ボディ・スナッチャー/恐怖の街 ★★☆
(Invasion of the Body Snatchers)

1956 US
監督:ドン・シーゲル
出演:ケビン・マッカーシー、ダナ・ウインター、キャロリン・ジョーンズ、ラリー・ゲイツ

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<一口プロット解説>
ケビン・マッカーシー演ずる医師は、ある日郊外に住む人々が、いつもと違う態度、振舞いを見せるようになったことに気が付くようになる。
<入間洋のコメント>
 最近、ニコル・キッドマンとイマイチボンドのダニエル・クレイグが主演した「インベージョン」(2007)という作品が劇場公開されていました。ご存知の方も多いと思いますが、実は「インベージョン」は3度目のリメイク作品であり、ということは同じマテリアルで4度映画化が行われたことになります。すなわち、15年から20年に一度リメイクされていることになります。「めぐり逢い」(1957)や「裏街」(1961)などメロドラマジャンルにおいてならば、同一マテリアルが何度もリメイクされるケースは少なからずあるとはいえ、それ以外のジャンルで1回はともかくそれ以上の回数に渡りほとんど定期的と云ってよい程にリメイクが繰り返されることはなかなか珍しく、ハリウッドは余程このマテリアルが気に入ったに違いありません。リメイクとは露知らず、我が家の隣のシネコンで「インベーション」を見ていて途中からリメイクであることにハタと気が付き、「しまった!リメイクならば、後でレンタルで借りて見ればそれで十分だった!」と思ってしまいましたが、後の祭りというものです。それでも、内容がよければ高いおゼゼを払っても見る価値がありますが、残念ながらレンタルで十分であるどころか見ないで済ませた方が良かったと思わせるような内容でガッカリしてしまいました。そもそも、ドン・シーゲルのオリジナルが持っていたオープンエンドなラストをハッピーエンドに変えてしまっているところなどは、「何をかいわんやをや!」です。ドン・シーゲルのオリジナルが今日に至るまでカルト的人気を誇っている理由の1つは、まさに妥協を許さない緊迫したストーリー展開にあるのであり、それを、やたらに主人公が逃げ回った挙句最後はハッピーエンドなどという安易な展開にしてしまうとは、ホンマにガッカリしてしまいました。その点で云えば、最初のリメイクであるフィリップ・カウフマン版の「SF/ボディスナッチャー」(1978)は、まだドン・シーゲル版の意図が汲まれていて悪くはない作品でしたね。因みに、2度目のリメイクすなわち3作目のアベル・フェラーラ版「ボディ・スナッチャーズ」(1993)に関しては一度も見たことがないのでコメントすることは現在のところできません。またどうやら、オリジナルのドン・シーゲル版は日本劇場未公開のようですが、ビデオでは日本でも「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」として発売されており、「ダーティハリー」(1971)を監督したシーゲルのルーツを垣間見ることができる作品の1つであるということもあって、日本でも見たことがある人は多いはずです。

 ところで、フィリップ・カウフマン版「SF/ボディスナッチャー」のレビューの中で、カウフマン版ではシティが舞台になっているのに対して、シーゲル版では郊外住宅地が舞台になっていると述べました。これから述べるように、シーゲル版は、少なくとも製作当時の目で見れば様々な意味において新しさを持つ作品でしたが、まずこの郊外が舞台であるという点に着目する必要があるでしょう。なぜならば、アメリカで郊外化が急激に進展したのはまさに1950年代から1960年代前半にかけてであり、そのような実社会における趨勢がいち早く映画の中に捉えられているからです。実はアメリカ映画の中で都会生活よりも郊外での生活が強調されるようになるのは、1960年代に入ってからです。典型的な作品としては、既にレビューしたものの中では、ボブ・ホープ+ラナ・ターナーの異色な組み合わせが光る「Bachelor in Paradise」(1961)とロック・ハドソン+ドリス・デイのロマコメ「花は贈らないで」(1964)を挙げることができます。後者では、ロック・ハドソンがメモリアル公園の中の墓地の一画を購入するシーンで、「レヴィットタウン」という用語が飛び出しますが、レヴィットタウンとはまさに当時の郊外住宅地を象徴するような存在であったわけです。従って、1950年代半ばに製作された映画の中で郊外住宅地が主舞台になっているというのは、少なくとも映画の世界では極めて新しかったと見なすことができます。