第1章 絶対不変の摂理
「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。不動の信念を持って正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることができます。

それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ず良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。

地上の歴史を繙けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。

時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです。

──自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることありません。

多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのかと訝ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。〝完(まった)き愛は恐れを払う (ヨハネ①4・18) 〝まず神の御国と義を求めよ。さらばすべてが汝のものとならん〟(ルカ12・31)

これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気を持って実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何事にも望みどおりの結果が得られます。

もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。良い霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。

また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。

人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものは有りません。私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことを教えしているのです。人間的煩悩の土塊の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

できるだけ高い界のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも周りに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導きある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。

そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となって行くことを知っていただきたい。そう願っているのです。

人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持している限りその人は神の懐に抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

単なる信仰、盲目的な信仰は激しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。

いまだ証を見ずして死後の生命を信じる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡知によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることができる人はその三倍も幸せです。

(訳者注-死後にも生命があることは証明できたが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題では無く信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない。とシルバーバーチは明言するのである)

ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。

そこまでくれば、さらに、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。

無明から生れるもの──あなた方の言う〝悪〟の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。

心に邪なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。

あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊から来る力に他ならないからです。

その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

完(まった)き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生れるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も怖れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。

恐怖心は自らの魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言出来る様でなければなりません──自分は神なのだ。

足元の事情などには迷わされない。いかなる困難も内部の無限の能力できっと克服して見せる。と、その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。

神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊と生命と切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

ですからあなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであればきっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難が余りに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解して下さい──私の方でも向上進化の足を止めてあなたのために精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。

地上の人間の全てが自分が人間的煩悩と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。

しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

その昔〝この世を旅する者であれ、この世の者となる勿れ〟と言う訓え(※)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上人にはそれを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり、金持ちの生活には悩みが無いかのような口を利きます。

金持ちには金持ちの悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

(※この世にありながら、この世的な俗人になるなと言うイエスの訓えで、確かに聖書にそう言う意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当たらない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところを見ると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が〝われわれがキリストの地上での行状を語る時は霊界の記録簿を参照している〟と述べている。訳者)

人間が地上にあるのは人格を形成するためです。降りかかる問題をどう処理して行くかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意思と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。

神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質と言う束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならず小さいものを判断してはいけません。

地上の束の間の喜びを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上の喜びは安ピカでありきまぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間の喜びそうな事を説くのは私にはとてもできません。

私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリット達は二度と物質の世界へ誕生したいと思いません。ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

どこまで向上してもなお自分に満足出来ない人がいます。そう言うタイプの人は霊の世界へきても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として充分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておられると思われますか。

光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起された混乱を目の当たりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。

私どもがじっとしていられなくなるのは憐みの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものはすべて用意して下さっています。

それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

私たちが地上の人間を指導するにあたっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人自らが闘い抜くべき試練であることが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。

首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。

私も人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対手だしをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。

その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が変わって解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。

もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、一人間として自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害され始めます。

霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理して行くかに掛っています。物ごとがラクに順調に捗るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私達にも干渉が許される場合が生じます。

万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ち至った時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関る問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。

ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取り上げてシルバーバーチがこう語った。

「タネまきと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、その全てを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(ミノリ)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。

いかなる宗教的儀式、いかなる賛美歌、いかなる祈り、いかなる聖典を持ってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。

発生した原因は数学的・機械的正確さを持って結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかありません。

その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げる事を通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。

邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心と言ったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格と言う形となって代償を支払わせられます。

いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を推し進めて考えれば世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄て去るべきであることになります。

人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡知と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神が全部用意して下さっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛っております」

このようにシルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会ではこう述べている。

「人間的な感覚を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。

神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を説くカギです。なぜなら世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひとりとしてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。

神が全てを知り尽くしているのも法則があればこそです。法則だからこそ何一つ見落とされることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のあらゆる側面が──いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも──決して見逃されることがありません。全てが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。

法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起し、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

(訳者注──第二巻ならびに第三巻の〝あとがき〟で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使い分けることが多く、ここでも一般に法律や法則を指すlawをa law the law, laws, the laws,そしてただのlaw,さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて、法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、あるいは働きなどなどと訳し変えている。

シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮無理なことであるから、用語そのものにもあまり拘らずに全体としての意味をくみ取っていただければ結構である)


さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象とすべきであると説いてこう続ける。

「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを初めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。

誰一人とし免がれることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いたものは尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。

いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。

なぜならそうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。(訳者注──最後の晩餐の直前にイエスの弟子の一人ユダが、イエスを補縛せんとする側と密通して銀貨三十枚を貰ったことから〝裏切りの値〟としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背くことを神への裏切り行為として述べている)

神は人間の全てに内在しております。無論人類はあらゆる進化の形態を経て今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらの全てに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神の如くに生きることができます」

あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだ悟っておりません。心身が衰弱した時に引き寄せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。

〝神の御国は汝らの心の中にある〟──この言葉の真意を理解する人が何と少ないことでしょう。

その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送る事です。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。

行為さえ立派であれば良いと言うものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口を衝いて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とよく言われることです」

普遍的な同胞精神の必要性を説いて──

「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つ一つが全体の組織の一部を構成しているのです。

そのうち神の摂理が地上全体で理解され、あらゆる肌色をした人種が混ざり合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

その全てが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色で無く、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。

このサークル──レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団──がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。

私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体の為に寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。

あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分より力の劣る人に手を貸すと言う、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。

いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べ物を与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげると言う、その行為が大切です。

そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこには必ず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。

神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。

地上界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手にきめてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。

その力は一切の地上的差別を無視します。地位や肩書、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙と言う名の神の大農園の働き手として雇います。

どうか皆さんもこの教訓を会得され、神の為に、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。

それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人の為に自分を役立てることの喜び──自分の為には何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」

霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて──

「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちは大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。

霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞の為に活用することをまるでしようとしない人に、私は時折うんざりさせられることがあります。そう言う人は霊の述べたことならなんでも〝高等な訓え〟として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解して行くのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。

もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を乾かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことが出来るような世の中にする為に何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践をしていることになりましょう」

続いて自由意志との関連について──

「人間は戦争が起きると〝なぜ神は戦争を中止させないのか〟〝なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか〟と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視している限りその責任は人間自身にあります。

自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いた種は自分で刈り取らねばなりません。傲慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心──こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。

神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻って来る真の目的を理解していない人たちから(先ほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。

この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。

誰であろうと── 一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと──摂理に反したことをすれば必ずそのツケが回ってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申しあげます──宇宙には大自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。

ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちに出来るのは永遠の霊的原理をお教えする事だけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼(カイジン)に帰した後もなお残るのはそれだけだからです。

物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。至って単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。

霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟って頂きたいのです。

ですが、それが叶えられない──つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかありません。地上で偉人とされている人が必ずしも私たちの世界で偉人であるとは限りません。

私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持ちの大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。

自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらさせます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血をもたらします。

私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとはしません。地上の人たちを何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・。

ですが、霊的盲目による無知の中に浸り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。

私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼に乗って、援助の手を差し伸べられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた使命なのです。

むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服して行かねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなた方地上の同志と手を握り合えば幾ばくかの仕事ができます。

たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」

個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて──

「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性を持っていることは事実です。

しかし神は全ての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使さえすれば、その発現の障害となるべきもの全てを克服する力が秘められております。なぜなら一人ひとりがすなわち神であり、神はすなわちあなたがた一人ひとりだからです。

神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な成長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。

その種子は神があなた方の魂に植えて下さっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。
いつ花を咲かせるか、あるいは、果たして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛っております。

各自には自由意思があります。もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長の為の光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません」