昨日のフォローをしておく。読売新聞はきょう午前零時をまわったタイムスタンプでアメリカ連邦最高裁の判決内容を伝えた。共同電から遅れること20時間以上。たっぷり取材時間をとったにしては情報量に乏しい場末のラーメン屋のチャーシュー(薄くて味がない)のような記事だった。

 サンケイのサイトにはついに当該記事は掲載されなかった。サンケイ新聞という新聞の現実認識のレベルはこのていどのものだということを記録しておく。

 近鉄の買収にライブドアが手をあげたというニュースにつられ最近はあまり真剣に見ないスポーツ欄を見ていて高校野球予選が始まっていることに気がついた。札幌地区予選は既に二回戦に進んでいる。旭丘は、と、昨日、一昨日、・・・朝刊を順に繰ってみた。なんとまあ今年は初戦で負けていた。相手は東陵とかいう知らない学校だった。2-7。去年はたしか地区代表決定戦までがんばって北海に負けた。それなりの実力はあったはずだが。(6/30/2004)

 キューバのグアンタナモ基地に抑留されている「テロ容疑者」の異議申し立て権に関するアメリカ連邦最高裁の判決があった。簡潔な記載の日経サイトから書き写しておく。

拘束のテロ容疑者に「異議申し立て権」・米最高裁判断
 【ワシントン支局】米連邦最高裁は28日、キューバのグアンタナモ米海軍基地に拘束されているテロ容疑者が、米国の裁判所で拘束に対する異議を申し立てることができるとの判断を下した。外国人テロリストなどの「敵性戦闘員」は無期限に拘束できるとするブッシュ政権の主張を退けた。
 グアンタナモ基地には国際テロ組織アルカイダやアフガニスタンの旧タリバン政権のメンバーとされる約600人が収容されており、その大半は起訴などの裁判手続きを受けないまま長期にわたって拘束されている。
 グアンタナモ基地でのテロ容疑者の長期拘束については、赤十字国際委員会(ICRC)などが憲法違反にあたるとして批判していた。米人権団体の全米市民自由連合(ACLU)は最高裁の判決を「歴史的な判断」と評価。「対テロ戦争での行動は法を超越するというブッシュ政権の主張を真っ向から否定するものだ」と指摘している。

 朝日の記事には判事の氏名が出てくるのでその部分のみ。

 判決は、連邦裁判所が外国人拘束者の異議申し立てに対する裁判権を持っていることを6対3で認めた。多数意見の中でスティーブンス判事は「基地の外国人は、米国市民と同様に、連邦裁判所に訴える権利を与えられている」と指摘している。
 また、アフガニスタン戦争で捕らえられた米国籍のタリバーン兵ヤセル・エサム・ハミド捕虜が敵方戦闘員として扱われ、弁護士に会う権利などを制限されたことを争ってきた公判では、8対1で異議申し立てする権利を認めた。多数意見の中でオコーナー判事は「米国市民の権利について言えば、戦争状態といえども決して大統領に白紙小切手を与えるものではない」と指摘した。

 6月13日に放送されたNHKスペシャル「カリブの囚われ人たち」には、この訴訟の当事者、ギボンズ弁護団長とオルソン訟務局長のそれぞれの主張が収録されていた。ギボンズはこのように主張した。「本審理では法の支配を司る連邦裁の権威そのものが問われています。連邦政府はアメリカの域外に外国人を抑留した場合には我が司法当局の判断は及ばないと主張しています。こんな主張がまかり通るならどれだけ長期の拘留を続けようと、どんな環境の下にとじこめておこうと、さらには無実の者たちをとらえても責任を問われずにすむのです」。これに対するオルソンの反論はじつに無惨なものだった。あれを見た夜、職務とはいえ愚かこの上ないブッシュ政権の屁理屈を述べざるを得ないオルソンという役人に心から同情したものだった。おそらく彼は愚にもつかないいいわけをしている自分の映像を子供や孫たちには見せたくないものだと心から思っていただろう。

 ところでこれを書いている21時47分現在、「テロとの戦い」とやらにはことのほか熱心な「読売」・「サンケイ」の二紙はこのニュースを伝えていない。きっと両紙は本質的な意味における「民主主義」や「人権と自由」など、それほど重要なものとは考えていないのだろう。彼らは「民主主義?、人権?、自由?、そんなものは侵略戦争のための名目に決まっているだろう、そんなこともわからんのか?、子供だな」と嘯いているのに相違あるまい。(6/29/2004)

 アメリカは予定を二日繰り上げて、きょうイラクに主権を委譲した。

 少なくとも我が政府は驚いたらしい。多国籍軍に鞍替えをしなければならないのに、わずか一時間半前に、しかも電話による口頭連絡(パウエル→川口)で通告されたというから驚いたのも無理はない。(結局、今夜中に持ち回りで閣議決定するらしい。「日本?、適当に言っとけよ」と、そんなところだ。先日、北朝鮮帰りのコイズミが家族会の増元某に「総理にはプライドというものがおありか」と詰問される場面があったが、プライドなど持っていたら対米外交などは成り立たないということだ)

 返還された主権を受け取る暫定政府の内実がどれほどのものかということと、どれくらいの時間があれば名実のともなう政府になるのかというふたつのことを考え合わせれば、きょうであろうがあさってであろうがなにひとつ変わらないのだから、一日二日の繰り上げなど驚くことではない。

 むしろ驚くべきはこのドタバタ劇の内容の薄さだ。関係者6人(CPA側:ブレマー代表、リッチモンド英特別顧問、イラク側:ヤワル大統領、アラウィ首相、マフムード最高裁長官、あと一人がわからない)だけの出席、数十分の委譲セレモニー、終わるやいなや逃げるようにイラクから出国したブレマー。まさに密室における闇取引と犯罪者の逃亡劇そのものではないか。占領統治の終了・イラクの主権回復の高らかな宣言という政治的効果の高い式典がなにひとつできないほどに治安が悪いらしい。

 権力機構は実力を誇示してこそ自らが権力機構であることを示すものだ。反権力側の行為を恐れて逃げ回る権力機構など誰も権力機構だとは思わないものだ。領域・人民・権力の三要素を備えるものを国家と呼ぶ。反権力の前に首をすくめているようなものは最初から国家ではないのだ。してみると、なんとまあ、みじめな「主権委譲」であることか。

 戦争の始め方から戦後処理の仕方まで、たったひとつお得意のハイテク兵器を駆使した戦闘そのものを除けば、すべての点でブッシュ政権は失敗し続けた。無惨なまでにみごとに失敗し続けた。それでもブッシュの再選のためにはイラクの主権回復という形が欲しかったから、実態は整わないままに「ふり」をしてみせたのだ。サルが考えつくことはサル芝居でしかない。

 アラウィ首相が作る暫定政権がアメリカの期待する傀儡政権として、イラク国民の支持を曲がりなりにも取り付けられるかはまったくの未知数だ。アメリカが主張する民主主義が本来の形でイラクに根付いたならば、皮肉なことにアメリカの居場所はなくなってしまうだろう。とすれば、アラウィの率いる傀儡政権は多かれ少なかれフセインが敷いた恐怖による強権政治に似たものを復活させざるを得ない。

 その時、世界中の人は知るわけだ、アメリカが主張する民主主義は所詮親米主義の別名にすぎないことを。記憶のよい人はあわせて思い出すに違いない、民主的選挙によって成立したアジェンデ政権が気に入らなかったアメリカはピノチェト将軍をたきつけてクーデターを起こさせ、フセイン以上に狂暴で陰湿だったこの非民主的軍事政権をアメリカは積極的に支持したことを。

 ・・・とここまで書いて、6月8日の朝刊、国際面に載っていた面白い一覧表のことを思い出した。書き写しておく。

(表中、△は急進的なイスラム主義政党の禁止措置を示す)

国名 政体 議 会 諮 問
評議会
参政権 複 数
政党制
男性 女性
イラン イスラム共和制  
トルコ 共和制  
シリア 共和制  
レバノン 共和制  
ヨルダン 立憲君主制  
クウェート 立憲君主制   × ×
サウジアラビア 絶対君主制 × × × ×
バーレーン 立憲君主制   ×
カタール 立憲君主制 × ×
アラブ首長国連邦 立憲君主制の連邦国家 × × × ×
オマーン 立憲君主制 × ×
イエメン 共和制  
エジプト 共和制  
リビア 一党独裁制   ×
スーダン 共和制  
チュニジア 共和制  
アルジェリア 共和制  
モロッコ 立憲君主制  

 この表を仔細に見れば、アメリカという国がいかに「共和制」よりは「君主制」が好きで、イラクなどよりはるかに非民主的な国を「許容」しているかということがよく分かる。「イラクの民主化」などというものが「戦争のための言いがかり」であったことも。(6/28/2004)

 先週、部分的に輸入再開の方向で検討していることが伝えられたアメリカ産牛肉、25日、BSE容疑の牛が発見されたことでまた振り出しに戻ろうとしている。

 昨年12月にワシントン州で確認された牛についてはカナダ産だったと言い抜けたアメリカ、こんども適当な工作をするための時間を稼ごうと、「確認の結果シロになるかもしれないから」などとして当該牛の出生地も肥育場所も年齢すらも伏せている。シロだったとごまかすつもりなのか、それとも今度はメキシコ産牛だったとでもいうつもりなのか、「悪の帝国」は「狡猾の帝国」でもあるようだ。(6/27/2004)

 あとで読もうと切り抜いていた記事。水曜日の「レミングが集団自殺するというのはウソ」という話も面白かったが、火曜日の朝刊に載った柳澤桂子の「残虐性は人間の本能か」も負けずに面白かった。

 イギリスの動物学者であり、永年、野生のチンパンジーを観察してきたグドールは、チンパンジーが他の群れのチンパンジーを残虐に痛めつけるのを見て、その解釈に悩んだ末、チンパンジーの殺戮記録を学会ではじめて発表した。
(・・・中略・・・)
 グドールは、アフリカのカサケラとカハマと呼ばれる地域の群れのチンパンジーを観察していた。ある日、カハマの群れのゴライアスと名づけられたチンパンジーが、カサケラの六頭のチンパンジーに襲撃された。かつて元気であったゴライアスは年老いて、やせてか弱く、誰のじゃまにもならない存在だった。
 ゴライアスは、カサケラのチンパンジーの集団に発見されたとき、必死で茂みに隠れようとした。しかし、六頭の雄は、ゴライアスを襲い茂みから引きずり出した。十数分間にわたり、カサケラの集団はゴライアスを殴り、噛みつき、脚をしつこくひねり、興奮の叫びをあげながら引きずりまわした。
 はじめは悲鳴を上げていたゴライアスも最後には起きあがることもできず、倒れたままふるえていた。カサケラの集団は興奮して雄叫びをあげながら、意気揚々とその場を去った。ゴライアスはその後、姿を見せないので、死んだものと思われた。
 グドールは、このような例をたくさん観察し熟慮の末に、人間はチンパンジーの残忍性を遺伝的には引きついでいるかもしれないということを発表したのである。しかし、人々はそれを認めようとしなかった。自分たちを含めて霊長類がそのような残虐な本能を持つことを認めたくなかったのである。

 小は学校でのいじめの場面から大は悪の帝国が爆弾の雨を降らせて驚喜する場面まで圧倒的に弱いものを見つけてはいたぶることを快感としている様がゴライアスに群がる六頭のチンパンジーを彷彿とさせる。おお、そのうちの一頭は某国のサル面の大統領にじつに生き写しではないか。(6/26/2004)

 イラクで拘束された韓国人が殺されたと伝えられたのは一昨日の朝のことだった。そして昨日は、バグダッド、ファルージャ、ラマディ、バクバ、モスルの五都市でほぼ同時にアメリカ軍や警察を狙った一斉攻撃があり、合計で百名近い死者が出ている。ニュースではアメリカの説明そのままに「イラクへの主権委譲を前にテロリストたちが最後のあがきをしている」などという利いた風なコメントをつけている。

 しかし、いま、イラクで起きているのはおそらく相転移なのだ。固相、液相、気相という三つの相の間の転移については誰の眼にも明確に見える。H2Oならば、固相は氷、液相は水、気相は水蒸気だ。だが、固相の中での構造、結晶構造の相転移は注意深く観察をする者にしか分からない。

 拘束された韓国人の殺害は日本人が拘束された頃といま、また都市における占領機構への同時多発的な攻撃も数ヵ月前の状況といまでは、あきらかに反占領勢力の連携度において質を異にしている。アメリカの想定を超えた構造相転移がイラクにおいて発生したように思えてならない。

 もし構造相転移が発生したものだとしたら、「有志連合」から「多国籍軍」へ参加対象を変更した自衛隊は、撤退プログラムをまったく持たない泥沼に、無自覚なまま足を踏み入れたことになるのだが、そういう危機感は政府・自衛隊・国民を通じて薄いようだ。嗚呼、愚かな我が祖国よ。(6/25/2004)

 参議院選挙の公示。夜のニュースには各党党首の第一声映像。コイズミの話は聞くにつけ不愉快、アベの顔は見るだけで反吐が出てくる。なんとまあ、浮薄で、下賤な連中がのさばっていることか。

 夕刊に「米、免責決議を断念:PKO要員巡り、安保理、虐待に反発」の見出し。

 米国は23日、国連平和維持活動(PKO)に参加する自国兵士らを国際刑事裁判所(ICC)の訴追対象から外す特別措置について、1年延長するため国連安全保障理事会に提出していた決議案を撤回すると表明した。イラク・アブグレイブ刑務所の虐待事件への反発が安保理内に強く、米国は15理事国のうち採択に必要な9カ国の賛成が得られないと判断した。
 米の要求については、採決で棄権を予告する理事国が相次いだ。アナン国連事務総長も強い言葉で批判していた。追い込まれた米は22日、今回を最後の延長とする大幅な譲歩の姿勢を見せた。
 だが、23日の安保理非公式協議でも同調する理事国は少なく「米は孤立状態を抜け出せなかった」(安保理筋)という。米のカニングハム国連次席大使は協議後、「長引かせて安保理が分裂するのを避けるために決議案を撤回する」と記者団に説明した。
 米国が採決に持ち込めずに決議案を撤回するのは、昨年3月の「イラク開戦決議」などしかなく極めて異例。
 撤回によって訴追免除は6月末で期限切れになる。ブッシュ政権は各国政府と個別に、米兵らをICCに引き渡さないことを定めた2国間協定を結んでおり、締結国はすでに約90カ国にのぼる。このため、国連決議が失効しても実際の影響は少ない、とする見方もある。
(夕刊掲載記事はここまで:以下はインターネット掲載記事の追記)
 ブッシュ米政権は「米兵が(反米国家などで)政治的な訴追を受ける恐れがある」などとして、一貫してICCに反対の立場を取り、ICC非加盟国の兵士らの訴追免除を要求してきた。ICC設立条約が発効した02年7月、米国は安保理に圧力をかけ、訴追免除決議案を採択に持ち込んだ。昨年6月には免除措置を1年延長する決議が採択された。

 各紙のサイトをサーチしてみると、21日、そしてきょうと、事実の経過が一番細かくフォローされているのは毎日。

 アメリカ政府の受売で紙面を作っている読売は「【ニューヨーク=勝田誠】国連のアナン事務総長は23日、米国が国際刑事裁判所(ICC)の訴追免責決議案を取り下げたことを受けて、『国連安全保障理事会が困難な挑戦に直面している現在、その団結保持に役立つ』と、米国の決定を歓迎する声明を発表した」とたったこれだけ。これで事態の正確な像を把握できる読者がどれだけいるだろう。

 もっともサンケイに至っては少なくともサイトに掲載されている範囲には記事がない。こういう高尚な話はうちの読者にとっては「猫に小判、豚に真珠」だと、サンケイは判断しているのだろうか。(6/24/2004)



国際刑事裁判所(ICC)に対するアメリカ合衆国の姿勢については前にもふれた通りです。

「宗主国」アメリカの顔色をうかがって、我が国がローマ条約を批准しないでいることについても前に書きました。

 年金改革法はベースデータを過去データで作っただけではなく、今頃になって改正部分に関係する条項の修正漏れまで露顕する始末。年金法の国会成立時に高山憲之が「三菱の自動車並みの欠陥法、最初からリコール対象になるような法律だ」とコメントしていたが、まったくその通り。

 昨日の会議結果にしたがって、けさから個人情報保護法の施行に向けた検討点資料の作成準備を始めた。各官庁は所管分野について去年成立した個人情報保護法施行に向けた「ガイドライン」や「指針」を発行することになっている。きょう現在、発行されているのは、いずれも今月15日に出された経産省「個人情報の保護に関する法律についての経済産業分野を対象とするガイドライン」厚労省「雇用管理に関する個人情報の適正な取扱いを確保するために事業者が講ずべき措置に関する指針」のふたつだ。前者は全58ページ、後者は全3ページのボリューム。

 たしかに経産省の所管部分の範囲は広く多岐にわたるのに対し、厚労省の担当部分は雇用者に関わる部分程度で限定的であるから、記述対象量が圧倒的に異なるのは分かる。しかし、該当条文の解釈と運用に関する記載には大人と幼児(子供並みにも達しない)ぐらいの質的な違いがある。厚労省の「指針」はただ条文の記述を言い直した程度のものでしかない。とにかく、「プア」とはこういうものをいうというみごとな見本だ。

 どうやら厚労省の役人は、仕事を遂行する能力においても、熱意においても、経産省の役人に比べて格段に落ちるようだ。そうであればこそ、あの年金法案なのだということだ。(6/23/2004)

 台風一過の快晴。青空は高い。しかし、秋のそれではない。くそ暑い、とにかく暑い。

 朝刊トップは小泉内閣の支持率急落のニュース。前回調査(5月23日)が54%で今回調査(6月19~20日)が40%。朝日の調査だからといって対象が朝日の読者というわけではない(対象:全国の有権者。無作為三段抽出。回答率52%)が、かなり極端な変動だけにこの週末に行われるはずの他社の調査値と見比べないとにわかには信じがたい。

 しかし、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、ただの無能を押し隠す鉄面皮を「強いリーダーシップ」などと見間違っていただけのことと知れてしまえば、突然のパワーダウンも不思議ではない。空気の抜けた「妖怪」ほど哀れなものはない。

 では今度の参院選で自民党は惨敗するのか。それについて夕刊で橋爪大三郎は「今回は民主党の議席が増えてほしいという有権者が増えている」とした上で、こんな風に書き継いでいる。

 参院選のあと、自民党はますます公明党への依存を強めることになりそうだ。
 衆議院で過半数を割り込んだ自民党は、小選挙区選挙を勝ち抜くため、組織票をバックにした公明党との連立を選択した。法案審議を考えると、参議院でも安定多数を確保するため、やはり公明党の協力が不可欠である。その結果、従来の自民党の派閥力学が万能でなくなった。小泉政権は、こうした変化も追い風になって誕生したのだった。
(・・・中略・・・ここで連立政権というものが持つ宿命的な歯切れの悪さを指摘し、民主党に「目先の議席にとらわれ」ないこと、「政策のなかみにこだわる姿勢を貫」くことなどの条件をつけた上でのアドバンテージを認めているが・・・)
 今回の参院選で民主党がたまたま健闘するようなことがあったとしても、それは「中間選挙」、有権者の気まぐれにすぎない。

 短期のことなどたいしたことではないような気もする。選挙当日の天候、投票率、いまのところ、投票率は悪いと見込まれているようだ。ということは公明党のような存在がこの国の流れを左右していることになる。しかし、しばらくの間、コイズミの妖怪ぶりを見続け、進路を変えられぬままに安倍晋三がめざす奈落へと静かに向かうということならば、短期の結果も長期的で致命的な曲がり角になりうる。

 声が届く範囲には伝えたい。瀬戸際に立っているんですよ、と。(6/22/2004)

 7時半にホテルを出て白石のトヨタレンタへ。手続きを済ませて、地下鉄白石駅近くで待つK、T、Nをピックアップしたのが8時40分。札幌インターから旭川鷹栖インターまでひた走る。土曜日だというのにとにかく空いている。旭川空港近くをかすめて美瑛の丘陵地帯へ。ほぼ心づもりにしていた10時半にはパッチワークの路と呼ばれるあたりに着いた。

 なんという美景なのだろう。なだらかな高原というのはよく見かけるが、起伏のピッチが短いというところに特色がある。だから複数の丘が重層的に見える。そしてひとつひとつの丘のアンジュレーションがそのまま畑になり、ところどころに孤立した木が立っている。丘のあちらこちらに佇立する観光客ですらその風景に溶け込んでしまう。オースティンは「男は野にあっても人だが、女は野にあっては風景になってしまう」と書いていたが、あれは間違いだったかもしれない。男だってここでは風景になってしまう。

 お昼をパノラマロードの途中にある「エルミタージュ」というレストランでとって拓真館へ。美瑛ですっかり時間を使い果たした関係で後藤美術館はパスして富田ファームに寄るのがやっとだった。ラベンダーにはまだまだ。それでもポピーやらハマナスやらの花が植え分けられていて楽しめた。

 5時過ぎに富良野をあとにして桂沢湖、三笠まわりで札幌に戻った。渋滞はまったくなく白石帰着がほぼ7時。これならばもう少し富良野をドライブしてもよかったかとも思ったが、ほぼ満足の一日だった。(6/19/2004)

 11時羽田発の便で千歳へ。JRに乗ってから急ぐわけでもないのだからバスでもよかった、第一、すすきのあたりですぐ降りられてかえって便利だったのにと気付いたがもう遅い。どうも出張感覚が抜けない。チェックインまで少し間があるのでコインロッカーに荷物を入れて狸小路の端まで歩く。まだあった、「ウィーン」。高校の頃と比べての違いはスピーカー(マッキントッシュのXRシリーズの何番か)だけ。バイオリンソナタがかかっていた。よくチューニングされた音。艶のある音に一気に引き込まれた。

 もう四十年近くになる。禁止の喫茶店を教えてくれたのは**さんだった、新聞局長の方の。もっとも禁止でなくてもいつも買いたい本を我慢しているくらいなのだから、めったに立ち寄れるわけではなかったけれど、家の「セパレート型ステレオ」の貧弱な音と数少ないレコード量に我慢できなくなると隠れてこの店を訪れた。当時のスピーカーがなんだったかは分からない、暗幕がかかっていた。音の記憶にも暗幕がかかっている。喫茶店に入っているという後ろめたさがどこか「あずましく」ない感じをもたせていたのだろう。

 中野の「魔笛」、国立の「ジュピター」、学生時代、かけだしサラリーマン時代、それぞれの時代のお気に入りの店はどこもなくなってしまった。高校時代のお気に入りだけが残っているのはまるで奇跡のようだ。大げさを承知で、永遠なれ、「ウィーン」よ。(6/18/2004)

 ビッグサイトで開催されている製造・設計ソリューション展に行く。秋津から新木場行きの直通電車に乗った。思いのほか混んでいたが秋津から座れた。練馬までの西武線内も各駅停車、ひばりヶ丘で急行と待ち合わせ、練馬でも後から来る準急と待ち合わせがあるため、池袋までが40分以上、新木場に着いた時は10時を回っていた。