何せ、2年後の1958年に製作されたドリス・デイ+リチャード・ウィドマークというこれまた超超異色な組み合わせが光る「愛のトンネル」(1958)では、リチャード・ウィドマークがドリス・デイに向かって「子育てには田舎は向いていないから健全なマンハッタンに引っ越そう」などと言っているくらいであり、要するに1950年代のアメリカ映画の中では舞台としてはまだまだ都会がメインであるような面がありました。「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」が持つ新しさとして、舞台が郊外に置かれていることの次に挙げられるのが、冒頭で述べたようにこの作品がオープンエンドな作品である点です。この作品を見ていてちらりと頭の中をかすめるのが、ヒチコックの「」(1963)です。「鳥」では、主人公達を含めた郊外に住む人々が鳥の大群に襲われ、主人公一行は最後に命からがら鳥に包囲された郊外の町から逃げることに成功しますが、実はストーリー自体は最後まで完結することがなく、オープンエンドの状態でジエンドになります(何せ鳥達はまだ無傷でピンピンしているのであり、その他の人々がどうなってしまうかについて映画は全く無関心です)。同様に、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」でも、主人公達を含めた郊外の住人達が宇宙からやって来た未知の生命体に襲われ、最後にケビン・マッカーシー演ずる主人公は命からがら未知の生命体に体を乗っ取られた人々の包囲する郊外の町から逃げることに辛うじて成功します(但しダナ・ウインター演ずるヒロインは最後にone of themと化してしまいますが)。この作品でも、郊外の住人がその後どうなってしまうかについて全く無関心である上、そもそも主人公ですら一度眠ってしまえばone of themと化してしまうことは必至なのですね。すなわち、ストーリーがオープンエンドの状態でジエンドを迎えます。フィリップ・カウフマン版「SF/ボディスナッチャー」(1978)のレビューの中で述べたように、カウフマン版をシーゲル版の一種の続編として見ることも可能であり、そのような見方が可能であるのもオリジナルがオープンエンドだからこそです。要するに、かのヒチコックさんをしても1960年代に入ってようやく可能になったことを、シーゲルさんは既に1950年代の半ばに行っていたということであり、そのような点からもこの作品がいかに新奇な内容を持っていたかがうかがい知れます。

 この作品の新しさの3点目として、この作品がSFである点を挙げることができます。などというと、SFなどそれこそジュール・ヴェルヌが活躍していた時代或いは更にそれ以前から存在していたではないかと反論されるかもしれません。しかしながら、確かに文学という領野ではSF作品は遥か昔から存在していたことは確かですが、実は映画というメディアの中では本格的にSFが製作されるようになったのは1950年代からです。正直云えば私めは、1950年代以前の作品に弱いので、そのように言い切るだけの度胸は残念ながら持ち合わせていませんが、実はこれは私めの見解というよりも、カリフォルニア大学でフィルムスタディを教えるビビアン・ソブチャックの見解の受け売りであり、彼女の「Screening Space」(Rutgers University Press)というアメリカのSF映画に焦点を絞った著書の中でも、記述は1950年代から開始されています。では、何故それ以前にはSFはほとんど製作されていなかったのでしょうか。それに答えるにあたって、まず次の極めて素朴な問いを考えてみることにしましょう。すなわち、「SFとはいったい何なのか?」という問いです。この問いに対する回答は100人100様存在するかもしれませんが、少なくとも個人的には次のような回答に集約され得ると考えています。すなわち、SFであるための最小限の必要条件は(十分条件でもあると主張しているわけではないことに留意して下さい)、「ストーリーが持つもっとも重要な前提の少なくとも1つが成立する為の根拠を不問に付し、かくして不問に付された前提を重要な契機としてストーリーが展開されるようなジャンルである」というものです。たとえば「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の場合であれば、特定の人間と瓜二つの姿に変形していくダミー(映画中ではポッドと呼ばれています)がどこからともなく出現し、当人が眠っている間にその人の体を乗取ってしまうというストーリーが展開されますが(「It Came From Outer Space」(1953)という50年代前半のカルトSF作品にも似たような前提がありました)、「いったいどうしてそんなことが可能なのか」という問いは不問に付されており、見ているオーディエンスがそのような問いを問うこと自体ナンセンスであるように見なされます。