志木市が教育委員制度の廃止を盛り込んだ構造改革特区申請を出す由。「教育の専門家ではない教育委員に担当させるから、責任の所在が曖昧になり、問題に対して迅速に対応できないのだ」という理屈らしい。教育委員は廃止して教育長を残しこれに権力を集中させ、必要な事項は有識者で構成する諮問委員会に図るというのだが、有識者と現行の教育委員がどう違い、諮問委員会と現行の教育委員会がどう違うのか、さっぱりわからない。もともとコイズミの「構造改革」がどんな「構造」をどのように「改革」するものかわからないのだから、志木市の構造改革特区申請が訳のわからない鵺のようなものになるのは、論理的必然なのかもしれぬ。

 教育委員制度が形骸化していることは事実だが、教育委員の公選制を任命制に変え、国民の教育権の空洞化を狙ったことこそが形骸化の元凶になったことは誰でも知っている事実だ。さすれば、その形骸化のどこに命を吹き込むかの検討がなくてはならぬだろうに。教育基本法の個人尊重の精神を抜き去れば、教育問題は一気に解決するという酔っぱらいだけが理解できる政府・自民党の「教育改革論」に一脈通じていて、これは時代の病なのだろう。

 形骸化している、効率が上がらないのは教育委員会だけではない。この国の間接民主制は、もうずっと前から、形骸化し、非効率で、なんの成果も上げ得ないものになっている。いっそのこと、民主主義だの、代議制だの、そういうものを全部捨てちまったら、どうだ。

 志木市長よ、教育委員を馘にする前に、まず自分の馘から切れ、愚か者。(6/30/2003)

 6/28は高校の同期会があり、帰宅しなかったので、記録がありません。

 ただ、下の息子が、その日、出かけるまでの話を書き留めてくれているので、こちらの6/28の項をご覧ください。

 結局、土曜日は、同期会終了後、二次会、三次会とこなし、品川のホテルに泊まってしまいました。

 以下は、翌日の記録。(文中の「書きにくい感情」というのは親としての誇らしい気持ちと、「いいとこで仕事してやがる」という男としての軽い嫉妬のことです)

 ・・・(前略)・・・**くん、**さんとカレッタへ。はじめて電通の新社屋を見た。**(上の息子)はここで仕事をしているのかと思うと、何とも書きにくい感情にとらわれた。

 **も、**も、**も、ごく当然のように理科系に進んだ。思い込みだったといわれれば、そうかと思わぬでもないが、我々の世代には「男は理科系」という意識が強かった。頭が悪いから文科系、格別数学が苦手でなければ理科系に進むのが当たり前という風潮だったと思う。だから**が意識的に法科をめざしたのはすごく意外な感じがしたものだった。

 なによりファウストの言葉、「この世界の深奥ですべてのものを統べている仕組み、それが知りたい」というのは高校時分の気持ちそのものだった。SF少年の発想で、「宇宙のどこに行っても真理であるような知識、地球以外の世界に放り出されても役立つ知恵、そういうもの以外のものは偽物だ」と思い、法律だの経済だのというものをまともな学問だなどとはあまり考えていなかった。

 大学紛争の渦中でのいくつかの体験は、多少、科学少年に現実を見ることを教えてくれたが、虚業を生業とする気持ちにはついにはなれず、実業と信じるメーカに勤めることにした。単純な男が生き方を選び取ってきた原則はたったこれだけのことだ。

 カレッタの地下広場からそびえ立つビルを見上げ、体をなでてゆく心地よい風を感じながら、**(息子)の眼からはこの風景はどんなものに見えるのだろう、彼と彼の世代にはここから広がり、転がってゆく世界はどう意識されているのだろうと、ふと、思った。(6/29/2003)

 ****(あるメーリングリスト)でちょっとひそかにからかいをこめてタイトルを「Menschliches, Allzumenschliches」とした。書名は「Ecce Homo」同様よく知っているが読んだことがないという点では同じ。タイトルに拝借しながらどんな本かも知らないというのではと思い本屋でちょっと探してみた。

 頭から難しい哲学書と思いこんでいたは不明、アフォリズム集ではないか。龍之介の「侏儒の言葉」に始まり、朔太郎の「虚妄の正義」、ピアースの「悪魔の辞典」、フロベールの「紋切り型辞典」、・・・、アフォリズムには目がないつもりでいながら、この本がそれと知らなかったのは迂闊な話。

論争のおり。――或る他の意見に反対すると同時にそのさい自分の意見を展開するときには、通常他の意見に対するたえざる顧慮が自分の意見の自然な態度を狂わせる、それはいっそう意図的に、いっそう鋭く、おそらくはやや誇張されて現れる。

ニーチェ 「人間的、あまりに人間的」から

 最近この日記もそんな書き方になってしまったなぁと長嘆息したり、片えくぼを浮かべたり、・・・、どこを拾い読みしても楽しめる。意地の悪い動機で出会えた本だが、こうしてみると心の狭さも必ずしも悪いものではない。(6/25/2003)

 「家族の会」の横田夫妻と増元照明、飯塚繁雄、これに国会議員他を加えて十数人が韓国の拉致被害者家族会の招きで昨日から韓国を訪問している。会を牛耳る蓮本透がメンバーにいないのはなぜだろうという気がしたが、ニュースで横田早紀江が「私たちの訪問で韓国でも拉致問題について関心が高まることを願っています」と言っているの見て、彼らの認識はこの程度のものなのだと妙に納得してしまった。

 どこで聞いた話か忘れてしまったが、韓国の家族協議会は、韓国政府の協力も国民の支援もなしに、既に数人の拉致被害者を脱北者のルートを使って救出した実績を持っているはず。どこぞの「家族会」のように「皆さんのご理解とご支援により我々を助けてください」ばかりを繰り返しているわけではない。横田早紀江はそういうことを知った上で、あんな口ぶりで話をしたのだろうか。

 もちろん北朝鮮と国境を接する中国東北部に言語を同じくする朝鮮民族が居住している、そういう好条件を日本の家族会は持ち得ない。ならば、どんなことができるか。朝刊には「家族会のメンバーは、今年3月からたて続けに米国政府とジュネーブの国連人権委員会を訪問し、家族みずからが動くことで国際世論の喚起をめざしてきた」とあるが、もっと有効で厚みのある活動を彼らは企図できないのだろうか。たとえばICC(国際刑事裁判所)への働きかけのような。

 ICC設立条約は既に89ヵ国で批准され、この3月にハーグに設置されている。ICCの設立条約にはこんな条文がある。

第7条 人道に対する罪
@本規程の目的に関して、「人道に対する罪」とは、いずれかの一般住民に向けられた広範な攻撃または系統的な攻撃の一環として、この攻撃を知りながら行った次に掲げる行為のいずれかを意味する。
   ・・・(略)・・・
i)強制失踪
   ・・・(略)・・・
A第一項の目的に関して、
a)「いずれかの一般住民に向けられた攻撃」とは、このような攻撃を行うための国家的もしくは組織的政策に従って、またはこのような攻撃を行う国家的もしくは組織的政策を維持するために、いずれかの一般住民に対する第一項に掲げる行為を多数行うことを含む一連の行動を意味する。
   ・・・(略)・・・
i)「強制失踪」とは、国家もしくは政治的組織によって、または国家もしくは政治組織の許可、支援もしくは黙認によって、人の逮捕、拘禁または拉致をすることであって、これに続き、長期的な期間についてこの人に対する法の保護を取り去る意図をもって、このような自由の剥奪の事実を認めることを拒み、またはこの人の生死または所在に関する情報の提供を拒むことを意味する。

國學院法学37巻2号(1999年) 「国際刑事裁判所規定(仮訳)」

 ICC設立条約では、条約加盟国でこうした犯罪が行われた場合はその容疑者が非加盟国にいる場合もICCは容疑者を訴追し、裁判にかけることができるとされている。北朝鮮による拉致はまさに第7条i項に規定する国家犯罪行為そのものであるとともに、北朝鮮は去年の9月、拉致行為そのものを公式に認めているのだから、我が国はICCに金正日と北朝鮮政府を告発し、事件の解決と責任者の処罰を求めればよい。話は簡単なはずだ。話が簡単でないのはたったひとつ。このICC設立条約を、今日現在、我が国が批准していないことだ。

 イギリス・フランス・ドイツを含めヨーロッパのほとんどの国はこの条約を批准している。批准していない大国はアメリカ・ロシア・中国くらいのものだ。ブッシュ政権がみずからが拒否するだけではなく、ICCそのものを敵視して、いくつかの国に援助の停止をちらつかせて設立条約を批准しないように圧力をかけていることは周知の事実。その対象国にブッシュの忠犬「ジュン・イチロー」が宰相を務めているこの国があるというわけだ。

 さて、拉致問題。拉致問題を他の政治問題とリンクさせて扱えば解決が難しくなることはもともと分かり切っていた。それを強硬一点張りのお馬鹿さんたちが、展望も、行き詰まった時の方策もなしに、無理矢理政治問題化してしまったのだ。しかし、いまとなっては言っても詮ないこと。とすれば、可能性のあるものはすべてリストアップして検討するしかない。ICC訴追に向けた働きかけは有効なはずだ。北朝鮮はICC設立条約に署名もしていなければ批准もしていない。しかし、ヨーロッパ各国がそろって批准して設立されたICCの検事局から捜査要請が入れば北朝鮮としても粗略には扱えないだろう。北朝鮮と国交のある国は意外なことにヨーロッパには多い。アメリカとの外交的戦いに対応しなければならない現在、ヨーロッパ各国から見放されることは北朝鮮としては可能な限り避けたいはずだ。

 誘拐事件で人質の安全をおっぽり出して犯人に「圧力」をかけて「解決」をめざす刑事がいたら「バカ」と罵倒されるだろう。拉致問題を核だのミサイルだのの問題といっしょくたにして、経済制裁だとか軍事的圧力をかけて解決しようというのは、人質など死んでもかまわない犯人を捕まえて処刑することが先決だというのに似ている。

 拉致問題は可能な限り政治とは切り離し、政治問題の場にポイントを持って臨みたい北の心理を逆用するぐらいの「戦略」が必要だろう。「外務省は敵だ」などと主張し、組織人事にまで介入しようとしながら、自分たちは、終始、他力本願の「家族の会」。いまやお気の毒なのは彼らの境遇ではなく、彼らの発想力の貧しさや行動力のひ弱さに仄見える彼らの能力の低さになりつつある。(6/24/2003)

 「保釣行動委員会」なる民族団体が仕立てた船に中国・香港のメンバーが乗り尖閣列島に押しかけた由。そういえば我が方にも同様の行動をとった「民族派」がいた。尖閣諸島の領有権に関し、日本、中国のいずれに客観的な理があるものか、よくは知らない。こちらの立場からすれば、あれほど広大な領土を保有する国ならば、ちょっとくらい譲ってくれてもいいように思うが、漁業資源、海底油田、あるいは沖ノ鳥島が果たすような領海確保の土塁としての役割などあるとすれば、持てる国とて簡単には譲れぬ事情があるのだろう。

 もとより無人島。どちらが先に見つけた記録があるかという話になれば、紀元前から歴史記録を取り始めた国に敵うはずはない。こちらの側で島を見つけた可能性としては琉球の人になろうけれど、琉球を日本という国がどのように扱ったかを考えれば、「日本人が先に見つけていた」というのはかなり図々しい話だ。もっともそれは大陸中国と台湾の関係をあげれば、まったく同じ事情かも知れぬ。とすれば、ふつうに考えて、相応の国が相応の理屈を主張することがらは、双方頭を冷やして共同領有するのが賢明な選択というもの。今更、たった数個の無人島を賭けて日中戦争をするわけにもゆくまい。

 ただ、それで収まりがつかぬのが両国の「熱血民族派」の連中だとしたら、どうだろう、ここは双方の国の「熱血民族派」から数十か、数百かの人数を決めて、同数を尖閣諸島のどこかの島に住まわせてみては。共同で無人島を住みよい地に開拓するなら上々。どうしても「シナのチャンチャン坊主がいけ好かない」、「南京の同胞をなぶり殺しにした東洋鬼(トンヤンキ)を許せぬ」となれば、双方で殺し合いをするがよかろう。最後の残り一人まで憎い敵を殺し尽くした折には、残った者の国の領有権を認めることをあらかじめ堅く約した上で。(6/23/2003)

 3時半からの「山田太一の世界」を見た。「判決」の高橋玄洋を別にすれば、山田太一はドラマを見た後、脚本家の名前を確かめ、記憶し、逆にその名前があったら必ずその作品を見るようになった第一号だった。

 番組は近々リメイクでオンエアされる「高原へいらっしゃい」の前座PRだったが、「それぞれの秋」、「岸辺のアルバム」、「沿線地図」、「ふぞろいの林檎たち」などの懐かしい場面が次々と紹介され、山田太一の問題意識が日本の社会のうつろいときっちりかみ合ったものだったということを再確認した。

 インタビューを受けたそれぞれのドラマ出演俳優がいろいろなことをのべた中で、ちょっと印象に残ったところを記録しておこう。

 中井貴一:「山田先生のドラマのせりふはすごく無駄なものが多いんです。でも我々の日常は必要な会話だけをぴしぴしと交わしているわけではなくて、そういう無駄な会話がほとんどで肝心なことは『アッ、それから、何々ね』みたいなところにだけちょこっとあるんですね。だから、せりふがすごく自然なんです」(これは正しいのだが、山田太一のせりふは必ずしも自然ではなく、ある種のクセとリズムがある)

 岸恵子:「笠智衆さんのおじいちゃんのせりふに『子供なんて、つまらんよ』というのがあるんです。あれは山田先生にしか書けないな、そう思いました」(沿線地図というドラマの核心はじつはここにある。笠の演じた老人はその後、自殺するのだが、家族が崩壊し、ある種の常識すらもなんら個人を支えなくなる中で、ではいったいどこに希望を持つかということについての裏返しの表現がこの言葉なのだ)

 山田太一にはNHKで制作された「男たちの旅路」、「シャツの店」、「ながらえば」などの秀作がある。番組がTBSである以上、それらは取り上げられなかった。いや、「早春スケッチブック」や「丘の上の向日葵」はTBSだったはずだが、時間の制約だったのか取り上げられなかった。これらを網羅できたら、もっとよかったのにと思うと少し残念だった。(6/22/2003)

 **(息子)の本棚にあった浦沢直樹の「モンスター」を読み終えた。最終巻が少し弱い感じはするが、全18巻、コミックながら、堂々たる構成の物語だった。

 最終章。母がいずれの子供を選んだのか、そこまでは「ソフィーの選択」だ。二卵性双生児にしてある分、もう一ひねり。彼女は、そのとき、差しだそうとした子を差し出したのか、それとも間違ったのか。そして、ラストの空のベッドの意味するものは・・・。(6/21/2003)

 見終わったばかりの「ニュース23」から。出演したTBSの政治記者によると、先日の小泉の「フセイン大統領は見つかっていない。だからといってフセインがイラクにいなかったといえるか」という言葉は、その二日ほど前にアーミテージが訪日記者会見の席で発言したものそのままなのだという。