 最近は電車に乗るとすぐ眠くなるのだが朝のことで久しぶりにじっくりとマンウォッチング。真向かいの男はスポーツ新聞を広げて顔が隠れていた。新聞を下げたとき思わず吹き出しそうになった。スポーツ新聞を読むぐらいでそんなに眉を八の字によせることもあるまいにというぐらいの渋面だった。まだ若そうなのに堂々たる肥満体。ジーンズにラフなシャツ、スニーカー、ネックホルダーの先は胸ポケットにいっている。IDカードがついているとすると通勤途上、なりからするとメディア関係か広告業界。客先に出れば如才なくニコニコしていなければならぬ反動なのかもしれない。右隣には若い女性、左隣には典型的なおばさん。やがて眉八男は居眠りを始めた。首はどちらに傾くか、こういう時、ほとんどの場合、より魅力的な方に首はかしぐものだ。まさに「理性の狡知」とはこのことといつも思っている。

 真ん前にスタイルのよい女性が立った。(ぼくの前には立たない方がいいよ、終点まで乗るんだから)。女性いっかな動こうとしない。右隣の若い男は秋津の前から座っていた男、左隣の女はひばりヶ丘で座った女、どちらもまだ乗りそうだ。前に立つ女性、多少焦れてきた。別に意地悪をしているわけではない、なぜかこちらも落ち着かなくなる。池袋について車輌の前の方からどっと人が降り、スタイル美女はさっとそちらの方に移動して座れたようで、ほっと一息。真向かいの太っちょはまだ居眠り中。右隣の若い女は既に初老と思しき紳士に交代。眠る男の首はみごとに中立を保っている。理性の狡知は機能している。(6/16/2004)

 多国籍軍への参加問題。コイズミ内閣がどのような説明をしたのかを記録しておく。

 小泉首相は14日の参院イラク復興支援・有事法制特別委員会で、主権移譲後のイラクで編成される多国籍軍に自衛隊を参加させる考えを改めて表明したうえで、「多国籍軍に参加しても、自衛隊の活動は日本国の指揮下に入り、日本の主体性をもって活動する」と述べた。ただ、それがどう担保されるかの根拠は十分に説明されていない。政府は一両日中にこうした点を整理した統一見解をまとめたうえで、18日にもイラク特措法の施行令に多国籍軍駐留の根拠となる国連安保理決議1546を加える閣議決定をする方針だ。 ・・・(中略)・・・
 国連安保理決議1546は、多国籍軍の指揮について「unified command」の下に置かれるとし、一般に「統一された指揮」と訳されてきた。この点について政府高官は14日夕、「日本語では『統合された司令部』であり、指揮権を表すものではない」と語った。政府としては、多国籍軍に参加することが直ちに司令官の指揮下に入ることを意味しない――という根拠の一つとして、この訳を採用する方針とみられる。
 首相はまた、同日の参院特別委で「自衛隊は現在のイラク特措法の範囲内で、非戦闘地域で人道復興支援活動を継続していく。武力行使を目的とする活動に協力しないことは関係国にはっきり伝えてある」と述べた。政府関係者は同日、「日本が独自の指揮権を持つと公表することは、米英両政府の了解を得ている」と明らかにした。

 しかし、小泉純一郎という男は面白い男だ。①行方不明者の追加調査をするという件・・・金正日との口約束、②ジェンキンスの日本在住に関する身柄保証に関する件・・・ジェンキンスに保証文書、③多国籍軍における日本の指揮権の独立・・・アメリカ側との口約束。

 ①と③こそ確実に文書化しておくべきことがらで、②は根拠に疑問があることを考慮すれば文書化はしにくいことがらというのが、ごく普通の感覚だろうに。ひょっとするとこういうことかしら。騙すためには文書化が必要だが、騙す必要がない場合には文書化など不要だ、と。(6/15/2004)

 近鉄とオリックスが今シーズン終了後に合併する方向でいるというニュースが入ったのは昨日だった。バッファローズの赤字は年間40億を超え、この春にも球団名の命名権を売りに出すというドタバタ劇があったばかり。合併話はこの赤字解消が目的らしい。原因は選手年俸の高騰とドーム使用料をカバーするに足りる観客動員がないことの由。

 近鉄バッファローズはもともと親会社の近鉄の路線に意識して近鉄パールズという球団名で発足した。ジャイアンツで活躍した二塁手千葉茂を監督として迎えるに際して、彼のニックネーム「猛牛」から近鉄バッファローズに改名したと聞いた記憶がある。

 バッファローズはリーグ優勝すら適わず、やっと駒を進めた日本シリーズにおいても過去4回挑戦し、一度も日本一にはなっていない。12球団の中で日本一の経験のないチームはバッファローズだけだ。新しい球団の名前、本拠地がどこになるかは、まだなんとも分からないらしいが、どうやら日本チャンピオンのタイトルをとらないままに消えてゆくことが確定しそうだ

 親会社が鉄道会社というのは、いまはセリーグではタイガース、パリーグではライオンズと消えゆくバッファローズの三球団に過ぎないが、昔はセリーグには国鉄スワローズ、パリーグには南海ホークス、阪急ブレーブス(いまのブルーウェイブ)とじつに12球団中6球団を占めていた。鉄道会社がプロ野球興業をセットにしてある種の娯楽文化を形成していた・・・などという時代は遠い昔へと隔たってしまったのだろうか。

 さらば、近鉄バッファローズ。(6/14/2004)

 夜9時、NHKスペシャル「21世紀の潮流:アメリカとイスラム」の第一回はグアンタナモ基地に抑留された「アフガン戦争」の「捕虜」たちをクローズアップした「カリブの囚われ人たち」だった。

 ブッシュ政権は、頭の悪いブッシュ、狡猾なラムズフェルド、利権にのみ忠実なチェイニーというトリオからなっているらしい。だから「テロとの戦い」が「戦争」なのか「犯罪摘発」なのか、常に曖昧になっている。頭の悪さがどっちつかずの曖昧さを生み、その曖昧さに狡猾さがつけ込み、つけ込まれた曖昧さから金銭欲がカネを引き出しているというわけだ。

 番組はそういう悪人達の作ったエアポケットに入ってしまった「アフガン戦争」の「捕虜」たちの処遇の実態と幾人かの「捕虜」たちのプロフィールを紹介したものだった。NHKにしては珍しく見かけばかりの公正さにとらわれずにかなり踏み込んだレポートになっていたと思う。(こんな言葉があった、「国防総省の当局者たちは収容者をジュネーブ条約にいう戦時捕虜とは認めていません。にも関わらず戦時捕虜の保護をうたったこの条約をたてに収容者の顔を映した映像を消すよう私どもに求めました」)

 イラクのアブグレイブ(ノータリンのブッシュがどうしても憶えられなかった名前)刑務所における「虐待」の露顕以来、軍関係者も将来自分が告発された場合を考慮せずにはおれなくなったらしく、インタビューに答えた基地の報道官はこんなふうに答えていた。「アメリカは収容者たちに公正な裁きを受けさせると約束している。ここにいつまで捕らわれているのか、また将来どうなるかもいまは分からないと正直に伝えてある。しかし、必ずや公正な裁きを受けさせると保証しているのだ」。即座にこう尋ねたいと思った、「おまえが拘禁されたとき、公正な裁きは受けさせてやる、しかしそれがいつになるかは分からないといわれたら、それをフェアなやり方だと思うかい」と。答えははっきりしている。迅速な裁判こそ、フェアな組織、フェアな手続きの基本だ。いつ実現されるか明示されない約束など約束ではない。それが近代国家の「基本中の基本」だ。

 番組を司会した手嶋龍一は、番組の最後に第二次大戦中の日系人強制収用を指令したルーズベルト大統領の決定を誤りと認定したレーガン元大統領の手続きを紹介しながら、グアンタナモ抑留を命令したブッシュ決定への疑問を述べていた。

 昨日、国葬でおくられたレーガンは旧ソ連を「悪の帝国」と呼んだ。いまこの21世紀初頭における「悪の帝国」はアメリカ合衆国だ。(6/13/2004)

 **(家内)と渋谷東急Bunkamuraで開催中の「オードリー・ヘップバーン展」を見る。昼過ぎに着く。はや行列で40分待ちの由。5分刻みに20人ずつ区切って入場させている。全部で11のブロック、順に「少女オードリー」、「ダンサー・オードリー」、「妻・母オードリー」、「オードリーの家と庭」、「オードリーと動物」、「スター・オードリー」、「オードリーと友」、「オードリーのクローゼット」、「美の女神・オードリー」、「スタイルの象徴」、「オードリーと世界の子どもたち」。少女時代から晩年のユニセフ親善大使までを写真と愛用品、衣服の展示で見せるもの。

 はじめて見たのは「戦争と平和」、高校一年のときだった。以来、リバイバル上映をあちこち追いかけ、ビデオでも繰り返し見た。バリー・パリスの「オードリー・ヘップバーン物語」には彼女の出演作の一覧が載っている。イギリス時代の端役出演を含めると映画は27作あるが、見ているのは「ローマの休日」から「暗くなるまで待って」の16作に限られる。これらの中のシーンならばおそらくどのシーンでも作品名もおおよそどういうシチュエーションの場面なのかもあてられる。それほどまでによく見た。

 年譜で見ると「暗くなるまで待って」は1967年、1976年の「ロビンとマリアン」からあとはみごとに見ていない。会社に入って忙しくなったこと、そして熱が冷めてしまったということなのかもしれない。

 「オードリー・ヘップバーン物語」の訳者永井淳はあとがきにこんなことを書いている。

 スターとはどんな役を演じても役者自身の顔が役の向こうから透けて見える存在、観客がその顔を期待して映画館に足を運ぶ存在のことで、そこが役になりきってそのつど違った顔を見せる名優といわれる人たちとスターの違いだと思う。その意味でオードリー・ヘップバーンは真のスターだった。われわれは「――(映画のタイトル)のヘップバーン」ではなく、「ヘップバーンの――」を観るために映画館に行ったのである。

 まさにその通りだったと思う。ただ、「スターだ」ということだけではなかった。

 写真でも、フィルムでも、彼女は美しい。美しいだけのお気に入りならば、クリスチーネ・カウフマンも好きだった。しかしオードリー・ヘップバーンにはそれ以上のなにかがあったことを彼女の晩年は示している。それ故ファンであったのかもしれない、そういうなにかを学生時代に明確に感得していたかどうかは別にして。(6/12/2004)

 朝のニュースできのう逮捕された三菱自動車の川添元社長が連行される映像を見た。破廉恥罪で逮捕された犯人の如くに捜査員の背広を頭からかけてもらい顔を隠しているところが印象的だった。社長としてかぶり物など不要と傲然、胸を張る気持ちとはほど遠かったということ。容疑は重大な事故につながる欠陥との認識を持ちながらリコールとせずにヤミ改修、その後はその改修についてさえ止めるように指示したという業務上過失致死。逮捕されたのは全部で6名。(川添克彦、横川文一、村田有造、宇佐見隆-再逮捕-、鈴木弘敏、中神達郎)

 三菱のクレーム隠しは、逮捕理由になっているトラックのクラッチ損傷にとどまらず、エアバッグ、燃料タンク、サスペンションなど不良の種類、対象車種が広範囲にわたっていて、もう最近ではまたかというだけで内容までの関心は薄れてしまっている。石原国交相などはなんだか鬼の首を取ったような顔をして三菱自動車を非難しているが国交省にはなんの責任もないとでも考えているのだろうか。

 たしかに現行制度ではメーカーがリコールを届け出ることが基本となっているから三菱のような「悪意」に対して監督官庁が騙されることはありうる。しかし三菱がリコール制度を踏みにじったのは今回が初めてではない。「前科者」ともいうべき三菱に対して再犯の警戒をまったくしなかったというのは監督官庁として怠慢だったぐらいの反省はあって然るべきだろう。

 国交相が指示すべきことは現在の「メーカー性善説」に立っているリコール制度を根本から見直すことのはず。マスコミの尻馬に乗り政治家として顔を売るチャンスとばかり「したり顔」で三菱批判を繰り広げるだけとはみっともないぞ、石原バカテル。(6/11/2004)

 年金法の改定に関する「後出しジャンケン」は政治家の「資格」問題にとどまらなかった。朝刊トップ記事は「出生率低下1.29」の見出しで、昨年の「合計特殊出生率」が政府想定を下回る1.29だったことを報じた。「合計特殊」という表現は「一人の女性が15歳から49歳までの間に産む子供の平均値」ということを意味しているらしい。

 賦課方式による年金は年金受給資格者と年金納付者の間で成り立つものだから出生率は年金システムの設計の基盤となるものである。成立したばかりの改訂年金法が前提としていた出生率は2003年で1.32、最低は2007年の1.30、それ以後ゆるやかに2050年までに1.39に回復するとしていた由。いくらお役所仕事でも基本中の基本データについて同一省内の部局間で確認がないことはあり得ないから、先日成立した「改正」年金法は「百年はもつ改正案」ではなく「最初から瑕疵のある改正案」という認識でまとめられたものだったということになる。

 はたして夜のテレビニュースは「後出しの姑息」を批判するトーンになっている。しかし、厚労省官僚の「悪意」をその程度のものと思うのはおそらく間違っている。彼らの「悪意」はそれほど軽くかつ甘いものではない。坂口厚労相は「大臣にも報告せずにマスコミに流すのはけしからん」と激怒したという。大臣は発表のタイミングの悪さに腹を立てているのだろうが、ほんとうに困るものならしたたかな下僚はこんな形でリークなどしない。年金官僚は大臣などよりはもっと先を見ているのだ。

 「マクロ経済スライド調整」も知らないコイズミのようなバカ政治家(先週の参院委員会質問でこの用語について質問され立ち往生した首相は「そういうことは専門家に聞いてくれ」と答弁し満座の失笑を買っていた)に下手知恵をつけ「百年もつ」と豪語させ、「負担の増加」と「給付の削減」だけしかない「改正案」を「粛々と」決めさせ、喉元も過ぎぬうちに「百年もつ」はずの基盤が怪しいとわざわざリークしたのは、次に彼らが予定している「負担増」と「給付減」のおいかけっこが不可避のものであると政治家や国民に刷り込むための彼らの手段なのだ。なんとまあ悪辣な連中であることか。

 そう予想する根拠については、今夜はもう眠いから書かない。(6/10/2004)

 佐世保で起きた同級生刺殺事件から一週間が経った。マスコミが伝える被害者・加害者のプロフィール情報を見聞きしていると、徐々に「事件は特異な児童により引き起こされた特異な事件」という解釈に軟着陸しようとする意図のようなものが感ぜられる。ある意味ではたしかに特異であったのかもしれない。しかし、最初から彼女(あるいは彼女たち)が特異であったといわんばかりのデータの列挙には首をかしげてしまう。

 そういう中で毎日新聞のサイトにこんな記事を見つけた。

 長崎県佐世保市の市立大久保小で起きた小6同級生殺害事件を受け、関係者からの聞き取りのため同市を訪れた文部科学省の調査チームは8日、現場の教室はおろか同小学校すら見ることなく引き揚げた。同省は原因究明や再発防止を進めるためプロジェクトチームを発足させたが、一部では「有効な調査が期待できるのか」と疑問の声も上がっている。訪れたのは同省初等中等教育局児童生徒課の吉田憲司・生徒指導室長▽中谷昇・課長補佐▽同局の宮川保之・視学官。
 7日午後に現地入りし、8日午前9時半から昼食を挟んで約4時間半、市役所で鶴崎耕一・同市教育長や出崎睿(えい)子校長らから状況を聞いた。その後、佐世保児童相談所に約45分立ち寄り、夕方には空路帰京した。
 市教委関係者は「情報を共有するために来られたのだろう。最初から現場に行く話は出ていなかった。時間がなかったのではないか」との認識。だが、市内のある小学校長は「事件の背景には地域や学校の特性がある。市教委などから説明を受けるだけでは、市教委以上の対応は望めないのでは」と話す。これに対し、同省児童生徒課は「学校では授業をしており、児童・教師に配慮した」と話している。
 同省は"直轄"の大阪教育大付属池田小の乱入殺傷事件では、発生当日から約2週間、2人の職員を常駐させた。

 客観性の細工が鼻につく書き方ではあるが、文科省という役所の姿勢を如実にあらわした話。記事にある国立と市立の違いだけではなく、被害者数から見た事件の大きさが違う、文科省側はそういうことをいいわけするかもしれないが、世の中全体を恨みの対象にした成人男子による確信的犯罪と同年代の女児による学校内での犯罪とを比較すると、考えようによっては文科省としてはるかに詳細な事実把握が求められる事件であるだけ、この極めて官僚的な対応ぶりが際立って見える。

 お役所に限らず「調査」に名を借りた物見遊山の如き帯同出張は弛緩した組織には間々見受けられる現象。この三名がそうした意識でたとえば旬の長崎枇杷を食することに等分の関心を持っていたとしたら、殺害現場につゆほどの関心がなかったとしてもなんの不思議もない。

 ところで、池田小学校は事件の現場となった校舎を建て替えたが、大久保小学校はどうするのだろう。改築だけではなくなにか国立小学校故の特別扱いが随所にあるように感ずるのは、気付かぬながら我が心中に宅間守の如き「ひがみ根性」が住みついてでもいるものか。(6/9/2004)

 コロンビア・トップが亡くなった。かなり多くのタレント議員が議員になるやいなや、あるいは議員生活を続けるうちに、何ほどか自分のステータスがあがったかのように思いなし、「議員先生」にとして偉ぶるようになり、それに比例して不思議と強いものに尻尾を振るようになる中で、彼は身を持し続けた。

 先週、年金法案参議院可決後のインタビューに青木自民党参議院幹事長が「我々は衆議院が可決したものを粛々と通すまでだ」と応えるのを見た時、シェイエスの「二院が一致すれば無用、二院が対立すれば有害」という言葉を思い出した。青木はおそらく参議院における自分の力を自慢したかった、ただそれだけのことだったのだろうが、その言葉が自ら所属する院を貶める響きを隠していることに思い至らぬとはなんとも情けない阿呆だなぁと嗤ったものだった。

 三期にわたる下村泰(コロンビア・トップの本名)の議員活動には、二院制を担う参議院議員として、少なくとも青木などが持ち合わせていない矜恃があった。(6/8/2004)

 雨音で目を覚ました。かなりの降りのようだ。戸袋のない雨戸は失敗だった。スチール製でカラカラと軽いのは我慢するとしても、なにより雨戸収納側のすきまから外光が差し込んでくるのは許し難い。建て替える前の家の雨戸はしっかりしたつくりの木製で戸袋もあったから、閉め切れば外光はほとんど遮断され部屋の暗さが確保できてよかった。夏至に向ういまはいっそう早くから明るくなる。そうでなくとも朝早く目が覚めがちな最近はとくに堪える。安眠のためにアイマスクをしている。

 物心ついてから住んできた家が次々に頭に浮かんだ。名古屋の家。いつもは母に起こされるのに、日曜の朝はどういうわけか親が寝ているうちに目が覚めた。親が起きるまでのちょっと手持ちぶさたな時間、雨戸のすきまから差し込む陽光のビーム中のホコリを見て過ごす。それがチンダル現象と呼ぶものと知ったのは高校になってからのこと。ふだん見えないものが見える不思議さ、空気というものが意外に汚れていると知った驚き、光線の中を自在にたゆたうホコリ、それで十分退屈しのぎになった。

 日曜に限って早く起きてしまうというのは子どもの錯覚。休みの日ゆえ親たちはゆっくり寝坊を楽しみ、こちらはいつもと変わらぬ時刻に目覚めた、ただそれだけのことだったのかもしれない。

 札幌の家には雨戸がなかった。れんが造りでペチカがあったあの家は雪国の暗さを配慮したのか、窓は大きめに作られていた。よく晴れ上がった冬の朝は天井から明るくなった。降り積もった雪に乱反射する陽光がカーテンを通して部屋全体に無遠慮に差し込んだからだ。**(弟)と同じ部屋に二段ベッド、上段に寝るこちらは天井に近い。影をつくらない柔らかな反射光の中での目覚めは心地よいものだった。天井の方が明るいなんて、あれはあの家だけの経験だった。そういう日は冷え込みが強くて、そうとう気合いを入れないとなかなか起きられなかったっけ。

 とりとめもなくそんなことを思い浮かべてから、もう一寝入りとアイマスクをつけなおした刹那、「モリモトタケロー、スタンバイ」と目覚ましラジオがけたたましい声を上げた。Rainy days and Mondays always get me down・・・雨の日の月曜が始まった。(6/7/2004)

 きのうまでの爽やかさはどこへやら梅雨入り宣言。

 佐世保事件のもうひとつの疑問について。昨年の長崎事件の場合、犯人の中学生はあるところでパニックに陥り「バレないように幼稚園児を始末した」と考えられているが、今回の女児の犯行過程にはそういうパニックは伝えられていない。彼女は行き当たりばったりに殺害に至ったのではないらしい。

 一般的に考えて、「殺してやりたい」と思ってもそれを実行するまでにはいろいろ超えなければならないハードルがあるものだ。殺意を抱くことはたやすい。頭が良ければ殺害のために計画を練り上げ、周到な準備をすることもさほど難しくはないかもしれない。だが計画と準備の時間を経ても殺意を持続することはなかなか難しいだろうし、なにより「死んで欲しいという願望」から「殺してやろうか」という意思の形成、そして「殺すことの実行」までには段階ごとにかなりのギャップがある。ふつうならこの間を行きつ戻りつするはず。

 「憎い、殺したい」というだけではこのギャップを飛び越えるポテンシャルはなかなか獲得できない(だから我々の多くは殺人者にはならない)。つまり「殺したい」を補強する別の支えが必要なのだ。たとえば「あいつは殺されて当然なのだ」とか、「あいつが殺されれば、みんなが幸せになる」とか、そういう「目的の合理化」が。彼女の場合、「殺したい」を支えたはずの「目的の理由づけ」はどんなものだったのだろうか。なにかまだ明らかになっていないことがありそうだ。

 きのうからきょうの「週間ニュース」を見ていて疑問に思ったことがさらにふたつ。ひとつは加害女児の弁護士が少なくとも三人いること。当番弁護士から選任弁護士への交代でもあったのだろうか。もうひとつは鑑別所に面会に訪れた女児の父親の背広の胸バッジらしきもの。事件から二日経てマスコミのカメラが待ち受けていることが予想される場面、ふつうなら会社なりなんなりのバッジは外すのではないか。瞬時、映像に映ったバッジはあの拉致キャンペーンのブルーリボンバッジに似ていた。なにかの見間違いだったのだろうか。

 アルツハイマー・レーガンが死んだ由。黒枠ニュースにいつも思うことだが、「人間、死んでみるものだ。バカでもちょんでもそれなりに持ち上げてもらえる」。ところでエイプ・ブッシュが死んだ時にはどんな「業績」が報ぜられるだろうか。「アフガン-イラク戦争のA級戦犯」か?(6/6/2004)