要するに、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」では「What If」シナリオが展開されるということになりますが、「What If」シナリオとは「What If」前提部の成立根拠が不問に付されることを意味するのであり、論理的前段階としてそれより以前に存在すべき因果系列をたどることの放棄がそこでは宣言されることを意味します。ここで1つの疑問がムクムクと湧いてくるのではないでしょうか。それは、SFとは「Science Fiction」の略であり、SFという名称が冠せられながら、そのような無条件な前提をたてることは、極めて非科学的なのではないかという疑問です。SFという場合、Scienceの方に強調点があるのか、それともFictionの方に強調点があるのか、或いはSFはどの程度まで科学的であるべきかについてはとりあえず脇に置いておいたとしても、次のことには留意しておく必要があるでしょう。すなわち、科学という営み自体に既に、きっちりと因果関係によって全ての論理前提が説明され尽くされねばならないというきまりが存在しているわけでは決してなく、多くの前提の成立根拠が不問に付されることによって成立しているような側面があることです。たとえば重力理論にしてみたところで、何故重力などという目にも見えない力が働くのかという問いは不問に付されているのであり、そのような問いはむしろ神学の領域に委ねられています。カール・R・ポパーが科学が成立する前提条件として「反証可能性」を挙げていますが、このような考え方などはまさに、科学はその本質においてテンポラリーなものであり、絶対的な因果関係によって説明されない部分が常にどこかに含まれるような営みであることを明かしているようにも思われます。

 ここで更にもう1つ別の疑問が湧くのではないでしょうか。それは、重要な前提の少なくとも1つが成立する根拠を不問に付すようなジャンルは何もSFだけではなく、ホラーやファンタジーにも同様に当て嵌まり、それらのジャンルに分類される映画作品は、1950年代より遥か以前から既に存在していたではないかという点です。実はこの点に大きな曖昧さがあることも事実であり、ビビアン・ソブチャックもSFとホラーは常に混淆されるような傾向があったというような主旨の議論を展開しています。個人的な見解としては、SFとホラー/ファンタジーとの間には、やはり本質的な差異があるように考えています。というのも前段で「SFとはいったい何なのか?」という問いに対して、「ストーリーが持つもっとも重要な前提の少なくとも1つが成立する為の根拠を不問に付し、かくして不問に付された前提を重要な契機としてストーリーが展開されるようなジャンルである」という回答を記しましたが、この回答の後半部すなわち「かくして不問に付された前提を重要な契機としてストーリーが展開される」点がSFをしてSFたらしめる大きな要素だと考えられるからです。一言で云えば、ストーリー展開の重要なモチーフであるにも関わらず、その成立する前提或いは根拠が全く示されていない要素が含まれているのがSFであると定義できるでしょう。例としてフランケンシュタインを挙げましょう。ここ数十年の間に生命科学が恐ろしく発達した結果、倫理的な問題を棚上げすればさすがに人造人間の製造は必ずしも夢物語ではなくなったという事実はさておき、少なくとも詩人シェリーの嫁さんであったメアリー・シェリーがフランケンシュタインを著した頃、或いはボリス・カーロフのような怪優がフランケンシュタインを演じていた20世紀前半の頃においてすら、人造人間などというシロモノはまさにSFの世界の夢物語でした。つまり、人造人間はいかにすれば作れるのか或いはそんなものの存在がそもそも可能であるのかという点は、かつては全く問われることがなく不問に付されていた上でストーリーが語られていたということです。そうだとすると、フランケンシュタインはSFなのでしょうか。絶対にそうではないとは言い切れないにしても、フランケンシュタインをSFと呼ぶには相当な譲歩が必要です。では、フランケンシュタインをSFと呼ぶ場合何を譲歩しなければならないのでしょうか。それは、まさに前述した回答の後半部、すなわち「かくして不問に付された前提を重要な契機としてストーリーが展開される」という点です。つまりフランケンシュタイン物語を展開発展させる基本的なモチーフとして、どのようにすれば人造人間が製作可能なのかという要素或いは視点を持ち込む必要は全くないということであり、この点を重視して鑑賞しない限りフランケンシュタイン物語は決してSFという範疇には入らないということです。裏を返せば、もしこの点にこだわってフランケンシュタイン物語を読もうとする人がいる限りにおいて、フランケンシュタイン物語はSFにもなり得るということになります。