冗談でも極論でもなくそれがいちばんいい。

 軍司令部を座間に置きますって?、ハイ、どうぞ、沖縄の海兵隊司令部をグアムに移転する費用が一兆円ですか?、エエ、全額出しますよ、中東方面で活動する軍艦船の燃料ですか?、補給艦を派遣します、エッ、お代ですか?、いりませんよ、あなたとわたしの仲じゃないですか、「集団的自衛体制」にもっときっちり入れ?、ハイハイ、おじゃまな憲法を「改正」します、エエ、どうせあなたからのいただき物でござんす、煮ようと焼こうと御意に、そちらの企業が自由に活動できるようにしたいんですか?、アメリカン・スタンダードにあわせて国内法を片っ端から「改正」します、お待ち下さい、エッ、牛肉ですか?、「世界標準に照らせば安全」と言ってください、そうすればニッポン国民など黙るに決まってます・・・。

 この対応はなんだろう。いったいどこの国の政府なのか。ここまで唯々諾々と合衆国連邦政府に従属するのなら、独立した「日本国政府」の存在理由はどこにあるだろう。

 日の丸が星条旗になろうと、君が代が「O say, can you see」になろうとどうということはない。かえって清々するだろう。なにより素晴らしいことは連邦政府決定を追認するだけの日本政府機関のいくつかは即日撤廃できることだ。もちろん合併会社の常として役人や議員などのオーバーヘッド分はすべて馘首だ。「省」になりたがっている防衛庁などは一気に国防「総省」に「格上げ」されて大喜びするに違いない。もっともいらなくなった幕僚や将官はリストラされるだろうから省への格上げで水増しされるポストを楽しみにしていた面々には当てはずれも出よう。しかし「日本政府の廃止」、これこそ「改革」というものだ。(12/12/2005)

 おととい民主党の前原がワシントンの戦略国際問題研究所で行った講演の映像を見た。用意したペーパーを読み上げる体のもので、しかも途中で「paramount」という語を「permanent」と読み上げそう(?)になったりして、少しばかり情けないスピーチだった。

 リーディングはしょぼかったが、しゃべった内容は勇ましいものだったようで、「中国による領土、海洋権益の侵犯の動きが見られる。毅然とした対応を取ることが重要」とか、「ガス田問題で中国側が既成事実の積み上げを続けるなら、日本としては係争地域での試掘を開始する」とか、「1千カイリ以遠のシーレーン防衛をアメリカに頼っているが、日本も責任を負うべきだ。憲法改正と自衛隊の活動、及び能力の拡大が必要になる。集団的自衛権の行使と認定され、憲法上行えないとしている活動について、憲法改正を認める方向で検討する」などと吹きまくったらしい。

 これでは安倍とどっこいどっこい、安倍は成蹊大だからバカで当然という気がするが、前原は京大、それがこの程度というのはがっかり以外の何物でもなかろう。

 もっとも松下政経塾出身と聞けば納得できないでもない。松下政経塾というのは、カバン、地盤、看板すべてをもっている安倍のような世襲政治屋と違って、そのすべてがなくて野心だけがあるという連中が集まったところ。プア・ホワイトのようなものだ。持っているものは「白人だ」というプライドだけ、アタマもフトコロもプアという奴は政治的には凶悪な階層になりやすいものだ。

 天下国家を論じるほどに野心と自己陶酔だけが進行するのだろう。この国はますます下品な対米従属主義者たちに牛耳られようとしているような気がする。

 ところで前原は自前でシーレーン防衛をしようとするとどれほどのコストがかかるか、そのための経済規模はどの程度であればペイするのか、そのあたりの数字について語れるだけの準備があるのかしらん。シーレーン防衛などというのは机上の空論、そんなカネをかけずに目的を果たすのが政治家の智慧の出しどころなのだよ。自分に智慧が出ないからといって、軍事費に破綻するほどの国費を費やそうなどという空論を主張してはいけない。エレガントな解答はガチガチのハード的アプローチではなく、しなやかなソフト的アプローチから生まれるものだ。永続性のある国家戦略も同様。(12/10/2005)

 先月15日に書いたように、ついたての陰に隠れて、面体はもちろん名前まで隠して、「被害」証言をするという信じ難い方法を認めた時点で、きょうの判決はある程度予想できた。

 立川の自衛隊官舎にイラク派兵に反対するビラを配布するため立ち入ったとして、住居侵入罪で起訴された運動家三人に対し、東京高裁は一審の無罪判決を破棄して罰金刑を言い渡した。

 裁判長は中川武隆。判決理由は「ビラによる政治的意見の表明が言論の自由により保障されるとしても、管理者の意思に反して建物に立ち入ってよいということにはならない」こと、この事件では@各室玄関前まで立ち入り抗議を受けても繰り返した行為は相当とはいえない、A居住者らの不快感などに照らすと法益侵害が極めて軽微とはいえないという判断である由。件の「物陰から人を撃った」卑怯な証人の証言はこの@とAの立証のためだったということ。

 マスコミで伝えられるのはもっぱらビラを配布する側の権利の問題が中心になっている。もちろんそれはいちばんの問題であるが、裏側に隠れてしまった問題もある。官舎の管理者は住民の内心に踏み込む権利をもっているのだろうか。自衛隊に奉職しているからといって勤務時間外まで官舎管理者の恣意的な管理の対象になるとは思えない。また官舎に住んでいるのは自衛隊に勤める者だけではない。自衛隊員の家族も当然この官舎に住んでいる。彼らはたまたま官舎に住んでいるために、他の住環境にある者が当然もっている情報通行権を奪われていることになる。官舎の管理者にそれだけの権限があるとはとても思えないが、そういう議論はきょうのところは聞かれない。(12/9/2005)

 夕刊にこんな記事が載っていた。

 戦没者の名を記した靖国神社の名簿に、この夏、訂正が施された。太平洋戦争で死んだはずの韓国人男性が、実は戦後も生きていたことが、遺族の訴えで分かったからだ。
 東亜日報東京特派員の趙憲注(チョー・ハンス)さん(45)は赴任前の02年1月、韓国政府の記録保存所で、父炳根(ビョン・グン)さんの「旧海軍軍属身上調査表」を偶然見つけた。「西山炳根」と日本名で書かれていたが、本籍地や生年月日などから父と分かった。
 調査表には、「43年1月 ニューギニア方面で軍事施設工事中戦死」と記され、59年10月17日付で「靖国神社合祀(ごうし)済」と印が押されている。旧厚生省が93年に韓国政府に渡した資料に含まれていたとみられる。憲注さんによると、炳根さんは実際は連合軍の捕虜として生き延びた。46年に帰国し、2003年に83歳で亡くなった。
 憲注さんは今年7月、在日韓国大使館を通じ靖国神社に合祀取り消しを求めた。神社側は憲注さんが示した記録を確認し、合祀した人たちの名前を載せた「祭神簿」の炳根さんの欄に、斜線を引いて「生存確認」と書き添えた。靖国神社は大使館あての文書で、故人と、その家族に謝罪した。
 ただ、靖国神社は祭神簿を事務上の名簿と説明する。朝日新聞の取材に対し、宗教的に重要とされる「霊璽簿(れいじぼ)」と呼ばれる名簿も訂正したかどうかは、「信仰にかかわるので、詳しく申し上げることは控えさせていただきます」と答えた。
 憲注さんは「靖国にもメンツがあるだろうから、祭神簿の訂正だけでも大変なことだ。植民地の苦しみを味わった人々のことを考えるなら、日本の軍国主義と結びついた靖国神社にまつられた台湾と朝鮮の犠牲者の合祀取り消しこそ、行うべきだ」と話す。
 国立国会図書館がまとめた資料に、靖国神社に合祀された旧植民地の台湾と朝鮮の出身者数がある。75年の時点で計4万8000人を超えている。

 まず、記事に苦言。「43年1月 ニューギニア方面で軍事施設工事中戦死」はおそらく「昭和18年・・・」だろうし、「59年10月17日付で『靖国神社合祀(ごうし)済』と印が押されている」も靖国神社が西暦を用いるわけはないから「昭和34年10月17日付・・・」が正しかろう。こういうところは事実を正確に伝えてもらいたい。その方がかえって靖国という慣行の可笑しさが際立つはずだ。

 靖国神社としては「いったん合祀したものを取り消す」という不都合と「戦死していないものを祀っている」という不都合を天秤にかけた。いわばその「究極の選択」が祭神簿に斜線を引き「生存確認」と書くという処置だったのだろう。嗤える、じつに、滑稽だ。宗教を看板にしながら役所(当時の厚生省)の下請けとして名簿処理などに手をそめるから、こんなみっともないことになるのだ。惨めな作業を強いられ、相手が新聞記者とあってはいつものように慇懃無礼に突っ返すことも無視することもできず、お上意識に凝り固まった靖国の腐れ神官、よほど悔しかったろうよ。

 ところで霊璽簿の記載、靖国神社はどうしたのだろう。祭神簿は事務上のもの−住民票かい(呵々)−だそうだが、神様の世界の戸籍となれば虚偽記載のままではまずかろう。それとも、融通無碍、早い話がデタラメということだが、それが神道の教義だと強弁するなら霊璽簿など嘘八百でいいのかもしれぬが。(12/8/2005)

 ちょっとホームページのメンテが滞ったこともあって、いつもよりもメールが多いような気がする。中に「規制緩和、が悪者だ、というのは味噌糞のコメントにみえます」とか、「民間ではなくお役所だったら、データの捏造偽造を発見できたとは言えないでしょう」とかいうものがまじっていた。

 規制緩和が悪者だとか、官ならば防げたなどと書いた憶えはないが、そう読めたならば仕方がない、所詮、日記なのだから、誤読に神経質になっているわけにもゆかない。

 あわせて紹介されていたサイト記事

 先進国に於ける技術者の養成方法には二つの種類がある。選ばれた人間に対し、ある種の徒弟制度により、後継者教育を施すのは、英国・大陸ヨーロッパ及び日本である。これらの地域の共通点は、封建制が発達していたことである。一方、封建制が無かったアメリカでは、急速に産業社会を実現するため必然的にマニュアル主義となり、更に自由主義的資本主義の導入は、先輩・上司が後輩を育てるというより、ベテランと若手(と称するチンピラ)を競争させるのである。ハリウッド産刑事ドラマを見れば判るでしょう。この結果、企業内モラルというものが失われ、刑事訴追のようなハードな方法で、企業の信頼性を担保しなくてはならなくなる。アメリカ型自由主義社会は企業コストはかからないが、その分社会にコストを押しつけているので、結局トータルコストは封建制より高くなる。その風潮が日本を席巻しているのですよ。

という部分には、若干論理の飛躍があることと、刑事訴追に発展しないと判断する企業(多くの犯罪者は「捕まらない」=「刑事訴追されない」という自信にあふれているものだ)の発生をどのように防止できるのだというような疑問があるものの、なるほどと思わせるものがあった。

 この国は新興国などではない。問題はまさに、そのような長い文化的社会的背景に基づいて定着している制度を「グローバル・スタンダード」のセールス・トークにのせられて浅薄極まりないアメリカ型に変えようとする根無し草のようなコイズミ「改革」にある。(12/7/2005)

 耐震強度偽装騒ぎで国が被害対策スキームを決定した由。対象のマンション購入者に対して地方自治体が土地価格で買い取り、解体、建てかえを行う。建てかえに際しては共有部分については公費負担とし、再建築後は対象者にこの分を含めてなるべく安価に再販売する。この費用については国が相当額補助する、と、おおよそこんなことらしい。

 件の強度不足のマンションを購入してしまった被害者のことを思えばよかったと思うものの、そこに税金が使われるとなると釈然としない。まず違法建築、欠陥住宅問題は今回に限ったものではなく被害者は多数にのぼる。ひとつのトリガーでまとまった数の被害者が出たが故に救済され、小規模にパラパラと発生したから救済されないというのは、税金を投入する要件とは相容れない。結局のところ「赤信号みんなで渡れば怖くない」ということか。

 それよりなにより腹が立つのは被害額が大きいから責任発生元に損害賠償を負わせ切れないということだ。確信犯としてデータをごまかしインチキなものを建てて利益を上げた者がそのまま売り逃げをすることになるということ。ヒューザーの小嶋某なる社長などは早々と「公的資金投入」を主張し、木村建設の木村某もあらかじめ準備しておいたかと思うほどの早さで「破産申し立て」を行った。

 江戸時代に「五人組」という制度があった。もともとこの業界は胡散臭い匂いがなかなかとれない業界だ。おそらく「一部のいい加減な業者のために他の多数の真面目な業者が迷惑している」と業界関係者は主張することだろう。とすれば、この際このなつかしい五人組制度を取り入れたらどうだろう。

 「五」にこだわるわけではない、適当な数でよいし、資本規模などの組合せは業界内で「談合」してもらえばよい。とにかく、「組」を組んだ構成会社が不始末を起こした場合は残りの会社ですべての賠償責任をとことん負うことを義務づけるのだ。プロどうしが相互監視をしなくてはヒューザーや木村建設のような「やり逃げ」は防止できない。

 カネを借りる場合には連帯保証人をつける。多くの会社は新規の社員にもそれを求める。会社でも無配の会社が公共工事を請け負う場合には同業の保証をもらう。不心得者が絶えない業界とあれば、これぐらいのことは当たり前のことといえるはずだ。(12/6/2005)

 きょうの「時の墓碑銘」は東郷茂徳だった。靖国神社が合祀した14名のA級戦犯の一人。

 鹿児島県の彼の故郷を訪ねた歴史家の萩原延壽は、こう描写している。
 「この村の落着いたたたずまいと、そこにただよう気品にみちた風情とは、この村の特異な歴史と、その中で生きてきたひとびとの深く秘められた感情をしずかにうつし出している」(『東郷茂穂−伝記と解説』原書房)
 16世紀、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の折、虜囚として連れて来られた陶工の村だった。薩摩藩の隔離政策もあって、300年近く孤立のなかで母国の風俗習慣を保ってきた。すぐれた技術を有する誇り高き人々であった。
 茂徳も生まれたときの姓は朴だった。5歳のころ、東郷に変わった。後年、彼が望郷の念をもらすとき、思いは故郷の村から朝鮮半島にまで及んでいたかどうか。

 生まれたとき「朴」という姓だったことは知らなかった。東郷の生年は1882年。ということは87年、明治でいうと20年頃に改姓したことになる。つまり江戸の尻尾はちょうどその頃、あちらこちらから消えていったということか。

 彼が「同僚」たるA級戦犯を見つつ歌った歌がきょうのεπιταπ(?)。二首あげられている。

此人等国を指導せしかと思ふ時型の小きに驚き果てぬ

此人等信念もなく理想なし唯熱に附するの徒輩なるのみ

 「此人等(このひとら)」と歌われた人々の中に靖国神社が「昭和殉難者」と呼ぶ人々が何人入っているのかは分からない。ただ広田照幸の「陸軍将校の教育社会史−立身出世と天皇制−」などから想像するに、立身出世にほとんどすべてのプライオリティがある者が多かったとすれば、理想はもちろん信念など期待できるはずもない。このことは眼前の社会にも共通することでむしろ絶望はもっと深くなっている。それが人間史というものだが。東郷は禁固刑に服する間に獄死した。(12/5/2005)

 下校時の女子児童が殺される事件が続いている。広島で先月22日、今市でさきおととい。

 サンデーモーニングに出ていた「新潮45」の編集長、中瀬ゆかりが対策として「重罰化」と「監視カメラ」をあげていた。同じ新潮社から出ていた小谷野敦の本のタイトルを思いだしてひそかに嗤った、「すばらしき愚民社会」。たしかに痛ましい事件には違いない。犯人を強くかつ深く憎むことには同感する。しかし小学生の思いつき程度のこのふたつの案はけっして有効な対策にはなるまい。

 まず「重罰化」について。いちばんコスト・パフォーマンス(服役日数あたりの犯罪収益)のよい犯罪は詐欺だそうだ。本当か嘘かは知らないが、詐欺を犯そうという者はこの言葉に勇気づけられるかもしれぬ。だが痴漢をしようと思う者、女の子にいたずらをしようと思う者にとって「コスト・パフォーマンス」など思いも浮かばぬことだろう。捕まるとどうなるかに思いがまわるような人間は最初から破廉恥行為には及ばない。捕まる不都合よりは目の前の快楽に目が眩むのが彼らの通性。性犯罪の衝動というのはそういうものだ。つまり「重罰化」は「抑止力」にはなり得ないに違いない。