 きれいに晴れ上がって、気持ちのよい日。湿度が低いのであまり暑さを感じない。

 火曜日に起きた佐世保事件について、いろいろな人がいろいろなことをいっている。一番多く見かけるのはインターネットにおけるフレーミングの問題として捉えるコメントだ。かなりの人がEメールを使っている現在の状況ではそれぞれに心当たりがあるから、それですべてを解明したような気分になっていることはたしかだ。しかし、毎日学校で顔を合わせる状況下でフレーミングの増幅がそれほどに進行してしまったのはなぜか、また、殺意を持ち、計画し、確実に実行するというふつうには超えがたいポテンシャルを獲得できた事情がどういうことだったのか、そういう疑問に答えたものにはお目にかかっていない。そんな中で、けさの朝刊「私の視点」に載った黒沢幸子(目白大学助教授:臨床心理士)のコメントは、前者に対する答えとしては納得できるものだった。

 小学生で従来当然だった遊び集団での同一行動による仲間関係の構築が、近年は十分に見られない。
 中学生に特徴的に生じるとされたのが秘密の共有による同質的仲間関係の樹立だが、これまた近年は親密を超えて閉鎖的で排他的な関係になっている。互いに求めるものが強いため、それが逆に彼らの不安といら立ちを増強させている。仲間とのこの内的葛藤のピークは今や小学6年で、とりわけ女子に著しい。他方、個性を尊重しあう自立的関係が成熟するとされる高校生以上では、その遅延現象が目につく。
 小中学校でスクールカウンセラーをやると、訪ねてくる大半が今回の事件の学齢前後の女子である。相談のほとんどが仲間内のいざこざで、気に入らない子に対し、「ムカつく」「超ウザイ」が連発される。対話が進むにつれ、「ぶっ殺してやりたい」「死ねばいい」などの言葉も頻繁に飛び出す。ただ、子どもたちの感情は未分化だ。「ムカつく」は悔しい、悲しい、分かって欲しい、怖い、妬ましい、寂しい・・・など、じっくり聞いてみると、いろいろな感情に分かれる。
 大人の側が、怒りを制御しかねている子どもたちの気持ちを頭ごなしに否定せず、大きな器で受け止めてやれば、本当は仲間とどうなっていきたいのかについて話し合える。
 また、怒りの言語化は腹立ちを胸中に抑圧するのと違って問題を解決に向かいやすくする。一方、怒りが適切に表現されずに抑圧され、それが慢性化すれば、一気に吹き出す危険性をはらむ。「独りで悩み、独りで考えた」という今回の加害女児の言葉は痛恨の極みだ。・・・(中略)・・・
 学校の内外で今、「心の教育」が叫ばれているが、こうあるべきだという「べき論」では子どもたちの生きる力、社会生活に必要な技術は育たない気がする。むしろ、他者と積極的に交わるためのコミュニケーション技術、自他の人権を大切にしながら適切な主張を行うための訓練、怒りの感情の制御法といったプログラムを、日本の現実に合わせて実践していく時期だろうと思う。・・・(以下、略)・・・

 結論の部分は紙幅の関係もあってか必ずしも十分な説得力を持っているとはいえないかもしれないが、少なくとも、どこぞのパープリン幹事長氏の「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、憲法と教育基本法が悪いから」というような粗にして野な「妄説」とはおおいに異なる、大人が論議しうる資格を有したものであることはたしかだ。

 けさの「私の視点」にはこのほかに辛淑玉の「大衆の敵意:物言う弱者を袋だたきにする風潮に対する批判」と白石勝己の「留学生犯罪報道:外国人犯罪に対する実態を無視した過剰論議をたしなめたもの」が載っている。一見バラバラに見えるこの三件には相互につながりあうものがある。

 黒沢が子どもたちに身につけさせるべきだとしているものは、じつは大人にさえきちんと身に付いているものではない。そのあらわれが、辛がいう「ひとたび弱者が声を上げ、政府や加害企業などに異議を唱え始めると、一転して『権利ばかり主張する』とか『感謝が足りない』といった」ヒステリーのようなバッシングだし、白石のいう「外国人不法残留者の増加が日本の治安悪化の最大の原因という報道のされ方もよく目にする。しかし、・・・(法務省統計によるデータの提示)・・・外国人不法滞在者を取り締まれば、日本の治安が回復するという論理は、少なくともこのデータからは成り立たない」といった事実に立脚しない感情論野放し現象だ。(その「野放し感情論」の代表格が石原慎太郎)

 日本の社会で起きている思わしくない事態の原因が、外国人のせいだったり、甘やかした子どものせいだったり、政府・自民党がはなから無視し続けた憲法や教育基本法のせいだったりするわけはないだろうに。そんなことも論理的に考えられない大人がこれほど多い中で、子どもたちに起きている異変に正確に対処できるのだろうかという気がしないでもない。(6/5/2004)

 朝刊、社会面に「西川議員『花道』フイ」という見出し。今期限りで3期18年の議員生活を締めくくる西川きよしには、きのうの参院厚生労働委員会、首相質問が割り当てられていた。議員生活の最後ということでかなりリキを入れて準備をしていたのだが、「まだ、時間がある。ふんどしを締め直そうとトイレに立って、戻ってきたらワーッとなっていた」。強行採決は与党側議員の質問が終わったところで抜き打ちに行われた。

 一昨日の衆院の党首討論の際、コイズミは「民主党が審議拒否をしなければ、十分審議ができた」と言った。どうやらこれはただの口先だけの話だったようだ。審議に応じても、野党側にはなにもしゃべらせない。これが政府・自民党・公明党の黒いハラだった。ことここに至れば、あらわす言葉はもう思いつかない、ただ、握り拳を震わせるのみ。

 それにしてもこの年金法案審議ほどひどいものはなかった。うち続いた閣僚・国会議員の未納・未加入のニュースを、内閣のキーマン、年金に関する所管官庁の大臣、副大臣、その審議にあたる所管委員会の委員長に限って整理してみると、こんな具合になる。

  1. 福田官房長官は衆院の厚生労働委員会を法案が通るまで未納の事実を隠した。
  2. 福田官房長官の辞任は三党合意の成立を見届けてからなされた。
  3. 衛藤晟一衆院厚生労働委員長も法案の衆院通過まで未加入の事実を隠した。
  4. 森英介厚生労働副大臣も衆院通過まで未納の事実を隠した。
  5. 谷畑孝厚生労働副大臣も衆院通過まで未加入の事実を隠した。
  6. 菅代表の未加入について皮肉たっぷりのコメントをしていた神崎・冬柴などの公明党幹部も衆院通過まで未納の事実を口をぬぐったまま隠していた。
  7. 坂口厚生労働大臣は審議の舞台が参院の厚生労働委員会に移ってから未加入であることを明らかにした。
  8. 小泉首相は「未加入」は「未納」とは全然違うとふんぞり返った。

 全員、マクラを並べて討ち死だ。先月16日の朝刊コラムで、早野透は事実を隠しながら法案日程を消化した政府与党の姿勢を「いかさま賭博みたいな卑怯なゲーム」だと評した。

 だがコイズミの「卑怯」は8にとどまらなかった。得意げに胸を張って「厚生年金に入っていましたよ」と主張した期間が逆に勤務実態がないため「厚生年金の詐取容疑」につながり党首討論ではこれを突かれることになってしまった。窮したネズミ野郎は「人生、会社、社員は色々だ」などと嘯いた。代表になりたてでいささか堅さのとれぬ民主党岡田が「自営業の人が籍だけを会社において国民年金より有利といわれる厚生年金に入ると言い出したら『ノー』と言えなくなるではないか。それが一国の総理の言うことか」と吐き捨てたのはまったくの正論だった。(ここでの「正論」は本来の日本語の語義通りの用法、「正論」を売り物にし、やたらに振り回したがるサンケイ新聞などが使用するひねくれた用法ではない)

 民主党はいま最後の物理的抵抗をしている。しかし未明までには参院でも可決される見通しとか。あしたの新聞とテレビはこれを「与党もひどいけれど、野党もひどい」と報ずるに違いない。年金審議についていえば、民主党は対案まで用意しながら、結局のところつまらない枝葉論議とパフォーマンスに走り、じつに稚拙な行動を繰り返した。情けないの一語に尽きる。

 だがどっちもどっちなどという「客観報道」は毒にも薬にもならぬというその一点で確実に毒になっている。ひどい体たらくの責任は常に政府と与党に百パーセント負わせて政権を交代させるという厳しさがなくてはこの国の政治に土性骨は入らない。責任感を欠けば、確実に政権が倒れるという緊張感こそが必要なのだ。

 CIAのテネット長官が来月辞任と発表。公式の理由はいつもの「個人的理由」だが、「ブッシュに傷を付けないための代替処置」であることは明らか。つまり「大量破壊兵器はありませんでした」とブッシュ政権が「自白」したということ。「フセインが見つからないからといってフセインがいなかったことにはならない」という抗弁をしたコイズミ、今度はどういいわけするのだろう。(6/4/2004)

 夕刊の「日々の非常口」が面白い。今週のお題は「ダーウィンと大統領」。書き出しは・・・

 「初代大統領のワシントンから、十八代大統領のグラントまでの<進化>は、ダーウィンをうろたえさせるのに十分な始末だった」。百年近く前、アメリカの歴史家、ヘンリー・アダムズはそう書いた。進化するはずだったのが退化の一途を辿っていると、自国の政治を皮肉ったのだ。しかしグラントから、四十三代のブッシュ二世までの、さらなるこの退化ぶりをダーウィンがもし知ったなら、うろたえるどころではなかったのではないか。

と、ぐいと引き込み、

 もとより『種の起源』を、ブッシュ大統領は読んだことがないのだろう。ならば、自分の思考からそれをオミットするのも、ぞうさない話だ。・・・(中略:「進化論」の科学と思想に及ぼした影響を列挙)・・・ま、思考にそれくらいのブランクがあるからこそ、大量破壊兵器妄想狂に走れるのかもしれない。ただ、進化論がなかったら、兵器開発もここまで進まなかっただろうが。

と、笑わせ、最終コーナーへ、

 進化論アレルギーだというのに、ブッシュ政権は遺伝子組み換え食品がすこぶる気に入っているようだ。米国のバイオ・ケミカル大手とタイアップして、他国に押しつける。自然環境と人体への影響を懸念する声が上がると、「それは根拠のない、非科学的な杞憂」と抗論する。・・・(中略)・・・つまり科学の基礎を全面否定している人間が、他人を「非科学的」と呼ばわっている。
 利己主義の権化だ。

 こういう説に溜飲を下げるほどにアメリカが嫌いで、最近は昂じてアメリカ人そのものも嫌いになりつつあるが、「日々の非常口」の筆者、アーサー・ビナードはそのアメリカ人だった。この達意の文章もおそらく日本語で書いているのだろう。なにしろ彼は数年前に「中原中也賞」を受賞しているくらいなのだから。

 最後の一行は「ブッシュのサル顔は先祖返りの例として、ブッシュの利己主義は利己的遺伝子に突き動かされている結果として、理解できる」とでもしたらいいかもしれない。(6/3/2004)

 武蔵野線から富士が見えた。ぼーっと、黒いシルエット。雪のない富士は平凡な山だ。

 いつものように西国分寺で中央線に乗り換えた。朝の通勤電車なりの混雑。押された成り行きでリュックをしょったままの女性の後ろに立つ。何が入っているのかポンポコリンのリュック。国立で女性の前に座っていた人が降りた。どうするかと見ていたら、リュックを背から下ろし膝にだくようにして座った。

 そのままでは尻が座席に届かぬとそれくらいの知恵はまわるが、混雑した車内でそれほど奥行きのあるリュックをしょったままでいれば、近くに立つ人がどれほど迷惑するか、そういうことには頓着しないということ。いったいどんな顔をしているのかと窺うように見下ろした。

 見なければよかった。若い女の場合、マナーの悪さは器量の悪さにおおむね比例する。むろん例外もないわけではないけれど。(6/2/2004)

 帰宅途上、聴いていたラジオで事件を知った。佐世保で小学校6年の女児が、同級の女児を図書館に呼び出した上でカッターナイフで斬りつけ、襲われた女児は出血多量で死んだ。

 最初、カッとして手近にあったものを振り回しただけ、ただ運悪く・・・、ということではないかと思った。しかし、頸動脈を切られ、短時間に死んでいるということなどから、かなり意図的で殺意があったことが疑われている由。なんだか、とても信じられない事件。佐世保の隣町・長崎で、やはり12歳の中学1年生の男子が幼稚園児を殺害した事件があったのは一年ほど前のことだった。

 我々の世代は、なぜかことあるごとに目の敵にされている教育基本法がまだしも活きていた頃、君が代・日の丸を強制されることもなく小学校から大学までのひととおりの教育を受けた。我々の世代からは「酒鬼薔薇」クンは出なかったし、12歳ぐらいで殺人を犯す少年も少女も出なかった。酒鬼薔薇クン世代は旧文部省が教育指導要領の中に君が代・日の丸強制を織り込んだ初年度に小学校に入学した。そして政府・自民党が教育基本法の空洞化を完成させる時代に学校教育を受けた世代からこのような理解に苦しむような事件がボロボロと起き始めた。

 ・・・このことは現実に居座っただけのことで、論理的にはもう少し詰めて考える必要があるだろう。しかし、この事件が起きるやいなや、安倍晋三が「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、私たちが生まれたこの国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切だ。だからこそ教育基本法を改正しなければならない」などと、まるでこれを奇貨とするが如き語り方(口では「残念」といいながら事件を欣喜雀躍して迎えるこのさもしい根性)をしたとなれば、少なくとも安倍の説は論理的に成立しない、皮肉にも「事実」は安倍の主張を根底から否定するものだということだけはとりあえず確認しておくべきだろう。

 今回のような事件が起きれば、必ず「命の大切さを教える教育を徹底するように」などという通達が文科省や教育委員会から学校現場に出される。しかし、ふだんはどのようなことが通達されているか。

 折しも、10時からのTBSラジオ「アクセス」、今夜のテーマは「声の大きさを調査する自治体まで出てきた:学校での『君が代斉唱』について考える」だった。アンケートメールの一部を書き写しておく。

 福岡県久留米市の教育委員会が、市立の全小中学校計40校を対象に、今春行われた卒業式と入学式の際、生徒が「君が代」を歌う声の大きさを調べていたことが分かりました。市教委は、各学校の校長や教委職員に聞き取り調査を行い、声量を「大・中・小」の三段階に分類。その結果、卒業式では「大」の評価を受けたのが小学校で16校、中学校で2校でした。「中」は、小学校で9校、中学校で7校、「小」は、小学校で2校、中学校で4校だったということです。また、同じ資料には「小学校卒業式の取り組みもあり、中学校の平成16年度入学式で大きな声の学校が増えた」と、「成果」も報告されているということです。さらに、「小」とした学校に対しては「ちゃんと歌わせるように」と指導、調査結果を先月26日の市議会教育民政委で報告しています。

 久留米は福岡県、久留米市ほど愚かしいことを長崎や佐世保でもやっているものかどうかはわからないが「君が代狂騒曲」は別に九州に限らない。東京都教育委員会も「君が代斉唱時に起立しない生徒のいたクラスの教師を注意処分」などというなんともバカバカしいことをやったばかりだ。ふだん文科省と教育委員会が行っている「現場指導」はこんなことばかり。

 文科省と各地の教育委員会はきっと老眼になっているのだろう。老眼は水晶体の弾力低下、毛様体筋の筋力低下により始まる。つまり彼らは「君が代斉唱」などの下らぬ問題に血道を上げる反動で、より深刻な教育上の問題に焦点を合わせ直すための弾力や筋力が落ちているのだ。(6/1/2004)

 「ニュース23」を見終わったところ。コイズミという宰相がどういう人物であったか、いつの日か振り返る時のために記録しておく。

 「あんたの仕事は次の選挙に当選することだ。じつにいい社長でしたね。30年以上前はそういう太っ腹なね、見返りを期待しない、いい社長、いい支援者がたくさんいた」、「わたしは総理を辞めたら、その会社の社長さんのお墓参りをしたいと思っている。ほんとに有り難い方でした」これらはともに衆議院と参議院における委員会答弁。

 マスコミは意地が悪い、さっそく件の社長のことを調べたらしい。すると社長は94歳でまだ存命ということがわかった。それを尋ねられたインタビュー、「健在だと聞いてね、よかったと思いました。やっぱり、いい人は長生きしてもらいたい」と応じた。

 自分がいまこうして宰相を務めているのはあの方があるからこそという心情はわかる。それを公事中の公事たる国会の委員会答弁に織り込むのはいささか臭味があるが垢抜けぬ山出しならわからぬでもない。それほどの山出しならばおそらく素朴さを保っているであろうから、恩人の消息は片時も忘れ得ぬ関心事に違いない。にもかかわらず誤ってまだ存命の恩人の墓参りなどと言ってしまったなら、己が薄情の心が消え入りたいほどに恥ずかしかろう。

 コイズミは山出しか? コイズミは恩義に報いたか? コイズミは礼を尽くしたか? コイズミは非礼を詫びたか? そもそも、コイズミは恥じたのか?

 恩義を口先で語り、心そこにあらぬ事が露見しても、カラカラと笑いながら寒くなるような麗句で応えるコイズミは妖怪なり。そのコイズミを過半数の国民が支持するというのなら、その国民も妖怪のようなコクミンなり。鬼の怖さはいまだし、鬼と知れているから。ふつうの人の皮をかぶり、ふつうの人を名乗りながら、ふつうではない嗤いを隠している、妖怪の怖さはそこにある。(5/31/2004)

 麻生総務相が「(訴追の免除を)アメリカに頼むべきだと言う人がいるが、『交通違反をし、反省して幸せな生活を送っているから違反をもみ消しくれ』と代議士に頼むのと、どこが違う」、「感情論としてはわかるが、それを受け入れれば、敵前逃亡兵が全部、日本に来る。国際社会では通用しない」と講演した由。たしかにその通り。これほどの「正論」を滔々と述べるほどの人物ならば、年金の未納など何かの間違いであったに違いないと思わせるほどだ。

 そうでなくてもジェンキンスの「訴追免除」論議には時期が悪すぎると、今週の「日本@世界」に船橋洋一が書いていた。「米政府高官は私にこんな風に背景を説明した。『いまの米国防総省と米軍が、説明責任を果たし、出直すためには、法律を厳格に適用している姿勢を打ち出す以外ない。この時点で、ジェンキンス氏に対する特別配慮うんぬんを持ち出すのは、タイミングが悪すぎる』。イラク占領米軍のイラク人捕虜に対する虐待・拷問が暴露され、米国が内外の厳しい批判にさらされていることを念頭に置いた発言である」と。

 さて「訴追免除」のお墨付きが絶望ということになるならばどうなるか。件の講演で麻生はこういったという、「帰りたくないと(ジェンキンス氏)本人が言っている。連れてくれば、拉致でしょう」。ジェンキンスが日本に来ない以上、週刊新潮が太鼓判を捺している反日ガチガチの二人の娘も日本には来ないだろう。とすれば、曽我ひとみは家族を棄てて日本に残るか、家族をとって北朝鮮に帰るかのどちらかしかないということになる。麻生の「正論」とこの国の「世論」に従えば、曽我ひとみは祖国の面子のために家族離散の選択を強要されることになりそうだ。(週刊文春今週号の見出しには「曽我ひとみさんが口にしない夫ジェンキンス氏への『複雑な思い』」、これは「家族離散:正当化」への準備記事なのかしら)

 先日、ニカラグア出身の陸軍軍曹がイラク戦争の実態を理由に良心的兵役拒否宣言をして軍法会議にかけられた。判決は禁固1年と懲戒除隊処分というものだったが、裁判官は部隊を5カ月間離れたという事実のみにクローズアップし、被告が訴えた「イラク人収容者への虐待や軍のモラル低下」などの主張には一切ふれないという「作戦」に出た。「良心的兵役拒否」はアメリカ軍にとっては、できればふれたくない問題なのだろう。

 むろん、1965年当時の38度線における状況と現在のイラクの状況はまったく比較にはならない。しかし、「良心的兵役拒否」に対する「思想的迫害」から逃れるための「政治亡命」であったと強弁し、その「亡命」を日本は引き継いだ、したがって、犯罪人引き渡しの対象にはならないとなどと屁理屈をつけたらどうだ。なに、アメリカだって国際法を無視して、「イラク戦争」をおっぱじめ、捕虜とも犯罪者とも区別しない無法な拘束を行い、取り調べと称して国際慣例を無視した拷問を行っているのだから、この程度の強引な三百代言論を恥じることなぞない。

 問題はコイズミなりいまのこの国の政府にそれだけの性根があるかどうかだけの話なのだ。(5/30/2004)

 昨日の朝、第一報が入ったイラク・マフムディアでの邦人襲撃事件の被害者が判明。橋田信介(61)と小川功太郎(33)。ベトナムからボスニア・パレスチナ・カンボジア・アフガンと我々が知る紛争のほとんどを取材した筋金入りのベテランジャーナリストと去年NHKを退職しこの伯父を継ぐことをめざしてこのイラク戦争から紛争の現場取材に入ったばかりのジャーナリスト。

 ニュースで流された橋田の在りし日の映像には記憶がある。その彼の今回のイラク入りは、ファルージャでアメリカ軍の爆撃により眼に損傷を受けた少年の治療を日本で受けさせるため、迎えに行くことが目的だった由。インタビューされたコイズミ、「以前からイラクには入るなと言っているのに」と応じたとか。ブッシュからバカが伝染したのだね、可哀想に。

 自衛隊のイラク派兵以来、はっきりとわかってきたことがいくつかある。ひとつ、自衛隊の安全は憲法があるが故に治安任務を分担せずにいられるから。ふたつ、未だ日本人が多少なりとも信頼をもたれているのはかつての日本人のイラクへの貢献の記憶が残っているから。みっつ、にもかかわらず日本人も標的になりつつあるのは自衛隊がイラクに派遣されたから。よっつ、それでもこの事件まで深刻な事態にならなかったのは襲われた被害者の信条が日本政府の考え方とは逆だったから。いつつ、それでもついにこのような悲劇が起きたのはイラクの状況がアメリカによって日を追って悪くされているから。

 読売新聞の「編集手帳」が嗤える。「遠い昔、合戦に赴く武人の心組みを聞くようであり、送り出す家人の気丈な心ばえを見るようでもある。現地から届く情報の指し示す状況には、濃い闇が漂う。ひと筋の光を」だとさ。尻に帆をかけてイラクから逃げ出した新聞社としては空疎な美辞麗句を連ねる以外、書きようがないのかもしれぬ。ならば薄汚い手でこね回すな。あえて偏見むき出しの言葉を贈ろう、「目障りだから、車夫新聞はすっこんでおれ」。(5/29/2004)

 家族会と救う会がとまどっているという。新聞各社が行った世論調査に対して、訪朝成果を評価するとしたものが軒並み60%を超えたということ、そしてその数字が流れるのとほぼ同時に「感謝の気持ちがないのか」とか「あの言いぐさはなんだ」という電話やEメールが殺到しはじめたというのだ。あわてた家族会と救う会は「テレビ中継にはなかったが首相へのねぎらいの言葉は申し上げた」と釈明文書を出した由。浮薄な「世論」を誘導して「北朝鮮ヒステリーブーム」を演出してきた彼らにとっては、予期せぬ向かい風に思わず腰を低くしたということなのだろう。

