第8章 最後の晩餐
訳者前置き-本章はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープSilver Birch Speaks<シルバ-バーチは語る>の全訳である。原書では部分的に分散して紹介されているが、本書ではまとめて全部紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。
最後の晩餐という見出しは、たまたま出席者の数がキリストの最後の晩餐の時と同じ十三人だったので、リーバ女史がそう呼んだのであるが、シルバーバーチの霊訓の最後を飾るものとしてもふさわしいので、そのまま用いた。訳文の中で(後注1,2,3,4)として章末にまとめたものには英文テクストをお持ちの方への配慮である。
なおカセットテープと英文テクストをご希望の方は巻末の〝訳者あとがき〟を参照されたい。入神したバーバネルに乗り移っていよいよ話せる用意の整ったシルバーバーチが冒頭に呼びかけているサム・デニスSam Dennisは司会者で、他のカセットでも司会やインタビュアーの役をしている人である。(この八章の会話行頭の・・・はすべてサム・デニス氏)
最初に女性の声でこのカセットの内容についても解説があり、最後に〝それではシルバーバーチ霊に語っていただきましょう〟と結んだあと、シルバーバーチの次のような言葉で会が始まる。(カッコ内はすべて訳者による)
サム・デニスさん、始めることに致しましょう。
・・・よろしくお願いします。(後注1)
皆様に大霊の祝福のあらんことを。
本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安はとりあえず脇へ置いて頂きましょう。そしてお互いが可能な限り和気あいあいの内に最高のものを求めんとする願望に置いて一つとなるように努力いたしましょう。【次第に開会の祈り(インボケーション)にはいる】
無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私達の住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理の全てを創案し維持しておられます。それが、およそ例外と言うものを知らない不変不動の法則に従って一糸乱れることなく働いているので御座います。
私達はその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私達の精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、又、何者なのかについてのより大きな理解を与え、更には、われわれの全てをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。
その驚異的機構の中にあっては誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。
同時に私どもは、いついかなる時も私達の背後に強大なる高級霊団が控えていることも認識致しております。その望むところはただ一つ、私達の為に力を貸し、代わって私達が恵まれぬ人達の為に力を貸すようになる、と言うことでございます。
私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、今度は代わって私たちが授かった才能の全てを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒しを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝溢れる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。
ここに、常に己を役たてることのみを願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
本日こうして皆さんのもとへ参り、霊の世界からの愛とメッセージをお届けできることを嬉しく思います。今夜の集まりの特別な目的(市販の為の録音をすること)はよく存じております。そこで私は、私の言葉をお聞き下さる方々の為に、私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまずご説明するのが適切と考えた次第です。
(それを冒頭の祈りの中で簡単に述べたと言うこと)
霊的なことはこれが初めてという方々に申し上げたいのは、私は皆さんと同じ一個の人間的存在であると言うことです。ただ私は、私の言葉をお聞きくださっている方のどなたよりも永い人生を生きてまいりました。
そしてこの地上より遥か彼方の世界における経験のたまものとして私は、あなた方が神と呼んでおられる大霊、ならびにその大霊の意志を究極において是非とも行きわたらせるために案出された大自然の摂理について、いくばくかの知識を手に入れました。
その経験の結果学んだものを、私は受け入れて下さる方に喜んでお分けしたいと思います。何かのお役に立つものと考えるからです。私はいかなる意味においても神さまのような存在ではございません。
私はまだまだ人間的要素を残しており、誤りも犯せば弱点もあり不完全です。皆さん方のどなたとも同じように、まだまだ完全へ向けての永い道のりがあります。それは無限に続く道です。
しかし私は、他の同僚と同じように、これまでに辿ってきた道を後戻りして、その間に得た真理と叡智と知識の幾許かを披露して、それを皆さん方にお分けするようにとの要請を受けたのです。
と同時に、私達に協力してくださる方々の援助を得て、千変万化の生命形態のすべてを支配する崇高なる霊力を利用して、霊媒的能力を持つ人々を通じて恵み深い目的を果たすように手筈を整えることも出来ます。
過去においても同じ霊力が流入して、今日の人が奇跡とみなしているところの驚異的な現象を演出いたしましたが、ここで申し上げておきたいのは、いかなる現象にも自然法則と言うものが働いており、それはいかなる力によっても停止されたり廃止されたりすることはあり得ず、原因に従って結果が生じると言う整然たる因果律に則って働くほかはないと言うことです。
過去において発生したものも、それがいかに目を見張らせるものであろうと、いかに度肝を抜くようなものであろうと、いかに途方もないものであろうと、いかに驚異的なものであろうと、必ず自然法則の働きによって生じていたのです。
その法則は物質の領域においてだけでなく、霊的領域においても絶え間なく働いており、条件さえ整えば、霊的法則(スピリチュアル)・心霊的法則(サイキック)・反物質的法則(アストラル※)・エーテル的法則を総動員して、かつては奇跡と呼ばれ、今日では交霊会において霊媒的能力によって演出される、言わゆる心霊的現象を起こすことが出来ます。
(※物的身体と霊的身体とをつなぐ媒体を複体(ダブル)と呼んでいるが、これがエーテル的な反物質体で出来ている。ここではその生理的法則のことを言っている)
さて、霊媒と言うのは霊的能力を授けられている人間のことで、それをバイブルの中で使徒パウロがうまく説明しております(コリント①12)。こうした能力は神から授かるものであり、授かった者はそれを開発することによって神の恵みが届けられる通路として使用されることが可能となるわけです。
霊媒による現象は全て霊力の作用によります。従ってそれを今ご覧になっている皆さんは、かつて〝聖なる地〟と呼ばれた地方において起きていたのとまったく同じ現象を見ていることになるのです。大霊は不変です。自然の摂理も不変です。
それが今も昔と同じく作用している事は、かつて(三千年前に)この地上で生活したことのあるこの私が今こうして霊力を利用することによって霊媒を通じて皆さんに語りかけることが出来ると言う事実が証明しております。
もう一つご説明したいことがあります。それは、私達は途方もなく大きい霊的組織の一翼を担っており、総合的な計画とでも申し上げたいものを推進していると言うことです。
その基本計画は、霊力が引き続き地上へ流入してますます多くの人々の元へ行きわたり、無知と過りと迷信を駆逐して正しい真理と知識の光明のもとへ誘い、かくして地上へ生を受けたその目的に沿って各自が神の意図された通りに生き天命を全うするようにもくろまれているのです。
霊力は人間の記憶を絶した遠い過去の時代から間断なく地上へ流入しております。ただ、これまではそれが一時的で散発的なものに過ぎませんでした。
驚異的な出来事も、神技のような現象も、啓示された教えも、その時代その民族にあったものが授けられたのでしたが、やがてそれが朽ち始めます。せっかく啓示されたものに政治的、神学的、時には国家的利害の絡んだ、意図的な作為がなされたのです。
しかし今は違います。先ほど申し上げた総合的計画と言うものがありますから、霊力はすでに地上に立派に根付いております。なぜか。どうしてもそうしなければならない必要性が生じているからです。
組織的宗教は数多く存在しますが、地上の人間に真の自我を見出させ、生命の根源である神性を発揮させるような理想に沿って生きる、その指針を提供することは出来ませんでした。何よりもまず〝霊性〟が日常生活の中で顕著とならないといけません。