 小泉がこれは使えるギャグだと思ってそういったのか、それともこの言い回しがブッシュ政権内部で流行っていて、アメリカに洗脳された成果として口走ってしまったものなのかはわからない。いずれにしても、彼の国の下僚の言葉をこの国の宰相が嬉々として語る風景は、もはや我々の税金は日本国のためにではなく、アメリカ合衆国のために使われるようになってしまったことを想像させて、怖い話だ。(6/19/2003)

 消費税率のアップが足音を忍ばせながら迫ってきている。「広く」、「薄く」が消費税導入の時の説明だった。もう「薄く」などという宣伝文句は使われなくなった。かわりに最近は「応分の」という言葉をよく聞く。しかし、おそらくこの「応分の」という言葉もあまり使われなくなるだろう。少し考えれば、「応分」ではないことなど誰の目にも明らかになるから。

 消費税はまず所得の多寡に関わらずかかるから公平だというストーリーになっている。企業の購買活動についても消費税がかかるのだから、自然人・法人をこえて公平だと思っている人も多い。が、それは違う。価格転嫁できる仕組みを持っている者にとって、消費税はつけ回しのできる伝票に過ぎない。企業は消費税を負担などしない。消費税の負担者はどこまでいっても個人なのだ。

 そして消費税がすべての物品・用役について一律に同率となっている以上、消費税支出はエンゲル係数の高い人に高い負担率を強いる仕組みだ。なぜなら、必要不可欠なものしか購入できないのは、低所得者の特性だから。だから、けっして応分の負担などという言葉は成立しない。貧乏人に社会を動かすコストを負担させる仕組み、それが消費税だ。それでもその税金が負担者を支えることに使われるなら、まだ救われる。しかし、「広く」、「薄く」、「応分の」などという言葉で実態を隠そうとしていること、それ自体がカネの使い先の不明朗さを表していると考えた方がよかろう。(6/17/2003)

 2000年11月大統領選直前にクリントンが金正日をアメリカに招待していたという話。金大中が退任後初めてのテレビ会見でのべた由。記事から。

 金正日総書記について「最大の関心は対米関係改善であることは明らかだが、金委員長がいつも良い機会を逃す」と指摘。その例として「後日、クリントン大統領が私に手紙を送ってきてわかったが、金委員長に訪米を招請したのに応じなかった。そして、米国は共和党政権になり、すべてが原点に戻ってしまった」と語った。

 南北首脳会談開催にからむ北朝鮮への不正送金問題で金大中の側近が今週にも検察の取り調べを受けるという時期だけに、メディア受けを狙ったトピックス作りの可能性は否定できない。

 北朝鮮では金正日は弱小国を大国同等に国際社会で評価させる外交の天才ということになっているらしい。だが、この話、そして昨年の日朝首脳会談でせっかく拉致問題を認めるという思い切ったカードを切りながらそのあとの展開がまるでできない事実などを考え合わせれば、金正日の外交感覚は哀れむべきレベルにあるといえそうだ。

 相手のレベルがこの程度ならば、我が方が外交の主導権をとるぐらいはたやすいことのはずだが、こちら側の外交レベルもさして変わらない。さらには「家族の会」だの「救う会」だのという無能集団が「外務省は敵だ」などと公言し足を引っ張り、また、そのさまをかなりの国民が拍手しているのだもの、クアラルンプール以降、膠着状態が続くのもむべなるかなだ。(6/16/2003)

 昨日のタイガース−ジャイアンツ戦、BSの完全中継で観戦。隅一で進行した試合の5回表、初回にホームランした二岡を伊良部はライトファールフライに討取った。そのイージーフライを怪我から復帰した浜中がポロリとやった。中継にはそのときの一塁側観客の表情が映った。いつもの甲子園のファンは厳しい。エラーなどはメガホンを叩いて本気で怒ってきたものだ。しかし、そんな観客は見あたらない。寛容な笑い顔が多かった。中継のアナウンサーは「阪神ファンには余裕があるようです」といった。直後、命拾いした二岡はレフトスタンドに一本目よりは距離の長いホームランをたたき込んだ。

 ふと「寺田落球事件」のことがよぎった。61年ホークス対ジャイアンツの日本シリーズの潮目となったあの「落球」のことだ。圧倒的に有利な場面で起きたつまらぬエラー。勝利の女神は当然のようにエラーで命拾いした方に微笑んだ。ホークスはその試合だけではなく、シリーズそのものを落とした。たしかにその試合はその落球のあとも、サードのエラーや、アンパイヤの明らかなミスジャッジなどが重なり、「劇的」になってしまった試合ではあった。しかし、イージーフライを捕っていれば、ドラマなど起きようはずもなかったのだ。

 昨日の試合、病み上がりの浜中を、星野監督は、左の高橋尚成というだけの理由で起用した。そのこととエラーは直接には結びつかない。しかし、問題の落球の次の回、浜中は右肩痛を再発して退場した。西村欣也は朝刊にこんな風に書いた。「見切り発車だった・・・(略)・・・『コーチが出場を進言したら、おれが決断する。最後は勇気を持たなあかん』。監督はそうも話していた。・・・(略)・・・故障が悪化するのを予見しながら出場させることを、『勇気』とは呼ばない」と。

 寺田の落球はそれだけでは暗転の材料ではなかった。しかし、いくつかの条件が重なると勝負事の流れなどたやすく変化するものだ。まして、その変化のきっかけを監督自らが作っていたとしたら・・・、と、きょうの試合を興味津々楽しみにしていたら、3時40分、雨で中止。タイガースにとっての悪い流れは雨で流されただろうか。明日がよけい楽しみになってきた。(6/14/2003)

 グレゴリー・ペックが亡くなった。朝のスタンバイ、小沢遼子が「顔がよかったわね」というと、森本毅郎は「スターの顔が崩れはじめたのはスティーブ・マックィーンあたりからかな」と応じていた。

 「ローマの休日」の記者役か。いや「アラバマ物語」の弁護士役だろう。グレゴリー・ペックの演じた役柄は「フェアなアメリカ」として長い間心に焼き付いた。ひょっとすると我々の世代の多くは自分の理想をこの国の誰かの姿に仮託するよりも、アメリカ映画のヒーローに重ね合わせていたかもしれない。「アラバマ物語」の弁護士、「十二人の怒れる男たち」のヘンリー・フォンダの演ずる名もない陪審員、「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーの演ずる保安官、・・・などに。その中でもいちばんストレートに共感できたのはやはりグレゴリー・ペックだった。

 古き、良き、アメリカ。そんなものが幻想であることは、もう百も千も万も承知しているけれども、初恋の人が永遠であるように、心の中のあこがれのアメリカは消えてはいない。そして、その象徴のような彼も。享年87歳。(6/13/2003)

 「イラクの大量破壊兵器」に対するアメリカ・イギリス国内の検証論議が始まっているらしい。

 まず、アメリカの状況を端的に示しているシーンから。DIAの報告書に「イラクが化学兵器を持つ確たる証拠はない」というくだりがあるという「DIA疑惑」について、「フライシャー大統領報道官は9日の記者会見で『大統領は様々な形の情報を持っている。総合的に検討すれば(イラクにWMD−大量破壊兵器−の脅威が存在するという)大統領の発言の根拠になる』と説明した。しかし、記者団から『DIA情報よりも重要な他の情報があると思うのか』と追い打ちをかけられると『いや』と、答えに詰まった」。嗤わせる光景だ。ツルンとしたお坊ちゃん面のフライシャーが抗弁できずに泣き出しそうな顔つきで棒立ちになっている様子が目に浮かぶ。目つきの悪さで凶悪犯を連想させるライス補佐官などは早くも「大統領はWMDに関する情報をCIA長官から聞いている」と責任転嫁モードに入り始めた。面相どおり、悪知恵がはたらく切れ者なのだろう、彼女は。

 イギリスの場合はもっと深刻だ。イラク武力攻撃に反対して辞任した閣僚がいるからだ。ショート前国際開発相は「首相は内閣を欺いた」と発言し、クック前下院院内総務は「イラクの大量破壊兵器を戦争の大義名分にしたのは長く記憶すべき愚行だ」と手厳しい。アメリカのような薄っぺらな国なら問題にもならないかもしれないが、「歴史にとどめるべき愚行」というのは伝統のある国においては屈辱的な勲章だ。ブレアの片腕といわれるキャンベル戦略・報道局長がMI6のディアラブ長官に機密情報の扱いを内閣として誤った事実を認める謝罪の手紙を出したことが報ぜられている。ブッシュのような狡猾ないいわけは既にブレアにはできなくなっているらしい。

 昨日の夕刊にブッシュやブレアが指導した「戦争」で命を落としたイラクの民間人犠牲者を調査したAP通信の現在までの集計値が出ていた。その数、3,240人。本当に大量破壊兵器が出てこなかったとき、国際社会はブッシュやブレアを戦争犯罪人に指定するだろうか。それとも、それはほんのミステークで片づけられてしまうのだろうか。(6/12/2003)

 党首討論の一コマ。「大量破壊兵器は見つかっていない。開戦前、あなたが大量破壊兵器がイラクにあると判断した根拠はなんですか」という質問に対し、小泉は「フセイン大統領も見つかっていないんですよ。だからといって、フセインがイラクに存在していなかったって言えますか」と応えた。ニュース映像で、そう言う宰相の背景に映っている男の口が「詭弁だ」と動いたように見えた。その隣に竹中の笑い顔が並んでいたところを見ると、与党議員かあるいは何らかの理由で待機している官僚だったか。いずれにしても、身内もさすがに、「それは詭弁だ」と思ったということか。

 それにしてもこの応じ方にはなんとなく統合失調症(ほんの少し前まで「精神分裂病」と呼ばれていた)患者の匂いがしないでもない。何か質問の中心が「意図して外されている」というより「意図なく外れている」感じがするからだ。ちょっと怖い想像ではあるが。(6/11/2003)

 夕刊に初代宮内庁長官を務めた田島道治の残した資料の中に詔書の草稿と思われるものが発見されたという記事。その文書は田島が48年に宮内腑長官になった頃書かれたと推定される由。全文は今日発売の文藝春秋に発見経緯説明とあわせて掲載されているらしいが、夕刊掲載の部分を書き写しておく。

 「勢ノ趨ク所能ク支フルナク(略)事ヲ列強ト構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終リ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル」と記され、「静ニ之ヲ念フ時憂心灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」と、責任の重さをかみしめている。
 続けて「天下猶騒然タリ」とし、「敢テ挺身時艱ニ當リ」などと、皇位にとどまる意向を示し、国民の「同心協力」を求めている。

 記事にもあるが、これが天皇の意を受けて作成された詔書案だったのか、個人的に作ったものだったのかは、これだけでは確定できない。はっきり言えることは、どの程度まで裕仁個人の責任を認めるのかについて、宮廷内部でも相当に幅広い意見があったということだ。

 裕仁は占領軍と国民動向の双方を見極めざるを得ないという現実認識の中で、できるなら「朕ノ不徳」とは書きたくないという気持ちでいただろう。自らの地位の保全のために沖縄を勝手にアメリカに差し出しても恥じなかったくらいだから、内心は「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」など露ほども思ったことはなかったに違いない。そばにいてそれが分からぬような者に宮内府の要職が務まるはずはない。だが、それでもなお、「勢ノ赴ク所」といういいわけをつけながらも「不徳」という言葉を用いる「案」が用意されたというところに、当時の宮中の「混迷」の深さがよく現れている。

 とすれば、往時の宮廷内部の「国体護持」を中心とした政治力学の展開に関する知見は、案外、現在の北朝鮮に対する分析に役立つかもしれない。金正日の在位を守るのか、あるいは金王朝とそれにまつらう人脈の保全に防衛ラインを引き下げるのか、そういう判断がどのようなプロセスを経て出されるものか、それにはどのような人々までが関与し、どのような政治闘争がなされるのか、蒼氓を置き去りにした「国体=体制」の絶対視という制約条件の下での政治的化学反応という点で両者は共通しているのだから。(6/10/2003)

 万景峰号の日本向け出航見送りのニュースが伝えられたのは昨日のことだった。北朝鮮のミサイル構成部品に日本製品が使われているというのは紛れもない事実だろう。だから今回の税関チェックの強化と船舶安全審査の実施は当然の措置だろう。

 ところで、多くの人は、米上院での北朝鮮元ミサイル技師の証言があって、万景峰号の裏稼業に疑いがかかったという、マスコミ報道の流れをそのまま信じているのだろう。しかし、おそらくそれは順序が違う。万景峰号、そしてその他の北朝鮮の貨物船がミサイル部品の密輸に関わっているという情報は日本の公安当局がかなり以前から把握していたもので、今回、日本政府が然るべき措置をとるためにその情報を伝え、トリガー役をアメリカに依頼したというのがほんとうの流れだろう。証言の舞台となったのが「米上院」の「政府活動委員会」の「金融管理・予算・国際安全保障小委員会」―なんとまあ面白い名前の委員会であることか―の公聴会、証言者は既に97年(6年も前のことだ)に中国に脱出した元ミサイル技師などという寝惚けた話は、こう考えるとすっきりと理解できる。

 そういう見方に立つと、今回の政府のやり方は「入港拒否」という国際慣例を無視する野蛮な方法を回避し、非常にスマートなやり方で北朝鮮に打撃を与えたわけで高く評価すべきだと思う。

 問題はこれに並行して、かつ、波状的、持続的に北に揺さぶりをかける次の一手、さらなる次の一手を着実に打ち続けることができるかということだ。それなくしては今回の措置は北朝鮮に向けの「布石」とはならず、単なる国内向けガス抜きパフォーマンスに堕してしまう。「入港阻止」と聞いて万歳を叫んだ「家族の会」や「救う会」、あるいはファナティックなプチ・ナショ・マインドの人々に満足感を与えたらそれで目的達成というのではあまりに志が低いと言わざるを得ない。(6/9/2003)

 暮れにフランスを回った時、その風景の美しさにため息をついた。名だたる観光地は当然かもしれないが、移動の途中バスの窓外に展開する変哲もない田舎の路地も、田園の近景・遠景、点在する農家の裏庭、すべてがこの国の風景とは格段に違って美しかった。

 5時半からのTBS報道特番・盧武鉉大統領市民対話なるものを見た。必然的に3年ほど前の朱鎔基首相の市民対話番組のことを思い出した。二人に共通するものはほとんど何もない。朱鎔基には長い長い権力闘争を戦い抜いてきたある種のすごみがあり、盧武鉉はどちらかというとまだぽっと出の初々しさのようなものがちらつく。しかし、共通して言えるのは型どおりの受け答えの端々に巧まざるユーモアがあり、人を惹きつけるものをもっているところだ。朱には鬼のような面構えに似合わぬ茶目っ気さえあった。