 それにしても、この論調、まるで先月のイラク人質事件の時のようだと思いながら、ふと、盲点になっていたことに気がついた。首相が訪朝した、会談内容の説明を家族の会にする、そういう趣旨の会合は、普通、非公開で行うものではないのだろうか。

 首相の国民に対する「報告」は既にあの日の4時半に平壌からの中継で行われていた。帰国後、首脳会談テーマの中のワン・オブ・ゼムである拉致問題について、当事者である家族会に説明するのは当然として、その「説明」を再度あえて「公開」形式で行わねばならない理由はなんだったのか。本来なら「説明会」を非公開として、場合によってはまだ公にできない部分についてはその旨断った上で、ギリギリのところまで内容を伝えて理解を求めるというのが、あって然るべきことだったのではあるまいか。

 日曜日からこちらにかけての家族会や救う会への批判は「感謝の言葉なしに、首相を批判するな」という感情的なものが主体になっている。感情的なものであることがあらわであるからこそ、感情に依拠した活動しかしてこなかった家族会と救う会はブルったのだ。しかし、その「なんだ、おまえたち」という「感情」を起こさせたのは、あの夜10時過ぎに行われた首相と家族会とのやりとりの中継だった。

 「公開」の意味は、平壌で行った記者発表がすべてで、それ以上なにも付け加えるものがなかった会談の「貧しさ」から家族会や救う会の「過剰反応」に、すぐ熱くなる人たちの「世論」をスイッチするためのコイズミの「仕掛け」だったのかもしれない。(5/27/2004)

 朝刊と夕刊からひとつずつ。まず朝刊の国際面から。

見出し:「イラク戦争で国際テロが活発化」英シンクタンクが指摘
 ロンドンの有力シンクタンク国際戦略研究所(IISS)は25日、04年春までの1年間に起きた世界情勢の変化を分析する戦略概観を公表した。米英がイラク戦争に踏み切った結果、一時的にせよ、国際テロ組織アルカイダの動きが活発になった、と指摘した。
 マドリードの列車同時爆破テロが示したように、アルカイダは米国と欧州の同盟国を狙った新たな作戦を展開しているとし、「イラク戦争以降、欧米の市民がテロの犠牲になる危険性は高まった」と断言した。
 米国が主導する対テロ戦争でアルカイダのメンバー約2千人が殺されたり捕らえられたりしたものの、オサマ・ビンラディン氏に引きつけられてなお約1万8千人の潜在的なテロリストがおり、そのうち約千人がイラクに入ったと推測。米国が中東などで人々の好意をかち取りたいなら、単独行動主義の装いを改めるべきだ、と説いた。

 もともと「テロとの戦い」などというものはたんなる名目で、ブッシュ一味のもくろみは第一が「石油強盗」、第二が「戦争そのもの」だったわけだから、この指摘は多少やぶにらみといってよいのだが。

 夕刊は文化面から。カンヌ映画祭報告の第二回、「中」とした記事の末尾。

 マーケット会場で出会った「アンカバード」(暴かれた真実・イラク戦争)も衝撃的だった。ブッシュ政権がいかに情報を操作し、あるいは無視して、戦争に突入したかを、米中央情報局(CIA)や国防省の専門家らの証言で検証した。
 大向こう受けするフレーズを繰り返す大統領や側近の資料映像と、研究者らしい冷静な口調の証言が交互に登場する。「専門家の誇りと個人としての責任」(元国連査察官のスコット・リッター氏)に根ざした言葉は重みが違った。インターネットの市民組織MoveOnなどの協力で製作。上映には証言者の元外交官も参加し、観客と活発に意見を交わした。
 米国では8月公開。「大統領選前に公開ができそうよ」と宣伝担当者は笑った。

 「UNCOVERED:The War on Iraq」、こちらの方については配給元の妨害(「華氏911」は配給権を持つディズニーが映画のお蔵入りを決めている由)もなく、比較的早く見られるかもしれない。(5/26/2004)

 両親のいずれもが日本人なのに中華学校へ入れるというケースが増えているのだそうだ。中華学校は、朝鮮学校同様、各種学校扱いで学校が税制面での優遇措置を受けておらず、したがって学費負担が大きく、さらに卒業資格はいっさい認められていないから、大学進学にあたっては大学検定試験などを受けなければならない、などの様々の制約があるのに。

 夕刊には、理由として、「学校生活はすべて中国語。小学校5、6年生は週1回、イギリス人の教員による英会話の授業がある。理科、日本の地理・歴史、日本語、図工の授業などは日本語で教える。中学になると、高校入試対策もあり、授業の大半が日本語になる。3カ国語で授業が受けられるというわけだ。日本の公立学校と授業も違う。基礎基本を身につけることを第一としているので、総合学習や多くの行事はない。毎日8時間授業、土曜日も授業がある。語学も計算も繰り返しが基本」ということがあげられ、実際二人の子どもを通わせている日本人の母親の話も紹介されている。「インターナショナルスクールも考えたけれど、日本語は教えてもらえないし、学費もずっと高い。第一言語もきちんと使えて、ほかの何かも身につけさせるにはこっちかなと思った」のだそうだ。一部にはもう「日本」という枠をあまり強く考えない人たちがいるらしい。

 東京都の一部地域では学校の自由選択制が始まっている。規制緩和をして学校間の自由競争を喚起しようというもくろみということだった。もし、学校教育の自由競争を図るということを文科省が本気でやろうと考えているのなら、公立校間の規制緩和の撤廃などというチマチマした枠組みでやるのではなく、中華学校、朝鮮学校を含む外国学校まで拡大して自由競争をさせたらどうだろう。

 しかし、たぶん、文科省も東京都の教育委員会もそういうパースペクティブは持ち合わせていないに違いない。嫌がらせソングの「君が代」を歌わせたり、教科内容や時間数を事細かに守らせるなどということにばかり、小役人的な快感を持っているだけの彼らには、そういう「大それた」構想は最初から頭に浮かばないだろう。(5/25/2004)

 カンヌ映画祭、いろいろ期待をかけられていた分野とは違う思わぬところに「賞」が与えられた。最優秀男優賞、柳楽優弥。14歳の中学3年生、この賞の史上最年少記録。出演作は「誰も知らない」、失踪した母親に代わって異父弟妹の面倒を見る少年を描いた作品。その自然な演技が評価された由。14歳にしてこういう賞、バルセロナで金メダルを取った岩崎恭子のようなもので、これからがたいへんなのだろうなと思う。

 注目のパルムドールはマイケル・ムーアの「華氏911」。レイ・ブラッドベリの「華氏451」から名付けた題名であることは容易に想像がつく。(「華氏451」が映画化されていることをはじめて知った。トリュフォー監督ということならば一度見てみなければ)。

 華氏451度は紙の発火点、華氏911度は自由の発火点、というのが惹句。

 ブラッドベリの「華氏451」の背景にはマッカーシズムがある。アメリカ社会が「アカ狩り」に夢中になっていたさなか、深く考えることを許さない社会の危うさを描いて見せたわけだ。(同様の執筆意図を想像させるものにエラリー・クイーンの「ガラスの村」があった)

 エイプ・ブッシュはマッカーシーに通ずる。マッカーシズムは猖獗を極めた後、いともあっさりと舞台を降りてしまった。できるだけはやくブッシュを舞台から引きずりおろし、マッカーシー同様、野垂れ死にさせてやりたいものだ。そしてその墓碑に「詐欺選挙により大統領を僭称したサル男」とでも刻んでやろう。それでも過てる「アフガン戦争」、「イラク戦争」で無辜の命を落とした何千、何万の人々の無念は消えるわけではないけれど。

 マイケル・ムーアの受賞コメントを書き写しておく。「米国の右派メディアは『フランスからもらった賞』と報じるだろう。だが、審査員9人のうち4人は米国人、英国女優1人を加えれば過半数が有志連合側。フランスの賞じゃないからね」。(5/24/2004)

 客観的に見れば2002年9月の平壌宣言の時点にリセットしただけ、これが今回の小泉首相訪朝の意味だった。25万トンの米と1,000万ドル相当の医薬品はそのリセット手数料ということ。

 いったいどこでハングアップしたためにリセットが必要だったか。それは拉致被害者5人の一時帰国という「約束」を被害者家族の感情のままに反故にしたことと、それにともなって蔓延した対北朝鮮ヒステリーのために本来の軌道から外れて外交交渉そのものが制御不能になったためだ。

 たしかに他国民を拉致するという国家犯罪を犯したのは北朝鮮であり、その犯罪行為に対する憎しみがヒステリーの原因であったのだから、おおもとの責任は議論の余地なく北朝鮮、わけても、その国家犯罪の指揮をとったであろう金正日にあることは間違いない。しかし、国交正常化をうたう合意の上でレールを引いてからは、その後の頓挫の責任の大半は残念ながらこちら側にある。(ことあるごとに「いつまで謝り続けたらいいのか」と居直る姿勢をとりたがる人々や新聞が、いったん責める側にまわると頑固に「謝り方が足りない」とか「そもそもあいつが悪い」という主張に固執するという、この不可思議さよ)

 家族会や救う会はまたぞろ感情論を繰り広げ、あのヒステリー状況の再燃を願っているようだ。ひとつだけあげよう。彼らは行方不明者の調査に関して日本側の調査チームの参加など北朝鮮側のペースに載せられるだけだといっている。そういう懸念はあるだろう。ではあなたたちの対案はなんなのだ。北朝鮮が調査結果を出してくる、どうせ北朝鮮の調査なのだから信用できないという。別に自分たちの手で精査するわけではない。マスコミの調査の又聞きを言い添える程度のことしかしないのでは、ラチが明くはずもない。北朝鮮が時間稼ぎをすると非難するが、時間稼ぎの一方の手助けをしているのは他ならぬ自分たちだということになりかねない。北朝鮮が北朝鮮当局以外のメンバーを加えてもよいといっているのなら、国際的な査察チームの構築の方向へと突破を図ってもよいではないか。なぜ、提案を逆手にとる発想を持てないのか。

 やりたければ、またヒステリー状況を煽り立てて、「毅然」と「強硬」を合い言葉に、北朝鮮船舶の入港拒否でも、日本一国による経済制裁でも、やればいい。そういうことを続けるかぎり、家族会と救う会の会員がすべて死に絶えるくらいの年月がたっても、「未帰還者」は帰ってこないし、真相も明らかになることはないだろう。

 迂遠なようでも道はひとつしかない。国交の回復、経済協力、北朝鮮社会に外の空気を吹き込むことによる世襲独裁体制という奇妙さの暴露、金正日体制の平和的崩壊。けさの「時事放談」で野中広務が興味深いことを言っていた。「チェルノブイリの事故からソ連の崩壊まで5年だった。わたしにはこのあいだのリョンチョンの爆発事故がチェルノブイリ事故に相当するものになるのではないかという気がしてならない」。野中の直観の当否はわからない。しかし、ソ連と東欧圏の崩壊過程を想起すれば、どのような方策がいちばん早く北の現体制から自発的な「情報公開」を引き出すかは明らかだ。(5/23/2004)

 起きてきたら、ちょうど小泉首相の出発直前のインタビューが流れていた。平生とは異なり、ずいぶん緊張した面持ちの首相に「8人の帰国が実現しない時には難しい決断を迫られることになりますが」という質問が飛んだ。たしかに「難しい決断」であって「重大な決断」と言ったわけではない。しかし、これから尋常ならぬ会談に向かおうという我が代表にそういう際どい言葉を使う無神経さに呆れた。コイズミは嫌いだが、瞬時、彼に同情した。

 結局、帰国したのはジェンキンスとその娘2人を除いて、蓮池・地村両夫婦の子ども計5人。ジェンキンスはアメリカへの引き渡しの懸念から日本への「帰国」には応じず、曽我ひとみ、ジェンキンス、娘たちがそれぞれ第三国(あがった候補地は北京)で直接対面して話し合うという条件に落ち着いた。

 拉致問題に関するかぎりバタバタと今月の訪朝を決めた「構え遅れ」がすべてを決めてしまったという印象は免れない。いや、拉致問題の解決がもっぱらこちらの事情で遅れた一年有半の時間を、我が政府がもっと有効に使っていたならば、諸般の事情でこの訪朝を繰り上げたくなったとて、これほどの「構え遅れ」を露呈することはなかったのだ。

 この期間に政府がやっておくべきだったことは、第一、ジェキンスの扱いについて。まずアメリカの了解を取り付けられるかどうかの見切りをつけること。そしてアメリカの対応が頑なで一歩も動かぬものならば、我が国として独自にとりうる方策の検討(彼を良心的兵役拒否者、あるいは政治的亡命者などとしてアメリカへの引き渡しを回避する名目手段を作るなど)をすること。第二、行方不明者について。クアラルンプール会談後の追加情報に基づく新たな容疑事項(興味本位のマスコミ報道でマスターベーションをして国民的なヒステリーに陥っていてもなんの役にも立たぬと知るべき)を正確にまとめておくこと。これぐらいの準備もしないで、ジェンキンスには北朝鮮側から引導を渡してあるのではないか、あるいは、一年以上も前にクアラルンプールで手渡した質問書の回答をもらえるはずなどと思い込み、手ぶらで会談に臨むのはバカというものだった。(この点では「毅然とした姿勢で」とか「強硬に」などという精神論ばかりで、ひとつとして具体的例示ができなかった家族会や救う会なども間抜けさ加減は共有していると言える)

 それにしても、曽我ひとみというカードを紛れ込ませた「北」の知恵にはいまさらながらに舌を巻く。テレビ朝日の特番に出ていた鳥越俊太郎が、曽我ひとみが家族と話し合った結果、北朝鮮に「帰国」する懸念について、ほんの少しではあるがふれていた。2002年当時、日本側の視野範囲に入っていなかった彼女を「北」の当局があえて「告白」して見せたことに「意図」を想像せずにはおれない。

 そしてその想像はこんなことにもつながる。行方不明者十人のうち何人かについて、かりに北側が前回調査の誤りを認めたとしよう。しかし、その生存者が北朝鮮の人間と結婚し子弟を持っていたら、家族を棄てても帰ってこいというか、いや、配偶者もろとも日本への永住帰国を実現するか。おそらくこの国の世論は後者を選択すべきだというに違いない。思い出すのは中国残留孤児の永住帰国のことだ。帰国者の数が増え、最初の熱が失われるに従い、この国の人々はどのように彼らを処遇したか。いまはほんの一握りの人が変わらない優しさを保っているに過ぎない。「北朝鮮」という単語に過剰に反応して激しているだけの人々が、そういう優しさを保つ一握りの人でいられると思いにくいことだけはたしかだ。(彼らはこういうのだろう、「甘えていないで自己責任で生きてゆくべきだ」などと)

 夕方からの一連のニュースと特番を見、聞きしながら、覚えた違和感。「蓮池さんの長女、長男」、「地村さんの長女、長男、次男」というアナウンス。我がマスコミの取材力を持ってすれば、彼らの名前ぐらいは既に調査済みであろうに。曽我ひとみの娘は「美花」、「ブリンダ」とアナウンスされているところを見ると、NHKをはじめとしてこの国のマスコミはよほど朝鮮読みで命名されているはずの彼らの名前を読み上げたくないものらしい。ほら、現にこの通りではないか。(5/22/2004)

 家を出た時は細かい雨粒がまだ少し残っていて空も曇っていた。日野の鉄橋を渡る頃には雲は切れ、陽の光が差し込んで来始めた。多摩川は茶色に濁りかなりの水嵩で中洲も消えていた。台風2号。上陸はしなかったもののこの時期の接近としては観測史上三番目の早さとのこと。工場に着くころにはきれいに晴れ上がった。

 裁判員法が成立した。裁判員が関与する対象は「法定刑に死刑、無期刑を含む、殺人など重大な事件」の第一審で、「2002年の一審事件でみると、全国で2,818件あった」由。あわせて裁判の迅速化を図るための「公判前整理手続き」の創設のための刑訴法の改正も成立した。興味深いのは裁判員が量刑にまで関わること。記憶によればアメリカなどの陪審員制では量刑判断は裁判官の専決事項だった。

 夜のラジオで麻木久仁子が守秘義務とその罰則についてこんな疑問を述べていた。「関係者のプライバシー保護が重要だとしても、日本の裁判はもともと公開制で証拠の開示についても証人の証言についても、こと改めて守秘義務を罰則つきで課することの意味がよく分からない」と。これはちょっとした盲点だった。

 新しい試みを活かすも殺すもこれからのことと承知はしている。しかし、結局のところ、実現したのは「裁判員のため」を名目にした裁判のスピードアップだけだったということにならないようにすべきだろう。もちろん、早くて、安くて、正確であるならば、それはそれで歓迎すべきことではあるが、世の中、そんなうまい話ばかりあるものではない。(5/21/2004)

 イスラエルがエジプトとの国境に近いガザのラファで多くの民家を破壊、パレスチナ人デモ隊にミサイルを発射し20人を超える民間人を意図的に殺害した。朝刊には「12日に始まったイスラエル軍のラファ侵攻作戦では、少なくともパレスチナ人58人、イスラエル兵7人が死亡」とある。

 これに対し、国連安保理はアルジェリアがまとめたイスラエル非難決議を採択した。イスラエルの暴挙に対して常にこれを弁護してきたアメリカも今度ばかりは拒否権を行使せず棄権にまわったため、珍しくも決議案は採択された。

 今月9日、イスラエル国会で行われたウォルフ賞(イスラエルのウォルフ財団が与えるもの、ノーベル賞の前駆賞としての評価がある由)受賞記念式で、バレンボイム(あのジャクリーヌ・デュプレの夫)が「抑圧に満ちた歴史を持つユダヤ人が、隣人の苦難に無関心でいられるのか」とスピーチしたということが報ぜられていた。イスラエル国籍を持つユダヤ人同胞による、このずいぶん控えめな表現(「隣人」たるパレスチナの人々に「苦難」を与えているのは誰あろうユダヤ人なのだから)に対してすら、カツァブ大統領は「バレンボイムは批判されて然るべきだ」などとコメントした、ということも。

 かつてゲットーに押し込められ徹底的に虐げられたユダヤ人が、いまやそれをはるかに上回る暴虐をパレスチナの人々に向かって平然と行っている。叡智で知られるユダヤ人の評価は地に堕ちたといってよい。それほどに現在のイスラエルという国は身の程知らずかつ下品な国に成り下がっている。(5/20/2004)

 土曜日の小泉首相訪朝時の同行記者団から日本テレビを排除するとコイズミ周辺からお達しがあった。16日のニュースで「25万トンの米支援で最終調整」と報じたことが原因の由。放送後、国民年金未加入発表からこちら、にわかにご活躍の飯島秘書官が電話で「訪朝を妨害するための報道か。取り消さなければ同行を認めない。認めて欲しければニュースソースをあかせ」とどなりこんだという。「ニュースソースをあかせ」といわれて「ハイ」と応えるのはいかに受売新聞配下のテレビ局とて肯んずることはできず、回答を拒否。これが「お達し」の背景の由。

 飯島の顔つきはそれなりの歳の男としてはいささか心許ないが、脳みそ、マナーは見かけ以上にお粗末らしい。なるほど重大な交渉を控える時に、その手の内を報ぜられるのは痛いことには違いない。しかし、そういう報道があっても無視していれば、交渉相手方には何の確信も与えない話。それを「何をしてくれるんだ」などと大声を上げれば、かえって「そうか、そういうオルタナティブも用意されているのか」と相手に知れるだけのこと。いや、既に交渉の材料としては北側に提示済みのことなのか。とすれば、図星を指されて乱心したということになる。いずれにしても飯島のお粗末さは動かない。飯島、おまえは、バカだ。

 なお、夕刻までには、細田官房長官によって、排除の撤回が発表され、一件落着。(5/19/2004)

 昨日の続きになる。結論から書けば、小沢の「差し違え」はもののみごとに空振りに終わった。

 参議院厚生労働委員会の質疑でコイズミは「義務化されてから払っていないとすればそれはおかしいといえるが、任意の時に加入していなかったことは問題にする方がおかしい」と答弁した。

 論理的にはその通りだろう。ただこの国の年金が積立方式ではなく賦課方式で制度設計されている以上、基本的な理念は「共助」にある。「共助」の理念は議員の国民年金加入が義務化される以前から基本原理となっていた。

 したがって公人である議員がこの「共助」の精神に従わなかったことは「加入しなかったことのどこが悪い」などと開き直ることではなく、あえて言うなら「昔はものを思はざりけり」と恥じ入りながら告白するたぐいのことだ。あまり大きな顔で「問題にする方がおかしい」などとふんぞり返るものではない。もっとも所詮その程度の意識で総理大臣の職をまっとうできると思っているなら嘆息するばかりだが。(5/18/2004)

 民主党代表に就任予定の小沢一郎が代表選立候補を辞退すると発表した。コイズミ同様、国民年金義務化前の80年4月から86年4月までの6年間、未加入だったことが理由。「オレは未加入の責任を取るぞ、おまえはどうなんだ、コイズミ」、小沢の発表会見の口ぶりにはそういうトーンがあった。

 なんだかどんどん本質から離れたところに話がいってしまっている。自民党の「党として調査はしない、議員個人個人が自分の考えで対応すればよい」という姿勢は如何にも「ばれなければなんでもあり」の悪徳・腐敗政党らしい対応。逆に、こと、今回の騒ぎに見る限り、本質論議を忘れた民主党の自縄自縛はいかにもひ弱な感じがする。だから、たんに年金官僚のまとめたインチキ「改正案」を追認しているだけの能無し自民党のふてぶてしさが、かえって頼もしく見えたりしてしまう。

 それにしても、だ、小沢よ、どうした。あの豪腕、傲岸はどこへ行った。自民党を出る時に置き忘れてきたのか?(5/17/2004)

 夜9時からのNHK特集「疾走ロボットカー」を見る。モハベ砂漠を疾駆する車の映像から番組は始まる。その車には人は乗っていない。離れた場所からラジコンされているわけでもない。車自身の判断で運転されているという。つまり人工知能による自走ロボットのレースなのだ。オフロードの自走を実現するために、まずどのようなシステム的発想をするか、その発想によって発生する様々な技術課題、そして解決のための苦闘。胸がわくわくするようなチャレンジ。おまけに優勝賞金1億円がかかっている。これで夢中にならないヤツは技術者ではない。

 レースの主催者はアメリカ国防総省。なぜ国防省が自走ロボット・コンテストを行い、その技術開発に民間の知恵を駆り出そうとしているか。既に無人の偵察機は開発され配備されており、この偵察機は単にパッシブに敵地の空撮を行うだけではなく、アクティブにミサイルを発射して攻撃することができるのだという。番組ではその「プレデター」に地上の標的を判別し、「敵を狩る」機能を持たせる開発が進みつつあることも紹介されていた。アメリカが企図する戦争を兵士の血は一滴も流さずに遂行すること。それが国防総省の夢見ていることなのだ。