さてそれでは、ここまでは「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」という映画がSF作品であることをさも当然なこととして扱ってきましたが、本当にそう言えるのでしょうか。実は、フランケンシュタインなどの一般にホラーとして認められている作品に比べると、遥かに判定が難しい面があります。というのも、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」は、どこに強調点を置いて作品を鑑賞するかによって、SFにもホラーにもなり得るストーリーが展開されているからであり、ビビアン・ソブチャックが述べるような意味においても、この映画には相当SF/ホラー混淆的な側面があるからです。特定の人間と瓜二つの姿に変形していくダミーがどこからともなく出現して、当人が寝ている間にその人の体を乗取ってしまうなどという悪魔の所業がいかにして可能なのかという点を全く等閑視してこの作品を見れば、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」が完璧なるホラー作品にもなり得るのも確かです。しかし、個人的にはやはりこの作品においては、クローンを思わせるような宇宙人の乗っ取りプロセスが、単にホラー的な過剰性を描くために持ち込まれているのではなく、まさにストーリーの進行においても極めて重大な意味を担っていると考えています。従って、そもそもホラー顔負けの気色の悪い宇宙人の姿などこの作品にはどこにも登場しないのです。要するに、フランケンシュタイン物語においては、フランケンシュタイン博士がどのような手法で怪物を生み出そうが、そのこと自体がストーリーに影響を及ぼすことがほとんどないのに対して、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の場合には、一見すると奇妙奇天烈に思われる宇宙人の乗っ取りプロセスが前提とされなければ、この作品のストーリー展開上の面白み、或いは醍醐味は十分の一以下に減退してしまうであろうということです。かくして、宇宙人の乗っ取りプロセスはストーリー進行上の重要な要素であるにも関わらず、それがいかにして可能なのかという点は全く不問に付されているのであり、まさにその点においてこの作品は極めてSF的であると云うことができるのです。とはいえ、確かに「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」は、そのような点を全く捨象してしまえばホラー映画と見なし得ないこともない作品であることも否定できない側面が残されていますが、もっと明白にSFであると言い切れる作品例としては、「縮ゆく人間」(1957)を挙げることができます。この作品では、タイトル通り主人公の体がどんどん縮んでしまうという突拍子もない物語が展開され、それがストーリー進行の重要な、というよりも唯一の原動力になっています。従って、縮んだ主人公が気色の悪い蜘蛛に襲われようが何しようが、この作品がホラージャンルに組み込まれることはまず有り得ないのです。

 このように考えてみると、やはり「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」や「縮ゆく人間」は、1950年代になって初めて登場することが可能になったSFというジャンルに属する作品であると見なすことができます。では、何故1950年代以前にはそのような作品が出現しなかった、或いはそれが言い過ぎであれば出現しにくかったのでしょうか。その回答は、「或る殺人」(1959)のレビューの最後の段の中に存在します。すなわち、ストーリー展開上の重要な契機としての因果系列の連鎖が断ち切られるようになったのは、少なくとも映画メディアの中では、1950年代に入ってからのことであったということです。勿論、遥かそれ以前から、因果系列に関する十分な説明のないホラーやファンタジージャンルに属する作品が当然ながら存在していましたが、不問に付された前提がストーリー展開上の重要な要素になっていたわけではないことは前述の通りです。「或る殺人」のレビューの中で、文学や映画における因果連鎖の描写は「特殊性(specificity)」->「多様性(multiplicity)」->「複雑性(complexity)」->「蓋然性(probability)」->「不確定性(uncertainty)」のような方向で進展してきたとするスティーブン・カーンの説を紹介しましたが、映画というメディアの中で蓋然性や不確定性が達成されるのは、「或る殺人」のレビューに書いた通り、ようやく1950年代に至ってからなのです。