 若さと未熟さが見えないではない盧だが、ありたい理想と強いられた現実の間を埋めようともがく情熱が感じられる。韓国の若者が彼を推したわけはわかるような気がする。やり取りを見ながら、大統領制(首相公選制といってもよい)も悪くないかもしれないと思ったほどだ。

 頭の中で、小泉、森、小渕、橋本、村山、・・・とたどっていって「風景」の違いに愕然とした。世論調査の小泉支持理由の中に必ず「他に適当な人がいない」というものがある。朱鎔基はもちろんのこと、盧武鉉に匹敵するリーダさえ持ち得ないというこの現実。

 彼の国の風景は美しく、この国の風景は貧しい。そうつぶやきながら90分は過ぎた。(6/8/2003)

 DIA(国防情報局)の報告書に「イラクが化学兵器などを保有している可能性はあるが、それを裏付ける有力証拠はない」と書いているというニュースをCNNやロイターなどの有力メディアが流している。興味深いのはその報告書が去年の9月にまとめられたものだということ。

 ジャコビーDIA局長は「大量破壊兵器がらみの具体的な施設を特定できなかっただけ」とか、「有力証拠なしは長い報告書の一部にすぎない」とか、「イラクの大量破壊兵器の存在を疑ったことはない」とか、陳弁に努めているようだが、ブッシュ政権の舞台裏はやはり相当にお粗末なものらしい。

 母さん、ぼくのあの大量破壊兵器、どうしたでしょうね、ええ、バスラからバグダッドへゆくどこにでもあるはずだった、あの大量破壊兵器ですよ、・・・、兵士たちは見つけようとずいぶん骨折ってくれましたっけね、だけどとうとうだめだった、・・・。(6/7/2003)

 麻生太郎にソウル大総学生会から講演の招待状が来た。「お忙しいでしょうが、ぜひご高見を承りたい」、「これまで様々な著名人を招き好評を博していますが、この講演で成果の倍増を期待しています」とあるという。

 「創氏改名は朝鮮人が望んだこと」という東大五月祭での発言に対応しての話。麻生のもともとの発言は講演後の質疑の中でのもの、おおよそ次のようなものだったらしい。

質問者:中国や韓国と外交をするうえで、歴史問題をどうすればいいと思うか。
麻生氏:歴史認識を一緒にしようといっても、隣の国と一緒になるわけがない。たとえば朝鮮人の創氏改名の話。日本が満州国をやる前に創氏改名の話が出たことは一回もない。しかし、当時、朝鮮の人たちが日本のパスポートをもらうと、名前のところにキンとかアンとか書いてあり、「朝鮮人だな」と言われた。仕事がしにくかった。だから名字をくれ、といったのがそもそもの始まりだ。これを韓国でやりあったら灰皿が飛んできた。そのときに「若い者じゃ話にならない、年寄りを呼んでこい」と言ったら、おじいさんが現れて「あなたのおっしゃる通りです」と。ついでに「ハングル文字は日本人が教えた。うちは平仮名を開発したが、おたくらにそういう言葉はないのか、と言ってハングル文字が出てきた」と言ったら、もっとすごい騒ぎになった。その時もそのおじいさんが「よく勉強しておられる。あなたのおっしゃる通りです」と言って、その場は収まった。やっぱり、きちんと正しいことは歴史的事実として述べた方がいい。

 平仮名のようなものはないのかと尋ねたらハングルがあるという返事だったというだけのことを「ハングルは日本人が教えた」などと断言したり、日本政府が発行するパスポートならば日本人に見せた時に朝鮮人だからと差別されないように記載してくれということが創氏改名を積極的に望んだことの例証になるかのように話すなど、好んで「誤解」を招くような話し方をしているのは「意図」があってのことだろう。

 いずれにしても韓国の老人が物知りと誉めてくれたというのなら、自信満々、「誤解」を解きにソウル大で講演・対話をするのがよろしかろう。できれば、前回、韓国でもめた時に貴重な証言をしてくれた件の老人も同席させるよう手配をしておく方がよい。間違っても、多忙を口実に逃げ回るようなことはすべきではない。麻生太郎という人間が政治家としてホンモノかどうかが問われていると考えるべきだ。

 麻生の発言に抗議したデモにはこんなプラカードがあったという。「私を金太郎(キム・テラン)と呼んでください」。麻生太郎でいられるか、キム・テランになるか、太郎はどちらを選ぶのだろう。(6/6/2003)

 もう日傘の季節なのか。けさは立て続けに日傘をさしている人を見た。それが全部黒い日傘。雨でもないのに傘と思ったのは誤解。黒い笠を雨傘と思ってしまうのはこちらの認識不足。紫外線の遮断のためには白より黒がいいということで、最近の日傘は黒いものが売れている由。

 しかし・・・、明るい日の光にはやっぱり白系統の色がしっくりくる。もし「パラソルの女」がさしているのが黒傘だったらあれほどさわやかな印象、スカーフをなびかせる風の香り、降り注ぐ光の豊かさまでも感ずることができただろうか・・・、などと思いながら工場の門をくぐった。

 若い女性たちがおじさんの目を楽しませるために日傘をさしているわけではない以上贅沢は言えないけれど、ならば細心の注意をはらって紫外線対策をしている程度には色白であってほしい。これも勝手な注文ではあるが。

 夕刊から。96年に発覚した厚生省汚職事件の上告棄却が決定した。収賄の岡光序治、懲役2年、追徴金63,691,780円、贈賄の小山博史、懲役1年6月、追徴金2,000,000円が確定。戦後の汚職事件で、事務次官経験者の実刑が確定するのは初めての由。(6/5/2003)

 品質管理学会の会誌が回覧でまわってきた。4月号の特集は「シックス・シグマ」。GEが採用し、劇的な効果を上げたとかで近年話題の品質改善手法らしい。TQMとの違いに着目した理科大の狩野紀昭の「シックス・シグマのユニークさはどこにあるか」に面白いくだりがあった。

 要するにアメリカの品質管理界は、古くなったものを若返らせるために、「名称を変える」ということもひとつの方法論として活用してきたのである。この場合、必ずしも中身まで完全に新しくなることではない。
 このように見てくると、「シックス・シグマは、あと何年持つか」あるいは「シックス・シグマの次は何か」ということが疑問として浮かびあがってくる。最初の疑問については多くの人に尋ねてみたが、短くいう人であと2年、長くても5年くらいと見ているようだ。・・・(中略)・・・そこで、目下シックス・シグマのビジネスで成功しているコンサルタント会社の社長に「貴社の寿命もあまり長くは期待できないようだね」と言うと、彼は平然と「何が出てきても、中身は変わらないから、表紙を変えれば翌日からでもビジネスができるよ」と言っていた・・・(後略)・・・。

 いつか書いた「去年と同じではダメ」という強迫観念が行き渡った競争社会をふつうの人が泳ぎ切るにはこういう「お仕立て直し」という手法が役に立つのだろう。「アメリカ文化」などというもののほとんどはこういった「処世術的浅薄さ」の異名に過ぎない。

 それにしてもコンサルタントなどという商売はこんなものなのか。「××ではダメ。これからは△△です」、「△△はもう古いですよ。○○こそがビジネスを変えるのです」、「○○の欠点を克服する◎◎で御社はV字回復」、・・・。まさに「標語は踊る、されど進まず」、そして「コンサルは蔓延る」というわけだ。落ちを書いておこう。「まだ◎◎でやっているのですか。先進の会社はもう"ネオ・××"です。乗り遅れた会社は淘汰されます」。(6/4/2003)

 昨日からのエビアンサミットのニュース映像、読み上げる原稿、特派員の言葉にギャップがある。アメリカがサミットを軽視する姿勢をみせた以上サミットの存在感と役割は小さくなりつつあるという類のコメントが多いのだが、映像を見る限りそんな風には見えない。同期会に出てきたかつての番長。みなコクリと会釈くらいはするのだが積極的に話し込む者はいない。やっと見つけたかつての子分にやたら大声でのべつまくなししゃべりまくる。集合写真撮影の時もじっとしておられず、しきりに小泉に話かけるブッシュの様子からそんな連想をした。サミットであれほど孤独なアメリカ大統領を見たことはない。

 サミットが曲がり角にあることは紛れもない事実のようだが、それはアメリカの変心のせいというよりは、サミットがG7からG8へ、そして中国を含む拡大対話の枠組みへの転換を迫られているからというのがあたっていよう。ホワイトハウスの記者会見でライス補佐官は今回の中国の招待を「最近の途上国支援に関する国際会議のトレンドに沿ったものでロシアをG8に加えた経緯とは違う」とことさらにいってみせたというが本心ではあるまい。中国の名目GDPが世界経済に占める割合は既に2000年度でロシア、カナダを抜き、イタリアに並んでいる。中国を抜きにした経済論議がいずれ無意味なものになることは間違いないのだから。拡大対話こそがサミットの次のステージを開く鍵だ。

 シラクはアメリカへの対抗の意味だけで拡大対話を演出したのではない。それは参加メンバーの顔ぶれを一覧すればわかる。エジプト・アルジェリア・ナイジェリア・南アフリカ・モロッコ・セネガル・メキシコ・ブラジル・中国・サウジアラビア・マレーシア・インド・スイス、そして国連・世界銀行・国際通貨基金・世界貿易機関。アジア、南米、アフリカから欠くべからざる国を選び、そのすきまに抜け目なく旧フランス植民地を入れて国際関係変化の流れの中にフランスの足場を構築している。

 各国首脳の背広の襟にはちょっとばかり大きめの丸いバッチがついていた。シラク、シュレーダー、プーチン、クレティエン、そして小泉もつけていたところを見ると、どうやらエビアンサミット記念バッチだったのかもしれない。(首脳の並列する写真を見ると、プロディEU委員長とシミティス・ギリシャ首相がバッチを付け、ブレアとベルルスコーニはノーバッチだった)。ブッシュは、と見ると、彼の胸にはあいかわらずあの金正日バッチによく似たデザインの星条旗たなびきバッチがついていた。ブッシュの孤立は深い。それが今年のサミットの印象。(6/3/2003)

 朝刊のオピニオン欄に長谷川眞理子が国立大学法人化について痛烈な批判を書いていた。

 この法案では、各大学は、研究教育の中・長期計画を文部科学省の指示に沿って提出し、それを文部科学大臣が認可することになる。また、大学の運営に広く「社会」の意見を反映させるという名目のもと、大学の経営を決める評議会が設けられ、その構成員の半数以上は学外者となる。・・・(中略)・・・全国立大学の教育研究方針を認可するような文部科学省、文部科学大臣とは、いったいどんな実績のある立派な組織であり、人なのだろうか? 「社会」を代表するとされる学外者とは誰なのだろうか?

 多くの場合文部科学大臣は国会議員の中から選ばれるが、現実の国会議員に自然科学と社会科学一般について相当の見識のあるものがいったい何人いるだろう。大学の運営を審議する評議会の委員にはきっと財界の有識者なる人物が加わることだろうが、財界人の中に長期の文明的展望に関する眼力を持ったものがいったい何人いるだろう。

 この国は既に何回か、ノーベル賞受賞後に文化勲章をおくるという喜劇を演じて見せている。ノーベル賞が絶対の尺度とは思っていないが、この国でふつうに動いている仕組みの中では田中耕一は見落とされていたということは肝に銘じておいた方がいい。

 どうしてもというなら評議会メンバーは、同様に検討中の裁判員制度のように、市井の人々を無作為に抽選か何かで選ぶことにすればいい。その結果、自分がどこぞの大学の評議会の委員になったとして、おまえは「田中耕一」を拾うことができるかと問われればその自信はない。自分がその程度の見識と眼力しか持たぬことに自覚はある。市井の人々のほとんどもまた同様に己の能力に関しては謙虚だ。だが国会議員と財界人のほとんどは自信満々で己がどの程度無知であるかについてとんと自覚がない。結果として市井の人々から構成される評議会は、時に「田中耕一」を見捨て、時に別の「田中耕一」を拾うことだろうが、有識者たちが構成する評議会は常に自信を持って「田中耕一」を切り捨てることだろう。

 そもそも、この国の国会議員と財界人に相応の人が一定以上の確率で存在したなら、失われた十年はあれほど惨めなものにはならず、結果、今日のこの現状はもっとましなものになっていたはずだ。政治の三流ぶりはこの半世紀、すべての人が認めてきた事実だ。政治が三流といわれるたびに経済は一流とふんぞり返っていた財界人、その彼らの三流ぶりもいまは折り紙がついてしまった。そして文部科学省はといえば、君が代・日の丸というイデオロギーだけが堅固な能無し集団、彼らが教育をいじるたびにこの国の教育が低迷の惨状を示すのは、食糧自給率を30パーセント台に下げ「場当りノー政」の名をほしいままにしている農林水産省に似ている。

 自覚のないバカにくちばしを入れさせるのは間違いという長谷川の主張は正しい。(6/1/2003)

 家族の会と救う会が外務省の田中審議官と平松北東アジア課長の更迭を求める緊急声明とやらを出した由。理由がふるっている。田中は「日米首脳が圧力行使で立ち向かうことを妨げたから」で、平松は「国連人権委員会作業部会に拉致問題に関するおざなりな政府回答を出した」からだという。

 なんでも隠そうとする外務省の体質は改めるべき問題だ。体質を改めるためには元凶にあたる人間を馘にすることも必要かもしれぬ。田中の馘を切って体質が改まるものなら、それもよい。しかし、そんな話ならとっくの昔に外務省の体質は変わっている。外務省の病んだ体質の真因は隠すことにあるのではない。確たる見識も見通しも持たず、外部批判をおそれ、ひたすら不透明な圧力に怯え、キョロキョロとあたりを見回す事なかれ主義こそが病原だろう。

 家族の会や救う会の諸氏は「圧力行使を邪魔する奴は許さん」といきり立っているのかもしれぬが、ことは「対話」と「圧力」のいずれでゆくかの二者択一ではない。ふたつのうちのひとつしか方法がないと思いこむのは彼らの頭が悪いからのことで普通の人間はごく自然にそのふたつをともに使うのだと考えている。

 今回の会談で「武力行使」が決まったわけではない。どういう面子になるのかは流動的ながら、「対話」からスタートすることになるのだ。どのような報道があろうと、北朝鮮は「圧力」の話が出ていることなど当然予想している。その前提で「対話」と「圧力」の二枚のカードが両方ともオープンになっている状況、「対話」のカードだけが開かれもう一方のカードが伏せられて見えない状況、そのどちらの状況で「対話」を開始するのか、最前線のプレーヤーにはそれなりの意見や判断があってもちっとも悪いことではない。外交交渉のテニヲハも知らぬ愚か者たちが、そういう自主性を圧力でつぶそうというのなら、外務省の病気は当分治らないだろう。(5/31/2003)

 夕刊の片隅の小さなニュースをふたつ。ひとつは、CIAとDIA(国防情報局)は28日、イラクで発見したトレーラー2台を移動式の生物兵器製造施設と断定した報告書を発表した。もうひとつは、東京地検は28日、国際捜査共助法に基づくペルー政府からの要請にしたがいアルベルト・フジモリを民間人15人を左翼ゲリラの協力者と誤認して殺害した事件の指揮命令容疑で事情聴取した。