 そして「監視カメラ」に至ってはただ嗤うのみ。今市の事件現場、あの杉木立の中の田舎道にいったい何台くらいの監視カメラをどのように据えたらいいというのだろう。それを日本全国津々浦々に設置するとしたら、いったいどれくらいのカネがかかるものか。よろしい、安全は何にも代え難いとして、国中に数千万台の監視カメラを設置したとしよう。数千万台のカメラの24時間の映像データをどのように処理したら「監視」目的が達せられるだろうか。結局のところ犯罪の防止に役立つことはなく、犯罪がなされた後に犯人逮捕の手がかりになれば上々、あまりに多過ぎる映像情報がかえって仇となるやもしれぬ。眼があるというだけでこの手の犯罪が抑止されるというなら満員電車の痴漢の存在はどう説明したらよいだろう。

 「重罰化」を求めるのは隠れた欲求を果敢に実現する性犯罪者に対する屈折した「応報のカタルシス」の現れであり、「監視カメラ」は性犯罪者も、自分同様、他者の目に映ずる自分に深く拘っているに違いないと深く信じている「ナルシシズム」の現われではないか。ここに見られるものは件の性犯罪者にもつながる「病理」だ。つまり時代の雰囲気がこういう事件を起こしている以上、そこを癒さない限り我々はいつまでもこの手の犯罪とつきあわざるを得ない。「重罰化」と「監視カメラ」が対策になるなどという学級会レベルのコメントを大まじめに垂れ流すパープリンどもと同じ空気を吸わなければならないように。(12/4/2005)

 朝刊に抱腹絶倒の主張が載っていた。筆者は西尾幹二。西尾はニーチェの研究が専門だった。ニーチェは、晩年、深い思索の故か、脳梅毒の故か、発狂したと伝えられている。西尾も見倣ったか。少なくともこの一文を読む限り「深い思索」というにはかなりお粗末だから「脳梅毒」なのかもしれぬ。

 とにもかくにも徹頭徹尾、嗤える。イデオロギーに「右往左往」すると人間はどれほど愚かなものを書くようになるかというよい見本だから、予言者気取りの全文をそのまま記録しておく。

 天皇の制度をなくした方がいいと考える人は別として、天皇の存在は日本人に末永く必要だと考え、そのうえで女系天皇でいいと主張するのは間違いだといいたい。
 有識者会議の報告書は「将来にわたって安定的な皇位継承を可能にするため」女系天皇をも良しとするが、これは考えが足りない。
 旧宮家の皇籍復帰によつて男系を守らない限り、皇位はむしろ不安定でトラブル続きになる。もし女系天皇を頂けば、30〜50年後に今の天皇家はその正統性を問われ、政治的に左石両翼から挟み撃ちに遭うだろう。
 左派の最も意識的な天皇制度の否定者は共産党とその関連の知識人である。私のみるところ彼らは、女系天皇の容認は制度のなし崩し的否定に通じると見て歓迎してさえいる。この道を進めば、恋愛や離婚の自由、退位や皇籍離脱の自由、つまり皇族の人権化を通じて天皇制度そのものを破壊できる。「万世一系の天皇」という歴史的正統性からみて疑わしく贋ものの天皇だ、と訴えることもできる。
 他方、右派からみても、女系の容認は皇室の系図をめちゃくちゃにするのでとうてい許せない。有識者会議の報告書は女性天皇、女性皇族の配偶者も皇族とするといっている。衆議院議員○○家の長男、会社社長△△家の次男といった民間人がいきなり皇族に列する可能性がある。
 これは○○家、△△家の系図が天皇家の系図になるという歴史上例のない事態の出現であり、わが家系を天皇家にしようという権勢権門が競争して殺到するであろう。
 もし愛子内親王とその子孫が皇位を継承するなら、血筋を女系でたどる原則になるため、天皇家の系図の中心を占めるのは小和田家になる。これは困るといって男系でたどる原則を適用すれば、一般民間人の○○家、△△家が天皇家本家の位置を占めることになる。
 どちらにしても男系で作られてきた皇統の系譜図は行き詰まって、天皇の制度はここで終止符を打たれる。
 今から30〜50年後にこうなったとき、「万世一系の天皇」を希求する声は今より一段と激しく高まり、保守伝統派の中から、旧宮家の末裔の一人を擁立して「男系の正統の天皇」を新たに別個に打ちたてようという声が湧き起こってくるだろう。他方、左派は混乱に乗じて天皇の制度の廃止を一気に推し進める。
 今の天皇家は左右から挟撃される。南北朝動乱ぼどではないにせよ、歴史は必ず復讐するものだ。有識者会議に必要なのは政治歴史的想像力であり、この悪夢を防ぐ布石を打つ知恵だったはずだ。
 小泉首相は国民の意見も皇族の忠告も他の政治家の口出しも認めず、報告書通りに皇室典範改定を強行すると聞くが、独善的、閉鎖的なやり方は、郵政民営化のときとまったく同じ独裁主義の暴走だ。
 解決策は、旧宮家の皇籍復帰、養子縁組、新宮家創設のほかには考えられない。有識者会議はこの方法について、戦後60年たつので国民の理解が得られないというが、これはおかしい。旧宮家は、明治天皇が皇女を嫁がせるなどした特別な存在であり、○○家や△△家の一般民間人が皇族になるよりは、はるかに違和感が少ないであろう。

 西尾の「予言」があたる確率はゼロだ。絶対に外れる。あたる可能性があるとしたら、この妄言の如き主張がゾンビのように跳梁跋扈し、まかり通ってしまう場合のみだ。

 それにしても「面白うてやがて哀しき」、そんな心境になる。ここにあるのは他者への反発だけを養分にしたような思想だ。自ら光を発することはあたわず、太陽の光を受けることによってのみかろうじて自らの存在を認識してもらえる「月」のような存在、それがこの国の「保守主義」だというのか。なんというざまだ。(12/3/2005)

 きのうの午後、スカイマークの東京便が鹿児島空港を離陸直後にエンジン火災を起こして緊急着陸した。朝刊の写真、ニュース映像で見る事故機(B767)のエンジンは凄まじい壊れ方。タービンブレードが破損し、飛散した破片がタービンを収納するケーシングそのものまで破壊したことがうかがえる。

 夏に豊里から帰ってきた日、福岡上空で同様の事故を起こしタービンブレードを市街地にまき散らした事故があった。あの事故機はボーイングではなかったと思う(DC10:12/6追記)から、機種に固有の問題よりは機体整備の問題を疑った方がいいだろう。

 あんな壊れ方をする前にはそれなりの徴候があったはずだが、そういう「カン」のはたらく整備士が現場にいなくなりつつあるのかもしれない。いま話題の耐震強度計算にも共通するが、パソコンあたりのお手軽なプログラムが指示する箇所を機械的にチェックをするだけで、ほい一丁上がりというようなやり方をして本来人間が持っているトータルな感覚での善し悪しをおろそかにしているのではないかなどと、ちょっとおそろしい想像をしてしまう。(12/2/2005)

 立花隆の「メディア・ソシオ・ポリティックス」、昨日アップのテーマ・タイトルは「女性・女系天皇容認で議論呼ぶY染色体論とミトコンドリア」。一部似非保守論客の所論を痛烈に批判している。

 長く続いてきた伝統を変えることに対する疑問、女系天皇容認反対論はこれにつきる。もとより保守主義というのは論理ではないのだからこれだけで十分な主張たり得る。しかしそこは似非の似非たる所以、猿にも等しい浅知恵で一応の理屈があるかのようにしゃべろうとするから可笑しなことになる。

 やめておけばいいのに「二千数百年」といい、「万世一系」という。二千数百年、百二十五代は事実ではなく、それくらいに長い、それくらい旧いことを作ったものにはせよ典拠つきで語れるぐらいの意味しかない、そのことは恥じることではない。変に恥じる意識があるから、無理にも数字を並べ立て、数百年も生きたと強弁しなければならなくなるというバカバカしさに気付かないのか、愚か者め。どうしても語りたいなら、記紀が存在理由を交代するあたりから後を語ればよいだけのことだ。「二千数百年」は「千年数百年」に、「万世一系」は「常世庶出」になるかもしれぬがなんら恥じることでもない。安吾なら、「わが文化や伝統はそんなことによって光を失うことなどけっしてないのである」とでも書くだろう。

 立花の指摘は、もともと「万世一系」は多産系の側室によって支えられてきた(要は「妾腹」ばかりということ)こと、天皇という存在は政治における女性原理の側に立つものだということ、似非保守主義者たちがしきりにいう「女性天皇はつなぎ」という言葉は実質的内容を表わしていないこと、そして最後に生物学的知見をあげている。最後にあげた「生物学的知見」は男系絶対天皇論者が主張しているY染色体論の迷妄を痛罵していてまことに痛快だ。

 ミトコンドリア・イブという言葉があるのはY染色体をいくらいじりまわしても複数代以上前の祖先との系統関係は追跡できないが、ミトコンドリアDNAは何世代も前までの母系のつながりを正確に追跡できるからだ。ということは、もし「貴種」だとか、「雑種」だとかということを語りたいならば、男系系統よりは母系系統の方が確実に根拠になりうるということ。もともと頭の悪い似非保守論者には世代を経るにしたがって稀釈する一方のY染色体の「雑種性」を有り難がっていることになる。(12/1/2005)

 きのう、耐震強度偽装問題で衆議院国土交通委員会が参考人を呼び質疑を行った。招致された参考人はマンション建築販売ヒューザーの小嶋進社長、同じくシノケンの篠原英明社長、建築会社木村建設の木村盛好社長と同社東京支店の篠塚明支店長、検査会社イーホームズの藤田東吾社長、平塚市都市政策部の渡辺貞夫部長。焦点の姉歯秀次建築士は「精神的に不安定」という理由で欠席をした。

 ヒューザー、シノケン、木村建設、それぞれにメキメキと業績を向上させてのし上がった新興ないしは地方中堅会社らしい。こういう会社がはやりの「勝ち組」になるためにはそれなりの「仕掛け」が必要なのだろう。いまどき地道な努力でそうそうめざましい勝ち方ができるわけはない。手っ取り早い勝ち筋は限られている。従来「それをやっちゃおしまいだ」と思われていたタブーをどんどんひっくり返す、これが有望な方法だ。コイズミの選挙にも共通することだが、「節度」や「モラル」などどんどん捨てて、「勝つためにはなんでもやる」くらいの下品さが決め手だ。騙されるのは騙される奴の自己責任さと嘯く声が聞こえるようだ。

 姉歯設計士から数百万のキックバックをとっていた木村建設の篠塚の言葉。「そのようなこと(鉄筋を減らせ)を言ったかもしれないが、当然、法令遵守の範囲内のこと。圧力をかけたという認識はない」。きょうび似たような言い回しはどこでも耳にする。「どんなことをしてもノルマを達成しろとは言ったかもしれないが、当然、常識の範囲内に決まっている、違法なことまでやってよいなどと指示した覚えはない」と言った奴が、場を変えれば「きれい事で勝てるか、向こう傷の一つや二つなんだ、泥をかぶるぐらいの根性がなくてどうする、バカ野郎」くらいのことは平然と言っているものだ。

 こんな連中を呼んでしゃべらせるのに、なぜ証人喚問ではないのだろう。奴らは甘い顔をみせればどこまでもつけあがるそういう人種だよ。(11/30/2005)

 テレビニュースの聞きかじりを確かめようと検索し、朝日新聞のサイトにこんな記事をみつけた。

 横浜地裁の井上薫判事(50)が、同地裁の浅生重機所長(63)の罷免を求め、裁判官訴追委員会に訴追請求したことがわかった。裁判官が裁判官を訴追請求するのは極めて異例。
 関係者によると、請求は25日付。訴追請求状によると、浅生所長は昨年から今年にかけて、「君の判決の理由欄が短いので改善するよう所長として勧告する」「勧告に従わないので人事上減点評価とし、来春の判事再任は無理だ」などと述べた、という。これについて井上判事は「裁判干渉であり、裁判官の独立を侵害した」と訴えている。

 あの井上薫だった。結論を左右しないことを判決文にいろいろ書くのは裁判官の饒舌に過ぎないというのは井上のかねてからの主張だ。ストイックな信条をもって彼が仕事にあたっているのだとすれば、憲法に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条3項)とある以上、所長の言動は不当なものに違いない。

 ただ井上が、該当の条文の有無だけにこだわったり、自分が結論と信じた結果に適用する条文を書いておしまいとする「子供でもできる簡単な仕事」だったとすれば、そういう仕事ぶりを改めるように指導したり、考課査定を悪くすることはあっても不思議ではない。

 続く記事には「判決文の短さが東京高裁関係者からも指摘されている」とあるから、罷免を求められた所長が個人的な判断で「改善勧告」を行ったのではないと想像される。現にコメントを求められた件の所長、「申し上げることはございません」と答えたともある。とすれば上司の罷免を要求するだけでは井上の戦いは終らないかもしれない。

 井上の陪席を務めたまたは務める地裁の同僚判事さんたち、ひとことでいいから彼にアドバイスしたらいいのに。「所外でのあなたの饒舌をほんの少しだけ発揮しなさいよ、本を書くくらいの時間とおしゃべりの才能があるんだから」、と。ひょっとすると、井上、「本を書けば印税が入るけれど、判決文なんかどんなに書いても一銭も収入は変わらない」と答えるかもしれぬ。呵々。(11/29/2005)

 西村真吾が逮捕された。尖閣諸島への強硬上陸や拉致問題でナショナリストを演出して売っている民主党議員。防衛政務次官になったうれしさのあまりに核武装論議について口を滑らし、辞任に追い込まれた経歴を持つ。本人は自らのホームページの「議員活動報告」に「核兵器に関する議論の必要性を雑誌にて主張。それを契機として防衛政務次官辞任へ」と書いているが、週刊「プレイボーイ」のインタビューに舞い上がって粗雑な「強姦防衛論」をぶっただけの話だった。

 件の対談において、西村は「強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん」と発言している。「罰せられないならヤリ得」、これが彼の世界観かつ生活信条であったとすれば、「弁護士の名義は使い得、スレスレならば罰せられない、オレら弁護士はみんな名義を貸して、上前をはねるなど当たり前やん」と思っていたのだろう。

 先に逮捕された鈴木某は右翼暴力団崩れで交通事故の示談交渉を食い物にしていたとのこと。強面に加えて国会議員で弁護士の肩書きがバックにあれば阿漕な稼ぎもできたことだろう。一部は時効らしいが、立件されそうな分だけでも西村の「不労所得」は800万以上、全体では数千万との報道まである。

 ナゾナゾに「怖くて、臭くて、甘いものな〜んだ」というのがあった。こたえは「鬼が、便所で、饅頭を食っている」というのだが、さしずめこれなどはアブラギッシュな西村のキャラを加味して、「怖くて、臭くて、甘くて、醜いもの」というところ。西村のホームページには著書「憂国」のPRが載っている。こんなゴキブリみたいな奴に「ユーコク」などと言われても「ユーウツ」になるばかりだ。西村の如き連中が跳梁跋扈すればするほどに「身を捨つるほどの祖国」は霧の彼方に霞んでゆく。(11/28/2005)

 先日やっと読み終わった「逝きし世の面影」は、ひとくちにいえば、訪れた欧米人の目に近代化される前のこの国がどのように映ったかをテーマ毎に整理し紹介した本だった。彼らが一様に驚いたのは欧米における下層民とこの国の下層民の違い、そして職業人としての意識の高さだった。

 1863年にスイスからスイスの遣日使節団長として来日したアンベールは、当時の横浜の海岸の住民の例をあげて「根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」と書いている。彼は善意に対する代価を受けとらぬのは当時の庶民の倫理だったらしいとも書いているし、1878年に女性ながら馬で東北地方を縦断したイザベラ・バードはこんな挿話も紹介している。

 その日の旅程を終えて宿に着いたとき、馬の革帯がひとつなくなっていた。「もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ」。新潟県と山形県境の悲惨な山中の村で、「みっともない恰好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている二、三銭を断固として受けとらなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからというのだ。私が無理に金を渡すと、彼女はそれを伊藤(同行の通訳)に返した」。

 もうひとつ引いておこう。

 モースは、一見無造作に見える日本の家屋が、細部では様々な工夫と装飾に富んでいることを『日本人の住まい』の中で強調している。中でも彼がとくに賞美したのは欄間のデザインで、その優美な例のいくつかは図入りで紹介されている。その中には大和五条や肥後八代の旧家の欄間が含まれているが、モースにとって印象深かったのは、それがいずれも「名もなき地方の職人の手になるものだ」ということだった。「遠隔のさまざまな地方の、比較的小さな町や村に、前述のような素晴らしい芸術的香りの高い彫刻のデザインを考え、これを彫るという能力を持った工芸家がいるらしいことは、顕著な事実であると同時に注目に値する事実である」。彼は、母国アメリカでの地方の大工がこんな場合どんな仕事をするかを考えて、怒りにとらわれた。日本ではなぜこのようなことが可能なのだろうか。それは日本の職人が「たんに年季奉公をつとめあげたのではな」く、「仕事を覚えたのであって」、従って「自由な気持で働いている」からだ。日本人は「芸術的意匠とその見事なできばえを賞揚する」ことができる人びとなので、職人たちは「何処の地に身を置こうと自分の仕事振りが求められることを知っているのである」。すなわちモースは、日本におけるよき趣味の庶民レベルでの普及こそ、職人が叩き大工ではない一個の芸術家的意欲を保持しえている根拠とみなしたのである。文明とはまさにこのことにほかならなかった。