 戦争は国家が編成した軍隊によって行われてきた。軍隊の主力がロボット兵士とロボット車輌(戦車もあれば、輸送車もある)、ロボット偵察機とロボット戦闘機で構成されることを想像してまず笑った。戦う双方がロボットを繰り出して戦争をするさまが、年に何回かNHK主催で開催されるロボコンのように思えたからだ。しかし、すぐに肌寒さを覚えた。そんなロボット軍を編成できる技術力と資力を備えている国は限られている。インタビューを受けた国防総省の担当官は「このコンテストを砂漠で行うのは、これからの十数年アメリカの戦場は砂漠だからだ」と言った。ロボットの標的は生身の人間なのだ。

 サイモン・ニューカムがなんと言おうとライト兄弟の飛行機は飛んだ。同様にアイザック・アシモフが「われはロボット(I , Robot)」の冒頭に掲げたロボット三原則は無効になってしまうのだろうか。遠くない将来、アメリカはロボット兵士とロボット兵器が主力を占める軍隊を完成させるに違いない。

 自国の兵士の血が流れること、それは戦争という手段に駆られる指導者の頭を冷やす効果をもたらしてきたはずだ。しかし、ロボットにより編成された軍隊をもつとなれば、開戦のために超えなければならぬポテンシャルエネルギーは格段に低くなってしまう。

 ブッシュのようなサルがそういう軍隊を手にする時代、なんと恐ろしい想像。(5/16/2004)

 **(息子)から送ってもらった切符で相撲観戦。いつもの顔ぶれ4人。両国の国技館で見るのははじめて。というより前から2列目の升席というのもはじめて。ただ男4人にはちょっと狭い。

 朝青龍は、昨日、北勝力に負けて35連勝でストップ。期せずして、「なにも昨日連勝が止まらなくてもよかったのに」などと語り合う。「どうせ負けるなら、見に行った日に連勝ストップ」という方が印象に残ったはずという気持ちなのだ。

 ひとつ前の升席に小学校一、二年くらいかなという男の子がいた。途中からだんだんになれてきたのだろう、かけ声をあげるようになった。その子、魁皇-時津海では時津海、千代大海-霜鳥では霜鳥、朝青龍-高見盛では高見盛に声援を送っている。どうやら、高見盛を例外として、場内の声援が少ない方の力士を選んでいるらしい。突然、**(弟)のことを思い出した。テレビのプロレス中継の時、**(弟)はかならず外人レスラーを応援していた。覆面のミスター・アトミックだとか、ノメリーニだとか、ブラッシーなどというじつに憎々しげな敵役に声援を送るのだ。「なんでアトミックなんか応援するんだ」と訊いたことがある。お気に入りの幼稚園スモックを着たままの**(弟)は「だれも呼んであげないと可哀想だもん」と答えた。この男の子も、ひょっとすると、そういうメンタリティーの子なのだろうか。そう思ったとたんになんだか頭を撫でてやりたくなって、気持ちを抑えるのに苦労した。(5/15/2004)

 いろいろなニュースが錯綜する日がある。きょうはそういう日だった。

 まず韓国の盧武鉉大統領の弾劾が棄却された。そして小泉首相が22日に北朝鮮を再訪するというニュースが流れ、小沢一郎が民主党の代表就任を引き受け、小泉の年金「未加入」が発表された。盧武鉉の件は各国の国内問題だからおくとして、後の三件のニュースはこれぞコイズミ流と思わず嗤った。

 まず、夜のニュースのトップ、夕刊のトップ、そして明日の朝刊のトップ、これが「民主党代表に小沢一郎氏」になることを消したい、これが一番目のポイント。そして、でかいニュースの陰でチョロッと不発弾処理をしておこう、これが二番目のポイント。そのためにはインパクトの大きいニュースを政府自らが作らねばならない。

 では、どんなネタがあるか。それぞれの条件を満たす可能性があるのはイラクか北朝鮮。なるほど自衛隊の撤兵はすべてを吹っ飛ばすくらいのインパクトがあるが、アメリカにぶっ飛ばされて政権が終わってしまいかねないからダメ。となると北朝鮮だ。家族会やらノータリンの安倍やらがグチャグチャ言ってきているが、これしかないではないか。まさか家族を連れての凱旋帰国などは実現しない。とすると、参院選に最大の効果を挙げるためには家族の帰国時期をそのあたりにしたいところ。7月8日は金日成が亡くなってちょうど10年の節目、北も手を打ちやすかろう。ならば今月中の再訪朝、ありだ。プラスイメージニュースだから不発弾処理ニュースとの抱き合わせにもうってつけ。

 不発弾処理ニュースを発表した飯島秘書官の口ぶりが隠されたものを暗示している。飯島はまず冒頭で「個人情報である保険料納付記録が本人の承諾なく週刊誌に掲載されているのは問題だ」とかまし、「未加入期間は首相の個人事務所で保存している銀行口座の引き落とし状況などから確認したもので社会保険庁に確認してはいない」と締めくくったそうだ。5キロの不発弾と見せてじつは50キロの不発弾だったりしたらえらいことになる。よほど社会保険庁の納付記録内容から今夜の発表の「不備」が露呈することが怖いのだろう。

 じつによく考え抜かれた「政治手法」だ。ただこんな程度のものが粒々辛苦の「政治手法」かと思うとなにやらうら悲しくもなるけれど。(5/14/2004)

 昨日、デンマーク王室やスペイン王室の婚礼に出席するために皇太子が羽田を発った。本来同行すべき雅子妃は体調不良ということで単身の訪欧。その出発に先立って月曜に行われた記者会見の席で、雅子妃の体調不良の背景に「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した。

 林田英樹東宮大夫は、昨日、「強くおっしゃったな、大変だったんだなと改めて感じた。しっかり受け止めたい。お考えに沿うようできる限りのことを検討したい」と言い、湯浅利夫長官は、きょう、「重いものとして真摯に受け止めたい」「私たちに向けられているのだとすれば、どういう中身なのかきちんと考えなければいけない」と言っている。ともに具体的にはどういうことかわからないなどと言っているところが、いかにも宮内庁らしくて嗤える。

 しかし、東宮大夫といえば、皇太子担当の直接部門の長だろう。そのおダイブさまが「わからない」などというのは「わたしは仕事をサボっている俸給泥棒でございます」と広言しているようなものだ。もとより「皇室外交」などというものが「小和田雅子のキャリア」とまっすぐにつながるもののごとく語る皇太子のピンぼけぶりも可笑しいといえば可笑しい。だが、所詮、我が皇族の「世界認識」がその程度のものだとしたら、彼らの自己満足を最大限かなえて差し上げるのが化石官庁たる宮内庁の職務だろう。

§

 と、ここまで書いてテレビを見ると、筑紫哲也がいつもの「多事争論」のコーナー、冒頭、妙な一呼吸をおいて、「わたしにも年金の未納がありました」と話し始めた。

 どうも変な「告白病」が流行っているようだ。江角マキコの保険金未納というニュースのニュース性は単純に強面風コマーシャルと演じた本人の現実とのギャップが可笑しいというところにあった。あえていえば、クライアントたる社会保険庁のうっかり者ぶりが年金という仕事に対する彼の官庁のまぬけぶりを象徴していたということももうひとつのニュース性だった。どこまでいってもその程度こと。その江角を国会に「証人として呼べ」などと主張した菅は既にその時から「カン」を狂わせていたのだ。

 ところが「未納三兄弟」が出てきたところから、話はどんどん脱線しはじめた。コイズミのバカが「うっかりだったら仕方がない、皆さんの中にもそういう人がいるでしょう」となどと、共済制度である年金の基本を心得ない変な弁護をしたことで本質論議がすっ飛んでしまった。たしかに、制度に従う側の人間にうっかりはあるかもしれない。しかし、制度を作る側の人間には、まずうっかりがないシステムを作る義務があり、かつ自らはうっかりは許されないと心得なくては公人としての資格がないことになる。コイズミの発言はそこがまるでわかっていないから、「バカだね」と嗤った。

 筑紫はいったいどっちにいるつもりなのだ。なるほど「未納の政治家を厳しく批判しながら、自らに未納があった」ことは恥ずかしいことには違いない。しかし、筑紫に制度を作る側の人間の眼でジャーナリスト活動をして欲しいと思うものはたぶんいない。筑紫は大きな心得違いをしている。(5/13/2004)

 年金未納者の「自首」が相次いでいる。閣僚から始まって、あいつにこいつ、おまえもおれもが、議員、知事にまで及び、最近は逆に「わたしはこんなに正直です」というアピール色までが帯びて来る始末。

 それでも今夕の公明党の発表には呆れた。なんとまあ、神崎、冬柴、北側などの党幹部を含む衆参両院議員計14人。記者会見の場で「昨日になって判明した」、「わかりやすい制度改善が必要」、「閣僚辞任を求めた菅代表とはケースが違う」など、いけしゃあしゃあと陳弁した。

 年金法改正案が衆議院で採決されたのは昨日のことだ。公明党のスタッフが採決後のわずか数時間でたちどころに党の両院議員全員の年金状況を調べたというなら非常に有能、さかのぼる数週間前から調査をしてその結果をグズグズと整理していたというなら頗る無能ということになるが、はたしてどちらだったのだろうか。おそらく、公明党スタッフに疵はないに違いない。

 疵は公明党幹部、神崎・冬柴などの人格的欠陥にある。21年も平然と支払いを無視し続けた中川経産相のような悪党を別にすれば、ごく短期間の未納だけをとりあげて云々するやつは下賤な週刊誌メディアぐらいのものだ。もともと、その程度のことだった。

 問題はそのことへの向き合い方なのだ。北側よ、「わかりやすい制度改善が必要」というのなら、なぜ、与党である自分たちの提案の中にその制度改善を盛り込まないのだ。法案提出時にはそういう問題についての認識がなかったというのなら、その認識があらわれた時点で継続審議にするのが誠実な公党としての取り組みというものではないのか。

 もともと、なにゆえ、わかりにくい制度になったのかといえば、常に小手先のつじつま合わせと財政状況の数字的お化粧しかしてこなかったという、まさにそのことがこの年金制度を複雑にし、怪奇でわかりにくいものにしたのだ。今回の「改正案」も、詮ずるところ、たんなる掛け金の増額と給付額の切り下げという従来型の弥縫策でしかない。どうしてこのような財政状況に立ち至ったかに関する要因分析もなければ、いかにして未納・未加入を低減するかについての対策もない。

 そういう本質的問題とは一切取り組もうとせずに、未納の事実をどこでどのように伝えたら善人のふりができるかとか、選挙に有利かなどということばかりを考えている。なんとまあ、不愉快な連中がのさばっている政党か、公明党は。(5/12/2004)

 暑い一日だった。最高気温が30度を超え、今年最初の真夏日になった。

 昨日、「Winny」の開発者だった金子勇東大助手が京都府警に逮捕された。逮捕容疑は「著作権法違反の幇助罪」だという。発表に際して府警は「容疑者が著作権法に対して挑発的なことを2ちゃんねるなどに書き、236回もの改良を加えていた」ことを逮捕理由にあげた。

 今回の逮捕に対して「よく切れる包丁を作ったら殺人幇助か」という声があった由。AがBを包丁で刺し殺した。Aが用いた包丁はCという職人が作った非常によく切れる包丁であった。この時、Cに殺人幇助罪は適用できるか。いや、それにとどまらず、Cの作ったよく切れる包丁を販売していたD、もっぱらCの作った包丁の切れ味を保つために研ぎを請け負ったE、これらの者にも殺人幇助罪は適用されなければならないのか。バカバカしい。その考えでゆけば、インターネットプロバイダも、パソコンメーカーも、O/Sメーカーも、みんな幇助罪に問わねばならなくなる。

 1月に「イラク派兵反対」のビラを自衛隊官舎に配布して「住居侵入罪」を適用した事件があったが、今回の逮捕にも最近の警察の法適用の恣意性の匂いがプンプンする。要は「お上をないがしろにするな」というセンスか。(5/11/2004)

 菅直人が民主党代表を辞任した。「このままでは選挙を戦えない」という民主党内の「空気」が、目前で起きていることの正確な認識もなく、辞任後の体制をどうするかという考慮もせずに、「とにかく辞めろ」に向かっていった。民主党には「思慮なき大衆」の政党としての資格が十分にある。

 いまのこの国の政治状況をどのように見たらよいのだろう。諸悪の根源のようにいわれた「55年体制」はたしかに崩れた。わけの分からない熱病のような議論から生まれた「小選挙区・比例代表制」への転換はちょうど10年前のことだった。とすると、まさに政治においても、経済同様、「失われた十年」なのではないか。眼前にあるのは気分で右往左往する「政局」ばかり、新しいものの萌芽はどこにあるか。

 コイズミ政権も、民主党も、双子の兄弟のようなものだ。どちらも情緒的な「妄想」のようなものを「世論」と呼んで、それに対する自らの強迫観念でウロウロしているだけ。そのくせ、どちらも「選挙における優位性」を最大の目的として、大衆の持つ「妄想」(「世論」)という「空気」を制御しようと浮薄な「言葉」ばかりを垂れ流している。

 両者の間に違いがあるとすれば、コイズミ・自民党には金持ちの権利拡大意思だけは明確にあるのに対し、寄り合い所帯の民主党にはそういう顕著な組織意思がないということくらい。普通にいえば、利益にこだわる組織はわかりやすく、何が行動原理かわかりにくい組織にはどこか薄気味悪さがあるものだ。(5/10/2004)

 ゴールデンウィークの最後、4日から5日にかけて、外務省の藪中三十二と田中均の両名が拉致問題に関する北朝鮮との協議を北京で行った。以来なにか近々動きが出そうだという観測が強まっている。なにより、どういうわけか昨日になって各局のテレビニュースで流された、北朝鮮の鄭泰和(チョン・テファ)と宋日昊(ソン・イルホ)が満面の笑顔を浮かべながら「成果に満足している」と語った映像が、その観測の確からしさの裏付けになっている。

 藪中から報告を受けた直後の記者会見で六ヵ国協議との関係を尋ねられた小泉首相、「拉致問題は日本と北朝鮮との二国間の問題ですから」と答えていた。ちょっと前まで「六ヵ国協議の場で」などと寝惚けた発言をしていたコイズミ。こんなあたりまえの認識を持つのにいったいどれだけ時間を空費してきたのか、このウスノロ野郎は。こんなウツケぶりを見ていると、はたして曽我ひとみの夫ジェンキンスのアメリカ引き渡し問題とか、死んだとされる人たちや拉致が疑われている人たちの調査の件など、きっちり段取りができているか心配になる。

 はたして、蓮池と横田という立場の違うどうしの主張が食い違い、「小泉再訪朝をめぐり、家族会意見まとまらず」というニュースが流れている。つくづく単純な人たちだと思う。家族会がそんなことを悩む必要などない。一国の宰相が「身請け」のためだけに他国を訪問するなどあり得ない。もし「小泉訪朝」があるとしたら、それは家族会が首をつっこめない問題とセットになっているに決まっている。つまり、家族会の関心事だけならば小泉の訪朝はないし、小泉の訪朝があるならば家族会の意向など汲んでいる余裕はないのだ。

 ・・・とここまでは正論。だがコイズミがとことんポピュリストだとしたら、参院選のためだけにノコノコ平壌まで身請けに行くこともあり得ないことではない。(5/9/2004)

 夕刊のトップの見出しは「米国防長官が謝罪」。テレビニュースを見ると「・・・deepest apology・・・」という語を使っているのが聴き取れた。

 一昨日、ブッシュは中東のテレビ局に出演して「今回の虐待行為がアメリカを代表するものではない」と訴えかけた。その際に「謝罪」に相当する言葉を述べなかったことがアラブ世界のみならずアメリカ国内でも批判された。あわてたブッシュは昨日、ヨルダンのアブドラ国王との会談後の記者会見で「sorry」という語を使ってみせたがついに「apology」という語は言わなかった。そのことが頭が悪いことで評判の大統領の貧弱な言語能力によるものなのか、「ちょっとばかりマナーの悪い兵隊がいたようで、ごめんな」という程度の現実認識からでたものなのかはわからない。(もっともこの国のマスコミのほとんども「ブッシュ大統領が謝罪」と報じた。「torture」を「虐待」と報じながら「sorry」が「謝罪」。この言語感覚もブッシュ並みかもしれない)

 しかし、もっとあからさまにブッシュという男の裸の姿を伝えたのは、アルアラビアとアルフーラ(アメリカの資金で設立されたばかりのアラビア語放送局)にのみ出演し、アルジャジーラへの出演を拒否したという事実だ。理由は「アルジャジーラは反米的だから」というもの。これほど深刻な事態に立ち至ったならば、アルジャジーラが反米的で忌々しいメディアだとしても、中東圏最大のテレビ放送メディアであることは無視できないのだから、そのメディアを通じてより多くのアラブ人にアメリカの弁明を伝えるべきだという冷静な判断がこの男にはできないのだ。

 この愚かさは我が宰相コイズミとも通底している。国会答弁におけるコイズミは、賛成者には真面目に応えるが、反対者には最初から取り合おうとせず薄ら笑いと共に答弁をはぐらかしてきた。「どうせ反対するんでしょ、説明しても」というのが彼の言い分だ。ブッシュも、コイズミも、気に入った者のみを眼中に置き、気に入らない者は徹底して無視するという愚かさにおいて双子の兄弟なのだ。(5/8/2004)

 朝刊の週刊文春広告に「福田長官独占告白:『本当は8年間払ってません』」の見出し、さらに並んで「菅直人長男源太郎も未払いの噴飯」。素晴らしいバランス感覚と嗤いながら家を出た。昼休み、いつものようにニュースサイトを覗くと官房長官辞任のニュース。ちょっと違和感のあった「独占告白」という単語の意味が瞬時に氷解した。

 福田の年金未納は、対比される菅直人に比べて期間は長く、あっさり未納を認めた「三兄弟」と比較すれば「個人情報」とごまかしたことが「悪質」。そういう点で辞任は当然のように思わせないではない。だが、わざわざ「8年払ってません」と「独占告白」してみせての辞任劇にはどこか過剰なパフォーマンスの匂いがする。

 たしかに表の「効果」は出ている。菅のカンの悪さは際立った。菅に焦点が移ったため、未納6閣僚への風当たりは弱まった。しかし、圧倒的な優位が確保できるか否かは菅の動き方次第というところがある。菅・鳩山・羽田とおおどこすべてに未納が露見した民主党執行部は、昨日、三党合意で「白旗」を掲げたばかり。決着した枠組みに反対する民主党内の反執行部派をわざわざ勢いづかせる必要などなかろう。6閣僚の辞任要求だって再燃する可能性がゼロになったわけではない。

 とすれば相当に際どい賭であって、「絶妙なタイミングの妙手」という評価は、手堅さが身上の福田の辞任劇の本質をついているとは思いにくい。どうも裏の「意図」があると勘ぐりたくなる。たんなる空想をひとつ。菅の未納は厚生大臣就任時の大臣官房の不手際にある。小泉もまた厚生大臣を経験している。もし、厚生省の大臣官房が伝統的に年金に疎いという伝統を有していたならば、小泉にも未納期間があるのではないか。福田が大芝居を打ってでもこの問題に決着をつけておきたかったのは、たとえばこんなレベルの、より大きな隠し事があるのではないか。

 それにしてもマスコミも国民も馬鹿だねえ。年金で本当に議論すべきなのは誰が未納かというような話ではなく、一昨日書いたような視点に、人口動態や経済環境の変化ということを加味した仕組みをどのように作るかという話なのに、そういう本筋はもうすっかり忘れられているようだ。(5/7/2004)

 三菱ふそうの前会長・元役員など7名が逮捕された。前会長の宇佐見某については3月以来、そのワンマンぶりが報ぜられていた。おそらく抜群のリーダーシップに富んだ有能なトップだったのだろう。

 成果主義がもてはやされる昨今、強いリーダーシップこそ管理職が備えるべき資質として強調されている。それはそれで間違いなく必要なものだが、中間管理職からトップへの階梯をあがるほどにそれを裏打ちする見識も求められる。仕事の専門性は必ずしも見識を育てるとは限らない、見識とは仕事の周辺の幅広さと深さのことだから。幅広さと深さをもった川はけっして早くは流れない。表層は早く流れてもそれを深みで支える流れは自ずと違うものだ。

 しかし、やたらにスピードを求め、短期の成果で能力を測ることが流行している最近の風潮では、ピーターの法則に従えばその上の職位に進むはずがなかったような「下士官」が、仕事のスピードの故に「士官」に昇進してしまうことがままあるのかもしれない。結果として組織にとってはたんなる不幸ですまないほどの「災厄」が「下士官マインド」の抜けないトップによって引き起こされる確率が増加している。

 狭い範囲の専門性はある、強いリーダーシップもある、そして社内権力も持っているから声も大きい。だから、「違います。こうすべきではないですか」とは誰もいえない。スリーダイヤのブランドの内側で起きたことがそういうことだったとすると、それはそんなに珍しいことではない。

 テレビニュースで、現在の三菱ふそうの経営陣が「品質に関する社員の意識が十分ではなかった」などというのを見た。おそらく、担当の社員は何が起きているのかも、本当ならばどうすべきかもわかっていたと思う。それをまだ「社員のマインドの改革が足りなかった」などといっているようでは、当分の間、三菱のものは買えないなと思った。

 ふと「社員は悪くないんです。悪いのはわたしらなんです」と泣きながら語ったあの山一証券社長、野沢正平のことを思い出した。当時、多くの人は、彼の「涙」をいろいろにあげつらったものだった。嗤った者さえいた。しかし、社員の再雇用を訴える文脈の中であったにもせよ、その後うち続いた企業不祥事のお詫び会見に際して、経営トップの責任を潔く認め詫びたのは彼だけだったような気がする。会社が消えてなくなり有効な責任を云々する局面が後ろに控えていなかったからさといわれればそうかもしれぬが、それでもそれは珍しいことだった、あれほどの災禍をもたらした太平洋戦争の開戦詔書に署名・捺印しながら、なんの責任もとらずのうのうと生き延びた最高責任者さえいた、この国においては。(5/6/2004)

 朝刊にこどもの日にあわせた囲み記事。見出しは「子どもの割合13.9%:30年連続で低下」。4月1日現在の15歳未満の子どもの数が昨年より20万人少ない1,781万人(男子:913万、女子:868万)となったこと、総人口に対する15歳未満の人口比が主要7ヵ国中で最低になっているという内容。(アメリカ21.0%、フランス・イギリス・カナダがそれぞれ18%台、ドイツ15.0%、イタリア14.3%)

 日本の高齢化についてはもうずいぶん前から警告がなされている。それがほぼ「予定通り」進行しているということ。一部には高齢化社会の到来をこの世の終わりが来るかのように語ることがはやっているようだが、ずいぶん前にエン振協の研究部会で「高齢化社会の考察」をまとめて以来、あまり心配はしていない。マクロ的には「高齢化社会の設計」(古川俊之)の考察の通りだと思うからだ。(いま奥付を見たら89年、少しその後の数字の動きについて、確認した方がいいのかもしれない)