 前者に関する報告書の記載が嗤わせる。「細菌などの物証は見つからないが、ほかの正当な用途は考えにくい」。おいおいパウエルが安保理で断言した「明白な証拠」はどこに行ったんだい。あれはパウエルの勘違いかい。

 そして後者。ペルー政府は犯罪容疑者フジモリの身柄引き渡しを求めている。それに対して我が政府はフジモリは日本国籍をもっているとしてそれを拒否しているのだが、この国はいつから二重国籍を認めることにしたんだい。

 フジモリがペルーの大統領になれたということは彼の正式な国籍はペルーだということを意味している。日本の国籍は錯誤によって維持されたものなのだから無効であることは明白だ。フジモリは政治亡命を求めたわけではない。したがって相手国からの犯罪人の引き渡し要求があった場合はすみやかに引き渡さなくてはこの国は法治国家とは言えない。

 ペルーがアメリカの軍事力を有していたならば、この国は今頃どうなっていたことだろう。ないものをあるといって徹底的に爆弾を落とす国だ。犯罪容疑者の正当な引き渡し要求に応じなかったとしたら・・・。ああ、恐ろしい。(5/29/2003)

 朝刊に静岡空港建設の現況が載っている。建設準備に着手して10年になるがまだ未収用地があるほか、飛行の障害になる山林の伐採も必要らしい。ともに地権者の反対が根強く、県は強制収容の準備を始めたという記事。

 静岡に空港を作ってどこに飛ばすつもりなのか、県作成の資料によると、国内は札幌、福岡、鹿児島、那覇の計4路線、年106万人。国外はホノルル、グァム、シンガポール、バンコク、台北、香港、上海、北京、ソウルの計9路線、年34万人とある。これらの路線に国内便で日に17便、国際便が週に34便就航するのだそうだ。羽田からは国内4路線合計で日に107便、名古屋からは41便が飛んでいる。羽田や小牧までの移動を考慮して最大限ひいき目で見てもこの競争は厳しい。国際線に至ってはこれも無駄金を使っている中部国際空港のことを考えれば「静岡国際空港」などはまさに画餅。

 このあたり事情は県の利用者見積を見るとよくわかる。空港の設置許可申請をした95年には利用者見積は年に178万人だった。2000年に再試算をした時には121〜128万人に修正され、それがいまは106万人。遮二無二こぎ着ける完成の時期が迫るにしたがい、徐々に図々しいウソはつけなくなりつつあるものと見受けられる。

 バブル発想から一歩もぬけ切れていない愚かな知事の名前は石川嘉延という。後日、静岡空港が100万人の利用者はおろか、50万人の利用者にも充たない日が来た時のために記しておく。(5/28/2003)

 荒川洋治が新聞仕立てにした歴史本の話をしていた。面白さはふたつ。まず事実関係の語り口の新鮮さと並行する世界の出来事の取り合わせの意外さ。

 「織田信長公、本能寺にて自刃」、「国造りの途半ばにして無念の死」、「明智光秀はテロリスト、羽柴氏語る」、「秋の改暦に向け、欧州各国、準備着々」、等々。最後に書いたのはユリウス歴からグレゴリオ暦への変更のこと。信長晩年の一連の行動に元亀・天正の改元があり改暦に関する天皇の権威を奪う挙に出ていたことを思い合わせると不思議な暗合と思うが、もし歴史の各場面においてこのような報道があったならばどうだったろうかと想像すると楽しい。もし、光秀が秀吉の常識を越えた「大返し」を知っていたら、どのように備えをしただろうか。荒川もそのような話をしていた。

 問題はワーテルロー会戦情報をロスチャイルドがどのように使ったかというあの有名な挿話に帰す。情報をつかんだとしても、あのときのロスチャイルドのように的確に使うのでなければ、さしたる成果には結びつかない。まして現在のように報道が過多になると、押し寄せる情報の中から何をどのように関連づけるかがことの帰趨を決めることになる。さらに路傍の並行情報に影響されて、そういうものがなければあり得なかったことが起きないとも限らない。それが叡智に基づく判断であるか、錯誤に基づく反応であるか、はたまたそれがよい結果を生むか、とんでもない惨禍につながるか、それらの組合せすらも量りがたい。

 たとえば、ブッシュ。精いっぱい善意に解釈するとすれば、彼は細部の情報に引きずり回されて歴史的大局を見失っている。CIAあたりの情報、「極秘」という言葉だけに幻惑されるのは、頭が悪い人間にはありがちなことだ。情報の見方、使い方の要諦は所詮サル知恵では会得できないのだ。(5/27/2003)

 小泉−ブッシュ会談が終って、ブッシュが「北朝鮮に拉致された日本国民の行方が一人残らず分かるまでアメリカは日本を完全に支持する」とのべたことが報ぜられ、関係者は歓迎しているようだ。誰も異論はあるまい。しかし、日本政府なり関係者の具体的な活動があってはじめて、アメリカ政府も「支持」し甲斐が出てくるというものだが、その手だてはいったい誰がどのように講ずるのだろう。

 虎穴に入らずして、虎児を得ようという姿勢に終始している人たちには状況は開かれない。自ら状況を切り開く勇気を持たない者が、「支持」やら「支援」やらをいくら取り付けてみてもそれらはただのリップサービスに終始する。かえって寂しさと惨めさが増すばかりだ。さあ、あなた方はどうするのだ。(5/24/2003)

 きょう配信の日経SmallBiz、辰巳渚の「ニュースのツボ」が面白かった。題して、「駆け込み乗車という習性につける薬はあるか」。

 「ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください」、十年一日のごとく駅員は叫んでいる。辰巳は駆け込み乗車は体に染みついた習性、「もっと厳密に言えば、ベルが鳴り終わっても、駅員が『ドアが閉まります』と言っても、走ればその電車に間に合うことを知っているから駆け込む習性」なのだという。この手の習性は至る所に存在していて、世の中が暗黙のうちにそういうことを許容しているから誰もがそれにあわせた行動をとる習性を身につけているのだと断ずる。(辰巳は例として、交差点信号の変わり目、公的資金注入、生保の予定利率の引き下げなどを列挙している)

 辰巳は、ドアが閉まりますと放送したら本当に閉めることをルールにするか、逆に、駆け込む人がいる限り絶対に占めないことをルールにして、それらを確実に実施するしかないだろうと書いている。問題はルールを守ることにどれだけの強制力を持たせるかだが、ルール化をしても「ルールなんて守るほうがバカで、うまく立ち回る者が生き延びていく世の中でもいい。誰もがそう望むなら」と書いていて、最後はいかにもコラムっぽい結び方で締めくくっている。

 ケインズが有名な主著の中で述べた「美人コンテスト効果」は、社会行動の多くは自分自身がどのように思い行動するかではなく、多くの人々がどのようにふるまうかということに対する個人の解釈が社会を支配するということだった。したがって、ドアを閉めるといったら何があろうと閉めるというルールを厳格に運用し、結果としてルールを守らないと危険なことがあると覚悟させるならば、少なくとも駆け込み乗車は撲滅できるはずだ。(5/22/2003)

 朝青龍が厳重注意を受けたらしい。一昨日の対旭天鵬(訂正:旭鷲山)との取組に負けた朝青龍が行司にアピールするように相手の勇み足を指し示すしぐさをしたり、勝ち名乗りをうけに戻る相手の肩にふれるや乱暴にさがりを取り去りそれがあたるなどが横綱としての品格に欠けるということ。大相撲のスポンサーたるNHK、さっそくけさのニュースでビデオをつけて報じていた。映像で見ると勝負にこだわり、悔しさいっぱい、けっして見よいものではない。

 新聞はどう書いたのだろうと、昨日の朝刊を繰ってみると、「負けた時にこそ泰然と構えるのが横綱だろう。・・・『カチンと来るよ。うん、来場所はやり返す』と不敵に笑った横綱。だが、好角家が土俵に求めるのは『子供のけんか』ではない・・・」と散々だ。

 かつての横綱達の負けた時の表情というものの記憶が薄いところをみると、表情の乏しさこそが横綱の品格を証明するものだったかという気がしてくる。そうか、「木鶏」たることこそが横綱の理想とされているのか。(5/21/2003)

 料理用語の本が売れている由。レシピなどには「かつらむき」だの「さいの目切り」だのと書いてあるが具体的にはどういう風にするのか分からないという人が増えている・・・、そういうラジオを聴きながら「そうかねぇ」と思っていたら「くし形に切るというの分かりますか」ときた。分からなかった。答えは半月切りのこと。「くし」とは柘植の丸櫛のこと。ふと三平のことを思い出した。

 林家三平が「この噺はどこが可笑しいかというと・・・」とやっていたあれだ。この言葉をマクラに「落ち」の解説を笑いにするという手口なのだが、笑うのは少数、多くの客は「なるほど」とうなずくばかりというのが可笑しかった記憶がある。(志ん生の「火焔太鼓」のラスト、「おじゃんになっちまう」を、いま、心から笑える人はおるまい。我々が笑うのは然るべき頭の作業の後のこと。それは語るやいなやの弾けるような笑いとは違うものだ)

 言葉の重心も常識の重心もすべて移動してゆく。それは人々の生活の実態が変わってゆく以上はあたりまえのことだ。しかし、残っている言葉のひとつひとつについて意識の眼を行き届かせないと、我々は日本人でなくなってしまうような気がする。(5/20/2003)

 徳島県知事選の結果を記録しておく。県議会で不信任、失職を選んだ大田知事と総務省出身の県環境部長飯泉嘉門との争い。大田、197,732、飯泉、206,221、投票率63.39%。

 円藤寿穂の汚職辞任による昨年の選挙の際は贈賄容疑側で動けなかった土建屋一派もほとぼりが冷めたと見て今回はフル稼働、吉野川可動堰建設反対派を基盤にする大田に対する積り積った恨みを晴らすことができ、ニュース映像で見ると当選した飯泉以上に喜色満面、喜び爆発の体だった。

 飯泉は、先月の県議選で不信任を通した自民党現職議員が5人も落選するや、利口な官僚の本領を発揮、あっさりと焦点と見られた可動堰の建設見送りを宣言して、ひたすら「ゴタゴタ一新」だけを訴えたらしい。彼は旧自治省で過疎債や辺地債などを軸にした地方補助金行政の推進者だった。カネを引き出すにはどのように国に尻尾をふったらよいかを心得た、いわばプロ中のプロ。旧型の知事としては十分に有能さを発揮することだろう。

 徳島はまたまた古い衣を脱いで脱皮する機会を意識して見送ったということだ。もっともそんなことは徳島に限ったことではない。補助金漬けの地方公共団体は覚醒剤中毒者に似ている。補助金が切れることを極端におそれ、スポット的な痛みの緩和のみならず日常の営みをすべてをこれに依存している。だから、その「売人」を出向の形で受け入れ、ひたすらこれに低姿勢でのぞみ、ついには自らの意志を失ってゆくのだ。(5/19/2003)

 今週初め、曽我ひとみの家族から手紙が届いていたというニュースがあった。

 肺ガン摘出手術を受ける前に曽我が書いた手紙を内閣官房拉致被害者・家族支援室は、最初、北京の北朝鮮大使館に取り次ぎを要請したところ拒否された。やむなく支援室が通常郵便で送ったところ、それに対する夫ジェンキンスからの返事が4月のはじめに来たというものだった。ニュースを聞いたとき、これはどういうことかと思った。北朝鮮は国家管理の監視社会のはず。通常郵便の送発信はすべて当局の監視の下にあると考えられる。一方で取り次ぎを拒否しておきながら、それが通常郵便としてならば夫の下に届き、夫が書いた返信が同様の形で日本に届くということの意味するものはなんなのだろうかと。

 まず考えられることは北朝鮮当局のパフォーマンス。つまり、日本政府が介在するものは交渉が頓挫した現在は受け付けられないが、個人が郵便を取り交わすものは(検閲は行うものの)積極的に禁ずることはしない、そういう程度には北朝鮮も近代国家なのだ、という。しかし、それよりはチャールズ・ジェンキンスにはそういう待遇が与えられているという解釈の方があたっているかもしれない。現に蓮池夫妻が子供に宛てた手紙に対しては返答がないということだから。

 これに関する報道で朝日新聞がジェンキンスの平壌における住所を報道し、曽我がこれに抗議。朝日は謝罪すると共に、けさの朝刊に社内調査の結果を載せている。個人の住所を地番、アパートの階、号室に至るまで掲載した朝日のプライバシー感覚には呆れる。曽我がこれに抗議したのは当然ことだ。

 しかし、もう少し突っ込んで考えてみると、ジェンキンスからの手紙が届いたという事実の報道そのものが問題ではないか。もし、今回の手紙の往復が北朝鮮当局が意識して成立させたものであるなら、ジェンキンスの住所の報道の有無は当局になんの影響も与えないだろうが、万一当局の何らかの不手際によってからくも適った僥倖であったならば、手紙の往復があったという報道により今後の機会は確実に奪われてしまうと考えるべきだ。本質はプライバシーの問題である以上に報道の可否の選択の問題であろう。問題点が間違っているような気がする。(5/18/2003)

 夜のトップニュースは9日から13日までのあいだ関西を観光旅行した台湾人医師が帰国後SARSを発症したというもの。中国関係の入国ばかりを警戒していた盲点をつかれた形。それにしても医者という職業のわりには自覚に乏しいように思うが「紺屋の白袴」ということか。

 ほかにも、りそなホールディングスに2兆円規模の公的資金注入が決まったこと、モロッコでユダヤ人センターほかを狙った連続爆弾テロがあり24人が死亡したこと、今晩は盛りだくさん。(5/17/2003)

 川辺川ダムの目的に関する福岡高裁判決。利水目的に対して反対の訴えを起こした原告農民の勝訴。判決理由は「同意率が不足している」というもの。土地改良事業は国営であろうと県営であろうと完成後は土地改良区に引き渡され事業対象者がその運営費を負担することになる。使う必要のない水を「確保」してもらってカネを請求されるのはいやというのはある意味で当然の話。それでも建設を推進しようとするから、一人に何回も署名させたり、対象者でもない者に署名させて「数」を稼ぐ不正に走った、と、そういうことだろう。

 これで「利水」という目的は否定された。あとには「治水」という目的が残った。またぞろ「洪水が起きたら、誰が責任をとるのか」という噴飯ものの「恫喝」が繰り返されることだろう。そういう手合いのうち一人としてかつて発生した水害の責任をとった者などいないのだから嗤わせる。(5/16/2003)

 「治に居て乱を忘れず」という。だから有事法制を検討・制定しておくことは必要なことだ。現在が「治」にいる状況かどうかには多少の議論があるかもしれない。しかし、少なくとも「乱」にいるわけではない。とすれば、きちんと筋道を立てて基本事項を固めるところから検討し立法すればいいはずだが、不思議なことにこの国の政府はいつもその先のことにばかり注力をし、基本事項を後回しにするかまったく手をつけずに放っておく癖がある。