 渡辺はこの本の末尾近くにこんな部分をおいているが、その考察は行き届くものにはなっていない。この本に書かれたものを受け継いだ近代日本はじつのところほとんど未消化、未展開のままに、その次のステージに移ろうとしている。一度きちんと明治以降の社会と文化について意識的なまとめをしておかないとこの国は永遠に「・・・のような国」にしかなれないだろう。しかしいまの社会を見ているとそれは絶望的な気がする。

 幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。徳川後期社会は、いわゆる幕藩制の制度的矛盾によって、いずれは政治・経済の領域から崩壊すべく運命づけられていたといわれる。そして何よりも、世界資本主義システムが、最後に残った空白として日本をその一環に組みこもうとしている以上、古き文明がその命数を終えるのは必然だったのだと説かれる。リンダウが言つている。「文明とは、憐れみも情もなく行動する抗し得ない力なのである。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史の中に、いかに多くのページが、血と火の文字で書かれてきたかを数え上げなければならぬかは、ひとの知るところである」。むろんリンダウのいう文明とは、近代産業文明を意味する。オールコックはさながらマルクスのごとく告げる。「西洋から東洋に向う通商は、たとえ商人がそれを望まぬにしても、また政府がそれを阻止したいと望むにしても、革命的な性格をもった力なのである」。

(11/26/2005)

 35年前のこの日の日記はこんな風に書き出されている。

 ルドンという人の石版画集に「聖アントワヌの誘惑」というのがあって、その中の石版画のひとつにこんな題がついている。「死――私がおまえをまじめにしてやる、さあ抱きあおう」と。

 人間にとっては、「生」は「死」を想定したとき、はじめて意味をもちうる。こういう考えの希薄な、刹那主義的人間ほど、「死」に対して非常な恐怖をいだく。こういう人間は、死を賭した行動が死をもって完結すると、行動全体の中で死がどのような位置にあるかを考えることもなく、ただ自らの死の恐怖にひきくらべてこれを評価するため、当然の帰結として、このような死に過剰な価値を認める傾向をもつ。

 この日、「三島由紀夫が楯の会のメンバー4人とともに市谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪れ、面談の後、総監を人質に自衛隊員に対する演説を要求、部屋に入った自衛隊員数人にきりつけ、演説の後割腹自殺をとげた」。日記は続けて当時かなり読み込んでいたフロムを援用して悪性ナルチシズム、ネクロフィリアから、ちょっとした「分析」を試みている。

 日記には影響など受けていないと書いてあるのだが、すぐ翌日の日記は「きれいに晴れるのでも、はげしく降るのでもなく、なんだか間の抜けた朝だった」と書き出していたり、翌月11日に開かれた追悼集会について、とくに北条誠のスピーチを取り上げてこき下ろしていたりして、言行の一致について、相応のショックを受けていたことが読み取れる。

 あれから35年が過ぎた。もし三島が生きていたら、今回の皇室典範改正論についてどのような角度からどのような主張をするだろうか。そして崩れるだけ崩れてしまったこの国の相貌をどのように評するだろうか。死んだ者には特権がある。生き続けていれば、なし崩しに失ったであろうものが、死んだ者には純粋な形で残っていると錯覚される。見る影もないほどに無惨な変容をとげたこの国の「保守主義」は三島という鏡の中でどのような像を結ぶことができるだろうか。そもそも三島の「保守主義」は明治よりも前にまで視線が及んでいたのだろうか。(11/25/2005)

 耐震強度偽装騒ぎはいっこうにおさまる気配がない。この事件にはいくつもの疑問がある。まず何年もの間、おかしいと気付いた者がひとりもいなかったのかということ。強度計算の納品を受けた設計会社の担当、設計検査会社の担当、建設会社の現場監督、そして工事の作業者。それまでの経験からいって鉄筋の量が少ないとか、梁がずいぶんコンパクトだとかという「感じ」、誰かそれに気付きそうなものだ。なるほど最近の技術者のレベルは低下しつつある。しかしまだ現場には「大局観」を持った技術者、作業者がいくらもいるだろう。

 次の疑問は、設計会社、とくに構造計算のみの下請けにとって、強度計算データの捏造にどんなメリットがあったのかということ。一般論でいえば設計報酬は設計金額に比例するはず。つまり設計金額が下がると設計報酬も下がるではないかということ。一定の規模になればある程度の定額となるとして、ならばなおのこと耐震性を犠牲にする設計によって設計者はどんな利益があるのか、これも不思議な話だ。

 きょう国交省が開いた聴聞会で姉歯建築士は「鉄筋の量を減らせと圧力をかけられた」、「できないなら他に頼む」といわれたと証言した由。これが事実だとすれば疑問は解消する。関係者全員が耐震性能が十分である必要などない、とにかく安く建築して売り抜ければよいという意識でいた、つまり施主から設計会社、検査会社、建設会社に至るまで、はなから犯罪を犯すつもりでいたことになるのだから、真っ当な技術者などを思い描いたこちらがバカだったということになる。

 名指しされた三社のうちの一社、熊本の木村建設などは早々ときょう破産申し立てを発表した由。なんとまあ手際のよいことか。ことによると最初からばれたら計画倒産するつもりでいたのだろう。悪質極まりない話。

 もうこの国のシステムはグズグズに崩れているらしい。いま思い出したが、浜岡原発などは地震の専門家から耐震性に疑問を突きつけられているにもかかわらず中部電力は静岡地裁の耐震計算書開示命令を拒んで即時抗告をしている。はるかに影響範囲の大きい原発ですらデータのごまかしを疑われると逃げ回っているくらいなのだから、たかが庶民のマンションや下っ端サラリーマンの利用するビジネスホテルの耐震性など、問題にする方がおかしいというのが実態なのかもしれない。たいした国になったものだ。(11/24/2005)

 金曜日は三島由紀夫の命日になる。ことしは35周年とかで、先日来、ポツポツとその関係の記事を新聞やテレビで見かける。他人様に読んでもらうつもりの日記を書くようになると、どうしてもイヤらしい気持ちが働いてしまう。ネタ探しのような気分でその頃の日記を取り出してパラパラとくってみた。

 面白い抜き書きを見つけた。8月4日と5日、どうやらこの両日はイーデン・フィルポッツの「闇からの声」を読んでいたようだ。

8月4日(火) 曇 30.0℃
 「値打ち通りお金を出す積りならば、フォーダイスさん、何も専門家になる必要はありません。お祈りをしたり、断食をしたりして、知識を身につけるのは、他の人たちの無知をうまく利用するためです。」 Eaden Phillpotts ; A Voice from the Darkより

8月5日(水) 快晴 33.5℃
 「われわれの書く手紙の半分は、そうするのが良いのです。三通のうち二通をポストに入れないで破ってしまうと、その結果は非常に良いのです。」 Eaden Phillpotts ; A Voice from the Darkより

 ともにコメントはない。読書メモのようだ。しかし4日の言葉はきのう書いたことにじつによく似合うし、5日の言葉はいまも心に留めている処世訓のひとつ。お祈りや断食で身につく「知識」とはどんなものかよく分からないが、これが書かれた80年前もいまも「知識」は、バカなミーちゃんハーちゃんをたぶらかす「悪人」のメシのタネだったということだ。(11/23/2005)

 市川にある姉歯という建築士の事務所が依頼された構造計算データを捏造し、それをもとに建設されたマンションとホテルは震度5弱の地震で倒壊の恐れのあるということで大変な騒ぎ。この事件、先週木曜日、成田空港の受変電設備の談合容疑で重電会社が強制捜査、旧空港公団による官製談合のニュースが流れた日に、その公団の親分にあたる国交省から発表された。マスコミと世間の関心は完全にこちらに集まった。強制捜査、談合当事者のうちとしてはおかげさまさま、大感謝だったが、一市民としてはかなり意図的なものを感ずる。旧公団には旧建設省の関係の人々がたくさんいたことだろうから。

 それはそれとして、夏から秋になる頃、この国では「民営化」というお呪いさえ唱えれば、すべてがうまくゆくという訴えにかなりの人々が騙された。たしかに「郵政改革」について騙されたのかどうかはきょう現在、結果は見えていない。しかし「民にできることは民に」というキャッチフレーズが、少なくとも前提条件を付けなければ、かなり危ういことなのだということが、あの選挙で「改革を止めるな」という殺し文句に引っかかった多くのパープリンちゃんたちにも薄々分かったことだろう。

 このおバカなパープリンどもはあわせて「市場原理に任せるのがいちばん」という「市場原理主義」にも幻惑されている。そもそも「市場原理」とは売り手が貨幣を獲得する満足を、買い手が商品を獲得する満足を、互いに最大限に追求することを許容すれば、この世はすべてうまくゆくという「思い込み」で成立する「原理」だ。この「原理」の信奉者たちはこんな主張をする。売り手の欲求と買い手の欲求にすべてを委ねるべきだ。商品の機能・仕様・価格・・・などに公的機関などの第三者的な規制を加えるのは大きな間違い、すべてのことを規制のない民間市場での自由競争に任せるならば、すぐにでも理想社会が実現できる、と。

 しかしこの「原理」が成立するためには条件が必要だ。買い手が神のように聡明であるか、売り手が天使の如く誠実であるか、できるならばふたつの条件、それが望めないものだとしても、どちらかの条件が完璧に満たされなければ、この原理は成立しない。だからこの原理の最初の主張者であったアダム・スミスは「『神』の見えざる手」といったのだ。「『自然』の」とも「『必然』の」ともいわず「『神』の」と書いたことに我々はもっと注意を払わなくてはならない。誰でも知っていることだが、人間は「神」でも「天使」でもない。とすれば、完全な自由競争のもとで市場原理が機能するのは、どのような買い手でも目利きとなれるような素朴な商品の売買を行っている場合か、売り手側の誠実さがたとえば「信用」などで担保されている場合のようなごくごく限られた場合の話。

 「市場原理」、「自由競争」、「規制緩和」、そして「民営化」による「構造改革」。すべて留保条件を付け、チェック&バランスする仕組みを準備した上で進めなくてはならないことを、一方的に従来の「構造」をこわしただけのことを「改革」と呼び、そんな危ういやり方に「改革を止めるな」などと声援している。「コイズミ構造改革」を「改革」と呼ぶ限り、今回の騒ぎのようなことはいろいろな場面で形を変えてどんどん起きるだろう。

 思えばあたりまえの話だ。規制緩和によって騙しやすくしておいて自由なコスト競争をさせるならば、やるべきことをやらないという「コスト削減」で競争を勝ち抜こうとする腹黒いプレイヤーが出てくることは想像に難くない。自分の仕事に誇りを持つことより自分の儲けに誇りを持つこと、これがいまのこの国の風潮ではないか。(11/22/2005)

 8時50分にテクノホールに集合して江口和雄後援会のオルグ活動。

 今回で二回目。たまたま工場地区にロケーションするというだけでこんなくだらないことに狩り出されるのはたまらない。労組として江口の市会議員出馬を機関決定したとかいうが、集められたのはすべて管理職だ。いったいどう話がつながるのだ。当の本人はわけの分からない議員活動とかを理由に挨拶にも来ない。こんな日曜日にいったいどんな議員活動があるというのだ。どうでも挨拶に来ないというなら、親でも殺してみたらどうだ。

 思い出してみれば、前回も江口には頭を下げてもらった記憶がない。少なくとも職務命令ではない。同じ会社のよしみによるボランティアというのがむりやりつけることのできる説明だ。ならば出てきて頭を下げるのが礼儀だろう。こんな無礼な奴の後援会に入って下さいなどいう気には金輪際なれないが、ペアを組まされた作検の部長が好人物。仕方がないので割り当ての28世帯をまわるだけはまわった。不思議なものでまわればそれなりに面白いことも見えてきたり分かったりするものだ。

 割り当てが載っている名簿はなんとも杜撰なもので、アパートの部屋番号など102号室が201号室になっていたりするのは序の口、とっくに亡くなっている人や取り壊し中の都営住宅の住民なんかも平気で載っている。ひょっとすると、江口自身、議会報告などまともにやっていないのではないか。はたして、何軒目かのお宅のおばあさんには「江口さん?、市会議員の?、あの人、このあたりにはちっとも来ないじゃない。なに、やってるんだかも分からないし・・・」と、かなり皮肉っぽい口ぶりでチクリと刺された。あらあら、どうしましょだ。まあ、もし日野市民だったら、江口なんぞには投票しないだろうね。

 そんなこんなでせっかくの好天の日曜日、半日はあっという間に過ぎてしまった。まあそれなりには少し変わったマン・ウォッチングができ、それなりに楽しめたからよしとしよう。(11/20/2005)

 17日というから日付でいえばおととい、国連総会第三委員会(人権関係)で北朝鮮の人権状況に関する非難決議が可決された。きのうの夕刊によれば、骨子は次の三点。

 決議案の提案国はEUを中心に日米となっており、賛成84、反対22、棄権62。中国は反対票を投じ、韓国は棄権した由。

 ヨーロッパ諸国が決議案の提案国となり、決議案に「外国人拉致」の文言が折り込まれたことは北朝鮮にはかなりのショックになっただろう。北朝鮮にとってヨーロッパ諸国との国交関係は彼らの「国際性意識」の拠り所になっていたのだから。

 国内でのヒステリックな活動とアメリカ詣でばかりいまだに北朝鮮的な偏りを拭いきれない「救う会」と「家族会」の人々にとっても目から鱗の刺激になったかもしれぬ。(11/19/2005)

 夜、**(友人)さんを囲む会があることもあって、午後、久しぶりにビッグサイトで開催中のシステムコントロールフェアを覗いてみた。内容的にこれと思うものは何もなかった。下位ネットはおなじみの顔ぶれが並んでいて、嗤えることにほとんどすべてのシステムメーカーはどれでも対応できるといっている。ということは未だにデファクトの位置を獲得したものがないということ。つまりメーカの思い入れはあるもののあまり普及していないというのが実情なのだろう。

 コンタクトした説明員でいちばんいきがよかったのは三菱重工の説明員だった。コンポーネントメーカーの説明員は個別の商品の仕様に関しては当然のことながら的確に答えられる。だがシステム運用だとか制御動作についての実プラント的な質問になるとじつにいい加減な話しかできない。センサやアクチュエータの特性とからめた質問をするともう手も足も出ない。伝送速度、演算速度、・・・、それらの仕様値の意味するものについて自分の頭で納得がゆくまで考えたことがないのではないかという印象。非常に狭い範囲の専門家でよいとする時代になっているといえばそうなのかもしれない。しかし「大局観」を持たない技術者は技術者とは呼べない。(11/18/2005)

 特定の誰かとの親しさを強調することによって、別の誰かに対してお前なんか眼中にないのだと間接的にアピールしたり、オレは大物なんだと誇示するやり方は、だいたいは場末の飲み屋にいる小娘の手管か、安っぽい人物が使う常套手段だ。

 日米首脳会談後の共同記者会見で小泉首相は「日米関係が良ければ良いほど、中国、韓国、アジア諸国をはじめ世界各国と良好な関係を築ける」と語ったという。語られた言葉より語られなかった言葉が雄弁に真実を語る場合のある外交において、記者会見の場とはいえ、いいわけがましいニュアンスで自己弁護を語ることが賢明であるのかどうかはあえて問わない。書くまでもないことだろう。わが宰相が小娘並みかつ世間によくいる下衆そのものだとは、なんとまあ情けないことか。

 しかもその「特定の誰か」が瞠目されるほどの人物ならばまだしも、件の下衆同様のエイプ・ブッシュというのでは屁の突っ張りにもならぬ。類友とはよくいったものだ。そういえばサンケイ新聞などはかつてからクリントン−民主党は中国に甘いから頼りにならぬ、ブッシュ−共和党は中国に厳しいから頼れるなどと、醜女の妬心のごとき心理を曝露して嗤わせてきた。この国の似非保守人士はよくよく自恃の気概を持てず、旦那頼りの妾根性にそまっているものらしい。(11/16/2005)