 問題は古川がこのように書いている部分だ。

 以上の事実を翻訳すると、日本の社会はおよそ全人口の半分弱が働いて、全員が食えるという図式になっていると想像できる。この分析を経済の専門家にぶっつけて意見を質すと、反論する人はまったくない。しかし理屈は通っても、社会慣習からして資本の再配分の技術の具体的提案はきわめて難しいという点で抵抗する。つまり若者が余裕をもって高齢者を養えるのは渋々認めるが、若者が喜んで金を出す工夫は思いつかないというのである。あえていうが、その難しさを解決する方法を考えるのが専門家の役割である。積立方式でも、拠出方式でも、あるいは目的税でも、いろいろな技術を提案して、簡潔で強靱なモデルを使って事前評価に供すべきである。
 専門家の悩みが資本の再配分の技術的問題であるかぎり、高齢化社会になっても少なくとも労働力不足や、そのための国民所得低下も起こるはずはないというのが、この節の結論である。

 古川がこのように書いてから十数年を経て、この国はまだ「簡潔で強靱なモデル」の組み立てすらできていない。安直に消費税でゆこうとか、年金負担を機械的に増そうという以外、なにも検討をしないという「惨状」には目を覆いたくなるが、その愚かさこそがこの国のありようだ。(5/5/2004)

 夕方のTBS「ニュースの森」から。

 ボストンに住む言語学者のライル・ジェンキンズは、先月23日、日本政府が人質となった高遠ら三人に解放にかかった費用として航空運賃ほかを請求するというニューヨーク・タイムズの記事を読んで、その日のうちにワシントンの日本大使館に抗議の手紙を送るとともに、請求金額の一部として2,000ドルの小切手を高遠菜穂子あてとして託した。日本大使館はそれを受け取って10日ほど経ったきょうになって、小切手は直接本人に送った方がよいというコメントをつけて送り返してきた。「直接送った方がよい」という理屈は分からないでもないが、ならば即日返送すればよかろう。どうやら大使館と外務省本省の間ですったもんだのやりとりをするうちに何日かを過ごしてしまったということなのだろう。

 冷戦ただなかの1960年頃、ジェンキンズは東ドイツで2年間拘置された経験があった由。インタビューを受けた彼は「当時、自分には弁護士費用を含む解放に関わる費用の請求はなかった」と答えていた。それにひきかえ日本政府は・・・、というわけだ。費用請求といい、いったん預かった小切手を10日以上も棚晒しにして突っ返すやり方といい、なんとまあ、不様かつお粗末な話だこと。(5/4/2004)

 朝刊にイラク人捕虜「虐待」に関する「ニューヨーカー(電子版)」記事の要旨が掲載されている。

 豊里(家内の実家:連休前半帰省していました)の生活は悪くないが、インターネットアクセス環境がないのが辛い。たとえば、この記事も実際にあたってみると、「TORTURE AT ABU GHRAIB by SEYMOUR M. HERSH」とある。この国のマスコミはさかんに「虐待」という言葉を使っているが原題は「アブグレイブにおける『拷問』」となっていることが分かる。(この記事のライターはセイモア・ハーシュ、あの「ソンミ」のレポートをした彼だ)

 おおよそ、こんなところだ。(以下は朝日朝刊の「要旨」から引く)

 何に驚いたらいいだろう。「さすがアメリカは素晴らしい、このようなことが内部告発され、組織的にきちんと調査され、それがジャーナリズムにとりあげられている」ということに、か。それとも、「解放軍アメリカがいともたやすくフセイン顔負けの醜悪な圧制者となった(「拷問」事件の舞台となったアブグレイブ刑務所はフセイン政権による恐怖政治の象徴的施設であった由)」ということに、か。

 まず、前者。たしかに、ある意味でこの自浄能力は素晴らしいかもしれない。日本であれば、「週刊新潮」や「諸君」あたりの週刊誌・月刊誌が政府の意向を先取りし、「内部告発者は反戦兵士」、「軍の弱体化を図る売国奴は誰か」などと大見出しを打って、論議をすり替える下劣極まりないキャンペーンを繰り広げるに違いない。そういう例は最近見かけたばかりだ。

 しかし、やはり後者の方に驚くべきだろう。そもそもCIAないしは軍情報担当が「尋問向けに捕虜の体力・精神力を痛めつけておけ」、「尋問ではいい情報がとれた、よくやったぞ」などと言ったそうだから、「拷問」の一応の目的は「尋問」の効果を高めることにあったということだろう。いったい何に関する「尋問」だったのか。素直に考えて一番ありそうな尋問テーマは大量破壊兵器に関することだ。だが隠匿された大量破壊兵器が見つかったという話はついぞ聞かない。これほど準備された「尋問」でも大量破壊兵器は出てこないのだ。(忘れっぽい世間はとっくに忘れているようだが、最高指揮官、フセイン大統領が捕縛されてからもう5ヵ月になろうとしている

 つまり、大量破壊兵器を最大の開戦理由とした戦争には大義などは欠片もなかったということだ。目的が手段を正当化することについては議論の余地があるかもしれない。しかし、腐った目的は、議論の余地などなく、手段をも腐敗させるものだ。「イラク戦争」に関して、これから世界はもっともっと多くの腐敗を目の当たりにすることになるのかもしれない。(5/3/2004)

 一年前、ブッシュは得意満面「戦闘終結宣言」をした。ところが「イラク戦争」はこの「戦闘終結宣言」の前と後でじつに興味深い対比を示すようになった。「不思議な戦争」は徐々にその相貌を明らかにしてきたようだ。朝刊に「有志連合国」の戦死者数を表にまとめたものが載っているので書き写しておく。

開戦~2003.4.30 2003.5.1~2004.4.30
米国 138 594
英国 33 26
イタリア 19
スペイン 10
ブルガリア
ウクライナ
ポーランド
タイ
エルサルバドル
エストニア
デンマーク

 ちょうど一年前のきょうの日記に、「ブッシュの『戦闘終結宣言』があった。『戦争(war)』が終わったのではなく『戦闘(combat)』が終わったのだそうだ。馬鹿馬鹿しいからこれ以上のことは書き留めない」と書いた。戦闘が終わったからには戦死者は減るのが常識というものだが、一周年に向けて尻上がりに増加し、ついに戦時中の4倍を優に超えてしまった。

 この現実を「不思議」と思うのはブッシュの主張にそって見るからだ。ブッシュは一握りのフセイン政権の残党あるいはイラク国内に侵入したイスラム原理主義テロリストの仕業というが、それほど限られた者どもが企てているのなら一年もたったいまごろになって、かえって戦死者が増えているという現象は説明がつくまい。

 ブッシュ・イデオロギーにとらわれない者には、もはや、起きていることは明白だ。いまイラク国内で起きているのは「侵略者アメリカに対するレジスタンス」なのだ。(5/2/2004)

 デヴィッド・リーンが監督し、ピーター・オトゥールが主演した「アラビアのロレンス」の完全版には劇場公開時にはカットされたシーンが収められている。いくつかのカットシーンの中に、ロレンスがトルコ軍に捕らえられ、敵将におカマをほられたことを暗示するシーンがあった。イラク人捕虜に対する米英軍の虐待を報ずるニュースを見ていたら、裸にされ四つんばいの姿勢で尻をこちらに向けたものがあり、この映画のことを思い出した。

 去年、イラク軍に捕虜になったアメリカ軍兵士五人の映像が報ぜられた時、アメリカ政府は「ジュネーブ条約違反」といきり立ったものだった。独善的なアメリカ軍は、捕虜の顔写真を公開することはジュネーブ条約に違反するが、捕虜を裸にして電線をつなぎ通電ショックを与えることはジュネーブ条約に違反しないと考えているらしい。しかし、だれが考えてもこれは立派なジュネーブ条約違反であり、そのこと以前に、ニュルンベルグ裁判や東京裁判においてドイツと日本を断罪した「人道に対する犯罪」行為そのものだろう。

 もっともアメリカはキューバにあるグアンタナモ基地に主にアフガニスタンで拘束したいわゆる「テロリスト」たちを2年以上にもわたって根拠を明示しないままに拘禁し続けている。拘禁されているメンバーが「アフガニスタン戦争」における戦時捕虜だとすれば、とうぜんジュネーブ条約に基づく捕虜としての取り扱いを保証されなければならないし、アメリカが呼ぶように「テロリスト」であるとすれば、犯罪者として速やかに裁判にかけなければならない。ブッシュ政権は、彼らをアメリカ本土の基地にはおかず、目立たないキューバの基地に隠し、さらに捕虜とも犯罪者とも決めずに拘禁し続けるというじつに姑息な手段を用いている。これはおよそ近代国家にはあるまじき不法行為だ。

 アメリカが国際刑事裁判所(ICC)設置条約の批准を拒否し続けている(クリントン政権はいったん署名し、批准を棚晒しにしてきたがブッシュ政権は書名そのものを撤回しようとしてきた)のは、「ならず者国家」としてICCが対象とするような国家犯罪を犯すか、既に数多く犯していることを自認しているからに違いない。

 一方、日本はICC設置条約を批准していない、いや、署名すらしていない。今週はじめの朝刊に有事法制論議に際して置き忘れられているICC設置条約批准に警鐘を鳴らす投稿があったが、おそらく万事アメリカの指示に従うことしか頭にないこの国の政府、そしてちゃちで薄っぺらな安全保障論議しかできぬ民主党などには「馬の耳に念仏」であったことだろう。ICC規定には国家機関による「強制失踪」を犯罪行為とする規定があり、北朝鮮による拉致問題の解決には圧力のひとつとしてよほど役立つはずであるのに、だ。

 もうひとつ。EUにエストニア・ラトビア・リトアニア・ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー・スロベニア・マルタ・キプロスの10ヵ国が加盟し、全体で25ヵ国体制になった。EU全体の国民総生産はアメリカに匹敵する由。(5/1/2004)

【帰宅後の補足】

 グアンタナモ基地に拘禁されている人員のほとんどはイスラム教徒、4月13日現在で40ヵ国の国籍、計595人(4/28朝日朝刊「公と私(上)」から)。

 投稿は4/27朝日朝刊「私の視点」掲載、「有事法制:国際刑事裁判所加入が先だ」、筆者は国際刑事弁護士会理事の東澤靖。

 ブッシュとチェイニーが911の事前対応に関する調査委員会のヒアリングを受けた由。聴取を終えて出てきたエイプ・ブッシュは「やましいところがあれば、こんな聴聞には応じない」と言っていた。世界中の人々は嗤っている、宣誓もせず非公開、かつ記録もとらせないという条件をつけて「聴聞」に応じたのは、そうでなくてはとても恐ろしくて応じられなかったことの証左であろう、と。

 ジョージ・ブッシュとリチャード・チェイニー、自分たちの関係企業への利益誘導だけが最大の関心事であるような最低・最悪の「出稼ぎビジネスマン」が、聴聞に応じた形を作りたくて演じてみせたサル芝居の一幕、と、後世の歴史家は記述することだろう。(4/30/2004)

 やはり年金未納は中川・麻生・石破の三人にはとどまらなかった。しきりに「個人情報」などという言葉を差し挟むから「あやしい」と思っていたら、福田官房長官(3年1ヵ月)・竹中経済財政金融相(11ヵ月)・谷垣財務相(1年5ヵ月)・茂木沖縄北方相(9ヵ月)の四人が今夜になって「自首」してきた。可笑しかったのは先週三人を「未納三兄弟」と呼んで批判していた民主党の菅直人までが厚生大臣在任中(10ヵ月)に未払いがあったことが露見したこと。

 悪質なのは、先週、さかんに「個人情報だ」を繰り返したフクダとタケナカだろう。フクダは既に23日夕刻には自分に未納があることを知っていながら記者会見の席上では「個人情報でしょ」と言い抜けていたし、タケナカはもともと議員ではないのだから「勘違い」などしようがないにもかかわらず掛け金を踏み倒し「個人情報だ」とふんぞり返っていたのだから。まあ、タケナカはもともと脱税ギリギリの節税対策のためにまめにアメリカと日本を往復しているというとかくの噂のたえない人物だから、本人にしてみれば公的負担を「節約」する行為は「常識」の範疇に属することなのかもしれぬ。

 中川のように悪意で21年もの間制度を無視し続けた「悪党」もいれば、閣僚就任時に国家公務員共催の健康保険加入に年金もセットされていると誤認した石破のような「うっかり者」もいる。いずれにしても、議員年金やら厚生年金、国民年金などが入り乱れていることが一因だとすれば、まさに民主党の主張する一本化案こそが方向的には正しいことを示している。とくに議員年金が誤認のもとになっているとすれば、数週間ほど前、コイズミがウケ狙いで持ち出した議員年金の廃止などが再論議されてもいいはずだが、ひょうたんコマが本当になりそうになるやコイズミは忘れたふりをしている。まったくもって狡い野郎だ。

 これほどの制度的問題が露呈しながら、単に年金負担を増やすことだけを定めた法案が与党単独で委員会可決されてしまった。しかし、国会のまわりにはこれを糾弾するデモをしかける組織(会社には「改悪」阻止のためのカンパ箱が回ってきたが、カンパだけ集めていったい何に使ったのだろう)もなければ、マスコミ論調もおざなり。いったい何本のネジが抜けているのだろう、この国は。(4/28/2004)

 ホッとするニュースをひとつ。

 あのイアン・ソープがオーストラリアのオリンピック代表選考レースでフライングを犯して失格し400メートル自由形の代表の座を取り落としたことは、うかつにも先週、日本の代表選考会に際して北島康介がらみのコメントの中で、はじめて知った。

 昨日、件の選考レースで代表の座を獲得したクレイグ・スティーブンスが出場権を辞退したというニュースが流れた。朝刊には「ソープの代表としての出場が可能に」とあり、夜のニュースによるとソープの代表が確定した由。(ソープはフライングで失格した、スティーブンスが代表を辞退したならば、第二位の選手に出場権が移るはずで、ソープに代表権がわたるまでには何人もの選手の代表権辞退がなければならないのではないか。四人も五人もの選手が一斉に「ぼくは辞退する」というのはちょっと考えにくいが・・・不思議な話)

 伝えられるところではシドニー五輪の英雄、ソープの失格はオーストラリア国内ではちょっとした騒ぎになり、「ソープの失格は残念」程度の発言から「スティーブンスが出場辞退することを国民は望んでいる」という露骨な発言までが飛び出し、スティーブンスはノイローゼに追い込まれたらしい。

 なんとも言えず「いやな感じ」というのは、どうやらこの国の専売特許ではなかったらしい。そうか、「ただの人が作った人の世が住みにくいからとて越す国はあるまい」とはこのことをさしていたのか。

 まことにホッとするニュースだった。(4/27/2004)

 衆議院補欠選挙の結果を記録しておく。

【埼玉8区】 投票率 35.22%
柴山昌彦 自民 52,543
木下 厚 民主 46,945
柳下礼子 共産 17,665
【広島5区】 投票率 55.52%
寺田 稔 自民 78,769
三谷光男 民主 71,287
松本 進 共産 5,888
【鹿児島5区】 投票率 54.92%
森山 裕 自民 115,820
竪山 勲 民主 16,029
茅野 博 共産 8,038

 いずれの選挙区とも公明党が自民党候補を推薦・支持している。土建業界の組織的支援で圧倒的な勝利をおさめた鹿児島(日本は広い、そういう化石のような手法が有効なところがまだあるのだから)を別格とすれば、自民党の勝因はふたつにまとめられる。ひとつは低投票率と公明党の相乗効果であり、いまひとつは自民党の陰の応援団長たる日本共産党の存在。自民党が実力と主張では勝ったのは鹿児島だけ、あとふたつの選挙は公明党と共産党という、けっして数は多くないにもかかわらずいまだに強力な集票組織力を持ついささか特異な政党の表と裏からのサポートで辛勝したということだ。

 この国の政治の不幸はダイナミズムの欠如にあるが、それは共産党が元凶となっている。しかし、共産党にもその支持者にも、そのことは自覚されていない。(4/26/2004)

 ちょっと早くに目が覚めて輾転反側するよりはと、床を離れた。寒い。湯を沸かす間にテレビのスイッチを入れると後藤田正晴と野中広務が映った。「時事放談」、かつて細川隆元と小汀利得で売っていた看板番組もいまや日曜の早朝、こんな時間に追いやられていたとは知らなかった。コーヒーを飲みながら見ていると、政敵、野中の小泉批判は当然として、後藤田も「小泉首相は未来に関する明確なビジョンを国民に示すべきときにきている」というようなことを言っていた。

 明治の元勲たちが粒々辛苦して作り上げた政治体制は、その精妙なバランスを心得ることのなかった軍人たちと新体制を叫ぶ官僚たちにぶち壊された。彼らは新官僚とか革新官僚とか呼ばれたが、ナチスを手本にそれを追いかけるばかりで、ついに明確なビジョンを示すことはできなかった。いま戦後復興と経済成長を支えた現行憲法の理念は、アメリカ流の市場原理至上主義を追いかける、いわゆる「コイズミ改革」によって着々と空洞化がはかられている。共通することは自らの強みの源泉に対する洞察力がまったくないことと、自覚的で明確な自前のビジョンを決定的に欠いていることだ。

 少し外れるがブッシュのアメリカもシャロンのイスラエルも、ともに本来の保守主義の持つたしなみとでもいうべきものを置き去りにして、ひたすら力に頼った強硬策のみで自分たちの陣地を拡張することばかりを考えている。獲得した土地の広さはけっして自らの安全を確保するものではないというあたりまえのことを忘れているのだ。

 たしなみを忘れた保守主義と、よって立つ基盤をうち捨てて砂上に楼閣を築こうとする改革の行く末が明るいはずはない。しかし、座して知恵を巡らすための静寂に堪えられぬ愚か者たちが、「軽挙」を拍手をもって迎え妄動しているとすれば、迷妄から醒めるためにはひとつふたつの悲劇を経なければならないのかもしれない。

 と、そんなことをぼんやりと考えているうちに番組は終わってしまった。

 思い出した、革新官僚の雄は岸信介だった。そしてコイズミが抜擢した安倍晋三はその孫だ。もっとも晋三の頭脳は東大で我妻栄と首席を争った祖父とは似ても似つかないほどお粗末だというのがもっぱらの評判だけれど、サルのような男が合衆国の大統領を務められるほどに時代が小者の時代に移っている以上、安倍程度でもいまのこの国を転ばせるには十分なのかもしれない。(4/25/2004)

 イラクの暫定占領当局はフセイン政権時の支配政党バース党の党員の公職復帰を認める方向に方針転換することを発表した由。発表声明には「犯罪行為に直接荷担していない党員に限る」などといういいわけがましい条件がつけてあるが、占領軍に対するイラク国内の広範な抵抗活動に対する融和策であることは明らか。

 もともと石油を盗み取ることだけを狙う以上ブッシュはフセインを自分の息のかかった者にすげ替えれば満足するだろう、したがって、フセイン政権の崩壊後にはそれまでの秘密警察や軍中枢部のような「フセイン体制の抑圧機構」を抱き込んで占領統治を始めるものと予想していたから、たんに回り道をしただけのことで驚きはしない。むしろ、ここに戻ってくるまでにずいぶん時間をかけたものだと思うくらいだ。

 まあ、それにしても、もう「民主化」だの「自由」だのという看板すら下ろさなければならないほどにアメリカのイラク占領政策は行き詰まったのだという象徴的な発表だ。(4/24/2004)

 閣僚の国民年金の保険料納付状況アンケートをとってみたら、三人ほど「実は支払っていない」という者が出てきたというのが夜のニュース。石破防衛庁長官が約1年半、麻生総務大臣3年10ヵ月、中川経産大臣に至ってはなんと21年もの間「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいた。

 インタビューを受けた三人はそれぞれに薄ら笑いを浮かべながら「うっかりしてました」と釈明した。もっとも加入期間を誠実に答えたのは坂口厚労大臣だけで、後の大臣は「入っていた」「支払っていた」と言いながら異口同音に「と思う」と言い足していたり、タケナカなんぞは「個人情報だ」とふんぞり返っていたと言うから、告白三人組にしてみれば「オレは正直に答えたんだよ」という気持ちがあったのかもしれぬ。社会保険庁が精査して状況を発表でもしたら、立ち往生しかねない閣僚がいたりして。

 聞いて絶句したのは例の如くコイズミのコメントだった。「気付かないこともある。国民の中にも分からない、気付いていないという人も多いと思う。どうしたらいいか考えなくてはいけない」。総理がそういう認識だとしたら、どうだろう、国民年金も「自己責任」、「任意加入」にしたら。

 それにしても不思議なことがある。**(上の息子)にも、**(下の息子)にも、社会保険事務所とやらから国民年金の支払い督促がよく来ていた。中川昭一は21年間にいったい何通の督促状を受け取りながら、「うっかり」し続けたのだろう。そんな「うっかり者」に大臣の重職が勤まるのだろうか。それとも、社会保険事務所は稼ぎのない貧乏学生にはせっせと督促状を出すが、国務大臣には一切出さないのかしら。(4/23/2004)

 東京地裁で圏央道の事業認定取り消し判決が出た。裁判長が小田急線高架工事訴訟で事業認定を取り消したり、東京都の外形標準課税条例の無効判決を出した藤山雅行だったこともあって、石原慎太郎都知事も、石原伸晃国交相も、福田官房長官も「圏央道の必要性は明らかであり、判決は遺憾」を繰り返している。

 「違法」とする論拠として判決は「都心部の通過交通の解消の点については、単に裏付けを欠くばかりか、むしろ首都高速中央環状線及び東京外環道路が建設されるならば、圏央道まで必要がないとさえ認められ」ると書いている。

 一方、既に用地の未買収は一戸、なにより高裁や最高裁には行政の決定には唯々諾々と追認を与えることしか考えていない骨なし裁判官がウジャウジャいる以上、この決定は上級審で覆されるだろうし、建設は着々と進むだろう。夕刊には2007年には横浜から東北道までの区間が開通予定とある。

 圏央道が普通の国道として完成するならばまだしも、有料道路として外環と競り合うとしたらどの程度の利用が見込まれるものか、およその想像はつく。圏央道が黒字路線として定着したとしても、行政手続きの不備を指摘したきょうの判決の価値が減ずることはないが、かりに恒常的な赤字路線になったならば、石原親子や福田のきょうの発言は、彼らがどれほど将来を見通す力に欠けるただの愚か者であったかを証明するものになるだろう。その結果が出る日を楽しみに待とう。(4/22/2004)

 朝刊の一コマ漫画、一コマ漫画にしては長いコメントなのだが、嗤えるので書き写しておく。

ブッシュする
状況は最悪、味方は撤退ムードのなか、作戦失敗とは言わず、
相手にしていなかった国連の支援を受けながら、あくまで目標貫徹を叫ぶ、
よくある倒産社長のタイプ???