 まず、個人情報をいかに保護するかを固めてから住民基本台帳法の改正を行うのが手順であろうにあえてこの手順を逆にした。そして、こんどは有事の際の国民の権利保護に関する条項はすべて後回しにして、ひたすら軍権の確保ばかりを規定するものを先に作ろうとした。その際の理屈が可笑しい。「国民の基本権は当然のことだから書かない」というのだ。そんなことをいうなら、外国が我が国土に侵攻した際に自衛隊に協力するなど当然のことだからそんな法律はいらぬという理屈になってしまう。自分の理屈がどれほど間抜けなものか気付かぬとすれば、政府・与党の面々の知能指数はおよそ軍事・安全保障を論議するレベルにないと断じてよい。

 その当然の条項を単に尊重すると書いただけの修正にどれほどの意味があるか大いに疑問はあるが、ともすれば相手を面罵するのみでまっとうな議論ができなかったこの種の問題について、多少とも相手の声に耳を傾ける姿勢が見られたことはよい兆候かもしれない。

 思えば、旧憲法は兵制に関して十分な規程を持たなかった。それは帷幄上奏権が憲法制定以前に定まっていた事情によるが、統帥権という鬼子はその兵制と憲法のすきまから生まれ、帝国を台無しにしてしまった。新憲法もある意味で似たような問題を引き起こしている。つまり第九条の記述が強すぎて軍事に関する法体系が憲法の埒外に作られその掣肘を受けないという状況を生んでいる。いくつかの政党が戦争放棄条項にのみとらわれ、そこから一歩も動こうとせず結果的に軍事・安全保障に関する真摯な議論がほとんどなされてこなかったというのは旧憲法の危うさに一脈通ずるところがある。

 形ばかりのことで、「よい兆候」などと書くのは大げさな話だが、なお、少し明るさを見ようとしているのは、こういう「危うさ」の解消に進めばと期待するからだ。(それにしても「有事」の定義は目を覆いたいほどひどいものだが・・・)(5/14/2003)

 サウジアラビア、リヤドの外国人居住区に連続爆弾テロがあり、百人近い死者が出ている由。犯行はアルカイダによるものということ。

 アフガニスタンにあれほどの爆撃を行い、もう一年半以上たったというのに、アメリカはまだビンラディンを捕まえることができていない。イラク「戦争」だってテロリストグループを封じ込めることも目的にし、ブッシュなど「これでアメリカと世界はより安全になった」と胸を張ったはずだが、あれは臆病な犬の遠吠え程度のものだったのか。

 アメリカは爆弾をピンポイントで落としてついでに無辜の人々を殺すことは抜群にうまいらしいが、テロリストという犯罪者を検束するという地道だが一番効果のあることはとんと苦手なようだ。人殺しが得手で平和に暮らすことが不得手、なんのことはない「テロリスト」さんと同じ穴のムジナではないか。(5/13/2003)

 神戸連続児童殺傷事件の「酒鬼薔薇」に擬せられた少年(既に彼も二十歳)がこの秋にも少年院から仮退院するというニュース。世間的には酒鬼薔薇聖斗はこの「少年A」ということになっている。したがってニュースの内容も少年の心の病が癒えたかどうかということに焦点があてられている。

 だが、おそらく、彼は酒鬼薔薇聖斗ではない。あの事件に人々が戦慄したのは犯人が中学生であったからだと思っている人が多い。しかし、よく思い出してみるとそれは最初の理由ではないはずだ。我々が薄気味悪さに寒気を覚えた最初の理由は、犯人が被害者の頭部を切り離し中学校の校門にそれを据えたこと、その頭部が著しく毀損されていたことにあった。

 被害者の頭部はさらし首として立てておくことができるように切断されていた。「第二頸椎の下部を鋭利な刃物で切断」というのが司法解剖結果。最初からさらし首にすることを意識して切断に及ばない限り、第二頸椎を切断することはない。頭蓋骨に非常に近く相当高度な技術を必要とするはずだから。つまり、さらし首にするという目的が明確にあり、そのためにはどうしなければならないのかに関する正確な知識を持たずに首を切り離す行為に出るならば、凡百のバラバラ事件のように第五頸椎あたりのもっと切りやすい場所を切ってしまう方がはるかに自然だということ。ただ、そのときには頭部はさらし首のように立たなかった。酒鬼薔薇の狙った効果は半減したことだろう。

 当時14歳だった「少年A」にそういう知識だけでなく、その知識を活かすだけの技術があっただろうか。酒鬼薔薇聖斗は別にいる確率が高い。(5/12/2003)

 頭部切断に関する論考があります。ご一読いただければと思います。
 少年が「自白」して、なおそれを翻していないとおっしゃる方もいるでしょう。おそらく14歳の彼には自分を防御することができなかったのではないかと思います。彼にとっての「暗い森」は、警察・肉親・弁護士・・・すべての人だったのではないかと思います。

 冤罪ではなかったかといわれながら、ついにそれを否定しなかった類例に小松川事件の李珍宇がいます。

 TBSの報道特集、ひとつめのテーマが北朝鮮の核問題。といっても主に十年前の金日成=カーターによる決着の舞台裏に関する話。カーターの訪朝によって集束に向かった前回の危機の時、アメリカは一方では北朝鮮の核施設に対する爆撃を検討し、一方では外交チャネルによる解決を模索していた。

 金日成=カーター会談の合意ポイントは、会談の行われた94年6月よりはるか前、クリントンの大統領就任以前、つまり、パパ・ブッシュが大統領であった頃から、国務省の一部北朝鮮担当官によって検討され、北朝鮮側と水面下のシグナル交換を行って固めたものだという。

 一方でクリントンは当時の韓国大統領、金泳三に北朝鮮に対する軍事攻撃の了承をとりつける電話を入れていた。会談が核開発の「凍結」で合意したとの連絡を受けて軍事攻撃案は棚上げされ、戦争は回避されたわけだ。我々がそれと意識しないうちに第二次朝鮮戦争はすぐそこまで迫り、状況を知らぬままに遠ざかっていたということらしい。恐ろしい話だった。(5/11/2003)

 **が載っているとかで**がan・anを買ってきた。こういう雑誌にはそれなりの興味がある。だが本屋で立ち読みできるわけでもなければ、病院の待合室でも手に取るわけにもゆかない。ある意味で鏡に似ている。鏡に映る自分をじっくり見たい気持ちはあるが、鏡を見ている自分を他人に見られるのは絶対にいやだ。それがうちにある。条件が整うのを待ってちょいと手に取ってみた。

 女性向けなのだから、いわゆる「イケメン」の写真がどっさりかと思いきや、吉岡美穂・佐藤江梨子・小池栄子・乙葉のグラビアで始まる。タイトルは「男にウケている女たちの魅力に迫る」。続く記事が「合コン必勝の掟」、「モテる女になるための肉体改造」、「あなたの男ウケ度は何%? チャート診断でチェックして」。ファッション関係の記事も「徹底研究・男ウケする服」ならば、料理に関する記事も「料理上手は女の武器!? シンプル和食でハートを掴む」という具合。いくら特集「男にウケる女」だとしてもゲップが出てきそう。(料理上手だけに?マークが添えてあるというところが興味深い)

 立派なものだ。ひたすら「敵を知る」ことが勝利の否決という「孫子」の至言に学んでいるのだから。ところでこの雑誌の読者にとって「敵」は男性なのだろうか、それとも同性である女性なのだろうか。(5/10/2003)

 メーラを「Eudra」から「手裏剣」に変えた。日本語入力中に英数入力に変わってしまうという不具合にイライラさせられるからだ。「Eudra」以外のアプリでは発生しない。去年秋、代理店が「クニリサーチ」から「オン・ザ・エッジ」に変わったときにバージョンアップの案内が来た。新代理店にボーナスを稼がせるためによくやるセレモニー、名ばかりのバージョンアップに決まっているといったんはパスしたのだが、日本語変換をATOKに戻した関係から不具合が直っていればと2月にバージョンアップした。

 ところがこの「新」バージョン「Eudra」はとんでもない代物だった。添付ファイル名が日本語だと文字化けするのだ。サポート電話が常時話し中で絶対につながらないのは別にこの会社に限った話ではないが、メールで問い合せをしてもなしのつぶて。再三、督促のメールを出して初めて返事が来た。「ファイル名の文字化けは確認しております。修正版が3月末にできますのでそれまでお待ち下さい。入力モードが変わるのは確認されておりません。何か分かりましたら、お知らせします」といういかにもあっさりしたもの。サポートのホームページをみると、昨年の10月にバージョンアップ版をリリースし、ほどなく障害が分かり修正版リリースをアナウンスしながら既に何回か延期しているらしい。そのくせダウンロードしたバグ入りバージョンアップ版の代金はさっさとクレジット引き落とししているのだから、なんとまあちゃっかりしていることか。Eメールの添付ファイルなどは基本機能中の基本機能、しかもクニリサーチ・バージョンでは何の障害もなかったのだから、開いた口がふさがらない。

 修正版のリリース案内が来たのはなんと4月1日のことだった。代理店変更時にすぐに飛びついたユーザがいたとしたら半年も待たされたことになる。やっとできた修正版の案内メールがふるっていた。「以前より問題になっておりました、Windows版での日本語添付ファイル名の文字化けについてですが、今回の修正内容には明記しておりませんが、添付ファイル名の取り扱いに関する仕様を変更しました」と書いている。添付ファイル名が文字化けするなぞは正式の商品としては恥ずかしくて、とても「修正内容には明記」できなかったのだろう。

 さて、肝心の英数入力モードに勝手に変わってしまう件。これの回答が待てど暮らせど来ない。もう、督促する気にもならない。基本機能の不具合を半年も放置して平然としていたことを考え合わせると、「オン・ザ・エッジ」改め「エッジ」という会社には期待をする方がムダという気がしてきた。

 そんな折「JustSystem」の「手裏剣」の体験版があるのを知り試してみたら「Eudra」とは雲泥の差。インターネットを始めて10年。その間ずっと「Eudra」とつきあってきた。愛着はあるが捨てることにした。「手裏剣」は「ベクター」に支払う手数料を含めても\3,780、ドブに捨てた(「エッジ」に支払った)カネは\2,100だった。使い込んだソフトを捨てさせたのは「エッジ」という会社のいい加減なサポート体制と必要も改善もない名目的バージョンアップでカネをせびりとろうとする姿勢に対する不快感だった。(5/9/2003)

朝に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて尽きざるに
軽舟 已に過ぐ 万重の山

 これ以上なく有名な李白の「早発白帝城」。

 朝刊に「三峡ダム始動」という見出しで水没する文物の話が載っている。ダムは来月一日から湛水を始め半月で水位が135メートルになる由。白帝城は人工湖に浮かぶ島になるらしい。

 松浦友久は「漢詩」のなかで「三峡の名勝『白帝城』は、後漢の公孫述が白帝山上に築いた城塞に始まるが、そこには、三国蜀の劉備が諸葛孔明に遺孤(遺子)劉禅を託したという史実が加わり、さらに唐代の李白や杜甫の名作が加わって、もっとも鮮烈なイメージを具えた詩跡として定着した」と書いた。

 中国にとっては年間847億キロワットアワーの発電計画がからんでいる。どこぞの国の土建屋の土建屋による土建屋のためのダムとは少しばかり違ってそれなりの期待を実現するダムらしい。他国の者からは口出しできないこととはいえ、水没する文化財が1180件というのは胸が痛くなるような話。

 もうひとつの杜甫の名作を書き写しておく。

秋興
玉露凋傷す 楓樹の林
巫山巫峡 気 蕭森
江閧フ波浪 天を兼ねて湧き
塞上の風雲 地に接して陰る
叢菊ふたたび開く 他日の涙
孤舟ひとえに繋ぐ 故園の心
寒衣 処処 刀尺を催し
白帝 城高くして 暮砧急なり
(5/8/2003)

 去年の暮れ、トゥールからモンサンミシェルへ向かう途中だったと思う、キャンピングカーがまとまって止められているのが見えた。ガイドのルミさんに尋ねるとロマ用の専用地だという話だった。最近のワイドショーネタ、白装束集団「パナウェーブ」に関する報道を見聞きしながら、その光景を思い出した。岐阜から長野、長野から山梨、そしてまた山梨から長野と隊列をなすワゴンがさまよいまわるさまがかつての「ジプシー」のイメージと重なったからだ。

 白装束の理由は共産ゲリラの電磁波攻撃を回避するため、自分たちのワゴンは小惑星衝突の際のノアの箱船だ、・・・などをまくし立て、時に取材するマスコミに殴りかかるなどの映像が、かつてのオウムを彷彿させるせいか、行く先々の町村がちょっと過剰に反応している。中心部へ入る町村道を封鎖するところさえ出てきた。どれほど気味が悪かろうとこれまでのところ道交法違反と国有林損壊(「損」はあっても「壊」はない)以外の不法行為は確認されていないのに「おらが村に入っちゃなんねえ、すぐにも出てけ」というのはいささか常軌を逸している。

 もっとも、先日の「サンデージャポン」に出てきた橋本某なる弁護士など「人権人権とバカのひとつ覚えをいう憲法学者もいるが、何か起きたらどうするんだ。不審者を取り締まるのは当然だ。警察は何をしてるんだ」と「予防検束」を主張していたくらいだから、もう時代はほとんど大衆ファシズム前期に入っているものと見える。

 「おカネ、どうしてるんだろ?」、「寄付やら何やら、あるんだろ」、「誰が出すの?」、「さあ、・・・、ひょっとすると政府から出てたりして」、「えっ、なんで?」、「白装束騒ぎしてるあいだに、個人情報保護法も、有事三法も、ちょっと難しい話はどんどん国会通ってるんだよ」、「トットコハムタローね」、「えっ、なに、それ」。**(家内)との会話。(5/7/2003)

 夜のニュースで拉致被害者家族の会のメンバーが韓国の拉致被害者家族と都内で懇談した模様を伝えていた。やっと彼らも地に足の着いた活動を始める気になったらしい。

 韓国の拉致被害者は韓国政府の認定で486人。規模と期間の双方で我が国に対するものよりはるかに大規模なものだが、国連人権委員会ではあまり大きく取りあげられていない。同一民族であること、分断国家であることなどが背景にあるのかもしれない。韓国の拉致被害家族の孤立感は大きい。

 同様の境遇にあるものどうしが手をつないで国際社会に訴えることは、それぞれの政府が国内の政治的思惑に振り回されて揺れ動く中では、基本的な軸を据えるという点で有効だろう。韓国内の事情については知らないが、現に我が政府は10年以上も前から「拉致事件」を認識しながら、国連人権委員会に対する働きかけは昨年まで一回たりともしてこなかったのだ。