よって、ストーリー展開上の重要な契機として因果連鎖の蓋然性、不確定性が要求されるSFというジャンルに属する作品が、1950年代になってやっと出現したとしても、それには何の不思議もないことになります。勿論、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」は1950年代後半の作品であり、1950年代の前半には既に数多くのSF作品が製作されていたことを考えてみれば、この作品が殊更新しいと言えるわけではありません。しかし、そのような新たなSF的要素を、「地球の静止する日」(1951)や「地球最後の日」(1951)或いは「宇宙戦争」(1953)のような大袈裟な背景によってではなく、何の変哲もない郊外を背景とした出来事として描いている点では、まさに新感覚のSF映画が誕生したと云っても差し支えないように思われます。

 最後に1つ、私めのものではなく前述したビビアン・ソブチャックのものですが、なかなか面白いSF映画に関する見解を紹介しておきましょう。それは、1950年代に製作されていたカルトSF映画の多くが、舞台としては我々人類が暮らす見慣れた生活環境が選ばれるけれども、ストーリーが展開されるにつれて、我々に馴染みのない未知の無気味な世界へとオーディエンスをいざなおうとする傾向があり、そこにはいわば遠心的パワーが働いているという見解です。「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」が典型的にそのような作品だと見なすことができますが、たとえば「宇宙戦争」などにしてみても、田舎町という身近な世界が舞台とされていながら、その上で無気味な火星人(しかも画面上にほとんど姿を現しません)が理由もなく襲ってくるというストーリーが描かれ、親しい世界から未知の恐ろしい世界へ向かう描写遷移をそこには見出すことができます。これに対して、「スター・ウォーズ」シリーズが典型的にそうであるように、70年代以後のメインラインSF映画では、大宇宙という我々には全く馴染みの薄い世界が舞台とされながらも、ストーリー展開においては擬人化された側面が際立ち、人間の行動や人間社会の一種のシミュレーションが描かれているような印象を強く与え、そこには50年代のカルトSFとは全く逆方向となるいわば求心的なパワーが働いているような印象を与えます。ここで云う擬人的な側面とは、たとえば正義の味方と悪漢の対決、或いはお姫様の救出というような人間が主体となったアドベンチャー要素が色濃く現れていることを指しますが、そのことは登場人物を見ればより一層明確になります。チューバッカのような正義の味方の側の登場人物(?)は言うに及ばず、喘息持ちのように絶えずスースーハーハー始終あえいでいる(?)ダースベーダーのような悪の首領ですら、擬人化された姿で登場します。擬人化されたダースベーダーと、「宇宙戦争」の火星人、「It Came From Outer Space」の宇宙人、或いは真の姿すら見せない「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の宇宙人との違いはあまりにも明白だと云えるでしょう。では「エイリアン」(1979)はどうなるのかと疑問に思われるかもしれませんが、この点からも実は「エイリアン」はSFであるよりもホラージャンルに含めるべき作品であることが分かります。因みに「エイリアン」のレビューで「(「エイリアン」という作品は)宇宙を舞台にしたSF映画の従来的なイメージを、ホラー要素を取り込むことによって変えた」と書きましたが、我々人間とは縁遠い宇宙のような舞台でストーリーが展開されるのでなければ、SFとホラーが混淆する、もしくは見方によってどちらとも取れるケースは1950年代から既にかなり存在したことになります。ということで、SF映画として見るかホラー映画として見るかに関わりなく、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」はよく言われる通りドン・シーゲルの無駄のない展開によって極めてスリル溢れる作品に仕上げられているので、誰にでも少なくとも一見のある価値があることは保証できる作品です。ただ1つだけチャチャを入れると、この作品を見ていて???と思うことが1つあって、それは本人が乗っ取られた後ダミーが消滅してしまうのでない限り、町の住民全員が乗取られた時、単純な算数を適用すれば町の人口は元の正確に2倍になっていなければおかしいということです。ダミーはいったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

2008/06/26 by Hiroshi Iruma
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