 半世紀ほど前にこの国が行った戦争の際は、こういう状態の時、「玉砕」を選択するか、「撤退」という言葉を避けて「転進」と言い換えた。作戦の失敗(政策の失敗でもいいだろう)という現実をごまかしたければ、けっこう使える言葉かもしれない。英語で「転進」に相当する言葉をエイプ・ブッシュに教えて差し上げたらいいのに、コイズミ君よ。

 夕刊にはスペインに続いて撤退を決めた国と撤退を検討中の国がリストにまとめられている。撤退:スペイン・ホンジュラス・ドミニカ・ニカラグア・シンガポール、検討中:ブルガリア・タイ・フィリピン・ニュージーランド。「騙された」と不快を表明したポーランド、旧ソ連の枠から抜けたことを印象づけようとしたウクライナあたりが次の撤退表明候補かな。

 ひとりの子どもが「王様は裸だ」と叫んだら、うやうやしく衣装の裾をささげ持っていたふりをしていたお付きの者たちも、利口者のふりをして「素晴らしいお着物だ」と口々に語り合っていた者たちも、あっというまに「そうだ、王様は裸だ」と唱和するようになってしまった。

 いったん大声で真実が語られてしまえば、いくら「ブッシュして」も有志連合の崩壊を止めることはできない。イラク「戦争」を遂行した連中、支持した連中、双方の愚か者すべてが恐れているものは「テロとの戦いなどというものはない。ブッシュの言葉ウソだ。ブッシュは裸だ」という真実を語る言葉だ。(4/21/2004)

 品質保証の仕事について以来、一番耳にするのはトヨタの品質管理・品質保証の話だ。トヨタの品質に関する取り組みの中心は「三現主義」にある。現場・現物・現実の三つの「現」を大切にするということ。トヨタでは新人はよくこう叱責されるという、「事件は会議室で起こっているんじゃない。現場で起こってるんだ」。だから現実に向き合う論議は現場で行う。現場をなおざりにした議論は認めない。これがトヨタの哲学なのだそうだ。

 そういうことを頭におけば、けさの読売新聞の社説などは嗤える。

 その社説は「スペインのサパテロ首相が、イラクに派遣しているスペイン軍の早期撤退を指示した。予想されていたことではあるが、イラク再建にとって足かせとなりはしないか、と懸念される」と書き出す。そして「約二百人の犠牲者を出した選挙直前の列車爆破テロが、選挙結果に大きな影響を与えた」以上、「今回の決定が、結果的に、テロに屈したため、と受け取られはしまいか」と余計な世話焼きをしてみせ、「連合軍に対して武力抵抗を続けているイスラム教シーア派のサドル師は、スペイン軍に対する攻撃をやめるよう指示した。明らかに、サパテロ首相の決定が誤ったメッセージとなり、分断工作に利用されている」としてスペイン政府の決定を批判している。さらに「米英首脳は、六月末に予定されるイラク人への主権移譲に際し、受け皿となる暫定政権の人選などで、国連が主導権を発揮することを認める方針に転じた」とここが先途だと主張し、「スペイン政府の決定とは別に、タイなど一部の国々も、軍の撤退を検討している」という「"隊列"」の乱れが「自衛隊の撤退に言及する声が出てくることも予想される」とした上で、「これらの動きに惑わされてはならない。自衛隊が、サマワでの人道復興支援活動を続けることが、イラク復興につながる道である。国際連帯の毅然(きぜん)とした意思を示したい」と結んでいた。

 末尾まで読むと、これはいまや破綻してしまった読売の先年の社説をまだなお陳弁し、その屁の如きプライドを保とうとしている哀れな社説であると知れる。(大量破壊兵器は何処にありや。フセインとアルカイダの通じたる証明は。国連など要らぬと豪語し、独仏その他少なからぬ国の制止を振り切りて開戦した米国の決断、その是非は如何ぞ。不要なはずの国連に米国がおめおめ頼るは何ゆえか。思い出したるこれらの論議、なにひとつ、読売の主張は正しからず。ひとつふたつ外したに非ず、ことごとくすべて、みごとに外してみせた、どの面提げて、いまやある

 まず「読売新聞」には紙名を「受売新聞」と改名することを奨めたい、アメリカ政府広報紙と冠しても通るほどにブッシュ政権の主張をそのまま受け売りしているのだから。

 読売新聞はさきのイラク人質事件発生直後に政府が出した退避勧告に応じて現地から特派員を引き上げた。「脱兎の如く」逃げ出したという印象を与えても政府の「命令」には忠実に従うという、世界のジャーナリズムの常識からはずいぶん外れた行動だったが、それは読売新聞の習い性とみんなが知っているから目立つことはなかった。いや、そういうふうにいっては気の毒かもしれない。読売新聞社は「人権感覚にあふれた会社」であることに定評がある。「人権感覚」を尊重するが故に記者の身の安全を最大限に考慮する素晴らしい新聞社であるからこその英断だったに違いない。「受売新聞」としては、現地の情勢などはアメリカ政府なり日本政府が発表する官製情報でことたりるし、必要ならば通信社からでもフリーのジャーナリストからでも「記事」を買えばいい。(そのフリー・ジャーナリストがかけた「迷惑」を批判していたのはご愛敬)

 しかし、三現主義でいう「現場」と「現物」を投げ出しておいて「現実」を語り、「批判」を繰り広げようという読売新聞の姿勢は「嗤える」ところを少しばかり通り越している。自らは清潔で照明がよく安全なところに身を置いて、エラそうに他国の撤兵を批判する精神ははっきりいって腐っている。スペイン政府が極東のローカル新聞などに着目するはずもないが、万一、このけさの読売の社説を目にしたならば、「いの一番に現場から逃げ出したヤツなぞに、とやかく言われる筋合いはない」と吐き捨てることだろう。

 読売新聞社説子よ、恥を知れ。おまえたちは、少なくともイラクからの撤退については口を緘して一切語るべきではない、その資格を放擲しているのだから。(4/20/2004)

 イラクで拘束された安田純平・渡辺修孝の帰国前のインタビューを見る。政府もおおかたのマスコミもこの事件を「人質事件」として一括りにしているが、どうやら二人はコミュニティーに対する不審な侵入者として、あるいは外国人スパイとして拘束されたというだけのことらしい。安田はこう言っている、「カメラを持っていたことでスパイと疑われた」と。二人を拘束したのはおそらく「自警団」のようなものだったのではないか。だからといって彼らの生命が最初から安全だったわけではないけれど。安田はこう続けている、「銃を持っていなかったことが事態を悪化させなかった」と。

 前の「人質事件」の解決にどの程度我が政府がはたらいたのかはわからない。一方に「身代金はいくらだった」だの「情報の入手、口利きにいくらかかった」だのという話があるかと思えば、聖職者協会のクベイシは「日本の外務大臣からはお礼の言葉を聞いていない」といっている。改革でもなんでもやったふりだけがうまいコイズミ内閣のこと、いかにものリーク情報をふりまいて何かしたようなそぶりを見せているだけのことかもしれない。

 それに比べれば、後の「拘束事件」についてはもう少し確実なことが言えそうだ、政府はオロオロするばかりで「情報の収集」以外はなにもできなかったことは明らかだから。チャーター機の手配ひとつできなかった状況は「人質事件」の処理とは好対照をなしている。安田らがそのような経過をたどって帰国する以上、悪辣な手段で「被害者」を精神的に追い込み、口封じに成功した政府・与党の手口は彼らには使えなくなってしまった。安田、渡辺両氏の証言に期待したい。(人質被害者・家族に対して政府関係者が行った「しかけ」に関する記事が、きょう発売の「週刊現代-2004/5/1号」の「いまだから書ける解放された人質家族への誹謗中傷」に載っている)

 アメリカやイギリス、日本政府はことあるごとに「テロリスト」という言葉を口にしてきた。しかし、安田らを拘束したのが「自警団」だったとすると、「有志連合国」は完全な事実の誤認ないしは捏造をしているということになる。関東大震災の折、この国の「自警団」は「大活躍」をしたが、彼らを「テロリスト」と呼ぶことはできない。少なくとも安田らに対したイラクの「自警団」は「外国人」だからといってなぶり殺しにすることはなかった。我が日本の「自警団」は「朝鮮人」を殺害したばかりか「朝鮮人」と誤認した「日本人」まで酸鼻をきわめる殺し方で殺しまくったのに。けっして日本人として誇りにできる行動ではなかったが、だからといって「テロ」という言葉を便利に使ってみせる読売新聞やサンケイ新聞でさえ、この国の「自警団」を「テロリスト」とは呼ばないだろう。(4/19/2004)

 人質事件被害者のうち高遠菜穂子・郡山総一郎・今井紀明の三人が夕方帰国するということで、夜には記者会見があるものと思い、いつもはぎりぎりになってやるホームページの更新を昼過ぎには終えた。しかし、開かれた記者会見は家族と弁護士のみ、三人は出席しなかった。

 解放された直後の聖職者協会での三人の映像、経由地ドバイへ着きメディカルチェックに向かう時の映像、そして帰国した関西空港や羽田空港での映像。不思議なことに彼らの表情は徐々に徐々に暗いものに変わって来た。イラクからこの国に近づくにしたがって彼らの人間的な表情の明るさは失われた。彼らの心身状態を極端に悪化させたのは、おそらくドバイまで迎えに出た家族が伝えた「世間様の風当たりが尋常ではない」という情報だったのだろう。彼らにとっては、皮肉なことに、イラクよりもこの国の方がはるかに怖い国になったようだ。

 この国には論理性というものがない。だから、「当初の人質家族の一部に見られたいささか非常識な言動に対する反発」、「もともと三人の行動は自己責任において為されたものであるということ」、「国家が国民に対して果たすべき保護義務」、この互いにまったく独立したことがらが未分離に語られている。そして、そこに「すねに疵を持つ」政府・与党の隠れた「恐れ」を原因とするいささか常軌を逸した意図的な情報コントロールが加わった。そして「『お上』にたてつくヤツは許しちゃおかねぇ」という岡っ引き根性丸出し心理が蔓延したというわけだ。

 つくづくいやな国だ。「君が代」なんて嫌がらせソングを押しつけるのはそういうメンタリティの現れなんだ、ああホントにいやな国だ。「おっとせい」の気分だよ、今夜は。(4/18/2004)

 「自己責任」という言葉がずいぶん大声で語られている。不思議に思うのは、「自己責任」論を語りながら「渡航禁止の法制化」を主張する者(額賀自民党政調会長など)がいることだ。今回の場合における「自己責任」とは「渡航自粛要請」に対してどのように向き合うかということであろう。渡航禁止を法律で決めたなら、最初から「自己責任」などという言葉の出る幕はない。論理的に自明のことではないか。

 その「自己責任」論から転がり出たものだろう、外務省が例の人質事件の三人に対して、所要費用の一部を負担させることにした由。請求内容は「チャーター便についてはエコノミーのノーマル料金を負担してもらい、健康診断については当然かかった費用」ということ。おずおずと「妥当かな」と思わせないでもない程度にとどめているところが可笑しい。

 精一杯政府の味方をしてみようか。こういう費用を請求しようというのなら、日本への帰国と健康診断の受診について、あらかじめ費用は自前であること、したがって選択は自由意思によることを伝えておかなければフェアとはいえない。ついでにもうひとつ。コイズミは記者インタビューで「三人の中にイラクに残って活動を続けたいと言っている人がいるが」と尋ねられ、「いかに善意な気持ちがあっても、これだけ多くの人が寝食を忘れて努力してくれたのに、そういうことを言うんですかね、自覚を持っていただきたい」と答えた。政府の最高責任者としてはこのコメントはあまりに情緒的なものだ。

 コイズミ、外務省の役人、彼らは「国家」というものについて何も知らないということを満天下に晒したのだが、彼ら自身はそのことに気付いていないようだ。なんとまあ、お粗末な国になりはてたものか。これが我が祖国なのか、長歎息するは我が身ばかりか。

 夕方、木曜日報ぜられたフリー・ジャーナリストと人権活動家が解放されたというニュースが入った。まずは一安心。(4/17/2004)

 情報というものについて考えさせられた。

 三人の解放後、イスラム聖職者協会事務所での高遠菜穂子の様子を映した映像、昨夜何度も放映された映像には音声が入っていなかった。彼女はクベイシというイスラム聖職者の話しかけに涙を流し、胸に手をあてた。ああ、助かって緊張感が去り感極まって涙が出てきたのだなと思っていた。さきほど夜7時のNHKニュースにはこの映像に音声が入っていた。立ち上がった彼女にクベイシ師の言葉を訳した通訳の言葉がかぶった。「あなたのイラクの子どもたちに対する行動に感謝します。これからも続いて下さい」(通訳はイラク人。彼は「続けて下さい」というべきところを「続いて下さい」と言いまちがった)。彼女が涙を流したのはおそらく自分の行動を評価してくれたクベイシの言葉がひどく嬉しかったのだろう。視覚映像の情報量は多い。しかし、少なくともこの場合は音声情報と総合しない限り「真実」は見えなかったのだ。高遠が涙を浮かべる映像は当分の間、また音声情報なしで何度も使用されることだろう。しかし、あの音声付きのニュースシーンを見なかった多くの人は「解放の安堵感の涙」としか見ないに違いない。ニュースの流し手がここをコントロールすれば、それだけで情報を捏造しなくても人々を誤導することはできるのだ。

 夕刊からいくつかの言葉を拾って、きょうの状況をスケッチしておく。

 「損害賠償請求をするかどうかは別として、政府は事件への対応にかかった費用を国民に明らかにすべきだ」(冬柴公明党幹事長)。「山の遭難では救助費用は遭難者・家族に請求することもあるとの意見もあった」(安倍自民党幹事長)。「人質の家族が東京での拠点に使った北海道の東京事務所の費用負担をどうするか、知事は頭を痛めている」(中川経産相)。「自己責任という言葉はきついかもしれないが、そういうことも考えて行動しなければならない。ある意味で教育的な課題という思いをしている」(河村文部科学相)。「想定される危険から身を守る能力をもった組織は現在の日本国では自衛隊のほかない、ということで自衛隊が行っている。渡航自粛勧告が出ているわけで、いまは自衛隊でなければできない」(石破防衛庁長官)。

 同じ夕刊にはアメリカのパウエル国務長官の言葉も載っている。「危険な地域に入るリスクは誰もが意識しなければならない」。しかし、「誰も危険を冒さなければ私たちは前進しない」、「よりよい目的のため。自ら危険を冒した日本人たちがいたことを私はうれしく思う」。「彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ」。

 おそらく、パウエルの言う論理に立たない限りサマワに駐屯する自衛隊員もカネをもらって危険地域にいる愚か者という評価になってしまうだろう。そういうことに考えが及ばぬとしたら、イシバには兵を動かす能力が基本的に欠けているということになろうし、危険を常に回避するのが利口者で人生はそういう風に立ち回るものだと教えることを教育の課題だと考えている河村はただのスノブだということになる。どうやら政府と自民党はそんな連中の巣窟らしい。(4/16/2004)

 ウォーキングを始めてちょうど半年になる。10月16日、75.2キロ、BMI26.6からスタートして、62.6キロ、BMI22.2までこぎつけた。歩く以外はなにもしていない。フィットネスクラブだの、やせ薬だの、カロリーコントロール食品だの、低周波発生器だの、やたらにカネを使わせようとする健康産業には一円も貢献していない。まさにウォーキングサマサマ。自然の中の人間をそのまま信頼すれば、つまらぬ人工的な手段などなにひとつ必要とはしないということ。

 今夜もラジオのベイスターズ-スワローズ戦の中継を聞きながらいつものコースを歩いていた。イラクの人質事件の第一報を聞いたのは先週のきょう、このあたりだったなぁ、などと思いながら明治薬科大の前にさしかかった時、三人の解放の臨時ニュースが入った。歩いている方向が逆なだけでほぼ同じ場所だった。

 起き抜けにはバグダッドで新たにフリー・ジャーナリストと人権活動家が武装グループに拉致され、一昨日に拉致され人質になっていた4人のイタリア人のうち1人が殺害されるというニュースが入っていたから、三人の解放がたんに遅れているのかそれとも別の展開になるのか懸念されていた。

 なぜ、解放が日曜日からイスラムの安息日の前日までずれ込んだのか、そのあたりはいずれ徐々に分かることだろうが、この数日間の遅れはこの国のイラク派兵是認派にとっては貴重な準備時間になったようだ。その一例をあげておこう。けさの朝刊の週刊誌広告の見出し。

「高校生ライターと平和運動 資産家令嬢ボランティア 元自衛隊カメラマン」(週刊文春)
「共産党一家が育てた劣化ウラン弾高校生」(週刊新潮)
「12歳で煙草、15歳で大麻 高遠さんの凄まじい半生」(週刊新潮)
「子持ち・離婚でも戦場カメラマンを選んだ郡山さん」(週刊新潮)
「自己責任だから家族負担との声も出た救出費用」(週刊新潮)

 まことにみごとなまでの準備ぶりだ。まず、「ボランティアでイラクまで行けるなんていいご身分ね」という「庶民的嫉妬心」を喚起しておいて、続けて、「貴重な税金を無駄遣いさせた極道者は許さんぞ」という声につなげることで、なぜイラクがかの如き危険地帯になったのか、そもそも自衛隊がゆかねばならない理由は何なのかという根本的な論議を封じようとしている。さあ、どのていどの人々がこの「下衆根性」丸出しの目眩ましに引っかかるか、興味津々観察をするとしよう。(4/15/2004)

 ブッシュの記者会見。この男、頭が悪いことはもはや周知の事実だが、それにしても不様な会見だった。質疑のいくつかをメモしておく。

 「軍はいつまで駐留しなければならないのか、援軍要請は妥当か?」、「アビサイド将軍次第だ、援軍が必要だというなら増派する」。「大量破壊兵器がどこにあるかまで知っていると言っていたが?」、「イラクは生物化学兵器を生産する能力があったし、フセインは危険な男だった」。「イラクの作戦を継続するというが、大統領職を追われようとしてもやるのか?」、「国民はわたしを支持してくれると信じている」。「あなたはよく演説するが内容に代わり映えがなく支持率は低下している。国民への語りかけに失敗しているのではないか?」、これはサル男には難しい質問だったようでブッシュはうっかり「分からない」と絶句した後、かろうじて「今年11月に有権者が決めることだ」と返した。

 ブッシュよ、今度、大量破壊兵器に関する質問があったら、こう答えるがいい、「サダム・フセインこそが大量破壊兵器だったのだ」と。

 記者会見に関する記事を検索している途中でこんな記事にぶちあたって、思わずこちらが絶句してしまった。見出しは「米がイランに仲介要請、使節団をイラクに派遣」。内容はアメリカがイランに対し、イラクのシーア派を押さえ込むための仲介を依頼し、イランはこれに応えて湾岸諸国問題担当のサデギ局長を団長とする使節団をバグダッドに派遣したというもの。

 自ら「悪の枢軸」と定義した国に仲介を頼む。なかなかすごい手段ではあるが、ここ数年だけを切り取って考えるならば、これはこれで一種のマキャベリズムといえなくもない。しかし、イランとイラク、パーレビとホメイニとフセイン、大使館占拠とイラン・イラク戦争、そしてアメリカ。これらの単語の歴史的な経過を語るつなぎ合わせ方を知っている者ならば、このアメリカの「浅慮近謀」ぶりに腹を抱えて笑いたくなろう。「マキャベリズム」も、また、昨日書いた「叡智」を欠く「毅然」同様、「深慮遠謀」を欠いていてはただのお笑いぐさにしかならぬのだから。(4/14/2004)

 1月末から飲み続けた花粉症の薬もけさで終わり。今年は非常に楽だった。それとももしかしたら、完治した、・・・なんてことはない、か?

 会見を望む被害家族の要求をコイズミが拒否しているというニュースを見ながら、「どうでもいいタレントにはホイホイ会うのにね」と**(家内)。「あの被害家族、妙にエキサイトしてるから会いたくないんだろ」と応ずると、「北海道にいるのでも九州にいるのでもなく、すぐ近くに来てるのよ」、「でも、確定的に言えることはないんだよ、きっと」、「ほんのちょっと会って声をかけたっていいじゃない」。そしてややあってから「ちょっと、痩せて福田みたいな顔になったわよ、冷たい感じ」と言われてしまった。(おいおい、八つ当たりするなよ)。

 解放声明から2日半過ぎても事態に変化はない。日曜の夜7時のNHKニュースに「公共危機管理室長」とかいう耳慣れない肩書きの人物が出てきて、「政府が毅然とした姿勢で自衛隊の撤退を拒否したことが事態の好転に役立った」とか「政府は何もしていないように見えるかもしれないが、既に昨年末にこういう事態を想定したマニュアルを作って、そのマニュアルに従って事を進めている」といささか得意顔でしゃべっていた。同じ日曜の10時間半に始まったフジテレビの「EZテレビ」には眼鏡を掛け小狡い顔をした男(サンケイ新聞論説委員?)が出演し、妙に薄っぺらい印象を与える口でペラペラと「毅然とした姿勢を貫き、周到に用意されたマニュアルに基づく的確な政府対応が奏功した」と同様の趣旨を弁じ立てていた。ほほお、早くも解放後の官製PRを始めたかと嗤いながら、これほどいうなら小半日は遅れても解決は見えているのだなと安堵して聞いたものだった。それから時間だけがどんどん過ぎた。ご自慢だったマニュアル通りに事は進んでいないらしい。彼らの顔もとんと見かけなくなってしまった。

 そして、きょうあたり、コイズミは「情報が錯綜していて何が事実か分からない」と言い出した。たしかにおびただしい情報の中でその信憑性を精査する作業は大変なことには違いない。しかし、それくらいのことが織り込まれていないマニュアル、この時期に総理が「混乱にある」旨、漏らすことを許容するマニュアル、ずいぶん頼りないマニュアルもあったものだ。それとも、コイズミが「マニュアル」違反を犯したのかな、バカだから。

 とかくこの内閣は「毅然」という言葉をよく使う。「毅然」とは「強い意志により物事に動じないさま」をさすが、「叡智に裏付けられている」ことが暗黙の前提条件となる。しかし、最近は「たんなる浅慮に基づく頑迷な姿勢」を「毅然」と呼ぶらしい。だから、毅然として行動してもなんの展望も開くことができないばかりか、かえって事態を悪くするということがままあるようだ。すぐに思い浮かぶのは「毅然たる姿勢」で臨んだ北朝鮮拉致問題だ。一年有余を経て未だ解決の「か」の字も見えてこないでいる。嗤うべし、この政府の「毅然」を。(4/13/2004)

 かつて福田恆存はその評論集のあとがきに「人間にとつて、對立が本質的でありうるためには、倒れたもの、あるひは倒しやすいものを敵としてはならない」と書いた。さすがに福田の腰は定まっていた。いや、あるいは、たんなる被害妄想だったのかもしれぬが・・・。それはそうと重々知りつつ、バカを見るといびりたくなる日はあるものだ。人質の解放、はかばかしく進まぬとなれば、愚かな言説を嗤っての憂さ晴らし。

 昨日のサンケイの「主張」は朝日の社説を「二重基準」と批判していた。誘拐犯の要求に応じ自衛隊を撤退させるのは間違いである。が、しかし、事件がどのように決着しようとも比較的早い時期に自衛隊の撤退を検討すべき状況にあることはいまや自明。イラク全土で武力衝突がうち続くや、自衛隊は「巣籠もり」を決め込んだし、イラク特措法第二条三項にもそのような状況下に自衛隊を置かないと明確に規定している。軍国マニアの典型、サンケイ新聞の小児の如き趣味のために、我が自衛隊諸氏を危険に晒すわけにゆかない。同盟などといってはならぬ。もとより同盟などは組んではおらぬし、よしその名がなくともそのようなものがあるとして、アメリカが大義のない戦争にトチ狂っているならば、それを諌めてこその同盟国だ。さすれば、朝日の社説にいささかの疵もない。