 国連を国際協調の場として尊重する国々に対して日本・韓国という複数の国の被害者が集めうる最大の声を集めた活動を展開する方が物見遊山のような「アメリカ詣で」や「拉致はテロだ」というコマーシャル・コピーみたいな言葉遊びなどよりはるかに有効で問題の早期解決に役立つだろう。もっともこれで飯を食おうとしている節の窺える一部の会員にとっては解決が長引くことこそが望みなのかもしれないが。(5/6/2003)

 こどもの日の今日もまずまずの天気。日と曜日の組合せが悪く長期の休みになりにくいと不評だった今年の連休は、皮肉なことに30日に雨が降ったのみでおおむね晴の好天が続いた。

 ホームページのカバーにボードレールを使った。パッと浮かんだのは、木下利玄の歌だった。金曜、秩父の「こいけ」のお手洗いに活けてあった牡丹の花からの連想。

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

 が、残念なことに適当な写真がない。あのとき一度出てからカメラを持ってとって返す気にはなれず、そのまま忘れていた。次が茨木のり子。だが「山笑う」は春の季語、思いとどまった。エリオットの「荒地」を使ったあとだからできれば日本人にしたかったが、他には思い浮かぶものがない。なんとなく気が乗らぬままボードレールにした。まあ、いいだろう。この季節の札幌の想い出だ。(5/5/2003)

 朝刊のトップは中国軍の衛生関係者が2月の段階で既にSARSの病原体をコロナウィルスらしいと特定していたというニュース。記事のトーンは「この情報が迅速に他機関に伝達されていたら被害がこれほど大きくならなかった」というものだが、それよりも中国軍が常にこのような現象をウォッチし独自の調査をしているらしいということがより興味深い。

 軍関係者はウィルスという疑いから出発してコロナウィルスに行き着いたのか、それとも手がかりなしのところから行き着いたのか、それが知りたい。(5/4/2003)

 ふたつの記事。1面、「家庭のせいじゃない夏の電力ピーク:実際は昼間に『谷底』:生協総研が各家庭調査」。30面、「京大の原子炉、休止へ:廃炉費用100億円超か」。

 1面の記事は生協総研が記録計を設置して56世帯の電力消費を昨年の8月から12月までデータをとり分析したところ、電力消費のピークは電力会社が力説する夏場の午後ではなく、冬場の夜6時から10時だったという内容。記事は「東電で過去最大を記録した01年7月24日をみると、午前11時〜午後5時ごろがピーク。工場の操業や、オフィスビルでの空調・照明の利用時間帯にほぼ一致する」と結んでいる。「家でエアコンをつけながら高校野球を見る、これが怖い」というのは作られた神話だったらしい。

 もうひとつの30面の記事は2006年3月で運転を止める京大の研究用原子炉の廃却になんと百億円がかかるというもの。京大の原子炉は全国に5基ある大学原子炉の中では最大出力のものというが、熱出力は5千キロワットに過ぎない。そんなものでも原子炉の解体となれば百億ものカネがかかるという話。

 東電はせっせせっせと「ご迷惑をおかけします」キャンペーンを繰り返している。少々の疵が発見されたぐらいで大騒ぎするからこんなことになるのだ、詰まらんことをぐずぐず言うとエアコンをつけてテレビを見ることができなくなるぞと脅している匂いがプンプンするのはいつかも書いたとおり。

 彼らは原子力発電はCO2も出さないクリーンで安価な方法だとも言ってきた。どちらの話も原子力発電がランニング状態にあるときに限っての話だ。原子燃料の精製・再処理時のエネルギー使用と原子炉の寿命が来たときの解体費用を故意に無視しているのだ。原発推進論者は詐欺師と同じ。詐欺師だって引っ掛けるときの口上にはもっともらしいことを言うさ。(5/3/2003)

 ブッシュの「戦闘終結宣言」があった。「戦争(war)」が終わったのではなく「戦闘(combat)」が終わったのだそうだ。馬鹿馬鹿しいからこれ以上のことは書き留めない。こういう男が大統領の名をかたっていた時代があり、たわごとのようなスピーチに多くのアメリカ国民が狂喜して拍手をおくったという事実が後々思い出せればそれでいいだろう。まさに軍事「金ぴか時代(gilded age)」だ。

 今回の「戦争」で俄然株が上がった体のネオコンについて、面白い指摘が朝刊に載っていた。アンドリュー・ベースピッチボストン大学教授の言葉。

 ネオコンは保守ではない。もともとは、米国では「冷戦リベラル」と言われる左翼だ。・・・(中略)・・・(ネオコンは)民主党から分派した人たちだ。ほんとうの保守は、歴史に対する悲劇的な感覚を持つ。歴史の進歩を簡単に信じない。人間は誤りやすい存在で、その誤りをどう防ぐかということを考える。また、政府は人間の自由を侵す敵だと考える。
 しかし、いまネオコンがやっているのは、米国的価値観を外国に押し付けることだ。これは過激思想であり、ユートピア思想だ。保守ではなく、左翼だ。米外交はもっと軍事力を使うようになり、野心的に介入するようになり、最後には自らの力を使い果たしてしまうのではないかと恐れる。失敗するように運命づけられていると思う。

 ネオコンの出自は民主党。ふと永井陽之助の「現代と戦略」にこんな一節があったのを思い出した。

 平均的な日本人のイメージでは、民主党のほうが進歩的で、共和党のほうが保守的と見なされている。民主党のケネディ神話は、本国より西ヨーロッパや日本でむしろ強い。・・・(中略)・・・だが、共和党は「平和と不況の党」であり、民主党は、「戦争と繁栄の党」であると、よくいわれる。この一種のクリシェ(陳腐な常套句)には争いがたい真実がふくまれている。ウィルソンの第一次世界大戦、F・D・ルーズベルトの第二次世界大戦、トルーマンの朝鮮戦争、ケネディ=ジョンソンのベトナム戦争と、数えあげただけでも、民主党が「戦争の党」だというレッテルがあながち偶然とのみいいきれないことがわかるだろう。

所収「安全保障と国民経済」から

 これは84年に書いたもの。このあと、共和党の大統領、ブッシュ親子が戦争大統領になったのは皮肉な感じ。「戦争の党」になったついでに「繁栄の党」になれればよいが、「戦争と不況の党」では共和党も浮かばれまい。(5/2/2003)

 中国も今日のメーデーから数日間の連休に入るのだそうだ。賑わうはずの北京はSARS騒ぎでひっそりとしているらしい。先々週、長春のシステム打合せから帰った水技の**さんは一週間の自宅待機を命ぜられた由。あのときこんなことがあればと思い出してパスポートを出してみた。「1986.4.28入境」、「1986.5.7出境」のスタンプがある。ゴールデンウィークをまるまるつぶして建設中だった北京市第九浄水場向けの監視制御システムの提案書を作りに行ったときだ。あの頃はメーデーだけがお休みで「労働週間」などはなかった。それでもメーデー前後の数日はホテルの窓から電飾された天安門が遠望でき、少しばかり華やいだ気分が街に漂っていた。

 天安門というと人民大会堂前の広場の敷石には白いペンキで番号が書いてあったことを思い出す。「これで何万人が集まったというカウントをするのか。人間の量を枡ではかるような仕掛けだなあ」と、うそ寒い感覚にとらわれた記憶がある。当時でさえメーデーの日の王府井はすごい人出だった。数年前からの連休制で普通ならばあのとき以上の人出になるはずが、テレビニュースに見る限り閑古鳥が鳴いている。悪いことはひた隠しに隠し、あたかも何もなかったかのごとくにする共産党幹部の対応がここまで事態を悪化させたことは間違いない。

 共産党や社会主義が諸悪の根元かとも考えたが、ベトナムではみごとにSARSを押さえ込んでいるところをみると問題は制度ではなく硬直した官僚主義や事なかれ主義にあるのだろう。ちょっと前のBSE騒ぎと同根。これは対岸の火事などではないことがよく分かる。(5/1/2003)

 朝刊につり革の高さ論議が出ている。若者の身長に合わせるべきか高齢者・身障者の便を考慮すべきかという話。JRは92年に163センチから170センチにアップしたものの苦情が多く、新型車両から168センチに下げた。東急は163センチと153センチを交互に配置、西武は優先席前を153センチに下げる予定、京成・京王・小田急も優先席前を5〜10センチ下げた由。一方、ドア前のつり革は混雑時を配慮して180センチ以上に高くした会社があるとある。

 シルバーシートの前のつり革を下げるというのはなんとなく逆ではないかという気がするが、なによりドア前のつり革は上げるのではなく撤去して欲しいと思う。

 座席前のつり革は前方が座っている人の頭のほか何もないからいいが、ドア前やそれと直角に配置されているつり革は八方どこからも使えるように見えるのがいけない。おおむね最近の人士は匿名性が確保されている場では他人の立場で考えるということをしないし、できない。手前勝手はこの時代の空気だ。つり革の直下に背の低い人の頭があろうが、混雑の中で微妙な位置に他人の顔があろうが頓着せずに、利用に適したポジションとも思えぬ位置から無理に手を伸ばす手合が多い。

 人間は間違いなく動物だから、混雑の状況に応じてその半径は変わるものの、縄張り圏の中に他人の体が入っているとストレスを感ずる。そんなこともいっておれないほど混み合っていても眼前を他人の腕で遮られることには抵抗感がある。

 利用者の問題といえばそうなのだが、基本的なマナーができていないとあらば、いっそない方がすっきりする。ドア前のつり革はいらない。(4/30/2003)

 4日ぶりにインターネットアクセス環境に帰って、週末の「ブロードキャスター」で取りあげられていた「FOXテレビ担当者、イラク美術品を盗む」というニュースを検索してみた。記事は読売新聞のサイトにあった。ひとつ、FOXテレビ技術者、大統領宮殿に飾られていた絵画など12点を持ち込もうとしてダレス国際空港で逮捕された。ふたつ、ヒースロー空港で米本土基地向け荷物から装飾用短銃・短剣などが見つかった。みっつ、大統領宮殿で見つかった6億ドルのうち約90万ドルを掠め取った疑いで米陸軍兵士5人が取り調べを受けている。なかなか立派な戦果ではないか。

 国が石油を掠め取ろうとした戦争だもの、兵士が役得を狙うのは無理からぬことだし、御用報道機関として名高い「キツネ・テレビ」(キツネは英語でも「狡猾」を象徴する動物なのかしらね)のスタッフがまさに「虎の威を借りて」押し入った館で「戦利品」をくすねるのも格段不思議なことではない。末端の腐敗のさまが、逆に、掲げられた「大義」の偽物ぶりを証明している、と、そういうことだ。(4/29/2003)

 北朝鮮が米中朝三者会談の中で核保有を表明したというニュース。妙に興奮気味のトーンが可笑しい。韓国を別にして日本だけのことを考えるならば、「核兵器保有」という表現が具体的な脅威となるためにはふたつばかり条件がある。ひとつはまず実戦に使える程度にコンパクトかつ安定したものであるかどうかということ。もうひとつはそれを意図する場所で爆発させることができるかどうかということ。

 色眼鏡をかけない本当の専門家の意見を聞いてみればよい。コンパクト化と兵器としての確実性の確保のためには核実験が必要不可欠と答えるだろう。核保有国が国際的非難を浴びながらも核実験を繰り返してきた理由はここにある。これがひとつめの条件。北朝鮮は未だに核実験を行っていない。ノドンミサイルとのバーターでパキスタンから核実験データをもらっているという人がいるが、ペーパーベースのデータだけで技術確立ができるというのは文科系出身の半可通だけが信じられる妄説だ。

 ふたつめの条件は渡洋爆撃能力のない北朝鮮が日本に核攻撃をしかけるためにはミサイル以外にはないことを意味している。そこでもう一度ひとつめの条件が問題になってくる。つまりミサイルに搭載できるほどコンパクトに仕上がっているかということと、着弾にあわせて正確に爆発させる制御技術を獲得しているかということだ。そういうごくごく常識的な疑問に答えてくれる報道が欲しいのだが、夕刊と各紙のホームページ、夜までのテレビニュースの中にはない。(4/25/2003)

 週刊「ダイヤモンド」4月19日号に「失敗学」が取りあげられている。畑村洋太郎がインタビューに応えてこんなことを言っている。

 業種によっても違うけど、順調に成長した会社でも売り上げが200億円に届くあたりでダメになるんです。たぶん個人経営の限度が200億ぐらいにあり、組織が小さいときの経営感覚ではやっていけなくなるんじゃないか。
 次に、800億円ぐらいに限度があるような気がする。単品しか売っていないとか、商品はいろいろあるけれども、売り方が同じとか、単一業態の限度を感じます。もう一つ、単一企業文化の限度というのがあって、4000億〜5000億ぐらいでその壁にぶち当たるような気がする。同族、非同族経営を問わず、たいてい内紛や反乱といった事態が生じます。
 売り上げが本来の限度である5000億円を超えて、単一文化のまま一兆円までいったらなにが起こるか。その段階でもまだ企業が動いているとしたら、そのことが原因になってトラブルを起こす。

 多くの会社に対する警告になりそうだったのは、以下の部分。

 どうせ失敗はするんです。だから失敗に対するものの見方を変えていかないと、私たちの明日はない。失敗しないようにしましょうというのは、管理を強化するだけだから、組織の形骸化と面従腹背が起こるんですよ。それでみんなが無責任になって、いちばん最後は誰もものを考えなくなってしまう。

 管理屋ばかりがはびこって社内の事情だけを集積し将来に向けて外挿するだけ。社会の変化を大きく見て、その中に自らを位置づけようとするだけの識見を持つ者の声がとんと聞こえぬ危うさよ。(4/23/2003)

 先週17日誘拐され、日曜日に死体が発見された愛知の誘拐事件。重要参考人が警察庁の手配でマニラ空港で拘束、強制送還されたというニュース。

 送還された男が犯人なのかどうかは分からない。しかし、被害者・容疑者が共に「青年会議所」のメンバーというのがなんとも言い難くうらぶれた印象を与えている。いずれカネの貸し借りのもつれあたりが元なのかもしれぬと想像させるから。

 血統書付き、青年会議所経由地方議員経由国会議員。これが「青年会議所」メンバーの「海図」らしい。しかし、ふっと思い浮かぶ「青年会議所」会員はおしなべて頭が悪い奴ばかり。そのくせちゃちなエリート意識が見え隠れする。田舎臭さをぷんぷん匂わせ、天下国家を語ってみせても不思議に「知恵」も「器量」も感じさせないという共通性を持つ。

 凶悪誘拐事件と見えたものは、おぼっちゃま倶楽部「青年会議所」の舞台裏が図らずも露見しただけのありふれた金銭トラブルということに落ち着くような気がする。(4/22/2003)

 野茂が大リーグ通算100勝。開幕戦で完封勝利し、99勝となってから三度勝ち星に恵まれずに来て、けさの対ジャイアンツ戦を迎えた。4失点しながらも今日は味方が逆転してくれて勝利。勝つときはこんなものだ。試合後の談話はいつも通り「百勝は通過点、百勝投手はたくさんいる」とクール。

