It Came from Outer Space ★★☆

1953 US
監督:ジャック・アーノルド
出演:リチャード・カールソン、バーバラ・ラッシュ、チャールズ・ドレイク、ラッセル・ジョンソン

左:バーバラ・ラッシュ、右:リチャード・カールソン

先週取り上げた「地球の静止する日」(1951)の中でこの作品に関して言及しましたので、今回はこの「It Came from Outer Space」を取上げることにます。この作品も所謂宇宙人襲来もののSF映画ですが、「地球の静止する日」同様、やって来た宇宙人には必ずしも地球を侵略する意図があるわけではなく、宇宙船(と言っても隕石のような宇宙船ですが)が故障してたまたま地球に不時着したので宇宙船を修理する間地球に滞在しなければならないという前提があります。故障した宇宙船を修理する為に地元の人々の姿を借りるという点に関しては、一瞬「ボディ・スナッチャー」(1956)を思わせますが、地元の人々は体が完全に乗っ取られるというわけではなく別の場所に監禁されているだけであり、「ボディ・スナッチャー」のように町を乗っ取る意図が宇宙人にあるわけではないのですね。すなわちこの作品に登場する宇宙人には悪意があるわけでもなければ勿論善意があるわけでもなく、要するに宇宙人を一種の鏡として地球人側の反応を描くというようなところに焦点が置かれているということになります。「地球の静止する日」の場合もそうですが、この「It Came from Outer Space」でも宇宙人が何故か英語を喋るのですね。侵略する為に地球にやって来た宇宙人が登場する映画においてはだいたいにおいて宇宙人が人間の理解出来る言葉を喋るなどということはあまりありませんが、これは何故かというと一般には言葉とは相互理解の1つの手段であると見做されているからであり、侵略と相互理解は180度正反対のことを意味するからです。このように言うとたとえばテレビシリーズ「ビジター」(というタイトルだったかな?)では地球を侵略する宇宙人が英語を喋っているではないかと思われるかもしれませんが、実はこの場合言葉が相互理解の手段であるということを宇宙人が逆利用しているという前提があり、一方的に手前達の意図を押し付ける為に相互理解の手段たる言葉が悪用されていることになります。つまり言葉は、相互理解のフリをしたパワーの行使にも転用することが出来るという自己矛盾的側面をも含んでいるということです。まあ、有名な言語学者のJ・L・オースティンの用語を借用すればperlocutionary actであるということにでもなるのでしょうか(言葉とは必ずしも真偽が問題になるようなステートメントでなければならないというわけではなく、ある特定のフレーズを発するということ自体がコミュニケーションにおける1つの行為でもあるスピーチアクトである場合もあり、古代よりこの2つが混同されてきたが故に数多くのアポリアが発生してきたというオースティンの指摘は、その後のスピーチアクト理論やたとえばユルゲン・ハーバーマスのようなコミュニケーション理論を標榜する社会学者にも大きな影響を与えた程大きなインパクトがあったわけです)。と本題から話が大きくはずれてきたので元に戻すと、要するに言葉とは本来的にコミュニケーションの道具であり、たとえば「宇宙戦争」(1953)のような映画で宇宙人が言葉を喋らない理由は、論理的に宇宙人が英語を喋ったら可笑しいではないかということよりも(フィクションの中では宇宙人が英語を喋ることを正当化する根拠はいくらでも挙げることが出来るわけです)、人間にとって馴染みのある世界を人間にとっては全く未知の存在が破壊しまくるというストーリー展開の中において宇宙人が英語を喋ったならばそれこそがストーリーテリングの観点から矛盾するからです。この点を面白可笑しくパロっているのが「マーズ・アタック!」(1996)であり、妙な言葉で喋る火星人の言葉を翻訳マシンで翻訳するくだりにはなかなか笑えます。「マーズ・アタック!」でもう1つ面白いのは言葉も含めた記号システムが如何に恣意的なものであるかが面白可笑しく描かれている点です(たとえば指で丸い円を描くことが火星人にとっては平和を意味するであろうということが示唆されるシーンや、地球では平和の象徴とされるハトを見た途端に火星人達がブチ切れるシーン等)。とまたまた脱線してしまいましたので再度話を「It Came from Outer Space」に戻します。この映画で面白いのは、宇宙人達は本来の自分達の姿を人間達の目から隠そうとしていることで、それは何故かというと自分達の姿が地球人の目から見れば身の毛もよだつような姿に映るであろうことを彼ら自身が知っているからなのです。随分とシャイな宇宙人がいたものだと別に感心しているわけではなく、これが示唆することは人間という存在は自分達に馴染みがあるか否かによって全ての物事の判断をするということを宇宙人が知っているということであり、要するに一言で言えばこの映画は宇宙人の襲来を材料にしていながら実はそれを鏡として人間達の行動様式が描かれているということです。けれどもまあその身の毛もよだつような姿をしたグロテスクな宇宙人についてですが、ほとんどグロテスクを通り越して滑稽ですね。ただどうやらこういうのは結構キッチュの対象になりやすいらしく、現在ではこの映画の一種のトレードマークのようなものにすら成っているようですね。主演のリチャード・カールソンについてですが、あまりメジャーな作品には出演していない為馴染みの薄い俳優さんですが、1つだけ日本で現在でもよく知られている映画に出演していて、それは「キング・ソロモン」(1950)でありデボラ・カー演ずるヒロインの兄の役を演じていました。ということでいかにも低予算であろうなということが予想出来る作品ですが、監督はカルトクラシックの1つと言っても良い「縮みゆく人間」(1957)等のジャック・アーノルドであり、この手の作品を得意としていた彼の手腕をここでも見ることが出来ると言っても良いでしょう。


2005/03/27 by 雷小僧
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