皆さんの住んでおられる地上と言うところは、とても暗い世界です。騒乱と暴力沙汰が絶えず、貪欲と妬みに満ちております。大霊の代わりに富の神が崇められております。今なお間違った偶像が崇拝の対象とされています。
すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。
物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦礫してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬと言うことはあり得ないのです。
死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生を受けて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。
あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。不滅の個霊としてのあなたはその肉体の死後も生き続け、あなたと言う個的存在を構成しているものは全て存在すると言う事実を立証するだけの証拠はすでに揃っております。
死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせる愛を表現する力が具わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして、生命と同じく、不滅です。
私たち霊団はなぜこの地上へ戻ってくるのか? 数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちは地上人類への愛があります。そして又、それに劣らない愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁で繋がっている霊や類魂)も存在します。
教会で行われている婚礼では“死が二人を別つまで〟と言う言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば二人を別れさせるものは何もありません。愛は宇宙における強力なエネルギーです。ひたすら人類の為と思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
私達は自分自身のことは何一つ求めません。崇拝して頂こうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私達が何かのお役にたてば、そのことを神に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたそのお返しに同胞へ恩恵を施してあげて下されば、それでいいのです。
今地上にはびこっている欲望は是非とも愛と置き換えないといけません。なぜならば愛は霊性の表現の一つだからです。愛はいろいろな形をとります。哀れみ、奉仕、友情、協力などです。人間は誰であろうと、いずこにいようと、お互いがお互いになくてはならない存在です。肌の色、階級、国家、言語、こうしたものは物質的な相違に過ぎません。
霊的に言えば皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、きっても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。
その力は、とかく離反させるそうした物的相違のいずれよりも強力です。皆さんはその霊力を最大限に発揮させなければいけません。真の自己革新とはなにかを知らなくてはいけません。
物的欲望に拘らないと言う意味で〝我を棄てる〟ことが必要です。(後注2)それは〝霊の宮〟である身体を養う為の物的必需品まで捨てなさいと言う意味ではありません。
しかしそれと同等に〝永遠のあなた〟である霊の属性も大切にしなくてはいけません。あなたに潜在する神性を最大限に発揮し、あなたの存在の本来のあり方である同胞関係を実践しなくてはいけません。魂は白色でも黄色でも黒色でも赤色でもありません。魂には特殊な色も人種上の差別もありません。
この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。
地上の至る所で行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。
私が申し上げることは全て、皆さんの日常生活に少しでも理解と知識と真理と叡智をもたらしてあげたいと言う一念から出ているのですが、それの基本となっている原理の中には、皆さんが子供の時から教えられてきた神学的な教義やドグマや信条と対立するものがあることは充分に考えられます。
私たちは皆さんの理性に訴えているのです。もしも私たちの言うことと態度にあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなものがあれば、それはどうぞ受け入れないでください。私たちはあなた方の理性、あなた方の知性による納得を得たいのです。
その上でなら、私達の仕事の協力者として、神の意志を地上に行きわたらせるための道具となっていただけるでしょう。そしてそれが地上平和の到来を促進することになりましょう。
かくして霊的資質を十分に発揮するようになれば、その当然の結果として、豊かさと光輝と落着きと決意と自覚と内的安らぎが得られます。なぜならば、それは神が生み出した摂理と調和していることを意味し、さらには、各自がその一部を宿している神性の大源である神そのものと一体となっていることになるからです。
神の祝福のあらんことを。
サム、以上で私が用意してきたものは終わりました。聞こえますでしょうか。
・・・ええ、よく聞こえております。
それでは、もし何かご質問があれば・・・みなさんご用意はよろしいでしょうか。
・・・結構です。用意はできております。結構です。
もし質問なさりたいことがあれば、精いっぱいお答えしましょう。
・・・これは多くの知人から聞かれることで、とても厄介になっている問題ですが、つまり人間いつ死んだと言えるのかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。
心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当に死だと主張する人もいます。あなたは何を持って〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか。・・・この地球と言う惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・
分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生か占めている、神性を帯びた存在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時・・・この〝最終的〟と言うところをここでとくに強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです・・・霊が最終的にひっこんでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
さて、いわゆる〝霊視能力〟を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段を持ってしても、肉体を生き返らせることはできません。
・・・そもそもこの問題が生じたのは臓器を提供する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴する為に人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるのか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟と言うことで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。
臓器移植については私も良く存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが、私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
そもそも死と言うのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから〝大勢いるのです〟と言うところまで、おかしさをかみ殺した言い方でしゃべっている)
死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びますが、私達の世界ではこれから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私達の世界ではその霊を喜んで迎えているのです。
なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。