 あれは最初の年だったか、それとも二年目を迎えた年のはじめだったか。インタビューを受けた野茂はこんなことを言っていた。「日本ではいい成績をあげると来シーズンも同じようにという。でもこちらでは違う。去年はよかった、でも今年はあれ以上によくできるはずだ、いや、よくしなくちゃいけないって言うんだよ」と。同じではダメ。それが競争社会の原理なのだろう。だから、いつも「記録」は通過点でしかないのかもしれない。同じではダメなものが常に「仕事」であるとすれば、ずいぶん疲れる話ではあるけれど。(4/21/2003)

 朝刊に「米が厚い保護? 石油省、再開へ」の見出し。バグダッドにある省庁のほとんどは爆撃や戦火で黒こげになり略奪も横行しているというのに、ほぼ無傷で米軍の歩哨も立って保護されている建物がある。件の建物は石油省。すでに職員の登庁も始まり、早ければ今日にも本格稼働する由。

 昨日の夕刊にはブッシュ大統領の文化財諮問委員会の委員長外委員2名が抗議辞任をした記事があった。理由はイラク博物館から多数の文化遺産が略奪されたことに対し、米軍が何一つ行動を起こさずこれを放置したこと。辞任した委員のゲーリー・バイカンはロイターのインタビューに「我々は石油の価値は理解できても、文化遺産の価値は理解できない国民なのか」と語った由。

 ラムズフェルドは略奪が始まったとき、「略奪はイラクに自由がもたらされた証拠だ。自由というのはこういうものだ」とコメントしていた。略奪が博物館に及んでも、ラムズフェルドは「それがどうした」と言わんばかりの記者会見を繰り返した。いかにも下品で利に聡いアメリカ人らしい言葉に恐れ入ったものだったが、さすがに彼の野蛮国、アメリカ合衆国にも「文化遺産」を口にし、自国の浅ましいやり方を恥じ、これに抗議する人々がほんの少しばかりはいるもののようだ。

 そうそう、抗議辞任を伝えるすぐ下に、そのラムズフェルドが「大量破壊兵器も我々だけで発見できるとは思わない。協力者を見つければ隠し場所が分かる」と述べたという記事が出ていた。アメリカは国連の安保理事会でほんの2カ月ほど前、なんと演説したか。「イラクに大量破壊兵器がある明白な証拠がある」と言ったではないか。あれはただの方便か?

 ブッシュよ、チェイニーよ、ラムズフェルドよ、パウエルよ、Shame on you !!(4/19/2003)

 酒井啓子の「イラクとアメリカ」にはこんなくだりがある。

 元軍事産業相を務めたフセイン・カーミルは、イラク政府がいかに国連の査察をかいくぐって実際に大量破壊兵器を隠し持っているか、UNSCOMが廃棄したものはただの「見せ」兵器で、一部を廃棄することでいかにイラクが国連を信用させようとしてきたか、ということを、国際社会に向けて赤裸々に暴露したのである。

酒井啓子「イラクとアメリカ」岩波新書から

 95年フセインの親族内のごたごたに際して、粛正をおそれたフセインの長女の夫、フセイン・カーミルがヨルダンに亡命した。カーミルはUNSCOMの事情聴取を受け、この時に語った内容が長い間イラクの大量破壊兵器隠匿の根拠とされてきた。

 けさの毎日新聞にこの時のカーミルのUNSCOMに対する証言録がすっぱ抜かれている。

 ヨルダンに亡命したイラクの元閣僚が95年、同国の大量破壊兵器について国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)に回答した非公開の証言録を毎日新聞は入手した。米政府は元閣僚の証言をイラクの大量破壊兵器保有を裏付ける証拠の一つに挙げてきたが、証言録によると、元閣僚は「化学兵器は湾岸戦争後に、生物兵器も国連査察を機にすべて廃棄した」と明言、「現在も保有している」としてイラク戦争に踏み切った米政府の主張と食い違っている。・・・(中略)・・・証言録はA4判15ページで、冒頭に「UNSCOM/IAEA(国際原子力機関)機密」と書かれている。亡命直後の95年8月22日の日付で、UNSCOMのエケウス委員長(当時)らが直接聴取した。・・・(中略)・・・証言録によると、イラクは化学兵器のマスタードガスやサリン、VXを製造。80〜88年のイラン・イラク戦争の末期にミサイル弾頭にVXを搭載したが、使用しなかった。91年の湾岸戦争でもVXが準備されたが「核による報復を恐れ使う気はなかった。戦後、化学兵器は破壊した」という。フセイン・カメル中将は、生物兵器について「90年12月に炭疽(たんそ)菌をミサイルの弾頭に詰める段階まで進んだ。国連査察団が来てから、すべて廃棄した」と述べている。・・・(中略)・・・(カメル中将は)91年に査察対策の組織を設けるなど大量破壊兵器問題に深く関与したことから、米政府はその証言を重視し報告書など随所で引用してきた。しかし、カメル中将が「生物・化学兵器を廃棄した」と断言していたことには触れていなかった。
 米中央情報局(CIA)職員はカメル証言を「金脈」と呼んだ。日本を含む各国の米大使館のホームページに、米政府が作った「国際社会の安全保障を脅かすイラクの大量破壊兵器開発計画」と題する資料が掲載されている。イラクが91年の湾岸戦争前に射程距離600〜650キロのスカッドミサイルの弾頭に化学兵器を搭載し、実弾試験をしたことなどが記されている。イラクの大量破壊兵器の開発、保有を批判する内容だ。この資料に情報源として唯一実名で登場する人物がカメル中将だ。「イラクはカメル亡命まで、生物兵器製造の事実を認めなかった」と記述している。

 アメリカ大使館のホームページには今もまだ毎日の指摘する「資料」が掲載されている。あえてアメリカの弁護を試みるとすれば、こんなことになろうか。

 カーミルはヨルダンではまだ安全が確保できないと考えて欧米への亡命を希望した。カーミルは自分を高く売りたい気持ちからCIAに対してはUNSCOMにした証言以上のことをしゃべったのかもしれない。アメリカはそれを信じた、それが真実であるかどうかは分からないのに。しかし、自分の評価を高くしたいというバイアスがかかると、ややもすると人間は真実を語るかわりに相手が喜びそうな「ウソ」をつくものだ。

 証言の後カーミルはどうなったか。「イラクとアメリカ」には「フセイン・カーミルは情報源としては利用されたが、政権転覆に直接つながる形にはならなかった。結局、期待していたほど欧米が厚遇してくれないことを嘆いたフセイン・カーミルは、亡命から半年して突如としてイラクに帰国し、その直後に親族内で惨殺される、という末路をだどっ」た、とある。(4/18/2003)

 捕虜になっていたジェシカ・リンチという上等兵を米軍特殊部隊が救出というニュースが今月初め報ぜられた。その彼女が今週初めに「凱旋帰国」した。いまアメリカでは彼女の体験記を映画化する話が持ち上がっているらしい。ジェシカ・リンチは19歳。写真で見ると目のクリッとしたブロンド美人。戦争美談の主にはうってつけだ。

 この手の記事を書かせたら虚実取り混ぜること天下一品のサンケイ新聞には「リンチさんの所属部隊は3月23日、イラク南部でイラク軍の待ち伏せに遭い9人が死亡。リンチさんは捕虜となり、監禁先の病院で殴るけるの暴行を受けていた。見かねたイラク人弁護士が米軍に通報、1日に特殊部隊が病院に突入し、リンチさんを救出した」とあるが、最近は社会面まであるスポニチには「上等兵は戦闘中に被弾し刺されたと伝えられたが、実際に手当てした医師はこれを否定。手や足を骨折していたが『交通事故だよ。出血もしておらず、銃弾もなかった』と述べた」というクールな記事も載っている。真相は「藪の中」ということか。いや、「プライベート・ライアン」のようなストーリーがそうそう転がっているとは思えない。ということは伝えられる話のそこここには眉唾ものの作り話が混じていると思った方がよかろう。

 ジェシカ・リンチを持ち上げるアメリカメディアにローリ・ピエステワの名前を尋ねてみたい。ジェシカとローリはテキサスの兵舎ではルーム・メイトだった。二人は共にイラク戦争に参加し、同じ場所でイラク軍の攻撃を受け捕虜となり同じ病院に収容されたらしい。ジェシカは救出され、ローリは遺体で発見された。ローリはこの戦争での女性戦死者の第一号だった。これは先週金曜日の「天声人語」に書かれていたことだ。

 「天声人語」は続けてこう書いた。「彼女はアリゾナ州に居住区を持つアメリカ先住民のホピ族出身だった」と。生死と白赤の組合せがこの逆だったとしたら、アメリカメディアはローリの「凱旋帰国」をかくもにぎにぎしく伝え、体験記を映画化しようとしたことだろうか。いや、そもそも「イラク人弁護士からの通報」なるものが仮にローリの生存に関するものだったとしたら、SEALに出動命令が下ったかどうか。先月24日の日記に書いた黒人兵捕虜が救出されたという話は聞いていない。彼らの中には女性がいたはずだ、黒人だったけれど。彼らが「凱旋帰国」したというニュースも聞いていない。ジェシカ救出劇は特殊中の特殊なことなのだろう。もっとも「美談」とはそういうものだが。(4/17/2003)

 先週、北朝鮮が二国間協議にこだわらないというアナウンスをし、ブッシュがこれを歓迎すると応じ、あっという間に来週23日に「多国間協議」という段取りになった。もっとも多国間とは言い条、米中朝の三ヵ国だというから、何のことはない仲人役に中国をたてた二国間協議そのもの。外された形の日韓二ヵ国はちょっと複雑な気持ちのようだ。(拉致問題が喉に引っかかる骨になって正常な判断も外交活動もできなくなっている日本を外すため、相対で排除された形の韓国にとっては心穏やかではないだろう)

 しかし、微妙な交渉の立ち上がりを十日先の自国状勢さえ読めないような国の参加でより困難なものにしたくないという仲人国の気持ちは十分に理解できる。その短慮にして愚鈍な国が他ならぬ自分の国であるということはとても悲しいことではあるが。(4/16/2003)

 1970年7月5日の日記は「青地晨著『冤罪の恐怖』を読んだ」と書き出している。冤罪事件に興味を持った最初は岩波新書「誤まった裁判」だった。しかし、冤罪事件の恐ろしさを本当に知ったのは「冤罪の恐怖」を読んだときだった。その日の日記は、続けてこう書いている。

岩波新書の「誤った裁判」に扱われていた8件の裁判は現在ではすべて無罪が確定しており、その意味ではともかくもイキをつくことができた。しかし、この本で扱われている7件は竜門事件と徳島事件では懲役刑が確定しており、残り5件ではすべて死刑が確定している。

 青地は自分自身、「横浜事件」の容疑者として磯子警察で取り調べを受けた経験をもとに「冤罪の恐怖」を書いた。その横浜事件の再審決定があった。横浜事件の「被害者」全員が死んでしまった今、それも「ポツダム宣言受諾により治安維持法の一部条文が失効していた」という法手続上の問題を根拠にする再審というのでは、果たしてそれにどれほどの意味があるかという気がする。これは帝銀事件の平沢貞通の死刑執行命令をどの法務大臣も果たしえなかったあの「消極的冤罪認定」に類した日本司法制度として心に疼く「わずかな良心」の表明とでも受け取るべきものなのだろう。しかし、それにしても、なんとまあ、みみっちい根性よ。

 興味がわいて「冤罪の恐怖」に書かれた事件がその後どうなったかを調べてみた。インターネットはこういうものの調査には抜群の威力を発揮する。(丸正事件についての日記の記載は間違っていたようだ)

件 名 原 刑 そ の 後
竜門事件 懲役 再審請求中死亡
徳島事件 懲役 本人死亡後再審で無罪(85年)
丸正事件 懲役 再審はすべて棄却・出所後死亡
免田事件 死刑 再審で無罪(83年)
島田事件 死刑 再審で無罪(89年)
福岡事件 死刑 死刑執行(75年)・もう一人は無期に減刑後仮釈放
帝銀事件 死刑 再審はすべて棄却・獄中死

 明らかな救済は2.5件。徳島ラジオ商殺しを0.5件とカウントするのは本人は無罪を知らずに逝ったため。7件中2.5件という数字は明るい数字とは思えない。(4/15/2003)

 帰国から半年目ということで拉致被害者5人がそれぞれに記者会見を行った。子供を北朝鮮に残していることは変わらなくとも、夫婦で帰国した二組と単独で帰国した曽我ひとみの会見の内容が微妙に違っていた。二組の夫婦がさしたる準備もなく会見を行い一問一答に応えていたのに対し、曽我は書いたものを準備して会見に臨んだ。まず、それが違っていた。

 曽我の読み上げたものは、北朝鮮のような体制のもとで通り一遍のことではなく、なにがしかを伝えようとする場合にはどのようにそれを表すか、そんな想像をさせるものだった。

 構えずに聞くあるいは字面だけを追って読むとさしたることは言っていない。だが、ごく当たり前の望みがなぜ同時に適うことのない事柄になってしまうのかというくだりに、自分や二組の夫婦のおかれた状況を伝えようという意図が現れている。たどたどしく、けっしてうまいとは言えないが、自分の気持ちを語りながら、きっちりと北朝鮮と日本の両政府とさらには家族の会などの「不純な権力」を「詰る」二重の構造を持った文章になっている。

 二十数年の彼の国での生活で彼女が体得したもの、それがバックにあると思う。彼女にさしかけている北朝鮮の影は濃い。しかし、権力と対峙する緊張感を欠いた今のこの国の人々に、彼女が言葉で伝えようとしたものは正確に伝わるだろうか。(4/14/2003)

 昨日、「なくては困る大量破壊兵器を」と書きながら、こんなことを夢想した。

§

 イラク国内での戦火はほぼ収まり、砲声の聞こえない静かな日が戻ってきた。そんな晴れた日の夕方のこと。子供の帰りが遅いことを心配した母親が数人、大声で子供の名を呼びながら、子供の遊び場あたりを探し回っていた。ひょっとすると子供たちは軍の兵舎に行ったのではないかしら。しようがない子たちね、危ないから行ってはいけないといってあるのに。うちも崩れかけているからダメと口を酸っぱくしていったのよ。口々にしゃべりながら兵舎に向かう母親たち。

 彼女たちは米軍の攻撃を受けて破壊された廃墟の中に入っていった。そして折り重なるようにして倒れている子供たちを見つけた。子供の手は緑色のボンベの先っぽの銀色に光ったバルブをしっかり握っていた。駆け寄り抱き上げる母親たちはわが子の名前を呼ぶ。だが子供の目は大きく見開いたまま。既に事切れていた。

 翌日、世界中の新聞は「兵舎の廃墟にVXガス」の大見出し、小見出しには「やっぱりあったイラクの大量破壊兵器」、そして死んだ子供たちの顔写真を掲載した。テレビは廃墟の兵舎の映像を延々と流した。なぜかアメリカのテレビだけは子供の死体、死に顔までも鮮明な映像でオンエアした。