 サンケイの「主張」は小人が精一杯に背伸びして、チンマイ場でコセコセと考えてみせた視野の狭い小理屈に過ぎぬ。君子といわず愚者ならぬ普通人も「王より飛車をかわいがる」ことはしないと知れ、愚かなサンケイ「主張」子よ。こんなバカを書いている限り、いつまでたっても「主張」の看板を「社説」に掛け替えるは適わぬぞ、呵々。(4/12/2004)

 起き抜けのニュースで、三人の解放に関する声明を知った。解放声明に関しても犯人グループはアルジャジーラを使う間接話法をとった。しかし、その放送があった日本時間の午前3時以来、既に18時間を経過して、まだ解放の確認に関するニュースはない。

 未確認情報で流れたのが「ファルージャで解放、日本政府は暫定占領当局に三人のバグダッドへの移送を依頼」というものだ。これを聞いてまず怒りがわいてきた、そして心配と。

 まず怒りから。この情報が本当だとしたら、政府には自衛隊を使う意思がないのかということ。イラクに自衛隊がいないのならば、この依頼は理解できる。しかし、距離的には離れているとはいえ陸・空の自衛隊がイラクに駐留しながら自国民の移送すらしないとしたら、いったいなんなんだということ。

 次に心配。

 三人が無事に解放され帰国を果たせば、彼らはある種の「英雄」になる。少なくともしばらくの間は彼らはマスコミの集中取材を受けるだろう。その時、けさの犯行グループのとりようによっては感動的な解放声明が効果を発揮する場面が予想される。声明の末尾はこのようになっていたのだから。(今回は西暦の表記とヒジュラ暦の表記を併記しているのも興味深い)

 我々は日本人たちが占領国に汚されていないことを確認した。日本人たちがイラク国民を応援していることや、家族の悲しみを考慮し、日本国民の姿勢も評価して、次のことを決めた。 
  1. 我々はイラクのイスラム宗教者委員会の求めに応えて3人の日本人を24時間以内に解放する。
  2. 我々は親愛なる日本の民衆に対して日本政府に圧力をかけ米国の占領に協力して違法な駐留を続ける自衛隊をイラクから撤退させるよう求める。

 このような動きは日本政府とアメリカ政府にとっては都合が悪かろう。いかにコイズミでも彼らを謀殺することに同意するとは思わないが、アメリカにはそのようなブレーキははたらかない。つまり、三人が解放され報道機関などの眼にふれるまでが極めて危険な時間帯になるということだ。一度でもマスコミなどに確認されれば、アメリカは間違いなく依頼された「移送」を確実に行うだろう。しかしそれまでの間にアメリカが彼らを「処置」する可能性は十分に考えられる。その時アメリカはこう発表するはずだ、「テロリストたちは三人を死体で解放した」と。

 これが心配の中味。(4/11/2004)

 イラク「戦争」という不思議な戦争はちょうど一年前に終わり、アメリカが「勝利」したはずだった。ところがイラクのファルージャという町を転換点にして、アメリカによる占領政策は破綻に向かいはじめたようだ。

 アメリカは先月31日のアメリカ民間人殺害の「報復作戦」を展開し、住宅地、モスクにまでミサイルを撃ち込み、女・子どもの区別もない殺戮を行っている。作戦の開始から6日たって、イラク人の死者は450人、負傷者は1,000人を超えた。つまり一年前フセインの指令で行われるはずだと考えられていた市街戦が、奇妙なことにいまになって行われているのだ。

 きょうの夕刊の記事は、「最初は住民と握手をして、敵をやっつけようと思った。しかし、行ってみると、みんな敵だった」というアメリカ海兵隊員の言葉で始まる。朝刊にはあのシーア派とスンニ派が合同礼拝を行い共通の敵がアメリカであることを確認したというニュースが載っていた。そして夕刊には続けて、アメリカによる占領統治を成功させるためにアメリカによって組織された傀儡政権候補である統治評議員の中からも「ファルージャでの過度な武力行使」を理由に抗議辞任の意思を表明する者が出てきたとある。

 5~8日のギャラップ調査ではアメリカ軍の完全撤退28%、部分撤退18%、つまり46%が何らかの形でのイラク撤退を求め、5~7日のAP通信調査ではテロの脅威が増加した49%(減少した28%)、8日CBS調査ではイラク戦争コストは引き合わない57%(引き合う34%)と、半数ないしはそれ以上のアメリカ国民がイラク戦争の効果に否定的になっている。

 イラク占領の破綻とブッシュ政権の崩壊が起きたとすると、そのとき「ドーメイ音頭」を踊っているコイズミはどんな顔をするのだろう。(4/10/2004)

 イラク派兵には反対したが、ことがこのようになってしまえば、自衛隊が撤退すべきだとはいえない。仮に人質が一人一人順番に殺されることになったとしても、自衛隊の撤退に応ずるべきではない。

 それは小泉内閣を支持するからではない。いったん国家としての意思表明として派兵した以上、高次の政治判断が機能するような事態なくしての変更はこの国の信用に関わる問題だからだ。

 しかし、逆に、このような事態を招いたことに対する責任は徹底的に追求し、小泉純一郎とその内閣、与党である自民党と公明党、つまり今回の派兵プロセスの賛成者全員に詰め腹を切らせるべきだ。理由は明確だ。今回のような、またはいまだ発生していない重大な惨禍を招くリスクと、単なる機械的な同盟意識による大義のない戦争への荷担とを、まったく無自覚に交換した責任はひとえに彼らにある。政治の結果責任はとことん取らせるべきだ。可能ならば、二度と公的場面に出させないほどの社会的制裁をしてもかまわないとさえ思う。

 朝の「スタンバイ」で小沢遼子がこんなことをいっていた。「こんな事件が起きて、福田さんなんかは『自衛隊はイラクの人たちのための人道復興支援を行っている。自衛隊が撤退する理由がない』と言ってるけど、そうなら、このあいだのモスク攻撃の時なんかはアメリカをたしなめるなり、『我が国はイラクの復興のために自衛隊を出しているのに、その活動がしにくくなるような軍事行動は抑制して欲しい』というようなメッセージを出しておけばいいのよ。そんなことがどれほど役に立つかは分からないけれど、常日頃、そういう形で日本の善意なり、アメリカとの違いを示しておくことはやはり必要よ」と。

 人質になった三人が、イラク情勢を継続的にレポートしてきたフリー・カメラマン、バグダッドなどで孤児たちのケアをするボランティア、イラクでの劣化ウラン問題を取り上げるNPOメンバーと、どちらかというと現在の日本政府の姿勢とは反対の領域で活動してきたこともあって、夕刊にはNPO関係者の中で「三人はイラクの敵ではない」ことを犯人グループ側にアピールしてゆこうという呼びかけが動き始めていることが出ている。こうした「善意」がかみあう相手かどうか。

 ただひとつ不思議なのは「自衛隊の撤退」を要求しながら、犯人グループが直接日本政府に向き合っていない感じがすることだ。彼らはアルジャジーラにビデオテープを持ち込んだほか、パレスチナホテルに滞在する外国メディアにビデオCDを配るだけで、肝心の日本大使館なり暫定占領軍当局にはなにもアクションをとっていないようだ。それだけではない、彼らの声明文はコーランの引用では始まるものの文章の筋立てに見えるメンタリティがどこか日本的な感じすらしている。一部には末尾の日付にヒジュラ暦ではなく西暦を使っているという報道があるが、そんなことは普通では考えられない話のはず。(4/9/2004)

 昨日の福岡地裁の靖国参拝違憲判決の要旨が朝刊に載っている。

 結論の章で判決は「あえて参拝の違憲性について判断したことに関して異論もあり得るとも考えられる」と書いている。過去における同様の訴えは「訴人の訴えに利益がない」として請求を棄却し、憲法判断を回避するというものがほとんどであった。なぜか。

 裁判官の処遇は最高裁事務局が握っている。つまり政権に反対する姿勢では裁判官としての出世は望めない。出世大事なら門前払い判決で憲法判断にはふれないというのが賢明な選択だからだろう。それでもあえて憲法判断に踏み込むとすれば論理的には違憲とせざるを得ない。そこで法解釈を曲げて合憲とするならば出世栄達には役立つだろうが法律家としての矜恃が保てない。とすれば憲法判断を回避するのが最善の策ということになる。

 福岡地裁の判決文は次のように続けられている。「しかし、現行法では憲法20条3項に反する行為があっても、その違憲性のみを訴訟で確認し、または行政訴訟で是正する方法もない。原告らも違憲性の確認を求めるための手段として、損害賠償請求訴訟の形を借りるほかなかった。・・・(中略)・・・本件参拝は参拝の合憲性について十分な議論も経ずにされ、その後も繰り返されてきた。こうした事情を考えると、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきだ。当裁判所は本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、判示した」。理を尽くした判決というべきだ。

 「サラリーマン化」という言葉がある。サラリーマンの端くれとしては腹の立つ言葉だが、自らを振り返ってみれば御身大事に口をつぐむことも多いから甘んじて受けよう。裁判官の中にもまだサラリーマン化せずに、こうしてその職責を真正面から受け止めようとする人がいると知ることは心強い気がする。裁判長は亀川清長という。陪席両名の名前も知りたいところだ。

§

 ・・・と、書いて、ラジオのドラゴンズ-ジャイアンツ戦の中継を聞きながら、夜のウォーキングに出た。明治薬科大学前を通りかかったところで臨時ニュースが入った。イラクで日本人3人が誘拐され、犯人グループは3人の状況と3日以内の自衛隊のイラク撤退を要求する声明を編集したビデオテープをアルジャジーラに送ってきたとのこと。

 自衛隊員に対する攻撃・テロ、あるいは自衛隊員による地元民誤殺、低いながらも日本国内あるいは海外のどこかでの邦人に対する無差別テロの可能性はあると思っていたが人質を取っての行動までは予想していなかった。こちらは素人だから、ある意味、それは当然のことだが、我が政府はおおむね我々並みだから、おそらく政府にとっても予想外の事態に違いない。(4/8/2004)

 最近は、毎朝、会社についてから始業までの間に松岡正剛の「千夜千冊」を読む。だいたい深夜の更新らしく前日付けのものを翌朝読む勘定だ。昨日の朝は大岡昇平の「野火」だった。末尾に「さて、ここまで書いてきて、ぼくとしては『千夜千冊』の読者のために、戦争記録をめぐるもう1冊の彫啄を紹介しなければならなくなってきたと思い始めている。それもまた真摯な記録というべきものだ。その1冊は明日にこそふさわしい。20時間ほど待たれたい」とあるのを読んだ時、吉田満の「戦艦大和ノ最期」だなと思った。朝日の土曜版「赤Be」の「言葉の旅人」は、毎回次回の言葉にヒントを出して、取材記者の「おみやげ」を賞品にしているが、ここ数週間はひどく難しくなってあてられない。だが、こちらの方はあたった。

 「戦艦大和ノ最期」を読んだのはもうずいぶん昔のこと。硬質な文語調とカタカナ交じりの表記にそれを選んだ必然性が感じられ、一読、一気に最後まで読ませるものだった。この本は一時期不遇であったらしい。それはある特定の人々のみに担がれてしまったからだ。手許の文庫本にもそういう手垢のようなものがついている。そのために読まれるべき機会をそうとうに失っていたとしたら、偏頗な汚れを落としてより広く読まれるようなんとかできないものか、と強く思う。(たとえば、江藤淳がこの本の何度目かのお色直しの際に寄せた薄汚い序文などは取り去ることだ)

 きょうは福岡地裁が小泉首相の就任後はじめて行った靖国参拝を違憲としたニュース、松井稼頭央が開幕戦で先頭打者初級ホームランを打ったニュース、アメリカでBSE牛を食べてヤコブ病を発症した疑いのニュースなど盛りだくさん。埋もれそうな最後のニュースのみ記事を書き写しておく。

 米北東部ニュージャージー州の一部地域でクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)による死者が過去相次いでいたことが分かり、BSE(牛海綿状脳症)の牛を食べたことが原因の恐れはないか、同州選出の上院議員2人(民主党)が米疾病対策センター(CDC)に詳しい調査を始めるよう求めた。
 地元住民の訴えなどによると、88~92年の5年間に、同州のチェリーヒル地区にある競馬場の従業員や客ら少なくとも13人がCJDで死亡しているという。
 CJDの発生率は100万人に1人ほどで、同地区の場合、発生率が高い恐れがある。また、通常のCJDは老年期に発病することが多いが、13人の死者には20代の人も含まれており、一部住民が「地元レストランで食べた牛肉が原因で、変異型CJDを発症したのでは」と不安の声を上げている。
 CDCは対応を明らかにしていない。米国では02年、英国で生まれ育ったフロリダ州在住の女性が変異型CJDと分かったが、国内でかかった例は確認されていない。

 アメリカ農務省の「科学的安全性」の主張は場合によっては大きく転ぶ可能性がある。(4/7/2004)

 たしか「自衛隊でしかなしえない危険な任務だからこそ、自衛隊を出すのだ」というのがコイズミとイシバの言い草だった。この数日のイラク情勢から、サマワの我が自衛隊は、やっとはじめたばかりの学校の修復などの仕事を中止して、宿営地に立てこもることにしたという。「危険」だから出したはずの自衛隊が「危険」だから巣籠りをするときいて嗤わぬ者はおるまい。サマワのイラク住民は、「危険」だから一歩も宿営地を出ようとしない自衛隊を見て銃などを持って軍隊らしいなりをしているが「Japanese Army」は軍隊なのかしらと訝しんでいることだろう。それとも「なるほど、Self Defence Armyとはそういうものだったか」と知り、「平和憲法とやらをもつ日本という国はそういう国だったか」との認識を新たにしてくれたか。

 自衛隊の「巣籠り」を非難しようとは思わぬ。身に付いたあるいは身の丈にあったふるまいとはかくの如くのものだという認識を新たにした方がよい。だからこそ「派兵」を求めるアメリカに唯々諾々と従うだけのことを「危険な任務だから自衛隊を派遣する」などと小賢しい説明をすることの胡散臭さと「軍隊」を「海外派兵する快感」に酔っぱらっている一部の右翼マインドの「平和ボケ太郎」の明き盲ぶりが可笑しくてならぬのだ。(4/6/2004)

 先週あたりから、連日、アメリカ軍を中心とする「連合軍」とシーア派民兵との武力衝突に関するニュースが流れている。最高指導者といわれるシスターニ師の穏健路線に飽き足らない若手のサドル師の名前がクローズアップされ、暫定占領当局はサドル師とその一派を「無法者」と呼び始めた。部分に「悪」のレッテルを貼って「divide & rule」で臨もうというところなのだろうが、既に「基本法」の制定過程をみればシスターニは必ずしもアメリカに協力的なわけではないようだから、「無法者」退治はかなり際どい綱渡りになるに違いない。

 あまり注目されていないようだがファルージャで武装勢力の掃討作戦を開始したというアメリカ軍の発表も気になる。昨日書いたアメリカ民間人殺害と遺体の引き回し事件があったところだから。連想するのはハイドリヒ暗殺の報復としてナチスが行ったチェコのリディチェ村に対する掃討作戦だ。かつてアメリカ軍はベトナムのソンミ村において無差別の虐殺行為を行った。ゲリラ戦に消耗した過程での精神錯乱のような行為であった。いまアメリカ軍はベトナム戦争よりもさらにプライドを持ち得ない戦いのさなかにある。「作戦行動」のレベルは「戦争目的」のレベルに比例するとしたら、大義のない戦争のための戦争に踏み切ったブッシュとその一派が、感情的で無意味な殺戮を決行する確率は高くなっている。

 ヒトラーは暗殺容疑者の関係先を絶滅することで併合地域での恐怖支配を確立しようとした。ブッシュはファルージャの「敵の掃討」という物語で自分の政策の誤りを糊塗しようとしている。自分のウィーク・ポイントをつかれると人間はただただ突っ張ることしか考えない。そういう人間がたまたま軍事力を手にしているととんでもない「蛮行」に走ることになる。世界はファルージャに注目すべきだ。

 もうひとつ、記録しておく。山崎拓と平沢勝栄が、先週、大連で北朝鮮当局者と折衝して帰国、きょう安倍晋三に経緯を報告した由。山崎や平沢、いずれコイズミに「密命」でももらってやったことなのだろう。彼らの心根がどんなところにあるかは別にして、これだけ事態が閉塞している状況にあっては、それはそれであっていい話だと考える。だが家族会やら救う会は口を極めて批判した。嗤うべし、ともに烏合の衆にも満たず。(4/5/2004)

 31日にイラクのファルージャでアメリカの民間人4人が襲われ殺害されるという事件が起きた。ここまでは現在のイラクでは日常茶飯のことだった。だからだろう、ざっと昨日、一昨日の新聞をひっくり返してみたがそのニュースは見あたらない。しかし、けさの朝刊のトップはその事件がアメリカ社会に与えた影響に関するものだ。

 事件はじつは殺害にとどまらなかった。ファルージャ現地の民衆は被害者のアメリカ人の遺体を切り刻んだのみならず、市中を引きずり回し、橋の梁に黒こげの遺体を吊した。アメリカのメディアはこの映像を流すものと流さないものに別れた。印象的なのはFOXテレビなどのブッシュ政権御用達メディアが「刺激的過ぎる」と放映を避けたこと。

 アメリカ兵を含めてもこの一年の「戦争」で死んだアメリカ人はまだ三桁の範囲にあるだろう。対するにイラク人の死者はゆうに万を超えるに違いない。FOXテレビが好んで報じたアメリカ軍による都市住居地域に対するミサイル攻撃映像、そのミサイルの着弾地には黒こげのイラク人の死体がごろごろとあったろう。

 黒こげ死体がアメリカ人ならば、それがたった4体であっても、人間らしいショックを受け、イラク人ならば、それが数十・数百に上ろうとも、視野の範囲にすら入らない。こういう人間、こういう国民、こういう政府、こういう国家が、信頼できるか。コイズミがひたすらつきしたがっているのは、こういう国、アメリカ合衆国だ。(4/3/2004)

 昨日はエイプリル・フールだった。子どもたちが出て行って夫婦二人になってしまうと、こういうものを楽しむこともなくなる。ラジオもテレビもことさらにエイプリル・フールをクローズアップすることがない。たまたま、自分の身の回り、見聞きした範囲だけのことなのかしら、それとも、世の中全体、エイプリル・フールを楽しむ余裕すら失いつつあるのだろうか・・・などと、ぼんやり思っていた。しかし、世界は違ったらしい。朝刊の国際欄にはこんな記事が載っていた。

 フランス・ソワール紙は一面全部と国際面で「オサマは米国に!(Oussama aux USA!)」。国際テロ組織アルカイダの首領が3ヵ月前にパキスタンを抜け出し、カナダ経由で米国に潜伏中という内容だ。
 「カリフォルニア警察提供」とうたった写真は、ひげを落とし、野球帽をかぶった本人が、右手人差し指を立てる演説ポーズで写っている。
 記事は「我々が考えていたより、ずいぶん近くにいるかもしれない」というリッジ米国土安全保障省長官のコメントで始まる。核心部分は「30日付ワシントン・ポストが米中央情報局(CIA)高官の話として伝えた」とし、冗談の片棒を他紙に担がせている。

 ここまで書くのなら、先日ブッシュが記者親睦会の場で披露し大顰蹙をかった、あの「ホワイトハウスの中で大量破壊兵器を探し回る写真」でも絡ませて、もうひとひねりすればよかったのに。(4/2/2004)

 昨日のヤンキース対デビルレイズ戦、試合開始前に「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」の演奏があった。大リーグの試合だから「星条旗・・・」が歌われるのはある意味当然として、なぜ「君が代」までが便乗するのか理由がよく分からないが「起立を」というアナウンス。ちょうど尿意を催していたので右隣の人が起立して通りやすくなったのを幸いに便所にたった。観客席の大半の人は唯々諾々と促されるままに起立していたが、売店やら便所が並ぶドームのぐるり通路はごった返していた。なに、スタンドにいる観客も立ってはいるが、携帯電話でのおしゃべりに余念がない奴やら帽子をかぶったままの奴がごろごろしている。「起立しろ」などと命令して実現できるのは、せいぜいこんな程度のことなのだ。

 けさのサンケイ抄は、東京都教育委員会の教員処分について朝日が昨日の社説に「そうまでして国旗を掲げ国歌を歌わせようとするのは、いきすぎを通り越して、なんとも悲しい」と書いたのをうけて、「しかしそうまでして国旗・国歌を貶めようとする論調は、なんとも悲しい」と書いた。そして「公立学校の教師も私人としてならどんな信条をもとうと構わぬ」が、「学校の入学式や卒業式は、教育の場にあっては大事な節目であり、欠かすことのできないけじめである。その儀式に立つ教師はもはや私人ではなく、れっきとした"公人"である。自分勝手な甘ったれは許されない」と続けた。

 サンケイ抄子がバカであることは先刻承知だが、それにしてもこれほどのバカとは思わなかった。国立大学が独立法人として国から切り離される時代に、どうして都道府県立の学校が「国家施設」なのだ。国が責任から逃れることばかり考える風潮を是認しながら、なぜ国から離れている組織に国の歌を押しつけることを当然と考えられるのだろう。

 長野県人は例外なく「信濃の国は十州に・・・」で始まる県歌を歌うことができる。学校行事の様々な場面で県歌を歌うからだ。歌詞は文語調でいまや決して馴染みやすくはない。しかし、その歌詞の意味さえ長野県民は例外なく理解している。「君が代」の歌詞の意味を答えられなかったり、とんでもない珍解釈をする者に出会うのは珍しくないのに。

 かつて長野オリンピック開会式において県歌「信濃の国」は自然発生的に会場で歌われた。「君が代」はどう逆立ちしても、この「信濃の国」にはなれない。それはなぜか。保守を僭称する読売・サンケイなどのバカ新聞はここをもっと深く考えた方がいい。

 サンケイは朝日を嗤うために朝日の口調を借りて「しかしそうまでして国旗・国歌を貶めようとする論調は、なんとも悲しい」と書いた。ほんとうならばこう書くべきだったろう。「しかし一部とはいえ思想・信条に関わるなどといわれるほどに嫌われる『君が代』は、国歌としてなんとも悲しいものだ」と。

 「嫌がらせソング」として機能してしまう「君が代」に国歌としての資格はない。自然発生的に歌われるほどの歌を「国歌」として持ちたいと思うのが真の保守主義者の立場だ。保守主義の神髄は敵対にも排他にも蔑視にもない。押しつけは保守主義の対極にある。(4/1/2004)

 長野県県歌についてはここが非常に参考になります。(正面玄関はこちらです)

 歌詞も、メロディーも、また、県歌になるまでの経緯も、さらには、なぜ、「県歌」がそれほどの地位を得たのかも、すべて、委細を尽くして書いてあります。

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