・・・もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくりまわす前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人達は、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運びこんで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配している訳です。死後すぐに死体をいじくりまわすと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。
それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、例え肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。
一般的に言えば、霊的に全く無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことを勧めます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てる為に提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
ただ次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしもその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることは出来ません。
・・・それと同じ関連した問題として、〝突発事故〟による死の問題があります。例えば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどう言う影響があるでしょうか。
今申し上げたのと全く同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。
・・・天命をまっとうしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。
私はその〝突発事故〟と言う用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。たまたまと思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと充分なお答が出来ません。
・・・最後に・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は〝死者へ向かって読んで聞かせる〟と言う供養の仕方を説いております。この〝読んで聞かせる〟ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。
〝死者〟と言うのは何のことでしょうか。
・・・ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。
ああ、なるほど!私はまた、目の前に横たわっている死体に、向かって読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチは独特の含み笑いをする)
・・・違いますよ!。
そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(後注3)
・・・何人かの弟子たちが他界した親類縁者へ向けて毎日かなりの時間、あるいは教えを読んで聞かせると言うのです。それを聞くことで、その親類縁者の霊が良い影響を受けると考えているわけです。
別に害はないでしょうが、たいして益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意の出来た人なら誰でも知識が得られるように、沢山の施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることは出来ません。それをそちらでしようと、こちらでしようとそれは同じことです。そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。
(訳者注-)原則的にはシルバーバーチの言っている通りかもしれないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄り添ってくる霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。
その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの霊言を、繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかもしれない霊にとっても勉強になると考えている。
シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)
・・・全くおっしゃる通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところもあります。それは可能なこと、実際にあり得ることでしょうか。
(※霊的身体にも幾つかはあるが、セオソフィ―などではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体〟(ダブル)と言う肉体と幽体との接着剤に当る反物質体のことを言っている。チャップマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)
本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の現れです。
又人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させる機関です。
(別のところでは〝コントロールルーム〟のようなものですと言っている)
さて霊的治療に置いては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治療の力を持つ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて発射されます。
その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟と言うふうに、至って単純に表現することが出来ます。すべての操作が霊的なものなのです。
霊は生命力ですから、不調和状態・・・調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体と言う三つの側面が有効に機能していない状態・・・を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが功を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。
それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うかは、単なる技術上(テクニック)の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。
・・・どうもありがとうございました。
ほかに質問はありませんね。(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう。(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットには省略されている)
・・・有難うございます。
いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。
(個人的相談が終わって閉会の祈り(ベネディクッション)で締めくくる)
私のすべての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届したいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができていると言う事実を知っていただきたく思います。
これは容易ならざる仕事です。私はこれは一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷やかな世界です。荒涼として陰鬱で暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。
又新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。
それではこれをカセットでお聞き下さる方々ならびに本日ここにおいでの皆様にも、常に大霊の祝福のあらんことを。(後注4)
注1、直訳すれば「私に声をお掛けくださってありがとう」となるが、ここはデニス氏個人ではなく交霊会の司会者としてお挨拶と取るべきところ。
注2、直訳すれば「欲望が物的で物的であると言う意味において〝我〟を忘れないといけない」となるが、裏返せば本文のようになる。
注3、この言葉には、〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている。
注4、原文では同じ文句のくり返しになっているが、すぐ前の言葉から、訳文のような気持ちで述べていることが推察される。