第5章 死んだらどうなるか
ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上そっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

──幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・・・・。

「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐えきれないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は地上と非常によく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて土臭く、考えることが全て物的感覚によって行われます。

そういう人たちは〝物〟を離れて存在を考えることができません。かつて一度も生命というものが物的なものから離れた形で意識に登ったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。

ですが、幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発と共に徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは〝物的感覚から脱しきれない世界〟のことを指している。これをシルバーバーチが幽界astral Worldと呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこには実質的には、界、と言うよりは〝状態〟という方が当っている。だから霊的な自覚が出来てから赴く世界をシルバーバーチは〝霊界〟spirit worldとは言わず〝霊の世界〟the world of spiritという言い方をするのである。

仏教で〝浄仏した〟というのは自縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身に付けた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では〝区分けの界〟と言う呼び方をしている-訳者)


──死後の世界での体験は主観的なのでしょうか、客観的なのでしょうか。

「客観的です。なぜかと言うと、こちらの世界はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れて行きます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。

それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」(※『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上と共に光明の実在へ次第に近づいて行く過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているという-訳者)

──ということは夢の世界ではないということですね。

「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。夢から目覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だった〟のか、と言うわけです。

ですから夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

──すべての人間が必ずその低い階層からスタートするのでしょうか。

「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や、幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階の一つに過ぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解出来る用語を用いるしかないからです」

(訳者注-夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で、覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり、仕切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から抜け出ると、それもやはり夢幻であったことを知る。色即是空は地上だけとは限らない)

霊界での成長について──

「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され、精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも〝死〟とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかありません」

──幽界ではたとえば、心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いもよらない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています──あらゆる機能です」

──では霊の世界についての理解を持った人の場合はどうなりますか。

「肉体の精妙化の過程がスムースに進行します。ある器官が霊の生活に不用となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、その内消滅してしまいます」

──死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それともゆっくりとした過程なのでしょうか。

「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚と言うものが最優先されるということです。

精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」

──最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

「美はどういう形態をしているでしょうか。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形をしているでしょうか」

──形態を超越してしまうと色彩が認識の基本となるのでしょうか。

「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩と違っているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。

形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまでを全部読みとっております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」(この後、死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第二巻の九章ですでに出ている-訳者)

「私たちが住む霊の世界を良く知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分っていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体だれが好き好んで降りてまいりましょう。

あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐ形を持って眼前に現れる、追求したいことに幾らでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存じない。そして、なお、死を恐れる。

〝死〟というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなた方は立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上には見出せないのです。あなた方が〝死んだ〟と言って片づけている者の方が実は生命の実相について遥かに多くを知っております。

この世界に来て芸術家は求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

金銭の心配がありません。生存競争というものが無いのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものはありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。径典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現出来なくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそうした約束をしたからであり、地上の啓蒙のために少しでも役に立ちたいという気持ちがあるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

死ぬと言うことは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

死ぬと言うことは肉体と言う牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むと言うことを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのですか。

地上のいかなる天才画家と言えども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家と言えども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。

その内あなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴しさに驚愕されるでしょう。

英国は今美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのが五月だった-編者)木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造化の美を見て〝何とすばらしいこと〟と感嘆します。

が、その美しさも、霊の世界の美しさに較べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどでしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もおれば、植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

その内あなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなた方はいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ、真の意味で生きているのです。

実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶がよみがえります」

──死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと──多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

「低い世界へ引きつけられていくような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れております。が、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、その人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。

死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」

──朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることは出来ません。ムリをすると歪みが生じます。それは例えば小さな袋の中にムリやりにものを詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。

ムリして詰め込むと、入るにはいっても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能となります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、良く睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ〟と言っておくのですが、どうしても思い出して下さらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですヨ。

そして、あちらこちら霊界を案内して差し上げているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」

──死んでそちらへいってから役に立つわけですか。

「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかと言った地上の人間のお粗末なタンカを聞いているとまったく情けなくなります。知らない人間ほど己の愚かさをさらけ出すのです」

──睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。

「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと、霊界でやらなければならない仕事の準備の為、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。

地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん永い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。

光の眩しさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思いだすことはあっても、大半は夢を見るような状態で思い出します。

しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」

──霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか。

「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界になれていくほかありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人の為によく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」

──死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか。どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」

──そう言う人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死に苦痛が伴いますか。

「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬと言うことに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時のようすが自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」

──善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後その事で何か咎を受けますか。

「私にはその善人とか悪人とかの意味が分りませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましですが、その人の真価は毎日をどう生きて来たかに尽きます」

──愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・・・・。

「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛しあうことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入り口のようなものですから。二人の結びつきは地上より一層強くなります。が、二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れていきます。

それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか、年を取るとかといったことでなく、成長、進化、発達という形で現れます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。
男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来あがっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

──死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか。

「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現れて、霊格が下がるのが分ります。

そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかによい表現が見当たりません」

──死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることは分りましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のような境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」

──地上で孤独な生活を余儀なくされたものは死後も同じような生活を送るのですか。

「いえいえそんなことはありません。そう言う生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります」

──シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大抵の場合会うことが出来るでしょう。共感の絆が両者を引き寄せるのです」

──この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」

──ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

「だから言っているでしょう。地上よりもっと実感があると。こちらの方が実在なのですから・・・あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質と言う壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」

──霊界では意念で通じあうのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語もつかわれます」

──急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるのでしょうか。

「魂の進化によって違います」

──呼吸が止まった直後にどんな事が起きるのですか。

「魂に意思のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所──病院なり休憩所なり──に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」

──愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

──肉親や親せきの者とも会えますか。

「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

──死後の生命は永遠ですか。

「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

──霊界はたった一つでだけですか。

「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです」

──その分布状態は地理的なものですか。

「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

──ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものがあるということですか。

「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します」(地球に隣接した幽界の下層界のこと-訳者)

──各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られた訳ですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」

──各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。(materialには〝物質的〟〝実質的〟〝実体のある〟等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいた-訳者)

「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは〝イエス〟です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を含んでいる殻にすぎません」

──霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響を受けて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

「私たちの世界は地球の回転の影響は受けません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽から受けているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響を受けません。霊的な法則とは関係がありません」

──霊の動く速さに限界がありますか。

「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約を受け無くなります。この地球のどの地域でも思念の早さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約は受けます。

その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約に過ぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ―訳者)

──生命の住む天体には必ず霊界もあるのでしょうか。

「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」