 物陰から人を撃つような話。朝刊の第三社会面の隅に載った記事を読んで、そんな印象を持った。(朱記下線部はインターネット版記事に書かれている部分、宅配の第13版には書かれていない)

 政党ビラを配るためにマンションに立ち入ったとして住居侵入罪に問われた男性(58)に対する公判が14日、東京地裁であった。男性をとりおさえて警察に引き渡したマンション住民が出廷し、「無許可でマンションに立ち入るのは住居侵入罪。法律を適用して罰してほしい」と訴えた。
 住民の証言によると、マンションの廊下で各戸に政党ビラを入れていた男性に「速やかに出て行きなさい」と注意したが、「正当な政治活動です」と言って出ていかないので、私人として現行犯逮捕し、警察に通報したという。その理由として住民は「治安が悪くなり、ピッキングなどの不安もある。敷地や建物に住民の許可なく入ってはいけない」と述べた。
 尋問は住民と傍聴席をついたてで遮って行われ、住民の氏名、職業も明らかにされなかった。弁護側は「公開の原則に反する」と抗議したが、住民は「私を知ってほしいという気持ちはないし、治安が悪化したので何が起きるか予知できない」とし、裁判所はついたての使用を認めた。

 いくつもの疑問が浮かぶ。この「住民」が法廷で氏名と面体を明らかにしたくない事情とはなんなのだろうかということ。マンションの廊下をうろつく者を怪しんで警察に通報することはあるだろうが、警察が来る前にその怪しい人物を「私人として現行犯逮捕」するというのはふつうの人は思いつかないだろう。この「住民」は特殊な職業に就いているのではないかと想像させる。特殊な職業で氏名と面体を公の裁判でも曝したくない、そして裁判所もそれを認める、そういう職業とはどんな職業なのだろうか。

 しかし、なにより、このような証言方法を裁判所が認めるということはゾッとするようなことのはずだが、誰もこれを怪しもうとしない。こんなことが認められることはこの国がずいぶん恐ろしい国になろうとしている徴候であるのに。

§

 紀宮、結婚。披露宴会場の映像に見る今上の顔は花嫁の父そのもの。大いに親近感を覚えた。記憶によるとオスタちゃんという愛称まであった清宮の結婚式に先帝は欠席したはず、頭が固かったのだろう。(11/15/2005)

 旅行前、大島での星空観測を期待して、野尻抱影を本棚から取り出してきた。その野尻がきょうの「時の墓碑銘」。まだ少し早い気がするが、オリオンが主題。「三つ星よ、シリウスよ、讃えられてあれ!」。「新星座巡礼」にある言葉らしい。手もとの「星三百六十五夜」にはこんな「オリオン」が書かれている。

オリオンが来た                           12月9日
吉田一穂
オリオンが来た! ああ壮麗な夜天の祝祭
鴨は谿の星明りに水浴し、遠く雪嵐が吠えてゐる……

波荒いロフォデン沖あたり、鯨を探す檣の上から
未来に渇ゑた鋭い天狼星に指ふれてゐる者があるであらうか

(夜毎そなたの指先に描かれて美しき一連の真珠昴も今は妹の眠りに、その白銀の夢を鏤めてゐるであらう)

落葉松林の罠に何か獲物が陥ちたであらう
弟よ晨雪の上に、新しい獣の足跡を捜しに行かう。
 吉田一穂君は詩壇の大家だが、大正時代に私が『星座めぐり』という当時では豪華本を出した時、  まだ若かった君は、この詩を寄せてくれた。読者の中にはこれを愛誦して今も記憶している人は少くない。私もその一人である。

 誰だったか忘れたが「最初に北原白秋、そして西脇順三郎、最後に吉田一穂」と指を折ったというあの吉田一穂だ。(11/14/2005)

 いつもの旅行、ことしは大島。日程は設計二課の時代の職場旅行と同じ。あしたの夜、竹芝を出て土曜の早朝、大島岡田港着。ホテルで一休みしてから三原登山。雨の場合の予定は未定。いまのところ曇ベースとはいうものの降水確率は高い。夜、晴れることを祈っている、宵の明星に火星、星降る夜を期待して。

 ・・・などと書くうちに野尻抱影の「星三百六十五夜」を思い出して、パラパラとページをめくってみる。残念ながら今夜の記事ではないが、一読、忘れがたい11月9日分を書き写しておく。

 星の名で最も荘重で美しいのはオリオンだが、英語のオライオンは、いっそうこれを強調する。これに次ぐのはアンドロメダで、"Andromeda"の綴りに反復されている母音にアクセントをつけて言うと、いかにも大らかで、また甘美である。
 私は学生の昔、上田敏氏の「よひやみ」という美文で、初めてこの星座の名を見いだした。
 大路に出て、霜枯れのそらあふげば、数知らぬ天軍の西へ西へとねりうつるもかうがうしく、南のかしに川添のこやごやは、むすぼほれゆく夜船のともしびにてりそひて、高きにはあんどろめだの光静なり。
 この優艶な文章の中に平仮名ではめこまれた「あんどろめだ」がどれほど若い私を悩殺したことだろう。また、星の西名を織りこんだ文学としても、これは最初に見たものだった。そして、この神話の王女の名は、後に『即興詩人』の美姫アンヌンチャタの名と結びついて、永い間いつも一から他を連想していたものである。

 文語文とはなんと豊かなものか。一葉が美妙をこき下ろした理由も分からぬではない。(11/10/2005)

 道路特定財源の一般財源化を首相が指示したとか。高度成長時の特例措置のほとんどが死に絶えたことを考えれば当然のこと。自動車業界などは「道路整備という目的制約がなくなるのなら、本来の税率を特例措置として高くしている暫定税率を元に戻すべきだ」と主張している由。それはそうだろうと誰でも思う。ところが政府税調の石会長、「税率は戻さない方向で論議を進める」と宣言した。

 可笑しいのは石会長、世間の関心を集めている定率減税の廃止について「景気は昨年よりいっそう改善したのだから、景気に対する特例措置だった定率減税を廃止するのは当然」と言っていたこと。

 一方は「特例だったが税率は元に戻さない」、そしてもう一方は「特例だったから税率は元に戻す」。いったいどういう頭の構造になっているのだろう。この石という男、第三のビールに対する税率論議の時も面白い屁理屈を言っていた。石よ、もっと正直に分かりやすい言葉で語れ。「特例で高くしてあるのだから高値に凍結する」、「特例で安くしてあるのだから高値に戻す」と。要は「税金は可能な限り高くするに決まっている」とそういう話ではないか。(11/9/2005)

 フジモリがチリで拘束された。ちょっと前から来年のペルーの大統領選に出馬予定という報道があって、任期の途中、外遊先で大統領職を放擲するような卑怯者がどの面下げて大統領選に再出馬できるものかとあきれていた。地球の裏側からの立候補では迫力がないからとりあえずお隣の国で待機しようという作戦らしい。

 汚職だけではなく殺人教唆など20件を越える犯罪容疑が仮に現政権のかぶせたぬれぎぬだとしても、任期中に正式の手続きをせずに外遊先で辞職を強硬した件でペルー国会から10年の公職追放決議を受けていることは弁明のしようもあるまい。だいたい二重国籍者が大統領職につくこと自体がおかしい。

 不思議なのは日本政府だ。まず面体が明らかになっているフジモリほどの有名人をチェックできないほどに入管当局はザルなのか。そうは思えない。ではインターポールから国際手配を受けている人物の出国を認めた根拠はなんだろう。犯罪容疑者の入出国についてこの国の当局は常にかくも寛大なのだろうか。本来は拘束の上、手配国に引き渡すべき犯罪容疑者の出国を認め、相手国への通告を怠ることに合法的な根拠があるのなら知りたいものだ。もしそういう根拠がないとしたらフジモリの出国を審査した係官には何らかの処分があって然るべきだろう。

 ところでペルーの法律では公職追放中の身分であっても大統領選に立候補できるのだろうか。また他国の国籍を有する者が権力機構のトップに立つことを許容しているのだろうか。(11/8/2005)

 土・日と**(家内)がアルバイトのため新座のリフォーム準備はきょう。

 台所にある食器・鍋・釜、料理道具を北の六畳に待避。とにかく物が多い。雑多な小物だけではなく、こぎれいな箱や缶は絶対に捨てないポリシーらしく、カラの入れ物の類まである。買い置きの物、いただき物はほとんどがデッドストック。マジックで日付が書いてあるのだが、なんと大半が前世紀のもの。日付を書いてしまい込んだら最後でそのままになってしまったのだろう。麺類は粉に戻っているし、缶詰も錆を吹いている。この半分でもうちに回してくれたら、ずいぶん家計の助けになったのに、などと**(家内)と笑いあう。まめに通えばよかったのかもしれない。

 夕方まで頑張り、捨てるものを捨てればどうにか工事に着手できそうなところまで整理したが、二人とも疲労困憊。もう何をする気にもならなくなって帰ってきた。(11/7/2005)

 遠近両用メガネを使い始めて一週間になる。便利この上ない。**(父)さんを恨みたい。

 **(父)さんはほんとうに新しいものが好きだった。けっして豊かとは言えなかった頃から、出始めのものをずいぶんいろいろと買っていた。真空管式携帯ラジオ、電気剃刀、自動巻腕時計、カートリッジ式万年筆、・・・。不幸なことにほとんどのものが「失敗」だった。辛辣なテスターでもあった。それくらいならば買う前にちょっと考えればいいのに。

 真空管式携帯ラジオ、「重い」、あたりまえだ。真空管式だから二種類の電池を必要とする。A電池と呼ぶ、球のヒーター電源は積層形で羊羹ほどの大きさ、重さもずっしりと手応えがあった。電気剃刀、「ヒリヒリする」、結局すぐにもとの安全剃刀に戻った。その剃刀の刃を研ぐために買ったのが「ハヤト」だった。後にそのメーカーに就職することになるとは想像もしなかった。自動巻腕時計、「重いから肩が凝る」、中学入学の祝いはその腕時計だった。自分はちゃっかり新しい薄型の時計を新調した。この件は恨んでいない。その自動巻腕時計はお気に入りで中学・高校・大学と使い続け、会社勤めの何年目かにクォーツタイプのものが出て買い換えるまで十年以上も愛用した。いくつもの受験をともにくぐり抜けた戦友でもあった。

 遠近両用メガネに対するご託宣は、「ダメだ、目つきが悪くなる」だった。遠いところは上目遣い、近いところは下目遣い、権柄尽くのものが大嫌いだったから上目遣いする自分はどんなときも許せなかったのだろう。一方、こちらは素直なよい子だった。**(父)さんのアドバイスにはほとんど従った。ちょっと考えてみれば、ネクタイの結び方も靴ひもの通し方も教わったままで三十数年変えていない。そう、靴底の減り方だって同じだ。整髪料も「スコア」でないと気が済まない、最近置いている店がほとんどなくなり難渋している。

 しかしメガネだけは失敗した。読書用と運転用を常に持つ不便、まさに「失われた十年」だ。少し**(父)さんのアドバイスを見直ししてみよう。もっとも淵源が**(父)さんにあるものを意識することが難しい、空気になっているようだから。(11/6/2005)

 きのうだったか、おとといだったか、中国産と韓国産の双方のキムチから寄生虫の卵が発見されたというニュースがあり、前後してアメリカ産牛の輸入再開についてアメリカの農務長官が生後30ヵ月の牛まで範囲を広げろといってきたというニュースが入った。

 前者のニュースは中国や韓国嫌いのプチナショ・ブロガーが喜びそうなネタだと思ったら、はたしていくつかのサイトに「いまだに人糞を肥料にしている遅れた農業」という欣快にたえぬ風の記事を見つけた。

 中に「寄生虫は危険。BSEや鳥インフルエンザ並みの報道をすべきです」と書いているものがあった。キムチ報道がどの程度のものであれば「BSEや鳥インフルエンザ並みの報道」として満足できたのかは分からないが、寄生虫とBSE(正確を期すならば異常プリオンというべきだが)を同列に書いているところが可笑しくてプロフィールを見てみた。78年生まれというからマッチ箱にうんこの切れ端を入れて学校までぶら下げていった経験とか、寝入りばなに起こされて肛門に検査ペーパーを押しつけられた経験などない年代なのだろう。

 なにも知らずに素朴に寄生虫は危険だとか衛生管理がなっていないなどと書いて鬼の首でも取ったようなつもりになっているさまを見ていると、「人間はさ〜、何万年も前から寄生虫と同居してきたんだよ」とか、「日本人の寄生虫感染率が低下したのに伴って、アレルギーの発症率が上がったって知ってるかい」とか、病的清潔症にとらわれたひ弱な若者の近視眼的批判精神を笑い飛ばしたくなった。

 たしかに寄生虫もピンキリで日本住血吸虫などはかなり凶悪で危険だった。しかし彼らには「異常プリオンは『不自然』の中から生まれたものだ」とか、「したがって人間の身体には対抗するしかけがない」とかということも分かっていないのかしらね。瞬時、「寄生虫より狂牛病の方が危険」だとコメントを書こうかと思った。しかし思い直した。彼らの頭脳が既に中国と韓国をこき下ろせたらそれだけで幸せという程度にトロトロになっているとしたら、狂牛病などべつに恐れるに足らぬではないか、と。(11/5/2005)

 朝刊に、寛仁親王(一般には三笠宮といっているが彼は宮家を継いでいるわけではない)が女系天皇を容認について異論を述べた一文を福祉団体の機関誌に寄せていたという記事が載っている。

 憲法上、天皇や皇族は政治的発言ができないとして、「身内の小冊子でのプライベートなひとり言」と断りながらも「世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と問いかけている。
 「近況雑感」と題された随筆は「皇統が貴重な理由は、神話の時代から連綿として一度の例外も無く、『男系』で今上陛下迄続いているという厳然たる事実」と指摘。さらに「古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるが故に、現在でも大多数の人々は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として、敬って下さっている」と述べたうえで、皇位継承の男系主義を崩すと「いつの日か、『天皇』はいらないという議論に迄発展する」と危機感をにじませている。

 政治的な発言に対する制限の件はおいておくとして、なにより、寛仁親王はこの問題に関しては利害の当事者であるということが問題になる。彼が一般人であるなら、利害の当事者であっても、いや、利害の当事者であればこそ発言の権利があるということになろうが、皇籍にある以上自らの身分に直接あるいは間接的に影響するような意見を発表するのは卑しい行為だ。どうしても発言したいというならば、かつて彼自身が口にしたように皇籍を離脱した上でなすべきだ。(もっとも皇籍を離脱したとしても一部になされている議論に従えば彼は否応なく皇位継承権に関わる可能性があるわけだが)

 長く続いてきたものを思慮なしに変えてしまうことに対する危惧には同感するが、問題の所在はたとえば天皇の祭祀との関係で発生することがらなどであって、「『神話』の時代から続いている『事実』」などというのは既に形容矛盾だし、「万世一系」などというものはもともと存在しない作り事(お父上の三笠宮崇仁殿下に尋ねてみられるがよい)で、そんなものが女系天皇容認論の反論になるわけではない。

 それとも厳密な議論を必要としているこの際に枝葉末節の架空の絵空事を持ち出しておいて、愚かな国民の「常識」に「万世一系」を刷り込んでおこうというつもりなのか。そんなことはサンケイ文化人のようなクズ人士のすることで貴族がすべきことではない。それとも半端な宮様には既に貴族意識が希薄になってしまったのか、呵々。(11/4/2005)

 月曜の朝、新秋津の駅近くで愕然とした。ズボンを間違えていた。日曜日に川越に行くとき背広のズボンのベルトを使って戻すのを忘れていた。意識せずにベルトの付いたズボンをはいてしまったせいだ。上着がグレー系統だったからさほど目立たない(だから気がつかなかったとも言えるが)のでそのまま会社に向った。これではネクタイを取替えに行って就寝したヒルベルト並みだと苦笑した。大数学者ならば洒落になるが、こちらはただのボケ爺さん。

 電車に乗ってから考えた。最近、物忘れも激しい。物忘れというよりは気なしにすることにまったく意識がない。どこかに仮置きしたのをすぐに忘れて探し回る。あまり気にとめずにいたが、ズボンの違いにさえ気付かないとなると尋常ではないような気がしてきた。**(父)さんより早くアルツハイマーか・・・、嫌だ、あれは嫌だ、とたんに不安が墨を流したように心の中に広がった。いや、いや、さっきヒルベルトのエピソードを思い出したではないか。大丈夫だ、ああいうことを憶えているのだから、ボケたわけではない。そのときはそう思って心の不安をなだめた。

 さっき**(母)さんの所に行った。ズボンの話もした。「・・・大丈夫よ、**(友人)君にでも訊いてみたら?、同じようなこと、みんなあるから・・・」。そして、ややあってから、「・・・すぐ前のことを忘れるのよね、むかーしのことは憶えているのに・・・」。