§

 こんなシナリオをホワイトハウスに提案したら、高く買ってもらえるかもしれない。そんなことが起きるかどうかですって。あなたもウブな人ですな。あらかじめ「段取り」しておけばいいんですよ。そうすれば確実にいけますって。エッ、わたしの商売ですか、ハハハ、戦争広告代理業ですよ。(4/12/2003)

 朝日朝刊の国際面の片隅に、いささか時期遅れのような記事が載っていた。

 イラクの大量破壊兵器疑惑を調べていた国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のブリクス委員長は、9日発売のスペイン紙エルパイスとのインタビューで「イラクに対する戦争がかなり前から計画されていたのは明らかだ」と述べ、米国の査察軽視の姿勢を批判した。
 委員長は「米国はイラクに大量破壊兵器があると信じて戦争を始めたのだろうが、今はそうは思えなくなっているのではないか」と述べ、「見つけられるかどうか本当に知りたいものだ」と、依然として見つからないことを皮肉った。また「戦争は一国の破壊と人命という点で非常に高くついた。査察という方法で抑えることができた脅威なのに」と嘆いた。

 アメリカは必死になって探すだろう、あるはずの大量破壊兵器を、なくては困る大量破壊兵器を。既にアメリカメディアはいくつかの「空報」を流している。曰く、大規模な化学兵器工場を発見。曰く、農業施設のドラム缶から神経ガスの反応。興味深いのはメディアが書き立て、政府や軍が慎重なコメントというワンパターンであること。

 逆にウォルフォウィッツ国防副長官などはFOXで「大量破壊兵器の発見よりもフセイン政権打倒が先決問題」とコメントし、ペース統合参謀副議長もCNNで「戦いが終われば、イラク国内を好きなだけ探せる」といい、ともに予防線を張っている由(7日朝日夕刊)。いずれも「副」がつく人がいっているというのも、これまた興味深い。(4/11/2003)

 3週間前のきょう、「これは、戦争なのだろうか」と書いた。軍事力の差などという言葉が言葉としてほとんど意味をなさないほどのギャップがある以上、イラクがとりうる戦略はゲリラ戦しかなかった。しかし、もともとゲリラ戦は自律的な組織が、分かりやすい目的のもとに、理解しやすい行動原則によって、持続的に機能してこそ有効なものだ。フセインが築いていた恐怖支配による強制を原理とするピラミッド構成の組織には有効なゲリラ戦は無理だったのかもしれない。

 イラク軍はついに主要な橋を爆破することも、幹線道路を破壊することも、地雷を敷設することなく、散発的な応戦程度に終始して矛を収めてしまった。というより「消えて」しまった。どうやら「戦争」は終わったらしい。フセイン大統領の行方は分からない。政府というものはたしかに抽象概念ではあるが、それを構成する権力者、それに仕える官僚などなど、いろいろな人間が存在して実体を備えているわけだが、伝えられる限りそれらの人間が一切見えなくなってしまったらしい。

 そもそも何のための戦いなのか曖昧なうちに始まった「戦争」は、ふつうなら終結を確認するはずの「降伏」というプロセスもないまま徐々にクールダウンして終わるようだ。本当に不思議な「戦争」だった。(4/10/2003)

 起き抜けのラジオで「いま松井がホームランを打ちました。しかも満塁ホームラン」のニュース。本拠地ヤンキースタジアムでのオープニングゲーム。ルーキーのヤンキースタジアム初戦での満塁ホームランは球団史上初のこととか。

 オープン戦の頃からの松井報道に食傷ぎみ。というよりほとんど反感さえ覚えていたが、公式戦での初ホームランがグランドスラムとなればこれは別。

 アメリカよ、イチローのような小器用でネズミのようにチョロチョロする奴ばかりが日本人ではないのだぞ。こっちにだってど真ん中のストライクで勝負できるプレイヤーがたくさんいるんだ。(4/9/2003)

 アルジャジーラ支局へミサイルが二発打ち込まれ、1人が死亡1人が負傷。また、パレスチナホテルへ戦車が砲撃、ロイターのメンバー1人が死亡、3人が負傷、スペインのテレビカメラマンが1人死亡。いずれも米軍のしわざ。

 まず前者。ミサイルが二発ということは米軍が得意とする「誤爆」といういいわけは通じないだろう。同時に二発が設定を間違って予定外のところに着弾するということは、彼らがいままで主張してきた「ピンポイント爆撃」なるものの「正確性」から考えて、これは、あり得ない。

 次に後者。米中央軍は「ホテルのロビー方向から銃撃があり、これに応戦したものだ」といっている。ところがテレビニュースで映されたロイターのオフィスは地上5階にある。パレスチナホテルのロビーはごくふつうのホテルと同じ1階にある。どれほど練度の低い砲手でも1階を狙って5階に砲弾を当てることは、これも、あり得ない。

 つまり両者とも米軍の「犯意」は明白だ。では米軍は何故、アルジャジーラの支局をミサイルで攻撃し、メディアが宿舎としているパレスチナホテルを戦車砲で攻撃したのだろうか。一番ありそうな答えは、バグダッド制圧中あるいは占領後にそこで起きる事柄の報道をCNNやFOXといった米軍御用達メディアに独占させることにより「アメリカ官製の情報」で埋め尽くしたいという意図があるからだということだ。都合のいい情報のみを拡大して伝え、都合の悪い情報は押し隠し、さらには必要に応じて事実を捏造するためにはアルジャジーラや公正なメディアやフリージャーナリストは排除しておきたい、それがフェアプレイ精神などとうに放擲したアメリカが狙ったことなのだ。(4/8/2003)

 池袋に向かう山手線の中でラジオのスイッチを入れると「米軍、共和国宮殿を制圧」とのニュース。「共和国」という言葉と「宮殿」という言葉のミスマッチが可笑しい。オーウェルの「動物農場」には農場主を追放したのち叛乱の指導者を務めた豚たちがその農場主の家にそのまま居座る場面があった。言うまでもなくクレムリンに居座ったソビエト政権を揶揄したものだが、圧制者は自らを王侯になぞらえがちなものだと知れば、形ばかりの「共和国」に「宮殿」が存在することはさして不思議なことではない。

 しかし、フセインはどこへ行ったのか。夜のテレビニュースにチグリス河畔伝いに逃亡する宮殿守備隊と思われる兵の映像があったが、その数のいかにも少なすぎるところを見ると、「宮殿」はとうにもぬけの殻だったものと見える。(4/7/2003)

 昨日書いた疑問、けさの「サンデーモーニング」で取り上げられた。小川和久が出ていたので期待したのだが「市街戦に引きずり込むための罠」だと思うというようなコメントで少しがっかりした。バグダッド市街地での混乱した白兵戦がフセインの望みだとしても、バグダッドにたどり着くまでに可能な限りの損耗をはかっておくことはムダではないはず。

 素人に考えられることはふたつぐらいだ。ひとつの考え方は既にフセインと「軍」とが離間している、つまりフセインの指揮命令権はなくなっているのではないかという考え。(通信系統がズタズタになっているからということではない。橋の爆破や放棄地域のインフラの破壊、地雷の敷設などは改めて命令する必要などはなく事前の決めておけばそれでよいことだから)もうひとつの考え方は「バグダッドでの市街戦」あるいはそれ以上の「アッと言わせるような戦術」のためには一見無能に見える応戦が不可欠だからというようなこと。

 しかし、それほどの詭計があるとは考えにくいとすると、既に「軍」はフセインに対して面従腹背の姿勢をとっていると考える方が常識的にはあたっているのかもしれない。「軍」が単に国民の恨みを買いたくないが故にインフラの破壊に及ばないのか、それ以上の深い「軍」としての「読み」があるのか、それは分からない。

 後者の場合とすれば、それはイラクの国民がフセイン政権瓦解後もさして変わらぬ強権政治に脅かされ続けることを意味している。「民主国家」アメリカが作る傀儡政権がフセインよりましであるという保証はない。それはイラン・パーレビ体制下の秘密警察やチリ・ノリエガ体制下の軍隊がどのように国民を取り扱ったかを調べてみれば容易に分かることだ。アメリカという国はパーレビのイランやノリエガのチリを「よい国」だとしてきた。その体質が変わるはずはない。(4/6/2003)

 延びきった補給線からの供給が滞って一日一食しか配給されないという従軍記者のレポートやゲリラ的な反撃に順調だった進撃が止まったせいなどあって、先週末時点の報道は「米軍の誤算」とか「戦線のベトナム化」に関するもの一色の感があった。しかし、数日前、国防長官・参謀会議議長の共同記者会見の直後から、辛辣な質問に反発するかのようなタイミングで前進が始まり、それに引きずられたのか、この週末は勇ましい進軍報道に埋め尽くされてしまった。曰く、バグダッド西郊にあるというサダム空港を制圧した。これは昨日のこと。そしてライオンズ−バッファローズ戦中継のあいだに、バグダッド市内にも進軍という臨時ニュース。

 いったん進撃が始まるとマスコミはもうコロッと眼前の「ファクト」に目を奪われて、なぜ、どのような根拠で援軍の配備前に進撃が始まったのかという、当然浮かんでいい疑問の視点を失ってしまうようだ。ブッシュもラムズフェルドも昨日あたりから「長くて厳しい戦い」という言葉を添えなくなった。それはどういうことによるものなのか、何か変わったことがあるのか、その疑問にふれた報道もない。

 疑問といえば、これはもう1、2週間前からのものだが、なぜイラク軍はチグリス川やユーフラテス川に架かる橋を爆破しなかったのかということ。サダム空港など映像に見る限り、滑走路はかなり良好、まるでどうぞご利用くださいと言わんばかりだ。さらに先ほど見たバグダッド侵攻に関する映像でも高速道路の路面はきれいなまま。イラクもアメリカも対人地雷禁止条約には署名していないことを考えると、イラクはなぜ地雷の敷設をしていないのか。これらの疑問について、どの番組でもふれないのは不思議。(4/5/2003)

 朝刊にイラク戦争に対するアメリカの世論調査データが出ている。書き写しておく。調査はギャラップ社。調査期間は3月22日から25日、全米で18歳以上の2,028人に電話で実施。

 全体の70%がイラク戦争を支持している。支持政党別では共和党支持者は93%、民主党支持者は53%、性別では男性の78%、女性の66%、地域的には西部では77%、中西部では73%、南部では71%、東部では66%が支持している。驚くのは人種別の数字だ。白人では78%が支持しているのに対し、黒人では29%が支持しているに過ぎない。疑問は既に黒人よりも多いといわれるヒスパニック(2000年調査では、黒人12.3%に対しヒスパニックは12.5%)が、この調査の中でどのように抽出され、人種的にはどのように分類されているのかということ。

 ヒスパニックの出身の66.1%はメキシコであり、安保理の米英提案に最後まで賛意を示さなかったミドルシックスにメキシコが入っていたことを考え合わせると、いろいろのことが夢想できて飽きない。(4/4/2003)

 SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome:急性呼吸器症候群)というのだそうだ。肺炎のような症状でかなりの伝染性があるらしい。中国広東省に最初の症例が出て、香港を介して世界に広がった由。朝刊によると、1日現在の感染者は17の国と地域で1804人、死者は62人。WHOは、昨日、観戦の中心地広東省と香港への渡航延期を勧告した。

 イラクの生物兵器が云々される時期だけに、未知のウィルスによる感染性の強い病気の蔓延と聞くと、あらぬ事を想像してしまう。戦争に伝染病、旅行会社、航空会社には憂鬱な春だろう。(4/3/2003)

 簡単に終わるはずだったイラク戦争が長引きそうだという観測がしきりに流れている。ラムズフェルド・マイヤーズの共同会見で、「計画は中央軍のフランクス司令官が作ったと盛んに言うが、責任逃れをしているのか」という誰しも抱いている質問が出るや、マイヤーズ統合参謀本部議長はうめき声をあげて拳で演台を叩きながら「作戦計画を見たことのない人がいっている批判だ」と激高した由。

 この記者会見は1日アメリカ東部時間で14時のこと。そしてイラクの現地時間で2日未明、ここ数日足踏みを続けていた米軍がバグダッドに向けて進軍を始めたというニュースが入ってきた。まさか、マスコミにこれ以上言われることを避けたいがために進軍命令が下ったとも思えぬが、先週増援を決めた10万の兵力が実効のある配置に着く前のこの行動には「何でだろう」という気がする。(4/2/2003)

 一昨日「自爆攻撃」の「効果」について書いた。時をおかずにその効果の一例が現れた。31日の夕方、ナジャフ近郊で13人が乗るワゴン車を米軍が銃撃、女性と子供計7人が死に2人が負傷するという事態が発生した。米軍の公式説明は次の通り。「@不審な車が近づいて来た。A身ぶりで停車するよう指示した。B止まらなかったので警告発砲した。Cそれでも止まらなかったのでエンジンに向けて撃った。Dなおも止まらなかったので室内に向けて撃った。E女子供ばかり9名が死傷したが車から不審物は何一つ出てこなかった」。じつにご丁寧な説明だ。これならやむを得なかったかなと一瞬思わせる程度のいいわけにはなっている。

 しかし戦場を遠く離れた平和な環境にいる我々はこんな風に考えてしまう。「車を止めるためにはエンジンを銃撃するよりタイヤを撃ち抜く方がはるかに効果的なのに。ずいぶんバカな兵士がいるものだ」と。あるいは「米軍のマニュアルには『空に向けた警告発砲』の次には『エンジンを撃て』と書いてあるのかしらん」と。

 米兵が意図的に女・子供を7人も殺害したとは思わない。静止の指示に従わなかったからこその発砲であろうとは思う。ここに透けて見えるものは何か。検問所に立つ米兵が心の底に持っている「恐怖心」と「不安感」だ。イラク軍の軍服を着て銃を持っているものだけが「敵」ではなく、民間人のなりをしている丸腰の女も子供も「敵」であるかもしれないという極度の猜疑心が判断を誤らせているのだ。丸腰の女子供、白旗を掲げて投降してくる兵士、そういった人たちの多くは、実際、見たとおりの人々だが、わずかの確率で丸腰と見せかけて自爆攻撃をしかける者が紛れ込んでいる。両者はまったく外見的には判別できないということ、それが厄介なのだ。

 先日クラークとかいう女性の米軍広報官が民間人犠牲者に関する記者たちの素朴な質問に苛立ってヒステリックにこう言い放つ映像を見た。「民間人が死ぬことはやむを得ない。それは我々の責任ではなく、彼らがフセインのイラクにいるからなのだ」。わかりやすいといえば、わかりやすい理屈だ。「そんなところにいるから、そんなことになるのだ」というのだから。

 前線兵士の厄介な悩みの解決方法はここにある。彼らの悩みは「他人の国」に押し入っているが故に生じている問題だ。クラーク広報官の理屈に従えば、「自爆攻撃で死ぬ恐怖」と「無辜の民を殺してしまう不安」から逃れたければ、イラクを出て行けばよい、と、そういうことになる。(4/1/2003)

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