 ホント、女という動物は、と思った。**(家内)も、あの日、「・・・大丈夫よ」と言ってすぐに、「**(上司)さんのお母さんのお葬儀の時も上は喪服で、下、違うズボンはいてったじゃない、初めてのことじゃないもの」。こっちはとっくにそんなことがあったことを忘れていたのに。そういう言い方ではちっとも「大丈夫だ」ということになってないことに気付かないらしい。

 病院から新座に向って本棚から「物理の散歩道」を取り出してパラパラと眺めてみた。あった、ヒルベルトのエピソード。よし、まだ大丈夫と思ったとたんに**(母)さんの言葉が浮かんだ。・・・むかーしのことははっきり思い出すのよねぇ・・・。(11/3/2005)

 ここ半月ほど、「逝きし世の面影」を読んでいる。ちょっと読むごとにいろいろのことを夢想したりするのでなかなかはかがゆかない。さまざまのことに驚かせてもらっている。指折り数えて楽しみにしている定年の日が来たらやりたいと思っていた調べ物の範囲は、うっかりこんな本を知ってしまったばかりに一気にとんでもなく広いものになってしまった。

 たとえば、こんな箇所を眼にしてしまえば、もういままでのありきたりな資料をこの眼で再確認することだけではすみそうもない。

 チェンバレンもこれとそっくりのことを書いている。「現著者はこの国民と三〇年以上も個人的に交際し、日本人の礼儀は心底から生ずる礼儀であり、単に挨拶をして頭を下げたり微笑したりするものよりは深いものであつて、日本人の真の親切心に根ざすものであることを確信するに至った」と前置きしつつ、それでもこの礼儀正しい国民が西洋の規準に照らせば、礼法に背くことをすると彼は言う。「もっとも基本的で全般的な礼法違反は、召使やその他の下級者が目上の者に対する態度に表われている。・・・・・・諸君は料理人に羊肉を買いなさいと命ずる。彼はすぐに出かけて、牛肉を買ってくる。彼は牛肉のほうが安価であることを知っており、あなたの出費を少なくしようと考えているのである。事実、不服従が慣習になっている。それはわざと悪意をもってする不服従ではない。主人がやるよりも自分のほうがもっと良く主人のためにやれるのだという、下級者の側の根深い信念に基くものである」。なるほどこれなら、殿様が家臣団から祀りあげられたり、ときによっては押込められたりもするはずだ。昭和前期の軍部の暴走を主導した佐官級幹部の「下剋上」現象も、その淵源するところは深いといわねばならない。

「第7章 自由と身分」から

 たとえば、天皇制の特殊性を説いた資料はたんとあるが、それを支えた側の特殊性を指摘したものはあまり記憶にない。それはウルトラ復古主義者さえ、この本で繰り返し批判されている「従来の日本の知識人」と変わりのない視点でしか対象を見ていなかったことを曝露している。(11/2/2005)

 92年第二次宮沢内閣の法務大臣に就任したとき、後藤田正晴は「厳然と死刑という制度が存在し、それを国民も認めている段階で法秩序を守るために適正な法的手続きをとるのは、三権分立からいっても当然なことである。これまでの法務大臣が捺さなかったというのにはさまざまな理由があろうが、逆にこういう手続きをとれないというのなら、初めから法務大臣を引き受けるべきではない」と言って、前任者が拒んだ死刑執行命令書を処理した。死刑制度は廃止すべきものであるが、制度としてある限りは後藤田の判断はまったく正しい。

 きのう、新しく法相に就任した杉浦正健、記者会見での「死刑執行命令書にサインしない」という発言を未明になって「発言は個人としての心情を吐露したもので、法相の職務の執行について述べたものではない」と撤回した由。きょうの閣議後、小泉首相が杉浦法相に発言に注意するように指示し、閣僚懇談会ではオフレコ発言も禁止という沙汰があったと報ぜられている。

 杉浦の「非常識」は嗤うべきものに違いない。しかし小泉内閣の暗黙の申し合わせ事項は、「公職者に求められる制約」があっても、そんなものは無視して「個人としての心情・信念」を優先させるということではなかったのか。あくまで個人の心情・信念を大切にするからこそ、憲法上の制約があっても、またどのように国益を損なっても、小泉首相は靖国参拝を強行してきたのではなかったのか。それとも心情・信念を行動に直結させる特権は首相だけが持つというのが内閣のもうひとつの「オキテ」なのだろうか。

 死刑執行命令書に署名した後藤田は一方で中曽根の靖国参拝をやめさせた。論理は同様、例によって明解だ。A級戦犯が合祀されている状況下での公式参拝は対外的には戦後処理の起点となっているサンフランシスコ講和体制の否定につながるからだ。個人的心情がどうであれ、日本の国際社会への復帰の歴史的な前提条件を認めることができないというなら、初めから国の公職を引き受けるべきではないのだ。

 とするならば、そこを最初からチャラにしたような総理大臣に、同様の発言をした法務大臣を咎める資格があるか。杉浦の「非常識」を嗤うなら、まず小泉の「非常識」を嗤うことが先だ。(11/1/2005)

 小泉が総裁任期切れの来年9月にやめるのかどうかについて、かなり懐疑的だったがきょうの組閣・党人事を見て本気でやめるつもりなのだと納得した。もはや「サプライズ」を考える稚気はなくなったらしい。コイズミはクールダウンモードにある。

 北朝鮮対応のことなどを見る限り、どちらかというと無能といった方がよい安倍晋三をいったいどんな形で入閣させるものか、興味津々だった。官房長官というのはよく考えたものだ。メジャーリーグ並みに実力の低下している最近のマスコミとなら安倍でもいいコンビを組めるだろう。なにより自民党に大勝させたようなバカな国民たちとも。

 ムチムラが外されたことを喜びたい。世界中から大使を集めるという「鹿鳴館」をやりながら常任理事国議案の上程すらできなかったのだから世が世なら腹をかっさばいてもらいたいところ。その外務大臣にキム・テラン(金太郎)。皮肉屋を気取りながらも根は人のいい「ちょいバカ」の麻生はヘラヘラ笑っていた。もし次期総理に野心があるならここは怒らなければいけなかったところ。この一事で麻生は三流とわれてしまったようだ。

 ・・・などなど考えてくると、重要なのは、陽画(ポジ)ではなく陰画(ネガ)、というより、写っているゾンビたちではなく写っていないものということになる。その代表格はさしずめ福田康夫だ。福田が断ったのか、小泉が嫌ったのか。前者だとすれば福田は賢明な人物ということになるし、後者だとすれば小泉の心に福田に対するコンプレックスがあるということだろう。さあ、どちらだろう。(10/31/2005)

 日本シリーズ、やはり最低でもきょうぐらいまではやっていて欲しかった。ワールドシリーズもホワイトソックスの4連勝であっけなく終ってしまったとなると、どうしてもそう思う。もっともアストローズはタイガースよりはずっといい試合をみせてくれたけれど。

 ホワイトソックスの優勝は88年ぶりというから前回優勝は1917年。1919年、ブラックソックス事件を起こして優勝を逃してからは、1959年までシリーズに進むこともなかったというから劇的。彼我の対比でいえば、マリンズのバレンタイン監督は日本シリーズ史上初めての外国人監督であり、ホワイトソックスのギーエン監督もワールドシリーズ史上初の外国人監督である由。

 日本人初の「リング」獲得選手は、野茂でも、松井でも、イチローでもなく、井口だった。しかも井口はことし一年目。運が強いのだろう。(10/29/2005)

 終日、機械振興会館地下二階ホールでシステム監査学会シンポジウム。テーマは「情報社会の脆弱性とリスク対策について」。基調講演は日本版SOX法の概要とITリスク。SOX法というのはサーベンス・オクスリー(Sarbanes-Oxley)法、邦訳名は「米国企業改革法」、例のエンロンワールドコムなどの企業不祥事後に対策として制定されたもの。内容は経理を中心とするビジネスプロセスのすべてを文書化し、エビデンスにしたがった監査による網をかけ、それで「安心」を得ようとするいかにも「不正と不信の国アメリカ」らしいもの。

 いったんこういう流れになると、この国はすぐに「日本版***」を作りたがる。エンロンのような壮大な詐欺行為がいかなる精神風土のもとで発生したのかなど頓着せずに形を真似てより精緻化した法律ができるに違いない。

 直感的予言。SOX法の存在とは無関係にアメリカでは法網をかいくぐった企業不祥事が発生するだろう。この国ではまずSOX法の求めをクリアしただけの仕組みが各社で構築されるだろうが、在来型の不祥事は起き続け、エンロン級の不祥事はゼロであり続けるに違いない。それはSOX法の成果なのではなく単に「これまで起きていたレベルのことは起き続け」、「これまで起きなかったレベルのことは起きない」と、ただそれだけのこと。それはちょうどISO9000がほとんどの企業においては品質の確保のためにほとんど機能していないのに似ている。あの三菱自動車だって品質ISOの認証を取得し定期審査をクリアしていたのだ、嗤えることに。(10/28/2005)

 夕刊に「『靖国』懸念 大使に書簡 米下院外交委員長」の見出し。こんな内容。

 加藤良三駐米大使は26日の定例記者会見で、小泉首相の靖国神社参拝がアジアに及ぼす影響について懸念を示す書簡を米共和党のヘンリー・ハイド下院外交委員長(81)から受け取っていた、と明らかにした。大使が靖国神社参拝問題に関連してこうした書簡を受け取るのは初めてだという。
 加藤大使によると、書簡の趣旨は「アジアにおいても諸国間の対話が前進することがどの国にとっても大事であり、どの国の国益にも合致する。(靖国神社参拝で)そういう対話が疎外されるとしたら残念だ」というもの。「(靖国神社参拝への)抗議という性格のものではなかった」という。
 関係者によると、書簡は小泉首相が17日に靖国神社に参拝した直後の20日付だったという。
 ハイド委員長はイリノイ州出身で、当選16回のベテラン議員。1944年から米海軍に従軍してフィリピン海戦などに参戦した経験がある。

(下線部は宅配夕刊3版にはなく、朝日のサイト記事に書かれている)

 Google Newsで検索をかけてみて面白いことが分かった。同様のニュースが「東亜日報」の24日3時3分に載っている。こんな記事だ。

 北朝鮮核問題や韓米同盟に対して、厳しい内容のメッセージを投じる「書簡外交」をしてきたヘンリー・ハイド米下院国際関係委員長が、今回は日本の小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判する手紙を書いた。
 ハイド委員長は、加藤良三駐米日本大使宛てに送った20日付の書簡で、「靖国神社は、第2次世界大戦の主要戦犯たちが合祀された所だ」として、「日本政府関係者の繰り返される神社参拝は遺憾だ」と述べた。そして、靖国神社を「(戦犯合祀のため)第2次大戦の未解決な歴史の象徴であり、太平洋戦争を生んだ軍国主義性向の象徴になった」と規定した。神社には、A級戦犯14人と、B・C級戦犯約1000人の位牌が保管されている。
 委員長の書簡は今年7月、米下院が全体会議で全会一致で採択した「対日本勝利60周年」決議文に続き、日本政府の歴史忘却行為を指摘する2番目の努力と見られる。
 米政府はこれまで、議会と違って、同盟国である韓日間の歴史問題に中立的な態度を堅持してきた。トーマス・シーファ駐日米国大使が20日、日本の新聞とのインタビューで、「(神社参拝は)韓国、中国に大きな憂慮になっている」と慎重に言及したのが、異例に思われるほどだ。
 ハイド委員長は今回の書簡で、ダグラス・マッカーサー将軍の名のもと、東条英機元首相を戦犯として有罪判決した「東京戦犯裁判」の正当性を強調した。「(ドイツ)ニュールンベルク戦犯裁判と同様に、東京戦犯裁判も『勝者だけの正義』ではなかった」と言及したのだ。ここには、戦犯裁判は戦争勝者の論理であり、承服できないとする日本の一部右翼グループの主張に反論する一方で、ニュールンベルク判決に承服したドイツの成熟した態度と比較しようとする意図もうかがえる。
 イリノイ州出身で当選16回のハイド委員長は、第2次大戦当時の1944〜45年、マッカーサー将軍の指揮のもと、フィリピン海戦に参戦したことがある。

 ハイド委員長は駐米日本大使に宛てた書簡の内容を韓国メディアにリークしたのだろう。外務省の驚きは想像に難くない。通常は表に出るはずのないものが洩らされたのだから。加藤大使の定例記者会見での「自白」はある種の「毒消し」をねらったものに違いない。ここで誰しも想像すること。この類の「忠告」が初めてのものではなく既に以前にもなされており、その効果が芳しくなかったために今回は意図的に第三国にリークするという「マナー違反」の挙に出たのではないかということ。もしそうなら、コイズミもやるもんだねぇというか、頭のネジが何本か抜けているというか、まさにビミョー。

 しかし夜のニュースは韓国の潘基文外交通商相が町村外相に遺憾の意を伝えたことばかりに集中している。あいかわらず問題にしているのは中国と韓国だけ。センスが悪いのか、骨抜きなのか、こちらもコイズミ同様の体。(10/27/2005)

 日本シリーズはあっけなく終ってしまった。マリンズが4戦全勝で優勝した。密度の濃い対戦だったのなら許せる。しかしいくらなんでもひどすぎた。

 タイガースはセリーグの5球団に詫びを入れなくてはならないだろう。第一戦が濃霧コールドとはいえ1−10、第二戦が0−10、第三戦が1−10、なんとまあ三試合連続で二桁得点を与え、自分の方は2得点、三試合を合計してたったの2点だ。第四戦にしてようやっと一試合で2点入れてみせたが3点入れられてシリーズは終ってしまった。

 これで三年連続で日本シリーズはパリーグの覇者が制することになった。去年もいわれたことだが、プレイオフ制でシーズンの最後、緊張感を十分に高めてシリーズに臨む有利さはあるのかもしれない。(直接には無関係だが、面白いデータ。プレイオフ第二ステージは5試合とも先制したチームが負け、シリーズは逆に4試合とも先制したチームがそのまま勝った)

 セリーグも同じ制度を採用するか、これに代わる対策を検討する必要が出てきたことたしか。(10/26/2005)

 戦前台湾と韓国に設置されていたハンセン病療養所入所者の補償要求に対する判決が出た。同じ東京地裁で台湾の入所者の請求は認められ、韓国の入所者の請求は退けられた。

 訴えの内容は双方とも同じ。しかし台湾入所者の訴えを審理した菅野博之裁判長は国内入所者に対する補償法の精神に立てば補償は当然としたのに対し、韓国入所者の訴えを審理した鶴岡稔彦裁判長は補償法に「外地施設」について明文規定がないことと国会審議において論議がなされなかったことを理由に補償要求を退けた。

 たしかに司法府は立法府の定めた法律に照らして判断するべきで法律の条文を外挿することは慎むべきだという考え方があることは分かる。また「殺された天一坊」()などを思い出せば「大岡裁き」の危険性も分からないではない。しかし鶴岡の判断はなにやら先日の井上薫に似ていて、まるで申請書類のわずかな間違いを指摘して、つっかえし、そのくせ笑いながら世間話を同僚と交わしているかつての役場の受付のような感じがする。

 それにしてもこれら「外地療養所」を形容する言い回しを考えると軽い眩暈を覚える。「台湾にあった国立療養所」、この療養所はいまもあるから「台湾にある国立療養所」だろうか、いやいまは「国立」ではあるまい。「韓国にあった国立療養所」、こちらはもっとややこしい、いまもあるというだけではなく国立療養所だった頃には「韓国」という呼称はなかったはず、では「朝鮮にあった国立療養所」か、いやいや国立ではないし、現在形で「朝鮮にある」というと誤解を招きそうだ。

 この眩暈の原因はかつては日本国内として扱った地域のなかにいまは外国である地域があるということ、そしてかつては「国民」として扱いながら(その頃は「皇民」と呼んでいたようだ)、いまは「外国人」だとして認めたくない人々がいるということにある。彼らはかつて「皇民」であったときには、姓名を日本名にし、日本語を使用し、神社参拝を強要された。早く立派な日本国の「皇民」になれ、そう言われたのではなかったのか。ところがそういう「皇民」が「権利」を主張すると「お前たちは日本人ではない」と言い、腹の底では「お前たちには近代化の恩恵を施してやったのだから感謝しろ」くらいに思っている。なるほど「ゴーマニズム」とはよく名づけたものだ。

 思えば小泉人気は「内地療養所」に入っていた入所者の訴えに対する熊本地裁判決を受け入れ控訴しないという「政治決断」で一気に火がついたのだった。いつも眉に唾をつけるようなオレでさえ、あの時はひとしきり感動したものだった。今回の判決にどのように対処するか、コイズミ・ポピュリズムのセンスとメッキ厚が試される。どの程度のものか楽しみにウォッチさせていただこう。(10/25/2005)

注)「殺された天一坊」、浜尾四郎の短編小説。ここで読めます。

 きょうの「時の墓碑銘」はカレル・チャペック。

無駄のなかに無限の豊かさがある

 チャペックというと、「R.U.R.」、ロボットの語源となった有名な作品だ。SFマガジンだったような記憶があるが少しばかり自信がない。(SFマガジン、50号から100号近くまでそろっていたのに、池園町から下井草に移るときに捨てられてしまった。捨てろと言ったのは**(父)さんで、捨てたのは**(弟)だ。名古屋に戻らず、引っ越しに立会わなかったため。恨めしい。化けて出てやりたい)

 チャペックのあくせくしない生き方にひかれる。
 アメリカ的価値「スピード・成功・量」を批判した。「ヨーロッパは何千年も時間を無駄にしました。そこにヨーロッパの無限の豊かさと生産性があります」「人生の完全な評価のためには、一定の怠慢が必要なのです」。そしてひたすら「成功」をめざすことが「いかにヨーロッパを堕落させ始めているか」と危ぶんだ。
 その死は母国がナチス・ドイツに占領される直前だった。

 まったく同感。いずれ人類の歴史には「アメリカ」という国はもたらした災厄の数々とともに記録されることになるだろう。けっして人々を幸せにしなかった国として、「アメリカ合衆国」もまた「ソビエト連邦」と同じカテゴリーに分類されるに違いない。(10/24/2005)

 ワールドシリーズ、菊花賞、日本シリーズ、それぞれをテレビ観戦し、あいまに**(母)さんの見舞い。

 きょうは具合がいいようでいろいろ話をした。話はどうしても昔のことになってしまう。思い出すままのとりとめもない話。日記から打ち出して、枕元に置いておいた玉電でのエピソード。下高井戸駅そばの秋田外科。**(父)さんが酔って転び足を骨折して入院し、**(弟)は例の事故で入院したあの病院がいまはないこと。それにしてもあの二人はほんとうによく入院した。ぼくも**(母)さんも、けっして体が強かったわけではない**(祖母)さんだって一度も入院しなかったのに。

 「いままで言わなかったけれど、あの事故の日の朝サ、**(弟)とケンカして・・・、あいつ、すぐおばあちゃんの袖の下に潜り込むんだ、お兄ちゃんなんだからとおばあちゃんが言うと袖の下から顔を出して声を出さずにヤーイとやるんだよ」、「エー、**(弟)、そんなことしたの?」、「憎たらしくてネ、**(弟)なんか死んでしまえって、・・・、その日だったんだ、事故にあって、頭を打って、夜になってから吐いたんだよネ」、それが最初の入院だった。

 **(弟)の中耳炎は高校に入って、国府台か、九段坂か、どちらの病院が後だったかよく憶えていないが、二度目の手術をするまで続いた。**(母)さんと話したときには忘れていたが、札幌で豊平川近くの病院に入院していたとき、ガガーリンが来日して札幌に来た。病室からその車列を見たことを思いだした。こんど、いったときにはその話をしよう。

 そろそろ、日本シリーズが始まる。(10/23/2005)

 夕刊のトップはあしたの菊花賞、無敗三冠の期待のかかるディープインパクトの記事だが、すぐその隣に「経団連会長 中国主席と極秘会談」という記事が載っている。

 日本経団連の奥田碩会長(トヨタ自動車会長)ら財界首脳が9月30日、北京を訪問し、胡錦涛国家主席らと極秘に会談していたことが分かった。複数の日中関係筋が明らかにした。日中経済関係について幅広く意見交換したという。小泉首相の靖国神社参拝問題についても話があった可能性が高い。ただ、経団連は「一切ノーコメント」としており、中国の最高首脳との会談が公表されないのは極めて異例だ。
 奥田会長は9月下旬、毎年恒例の日中経済協会訪中団のトップとして中国を訪れ、26日に北京で温家宝首相らと会談したばかり。いったん帰国して、再び北京を訪れた。
 この間の27日、東京で経済財政諮問会議の前に小泉首相に10分間面会。温首相との会談について報告し、日中関係について意見交換したという。
 胡主席との会談には、経団連副会長の三村明夫・新日本製鉄社長、宮原賢次・住友商事会長らも同席した模様だ。会談では、中国の次期5カ年計画への協力など日中経済関係について話し合ったという。靖国問題など日中間の懸案についても触れられたとみられる。
 小泉首相は今月17日に靖国神社に参拝。2日後の19日、奥田会長は金沢市内での北陸の経済団体との懇談会で、「小泉首相の靖国参拝は日中間の政治関係に問題を投げかけているが、経済には大きな変化はみられない。今のところは大丈夫だと思う」と述べ、日中経済関係の先行きに楽観的な見通しを示した。
 一方、中国の温首相は9月26日の奥田会長らとの会談で、環境問題などでの日中協力に言及。日本側の歴史認識への強い非難を繰り返した昨年とは異なり、会談の雰囲気は穏やかだったという。

 記事の中の「いったん帰国して、再び北京を訪れた」というところにどうしても眼がゆく。胡錦涛との会談に同席したという三村と宮原は奥田と同一の旅程をこなしたのだろうか、それとも奥田がとんぼ返りするあいだ北京にいたのだろうか、興味津々。経済成長のど真ん中、北京オリンピック、上海万博をひかえる中国に対して、つまらぬ意地を張るうつけ者宰相のためにみすみすビジネスチャンスを失いそうな財界首脳としては居ても立てもいられぬのだろう。

 このニュースを訊いてのことかどうか、安倍晋三が「靖国参拝を阻止するために経済界に圧力をかけるとしたら、相互不信を深刻なものにしていく危険がある」と講演した由、主観的に見ればそう見えるのかもしれないが、中国の側から見れば靖国などは日本を躓かせる石にすぎない。安倍は頭が悪いだけかと思っていたら、どうやら「眼」も悪いようだ、可哀想に。

 日本シリーズ、10−1でマリンズ先勝。7回裏マリンズ攻撃中、なんと濃霧によるコールドゲーム。(10/22/2005)

 良くも悪くも大衆の皮膚感覚に支えられているのが「小泉政治」だ。ヒトラーにはそれなりに「偉大なドイツの建設」というようなスローガンがあったが、小泉から目的を語る言葉は聞かれない。曰く「米百俵の精神」、曰く「骨太の方針」、曰く「改革の痛みに耐える」、曰く「郵政民営化は改革の本丸」、曰く「民間ができることは民間に」、・・・、いろいろな言葉を聞かされたが、どこまでいってもどこかに行くプロセスのことばかりで、目的地がどこでどのような場所なのかはついぞ聞くことがなかった。

 我々は聞き飽きたのかもしれない、「戦争のない平和な・・・」、「誰もが豊かさを享受できる・・・」、「安心して老いることのできる・・・」、美しいばかりでけっして実現されることがないスローガンを。だからどうせ決まり切ったことならば皆までいうことはない、省略されているのだろうと一人合点をしているようなところがある。

 一方で小泉の話は「分かりやすい」といわれている。そのひとつの極点が先月の総選挙だった。ワンフレーズ・ポリティックスなのだから分かりやすいのは当然といえばそれまでだが、ことはそれだけのことではない。

 おそらくこの世の中でいちばん分かりやすいのは詐欺師の話だろう。いろいろな説明をしたり、やたらに条件をつけたりしたら、詐欺師はその目的を達せられない。端的に分かりやすく、ここで金を出せばすべてがうまくゆくと瞬時に思いこませなくては詐欺は成り立たない。いま金を出さなくてはダメ、これを可能な限り分かりやすく語り、そうすればどういういいことがあるか、あるいはふりかかった災厄を一気に吹き払えるかについて想像させる、これが詐欺師に要求される話法だ。分かりにくい話は分かりにくいというだけで詐欺という目的にはそぐわないのだ。

 そうしてみると小泉の分かりやすさは詐欺師の分かりやすさに通じていると思い当たる。試みに小泉が振りまいたフレーズと我々の期待とをつなげてみるがいい。「米百俵の精神で戦争のない平和な世界を構築する」とか、「改革の痛みに耐えて誰もが豊かさを享受できる社会を建設する」とか、「民間ができることは民間にやらせて安心して老いることのできる国造りを行う」と。いかにもウソっぽく、平仄が合わないことは誰にも分かる。

 分かりやすい言葉だけを喜ぶ人は詐欺師のいいカモだ。しかし詐欺師の被害者は被害を他人に及ぼさないだけいい。小泉に引っかかる奴はいささか厄介な存在だ。こちらまでとばっちりを食らってしまうのは迷惑この上ない。(10/21/2005)

 月曜朝刊の「時の墓碑銘」、今週はソローの言葉だった。

政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。
ところが、たいていの政府は不便なものと決まっている。

 政府なり権力(時には会社かもしれぬ、呵々)に卑小な我が身を投影させて、かろうじて自分を大きなものと見なそうとする卑しい心根の連中にとっては許し難い暴言かもしれない。

 19世紀半ばの米マサチューセッツ州でのこと。人頭税の支払いを拒否していたソローは保安官サムに催促された。「困っているなら立て替えておこうか」とも言われたが、原理原則の問題だから、と断った。サムが「わしはどうすればいいんだ」と尋ねると「保安官をやめたらいい」と答えた。
 納税を拒否したのは、奴隷制への批判のほか、当時から「侵略戦争」として悪名高いメキシコ戦争への反対からだった。
 ソローは投獄された。興味津々の牢獄生活だったが、おせっかいな誰かが税を立て替えて払ってしまったため、一晩で釈放されてしまった。
 「まったく統治しない政府が最良の政府」というのがソローの信念だった(『市民の反抗』岩波文庫)。
 「政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。ところが、たいていの政府は不便なものときまって」いる。メキシコ戦争も人民の意思を無視した少数が政府を道具として利用して始めた戦争だ、と見ていた。
 政府を廃止せよ、というのではない。せめて余計なことをしないもっとましな政府にしようという。そして政府の無能や暴虐が耐えがたい場合には「政府への忠誠を拒否し、抵抗する権利」を唱えた。後にガンジーやキング牧師の運動の支えになった思想である。
 ゾローというと主著とされる『森の生活』が有名で、隠遁者と思われがちだ。孤独のうちに自然と向き合うことを至福と感じていたのは確かだし、エコロジストの祖としての評価も高い。しかし、ただの隠遁ではなく、生活をぎりぎりきりつめ、追い込んで、人生とは何かを考えようとした。「強く生き、人生の精髄をしゃぶりつく」す、と(『アメリカ古典文庫4 H・D・ソロー』研究社)。
 世捨て人の政治忌避ではなく、みごとな生活者の思想だったからこそ力があった。

 岩波文庫の「森の生活」の解説にはこの逮捕の時のエピソードが紹介されている。

 ソロー逮捕の知らせはたちまち親類縁者や友人たちのあいだにひろがった。その晩、エマソンが刑務所に駆けつけ、「ヘンリー、どうしてこんなところにはいっているんだい?」とたずねると、ソローが鉄格子のなかから「ウォルドー、あなたこそどうして外にいるんです?」と応じたという逸話は、真相はともかくとして、エマソン家に長く語りつがれてきた有名なものである。

 この世界では時に常識と非常識が時に逆転することがあるということを憶えておくために、ちょっとばかりいい話だと思う。(10/20/2005)

 朝刊トップは17日夜から18日にかけて朝日が行った電話世論調査の数値。小泉首相の靖国参拝をよかったとする人が42%、するべきではなかったとする人が41%という結果。男女の別では、男:賛成38%、反対46%、女:賛成46%、反対36%。賛成の主要理由は「戦死者への慰霊になる」が37%、「外国に言われてやめるのはおかしい」が24%とのこと。

 チャイルディッシュなのは宰相だけではなく一部の国民にも共通する性向のようだ。間違いを指摘されると意地でもそれをやめられなくなり、かえってこだわって嫌がらせのようにそれを続け顰蹙をかう輩がいる。電車内など公共の場で騒がしさを注意されると逆ギレする連中のようなものだ。首相の靖国参拝を是とするのが42%、そして外国に言われた以上やめられないというのがそのうちの24%、つまり、十人に一人くらいということだが、これは直感的に言って、逆ギレ野郎の存在確率に近似している。

 夕刊には小泉首相の靖国参拝に対するニューヨークタイムズの社説が紹介されている。

 米紙ニューヨーク・タイムズは18日付の社説で「東京の無意味な挑発」と題し、小泉首相が靖国神社参拝によって「日本の軍国主義の最悪の伝統を容認した」と厳しく批判した。
 同紙はこの社説で、参拝は「日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫に対する計算ずくの侮辱だ」と述べた。「日本が帝国主義的な征服の道に再び向かうとは誰も懸念していない」としつつも、「現在は隣国での悪夢を呼び覚ますのには最悪の時期だ」と分析。「日本は誉れある21世紀を迎えられるよう、今こそ20世紀の歴史に向き合うべきだ」と結論づけた。
 米国の知日派はもちろん、ブッシュ政権内でも小泉首相の靖国神社参拝を評価する意見は皆無といっていい。何の戦略もなしに日中、日韓関係をいたずらに悪化させることは東アジアを不安定にし、6者協議などに悪影響を与えかねず、米国の国益をも損なうからだ。国務省も「対話を通じた解決を」(マコーマック報道官)と日本を含めた関係国に呼びかけている。ニューヨーク・タイムズ紙は日本の歴史認識問題に厳しい態度をとってきたが、この日の社説はこうした米国内の見方を代弁したものと言える。

 おそらく小泉首相はこのような論評に耳は貸さない。しかしドイツ・インド・ブラジルなどとともに日本が常任理事国になることを狙った「G4国連改革案」を支持してくれたアジアの国がブータンとモルジブのたった2ヵ国だったという厳粛な事実くらいは意識してくれなくては困る。一方のドイツはフランス・ベルギー・ポーランド・チェコなど大戦時にドイツが蹂躙した国々からの支持を得たのだから。

 日本の宰相の意地の靖国参拝に眉をひそめているのは別に中国と韓国だけではない。昨日の朝刊の片隅には「台湾外交部スポークスマンは17日、小泉首相の靖国神社参拝について『日本は過去の歴史を正しく見てほしい』と語り、穏やかな表現で批判した」と報ずる記事が載っていたし、シンガポールのシェンロン首相も春の来日の折に「アドバイス」をしていった。

 中国と韓国のニュース映像を見て頭に血をのぼせ、ただの感情論から「外国に言われてやめるのはおかしい」などと言っているバカな連中は「世界中に言われてもやめるのはおかしい」という覚悟まで持っているのか。おそらく彼らにはそこまでの信念も胆力もありはしない。それが雑魚の身上だ。

 他人が嫌がるから意地でもやるというのは大人の行動ではない。子供だって、小学生ぐらいになればそんなことをする子はあまりいない。しかし朝刊の数字は十人に一人くらい、こういう「困ったチャン」がいるという事実を示している。まったくもって度し難い世の中になったものだ。(10/19/2005)

 先々週、「塞翁が馬」と書いたとき、ふと現在絶好調の極にあるトヨタのことが頭に浮かんだ。不幸の中に幸福の原因があり、幸福の中に次なる不幸のタネが胚胎しているとすれば、トヨタにも不調の時が訪れる。常に現状に満足せず終わりなき改善に取り組んでいるあの大トヨタはいったいどんなことに足を取られるのだろうか、これほどの絶好調を暗転させるものはどのような要因なのか、と。

 先週、プリウスのリコールを発表したばかりのトヨタが、きょう、カローラなど全16車種、計127万台のリコールを届け出た。この数量はこれまでのレコードホルダーだった日産の105万台リコールを超える過去最大のものとか。内容はヘッドライトスイッチの設計不良。部品の共通化がアダとなって幅広い車種に対象が広がったらしい。

 この「現象」をどのようにとらえてどういう「なぜなぜ」展開をするのか、俗に言う「真の原因」程度の探索にとどまるのか、それともトヨタともなれば従来の品質屋のアプローチ以外の視点を持っているのかどうか、「さすがトヨタは」なのか、「やはりトヨタでも」なのか、「囚われない視点」と「視程の深さ」の確保についても「終わりなき改善」の発想による手が打たれているのか、・・・、興味は尽きないが、そういうことが外から分かるようになるのは、もっと先のことになるのだろう。(10/18/2005)

 チルドレンの親はチャイルディッシュだった。まあ子供っぽい親が跳梁跋扈しているのがこの時代だから格別不思議なことではない。午前、小泉首相、靖国参拝。

 きょうは秋の例大祭の初日の由。坪内祐三は「靖国」文庫版向けのあとがきの中に「小泉新総理に私は提案したい。良い機会だから今こそ、総理大臣の公式参拝を、八月十五日ではなく、春秋の例大祭の時に戻したらどうだろう」と書いていた。

 坪内の提案は半分受け入れられた。「半分」と書いたのは平服で賽銭を投げ入れ合掌したのみの非公式風立ち寄り参拝だったからだ。理由を問われて「内閣総理大臣である小泉純一郎が心ならずも・・・(以下はテープレコーダーの如し)」と繰り返すところが、ケンカに負けた子供が母親の袖の下から「負けてないモン、泣いてないモン」と強がりを言ってみせるような感じで、なんともうら悲しい。

 勝ち負けという俗な言い方をするとすれば小泉はとっくに負けている。8月15日を「公約」しながらついに一回も実現できなかったし、モーニングや紋付き羽織袴で意気揚々としていたのが平服で立ち寄り風になってしまったし、肩書きを記した札をつけて花を捧げていたものがびた銭の投げ入れになってしまったし、本殿まであがっていたものが拝殿前の賽銭箱にとどめることになった。ありとあらゆる意味からいって「形が崩れて」しまったのだから。

 第5戦にまでもつれ込んだプレイオフは3−2でマリンズが制し、ホークスは2年連続でペナントレース首位ながらパリーグチャンピオンの座にはつけなかった。(10/17/2005)

 タコマ・ナローズ橋の落橋は共振がもたらす予想外の事故として有名だ。共振は本来その系が持っている固有振動の周波数と合致するものが外部に存在するとき、外部エネルギーが伝搬する現象のこと。

 今週火曜日衆議院で、そしてきのう参議院で郵政法案が可決された。あんな内容のどこが「改革」なのか理解に苦しむが「ミンイ」の大合唱の中、熱に浮かされた如くに6法案は成立した。この約二ヶ月間の流れはまさに「共振現象」。

 コイズミはコクミンの持つ不満という固有振動にチューニングした風を国会という系に吹付けてみた。国会という系の周辺には風が渦巻き「ミンイ」というエオルス音を立てながら、思慮のないコクミンの愚か故に狂暴なエネルギーに揺さぶられて国会はズタズタになった。これこそ「郵政民営化共振現象」とでも名づけるべき現象だ。

 共振というテコがタコマ橋を設計値の三分の一にもみたない風で破壊したように、ものを考えようとしないコクミンの動物的な感性の固有振動にチューニングすればかなり乱暴なことでもできることが証明された。無謀な戦争に突っ込んでゆくことだって夢ではない。そういう危うさの海の中に再びこの国は漕ぎ出してゆこうとしている。コイズミは強力なリーダーシップを持つ理想的な宰相なのだそうだ。どこまでバカの声ばかりが大きい世の中になったものか。(10/16/2005)

 31年ぶりのリーグ優勝かといわれれば、急速に見なくなったとはいえ、かつシーズンは終ったつもりでいても気にはなる。ところがテレビ中継はない。仕方なしにラジオ中継を聞いているところに**(息子)から電話。**(母)さんの見舞いに来ているが**(家内)が帰っているか(つまりちゃんとした夕食が食えるのならばということ)ということ。雨が降り出しているので病院まで車で迎えにゆく。

 乗り込むなり「なんか決まりそうだね」、「中継、ないんだよ」、「インターネットで見られるよ」。帰宅してすぐアクセスしてみた。解像度が悪く、たまにコマ抜けがあるものの、まあまあの映像。アナウンスは聞き覚えのあるNHKアナウンサーの声。

 9回表を終って4−0。試合の流れは一方的にマリンズ。裏の攻撃のトップ、カブレラがヒットを打つものの、続くバティスタがセカンドフライを打ち上げる。4点差でまずアウトをひとつ取った、マリンズベンチには優勝決定の飛び出しムードが広がっている様子。代打の大道は当たり損ねの高く跳ねるゴロ、ピッチャー小林雅秀が三塁方向に走って捕球、一塁に投げた球がそれて一・三塁。王監督はなぜか大道に代走を出さない。1アウトだから内野ゴロ併殺で試合は終ってしまうのに。

 勝負事の怖さはこのあたりから始まった。まず大村がライトへヒットを打って1−4、ここで王は大道に代走鳥越を出す。川崎が三遊間を抜いてつないで満塁、代打の荒金がセンターへヒット、これで一点差、1アウト、一・二塁。このときの小林の投げ終ってからの体勢が崩れていることを見れば、交代させてもよかったように思う。宮地がファーストゴロで2アウト、二・三塁。打順は松中。マリンズは敬遠の満塁策に出た。いつもなら大ブーイングが起きるはずがスタンドの反応はいまひとつ。松中はプレイオフノーヒット。去年のライオンズとのプレイオフでも打てずに「戦犯」呼ばわりされた。とはいえレギュラーシーズンの打点王、本塁打王。浩之は「松中は内心ホッとしたんじゃないか」、「松中と勝負ってのを見たかった」という。敬遠策の評価はなんとも言いがたい。しかしおかしかったのは松中以上に小林だった。つづくズレータを四球・押し出しで試合は土壇場で振り出しに戻り、延長10回、川崎のサヨナラヒットでホークスが勝った。

 8回裏ベストピッチでクリーンアップを退けた藪田をあえて功労者小林に代えた采配、そしい31年間優勝のないチームにとっての「産みの苦しみ」、あるいは8回表の追加点で2点差が4点差になったことも小さな落とし穴だったかもしれない。いろいろなことを想像させて、しばらくぶりに野球を見る面白さを教えてくれた好ゲームだった。

 それにしても大リーグのプレイオフ中継は再放送までやるのに、自国のプレイオフには見向きもしないというのはなんなのだろう。(10/15/2005)

 郵政法案、参議院でも可決。賛成137、反対100。前回反対した22人のうち19人と欠席・棄権した8人全員が今度は賛成に回った。自民党の亀井郁夫は退席し、反対を貫いたのはいずれも自民党を離れた荒井広幸と長谷川憲正の二人だった。

 インタビューを受けた中曽根弘文の言葉を聞いて吹き出した。こう言ったのだ、「わたしには自民党の中にいてやらなければならないことがたくさんある。教育基本法の改正などだ」。おいおい、状況によって言うこととすることをコロコロと変えるような変節漢に教育を語って欲しいと思う奴などいくらこの世の中が広くてもそうはおるまいよ、と。

 中曽根は戦後生まれだ。こんな定見無し、プライド無し、根性無しの三無人間を育てたとすれば、戦後教育には瑕疵があったのかもしれない。教育基本法のせいでこんな人間のクズができたというなら、ここにその証拠のような情けない男がいる以上、改正論者にもいくばくかの正しさは認めねばならぬのかもしれぬ。しかし人間のクズであるそのご当人が教育基本法の改正を語るのはブラックユーモア以外の何物でもなかろう。まあクズのような人間にもいっぱしの発言権を認めるのが民主主義のありがたさで、それこそが「民意」だというなら是非もないが。(10/14/2005)

 休暇。7時22分大宮発のはやて1号で仙台へ。仙台着8時37分、地下鉄で青葉区役所へ。原戸籍まで遡るだけでよいのかどうか、あるいは相当昔の戸籍であることなどの事情があるのかもしれない、「少しお待ちいただくことになります」という言葉通り小一時間かかった。

 持参した「逝きし世の面影」を読むことにしたのだが、・・・。すぐそばで「戸籍さぁ、うち、花巻なんで仙台じゃとれないんだって」、「エエー、ダメなのぉ」という会話が聞こえてきた。友達同士でハワイに行くことになり、パスポート取得のために戸籍謄抄本をとりに区役所に来たらしい。仙台に住んでいるのだから区役所でとれると思いこんでいたらしい。なんとまあ、素朴な。

 一人がまず田舎に電話をした。「もしもし、アッ、おじいちゃん、おばあちゃんいる?、替わってぇ、・・・、アッ、おばあちゃん、ミキ。・・・あのね、戸籍謄本がいるのぉ、役場でとって送ってくれるぅ?、エッ、簡単にとれないのぉ、うんうん、聞いてみる」。役場にかけている。「・・・、速達にしてもらって、・・・、どれくらいかかりますか?・・・」、切ってからもう一人に。「ヒマがあれば、ちょっと来てもらった方が早いって、速達にしてもたいして変わらないとか言ってた・・・」。「・・・アッ、おばあちゃん?、ミキ。戸籍だけど、おばあちゃんならとれるって、本人確認できるなんかを持ってけば」。

 もう一人は父親の勤め先にかけたらしい、ひととおりの話が終って、携帯を切ってから、「・・・お父さん、おかしいの、『ハイ、その件は承知しました』だってぇ、・・・」、「ウン、うちの親も会社へ電話するとそんな感じぃ、キャハハハ」、・・・。そばに座る**(家内)と目顔で笑いあった。おかげでぜんぜん本に集中できず、携帯のゲームに切替えた。彼女たち、パスポート取得、間に合うのだろうか。

 ひととおりの必要戸籍謄本を取って区役所を出たのは10時半過ぎだった。**(義姉)さんと落ち合って、タクシーで永昌寺へ。方丈さんとお話し、墓参りをしてから、本堂で読経をしてもらった。**(父)さんの百箇日。駅前でちょっと遅めの食事をして、3時24分発のはやて18号。5時半前に新秋津着。病院に直行して、**(母)さんに報告。(10/13/2005)

 朝刊の二面、「時々刻々」欄にこんな見出しが踊っている。

攻める村上氏           腹くくる阪神
狙いは不動産含み益        「いい提案受け入れる」

 村上世彰が阪神電鉄株の38.13%を取得したことを明らかにして、きのうセットされた会談でのやり取りを伝えたもの。

 株式市場のルール以上に株を買い進めて上場廃止となっても、阪神電鉄が保有するJR大阪駅前の一等地や兵庫県西宮市の阪神甲子園球場の土地を売却すれば投資資金は回収できる、と言外ににおわせた。甲子園球場敷地の帳簿上の価格はわずか約800万円だが、周辺の現在の地価で換算すると、実勢価格は200億円強。同電鉄が公表している総資産は約5千億円。だが、村上氏側は保有不動産の含み益を加味すると、実際は7千億円以上の価値があるとにらんでいるとされる。阪神電鉄の経営よりも、投資家の利益を優先するファンドの本音が透けて見えた。6年前に数十億円から始まった村上ファンドは、今や投資残高が約4千億円。このうち約1千億円を阪神電鉄につぎ込んだ。主に海外の大学財団や年金から資金を集め、年20%の利回りを自指しているとされる。しかし、株を持っているだけでは利益は出ないし、自身が運営する投資ファンドに資金を預けた投資家に返せない。
・・・(中略)・・・
 タイガースの上場ばかりが注目されるが、村上氏の本当の狙いは、阪神電鉄が今年3月末でもつ470億円の現預金や多額な保有不動産の含み益など潜在的な価値を顕在化させて自身の手にすることにある。約4割を握る同電鉄株の株価が買い取り価格より上昇して利益を確実にすることも狙っている。 実際、村上ファンドは昨秋、工業用フェルト大手の日本フエルトの大株主になって同社に大幅増配を実施させた。その後、日本フエルトが実施した自社株公開買い付けに応じて、わずか半年で十数億円を稼いでいる。攻める村上氏に、阪神電鉄は打つ手なしと映る。しかし、村上氏にとっても1千億円を投じて買い取った膨大な株の引受先を見つけるのは簡単ではない。阪神電鉄株は買い占め前には400円前後で推移していた。現在は1000円前後で高止まりしている株を同電鉄に買い取らせようとしても「他の株主に説明できない」として拒否される可能性が高いからだ。

 カネがカネを生む。そのプロセスのどこにも社会的な価値の創出がない形で。土地はその上に築かれたものがある特定の価値創出をしない限りは可能性にとどまっている。その土地に何を建設し、生産するかにより、はじめて利益となるのだ。可能性だけをいくら取引しても、そんなものはバブルに過ぎない。「含み益」は「可能性」の異名に過ぎない。会社価値は会社の持つ静的な資産によってではなく、会社機能が生み出す動的な活動によってのみ高められる。

 なにより7千億以上の不動産価値がある(それは本来実態ある事業計画とセットになって初めて7千億になるもののはずだが)ならば、それを保有する法人は何も株などによって資金調達をしなくともよいことになる。つまりこの場面においては株主価値など登場する余地がないことになりはしまいか。

 中国、二人乗りの有人宇宙船神舟6号、打ち上げ。一昨年、じつに子供っぽい反応を示して失笑を買った石原慎太郎、こんどはどうコメントするのだろう。もう黙殺するしかないのかしらん、心をいたく傷つけられて、呵々。(10/12/2005)

 郵政法案、衆議院で可決。賛成338、反対138。前回反対した17人のうち11人が今度は賛成に回った。嗤えるのは前回の法案と今回の法案の違いはただひとつ実施時期を遅らせた点のみということ。続けて反対票を投じたのは自民党ではただ一人、平沼赳夫のみ。平沼の反対理由は「前回法案となんら変わっていないから」というものだった。平沼の政治的な主張などほぼ百パーセント評価しない。しかしこの一点に関する限り平沼の行動を評価する。

 注目議員では、野田聖子、保利耕輔、堀内光雄などが、前回の反対から今回賛成に転じた。そのほとんどが変心理由を「民意の尊重」と言っている。「民意の尊重」という論理は一見それもひとつ考え方というように思わせる。では彼らは自分を民意の忠実な伝達装置、つまり国民投票の「押しボタン」に過ぎないと思っているのだろうか。(年間二千万を超える歳費を費やしていることを考えれば、ずいぶんカネのかかる「押しボタン」だ)

 野田とその同類項たちは今回の選挙では選挙民に何を訴えたのだろう。もし彼らに投票した選挙民が彼らを「押しボタン」だと思っているとしたら、「郵政法案反対の押しボタン」であるからこそ投票したはずだ。なぜなら彼らの対抗馬となった「刺客」たちはすべて「賛成の押しボタン」であるという保証書を首にぶら下げていたのだから。とすれば彼らは自分に投票した選挙民の「民意」を無視したことになるのではないか。

 もちろん彼らの支持者の多くは彼らを単なる「押しボタン」だとは思っていないだろう。なぜ彼らに投票したのかと問われれば、彼らの政治家としての存在全体を支持しているからだと答えるに違いない。ならばなおさらのこと、彼らはその信ずるところに従った形で採決に臨むべきであったのだ。右と言われれば右に走り、左と言われれば左に走るのならば、軽挙妄動の小人ということになる。そんな小人が国会議員として付託を受けるほどの「人物」でないことは明らかなことだ。

 つまり野田聖子以下の「新・賛成派」は、きょう、二重の意味で支持者を裏切ったのだ。それが彼らの政治活動のやりやすさのみから出た判断だとすれば、彼らはコイズミ・チルドレンと同じかそれ以下の存在だということになるが、彼らにその意識はあったのだろうか。(10/11/2005)

 おととい、1−2で負けたプレーオフ。きのうの第二戦も1−3で負けた。ことしは終わり。

 それにしてもひどいシーズンだった。67勝69敗引分けなし、勝率4割9分3厘。二位のマリンズとのゲーム差は18.5とあらば、ルールとはいえマリンズとホークスを退けて日本シリーズに進むことでもあったら物議をかもしそうな成績だった。

 朝刊のスポーツ欄コラム「チェンジ」の末尾はこんな風になっている。「大リーグ挑戦を希望する松坂、フリーエージェント権を持つ豊田や西口、契約問題が決着していないカブレラら主力の流出も危惧される。黄金期のスキのない野球の再構築へ。課題の多い秋が来る」。まったくその通り。いつまでも若いチームのままではない。(10/10/2005)

 死ぬときに世の中で起きていることの舞台裏がすっかり見られるとしたら早く死んでもいいなと思う日がある。是非とも知りたい「舞台裏」がいまは三つほどある。

 一つめはコンピュータ・ウィルスの作者の実像だ。セキュリティソフトの会社とどういう関係にあるか、無関係か、資金援助を受けているか、あるいはそこの社員ではないのか。その昔、パソコンソフトがフロッピーで供給されていた頃、コピー防止技術、プロテクトと呼んでいたが、プロテクト屋はプロテクトをかいくぐってコピーするツールソフトの作成も行っていた。

 二つめはエイズ・ウィルス誕生あるいはこのウィルスの人間への感染がどのようにして起きたのかに関する真実。エイズ患者はアメリカで見つかった。にもかかわらずエイズはアフリカ起源だとされている。ではなぜアフリカに起源をもつ「病気」の最初の患者がアメリカのしかもニューヨーク、しかも同性愛者に限定して現われたのか、これに対する説得力のある説明はいまだにない。

 三つめはテロリストとアメリカとの関係。テロリストと呼ばれる人々のうち、誰でもいい、なぜか最近ほとんどその消息に関するニュースを聴かない「オサマ・ビンラディン」でも、最近売れっ子になりつつある「ザルカウィ」でも、「ザワヒリ」でもいい、彼らの実像と彼らの資金源、そして彼らはほんとうにブッシュの敵なのかということ。

 ある意味、これらは「謀略史観」とでも呼んだ方がいい見方かもしれない。しかし身の回りで見聞きするものをいちばん自然に説明できることだけはたしかだ。たとえば・・・。

 911同時多発テロによっていちばん利益を受けたのは、誰でもないアメリカの産軍複合体だ。2000年に2945億ドルだったアメリカの国防予算は、ことし5139億ドルに達している(10/6夕刊「思潮21」に寺島実郎が書いたデータ)。この業界関係者はビンラディンに足を向けて寝られないに違いない。アフガニスタンに爆弾の雨を降らせながらも彼らがついにビンラディンを捕捉せず、アルカイダを壊滅しないのは、ビジネス顧客を失いたくないからかもしれない。

 先週、土曜に発生したバリ島での爆弾テロは、歯止めのかからない支持率低下に悩むブッシュ大統領には非常に有り難い追い風だったようだ。ハリケーン・カトリーナ以来、ニュースに笑顔が登場しなかった大統領が久々に見せた満面の笑顔は今週6日の「対テロ戦争演説」だった。もう「ウェルカム、爆弾テロ」とでも言いたげで見ているこちらが苦笑した。

 同じ日、ニューヨークのブルンバーグ市長は「地下鉄テロのおそれあり」と発表した。ブッシュの支持率は40%を切りついに37%になった。アメリカ国民は本気でテロに気をつけた方がいい。テロが起きることを心から願っているのはお前たちの大統領、その人であり、奴は自分の政権維持のためならばおそらくなんでもする人物だから。(10/9/2005)

 三津五郎はとらふぐのキモで命を落とした。食通は微量のキモあるいはキモ汁を刺身につけ、わずかに舌先がしびれる感覚を無上の味としているときいた。

 吉野家の「牛丼」が来年一月にも復活するという話。BSE騒ぎでアメリカ産の牛肉輸入が停止してから、いくつかの牛丼チェーンが産地を切替える中、吉野家はアメリカ産以外では吉野家の味は出せないとして牛丼をメニューから外す方針を貫いてきた。「アジ」か、「フリ」か、本当のところは分からないが、ある種、みごとなブランド戦略だった。

 独善的なアメリカの圧力に耐えかねて、政府は12月には輸入を再開する方向とのこと。月齢管理・産地管理を含め、すべてにいい加減な管理のアメリカ産牛肉には一定の割合でBSE牛肉が混入することは避けられないだろう。ひょっとすると吉野家の「牛丼」の「独自の味」には、食通の求めるふぐキモ同様、異常プリオンのもたらす独特の「味」が貢献しているのかもしれぬ。「狂牛丼」、バンザイ。

 ところで、三津五郎の求めに応じてふぐキモを出した調理師はどうなったか。業務上過失致死罪に問われ有罪となった。弁護側は「三津五郎が危険を知りながらあえて注文したのだから責任は三津五郎自身にある」と主張したが、地裁・高裁・最高裁はこれを認めなかった。吉野家はBSE牛肉が混入する可能性が予見されるにも関わらず、あえて確率の高いアメリカ産牛を選んで提供するわけだから、件のふぐ調理師と同じ罪に問われないだろうか。

 大丈夫、異常プリオンはテトロドトキシンと毒性を異にするから、かりに吉野家の牛丼ファンにBSEが発症しても吉野家は因果関係の立証を患者に求めればよい(なによりこの国の政府がついている)のだ。あくまではやりの「自己責任」にもちこめば、あの調理師のような不様なことにはならぬ。連呼しておこう、「狂牛丼」、バンザイ、と。(10/8/2005)

 もうずいぶん前になるが**君(会社の同僚)が「最近の親の感覚は分からん」と言っていた。「ディズニーランドに行くからきょうは休ませますと学校に連絡してくるんだって。まるでさ『有給休暇』感覚。我々が学校へ行っていたころは、病気か身内の不幸ぐらいしか休めないものって思ってたでしょ」。

 コイズミチルドレンの看板はさしずめ杉村太蔵だと思っていたら、藤野真紀子なる、これも比例区議員が本会議をサボって福岡のトークショーに出演していたことが露顕。釈明の記者会見で藤野は「これは選挙に出る前、昨年11月に依頼されたこと。政治家になったからといって約束を守らないようなことはできない。欠席届だって出してます」とふんぞり返ったという。

 嗤えるのは武部が「藤野さんだけを責められない」と弁護したこと。どうやら自民党の国対関係者にとって「有給休暇」は、児童・生徒の「有給休暇」と同様、「常識」らしい。

 ところで藤野センセイ、福岡までの移動費用はどうしたのだろう。太蔵君がばらしたJR無料パスあるいは国内線ただ乗り議員チケットでも利用したのかしら。トークショーからも旅費をいただき、その上で議員特権を利用していたとすれば、セレブ・フジノの看板はオサボリ・フジノまたはセコイ・フジノとでも改めた方がいい。

 
こういう下品なはなしは週刊新潮あたりの独擅場なのだが、あの週刊紙は権力にはめったに噛みつかない。ああつくづく「噂の真相」の廃刊が惜しい。(10/7/2005)

 朝刊の靖国訴訟に対する各裁判所判決の分かれ目に関する解説記事の横に、違憲判断を行うか否かに関する両意見が載っている。「違憲判断など不要」という主張は横浜地裁判事、井上薫。こんな内容だ。

 一連の訴訟で大阪高裁と福岡地裁の判決がともに、「理由」の中で参拝を「違憲」と判断すると同時に「原告らの損害はなかった」と述べた。損害がないならば損害賠償請求が認められるはずはない。これは、子どもにもわかる簡単な理屈だ。
 つまり、憲法判断の部分は、結論である主文に関係のない判断(判決理由欄の蛇足)であり、それを「理由」とは呼べない。元来、裁判所には主文に関係のない点を判断する権限がないはずだ。そうした権限を裁判所に付与する法令はない。
 両判決の達意判断は越権の違法があり、これを自己の主張の踏み台に使うことは許されない。「蛇足判決」で実質的に敗訴した当事者が、主文で勝訴しているために上訴できないのも理不尽だ。(新潮新書「司法のしゃべりすぎ」の著者)

 現役の裁判官にこう書かかれると素人は沈黙せざるを得ないような気持ちになる。しかし一方にはこういう議論もある。

 違憲の判断が「主文」に書かれていないから文句の言いようが無い、卑怯だみたいな言い方に至っては、そもそも日本の裁判の仕組みを知らないのですね、と皮肉の一つも言いたくなる。日本は憲法裁判所がないから、政府等の行為が違憲であるか否かを問うとき、それは損害賠償請求など民事訴訟の形を取らざるを得ない。そもそも「主文」で、憲法判断を示す仕組みになっていないのである。

高田昌幸のブログ「ニュースの現場で考えること―10月4日―」から

 法律の条文の「文字」だけを追って、そういう「文字」があるかないかだけを判断するのが裁判官の仕事だとすれば井上は正しい。ただその程度のことならば、裁判官など「子供でもできる簡単な仕事」ということになろう。つまり井上が正しいのは裁判官は子供で十分という範囲までのことだ。世の中の人が子供に裁判官の仕事などできないと信じているのは、訴件の背後にあるもの、この場合であれば、高田の指摘するような社会制度の問題などを、法律の精神にしたがって斟酌できなければならないからだ。

 もう一度読むと井上も自分の主張する精神を踏み出している。「『蛇足判決』で実質的に敗訴した当事者が、主文で勝訴しているために上訴できないのも理不尽だ」と「実質的に敗訴した側」(いったい誰のことだ、なんという主観的な判断か)の「事情」を十分に「斟酌」しているのだから。なんのことはない、井上自身ただのおしゃべりな二枚舌ということではないか、呵々。

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 きのう書いた連合会長選挙の結果が夕刊に報ぜられている。投票総数472票、執行部推薦の高木剛323票、鴨桃代107票、無効票42票(うち白票39票)。この数字に表われているものを読み取ることが前原にできるかどうか。松下政経塾出身者のセンスそのままでは絶望だが、はたして前原は。(10/6/2005)

 連合の定期大会に招かれた民主党前原新代表のスピーチ。夕刊から引いてみる。曰く、「不愉快な発言と言われても仕方がない。政党と組合の考え方が違うのは当たり前。胸襟を開いて、議論しながらも、意見が合わない時は是々非々で対応するというのが本来の政党の姿だ」と述べた由。対するに同じく来賓として招かれた小泉は「連合の大会ですが、なかには自民党を支持する方もおられると思うので、厚く御礼申し上げます。首相として国民全体の利益をいかに考えるかが中心課題だ。これからも各界各層からご協力いただかなければ、日本の様々な改革が実現しない」と語ったとか。

 小泉の本音がどこにあるにせよ、これくらいの感覚がなくては党首は勤まらない。岡田もバカマジメな感じがしたが前原はそれに輪をかけてバカそのものだ。さすがは松下政経塾出身者、意識だけはエリートだが知恵はせいぜい床屋談義レベル。それが表面的な政治技術に凝り固まっているのだから処置なし。

 前原よ、先月の選挙における民主党の敗因を「組合」に甘かったことと考えているならそれは間違いだ。あえていえば、きょうのお前のスピーチに見える程度の「政党・組合」理解、そういう観念的で希薄な現実理解こそが敗因だったのだ。連合が状況を正確に汲み取っていないのと同様、そういう組合と一定の距離感を保ちさえすれば問題が解決するなどと考えているお前も時代の状況をまるで掴んでいない。

 少なくとも小泉のスピーチの方が字面だけははるかに正確だ。政党が立脚すべきなのは「国民」の利益だ。連合も横断的な組合組織であるならば「国民」の利益を最優先にする組織でなくてはならない。現在の連合にはそれができていない。無風と思われた新会長選挙に派遣社員やパート社員を構成員に含むコミュニティ・ユニオン連合会会長が立候補したことがそれを雄弁に物語っている。そういう部分を叩き直し再構築する連携こそが民主党が自民党と対抗する軸だということが見えないのは、松下政経塾の大時代的な「維新政治感覚」と「憂国志士意識」が仇になっているからだ。

 小泉の言う「国民」と労働組合が立脚しなければならない「国民」のカバー範囲の違いがそのまま自民党と民主党の違いになるように土俵を設定するのでなければ、マスコミの表層を流れる愚かな分析に振り回されたあげくに民主党は雲散霧消するに違いない。そう、一年ともたずに消えてしまったあの日本新党のように。(10/5/2005)

 行き帰りの道のそこここに金木犀の香りが流れ来る。

校庭や木犀に寄る女の子

 この香りを嗅ぐたびに思い出し、ついに果たしていないことども。ホイジンガーの「中世の秋」を読むこと。これはまだできる。毎日が日曜日になったら造作もないことだ。金木犀の香りに我を失った聖者の話をアナトール・フランスの小説集から探すこと。これもできるだろう、記憶違いでないならば。そしてあの校庭の情景のこと。これはもう適わなくなったと思った方がいいのだろう。してやれることは限られている、辛いことだが。許せ、友よ。

 そんなことを考えながら帰宅すると、我が家の金木犀にも花が。でも昔ほど香らないのがちょっとばかり不満。(10/4/2005)

 プロ野球新人選択会議、ドラフトはことしから高校生の部を先にやることになった由。しかしきょうのドラフトではひどい不手際があったらしい。

 第一巡目で大阪桐蔭の辻内をジャイアンツとバッファローズが、第二巡目で福岡第一に野球留学している台湾の陽をファイターズとホークスが抽選で争った。夜のニュースを見ると、一巡目、バッファローズの中村ゼネラルマネージャーが得意満面の笑みでクジを頭上に差し上げた。そして二巡目、ホークスの王監督が同じように満足の笑みを浮かべた。指名作業が順に進められる間、辻内、陽はそれぞれに記者から感想を求められた。辻内は内心の気持ちを押し隠し硬い表情で「りっぱなチームに指名していただき・・・」といい、陽は意中のチームということでこぼれるような笑顔をふりまいた。

 しかしファイターズからクレームがついた。いずれのクジにも日本プロ野球機構「NPB」の判が捺してあり、当たりクジにはさらに「交渉権確定」の判が捺してあった。中村と王は「NPB」の朱印を当たりの意味と勘違いし、堀内は中村のジェスチャーに気圧されてクジを確かめず、ヒルマンは外人故にクジに捺してあるもうひとつの判の文字が読めなかった。そしてなにより迂闊なことにドラフトを運営する機構側の人間がこれを確かめもせずにアナウンスをしてしまったというのがトラブルの原因だった。

 辻内は暗から明に、陽は明から暗に、変わることになった。ニュース映像は二人の表情の変化をそのままに映し出していた。「・・・この子、よう泣く、守をば、いじる・・・」(竹田の子守歌)、辻内、陽の二人はともに「いじられた」のだった。

 根来コミッショナー「判が紛らわしかった、選手には申し訳ないが、誰かを責める話ではない」というようなことをしゃべっていた。まるで他人事だ。プロ野球機構、就中、このコミッショナーの頓珍漢ぶりについては、去年のスト騒ぎで先刻承知とはいうものの、あらためてそのお粗末ぶりが満天下に晒された。

 辻内には言葉はいらないだろう。だが陽にはこう言ってやりたい。君の国の「塞翁が馬」という故事を、是非、思い起こして欲しい。「禍」は「福」を生み、「福」は「禍」を生む。それをまわすのは他ならぬ自分だ、と。(10/3/2005)

  あした内定式があるとかで、**(息子)、帰宅。修論の進み具合はまあまあとのこと。テーマは「アメリカの戦争権限法」とか。

 戦争権限法はベトナム戦争の反省からできた法律の由。宣戦布告のない武力行使に対しては議会の事後承認を必要とするという内容なのだが、アメリカの憲法上は戦争の遂行は大統領権限ということで法制上の問題があり、歴代の政府は表面的にはこの法律の掣肘を受けないとしながらもこの法律の枠を意識しているのだということ。既に最高裁ではこの法律を特定してではないものの行政府の権限を立法府が侵すことを違憲とする判決が出ている。・・・。いくつも面白い問題が隠れていそうでなかなか興味深い。志木に出かける時間ギリギリまで話し込み、あわてて家を出る羽目に。

 秋山ちえ子の「日曜談話室」、きょうで最終回。88歳。最後の言葉も「きょうはこれで。皆様、ごきげんよう」だった。「談話室」やその前身までを入れると57年間、これほど長い間、しっかりした視点と的確な言葉で大から小までの社会問題を語ってきた人がいったい何人あげられることだろう。

 秋山さん、ご苦労様。(10/2/2005)

 おととい知財部に「審査請求せず」と回答した。10万円の賞金をもらった特許提案の扱いを尋ねてきたものだ。たなざらし特許提案に10万円ももらえたのはビジネスモデル特許アイデアコンテストに応募したからのことだった。当時の情報システム事業部は解体してしまったし、医療システム関係を持参金として***(関係子会社)にいった**の能力ではあのビジネスモデル特許を活かすことは夢のまた夢だ。

 それなりには調査し考えたプランだったが、会社としての実現可能性だけは考慮しなかった。多少の思いを込めて記録しておく。「発明の名称:薬剤処方情報管理装置、薬剤処方情報管理システム、薬剤処方情報管理方法およびその方法をコンピュータに実行させるプログラム」、「出願番号:特願2001−******」、「特許出願公開番号:特開2002−******」。

 こんなことを思い出したのは「一太郎訴訟」に対して知財高裁がきのう松下に逆転敗訴の判決を下したから。例のヘルプモード時にマウスカーソルに「?」マークを付加するというちょっとしたお便利機能について松下電器産業が自社の特許製を主張しジャストシステムを訴えた件。松下幸之助が生きていたら「そんなもん、どこが特許ですねん」といいそうな代物だが、こんなものでも「知的財産権」を主張するのがいまの流儀。犯罪的な競争社会、アメリカが震源地の「グローバル・スタンダード」だ。

 最近ではどんな商売をするかということまでが理屈の付け方ひとつで特許になる。それをビジネスモデル特許と呼んでいる。なんともやせ細った神経症のような話だ。キャンペーンだったから「特許」提案とはしたが、あんなもの特許でもなんでもないといまでも思っている。賞金を返すつもりはサラサラないけれど。(10/1/2005)

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