エイリアン ★★☆
(Alien)

1979 US
監督:リドリー・スコット
出演:シガニー・ウィーバー、トム・スケリット、イアン・ホルム、ジョン・ハート


<一口プロット解説>
宇宙船ノストロモ号は、調査に着陸した惑星で未知の生命体と遭遇し、この未知の生命体すなわちエイリアンが次々に乗組員を襲い始める。
<入間洋のコメント>
 でででました、エエエエイリアーン!何のこっちゃと思われるかしれませんが、個人的にはこの作品、SF映画として又その後のハリウッド映画に対する影響という点に関して、先日レビューした「スター・ウォーズ」(1977)に劣らない程に重要な位置を占める作品であったと見なしています。勿論封切り当時大変に話題になった作品であり、当時奇怪な物体や生物(或いは人間も?)を見かけると「エエエエイリアーン!」とわけのわからぬ奇声を発していたそれこそエエエエイリアン!な輩が跳梁跋扈していた程でしたが、その折にはこの作品を見に映画館に出掛けることは個人的にはありませんでした。封切り時映画館に見に行かなかった理由は単純で、かつて「ジョーズ」(1975)を見て観客席で飛び上がって恥をかいた苦い経験のある私めは、おっかない映画を見てまたぞろ公衆の面前で恥をかくことを極端に恐れたからですね。あーーーー、何と情けない・・・・。まあそれはどうでもよいとして、久々にこの作品をしかもクオリティに優れたDVDで見直して感じたことは、この作品が仮に全く世の中に知られていなかった仮定として、最新作として上映されたとしても恐らく誰もそれが最新作であることを疑わないであろうと思われる程、既に今日的な映画を見た時と印象が変わらないことです。と言いつつも一点だけ70年代末の映画だということが一発でバレてしまう点がありますが、それはシガニー・ウィーバー演ずる主人公リプリー(画像右参照)達が操作するコンピュータ端末がいかにも遠い昔の緑の文字のCRT端末でございという色がありありであり、恐ろしくプリミティブに見えることです。まあしかしこれはいかにも仕方がないところで、このことはむしろ逆にコンピュータハードウエア(勿論ソフトウエアもですが)のここ四半世紀の発展がいかに急激なものであったかを物語っているとも言い換えることができるわけです。

 では、この作品のどこが現代的なのでしょうか。結論を完結に述べると、それは画面全体から醸し出されるダークなトーンに関してです。このように言うと、宇宙が舞台のホラーSFなのだからトーンがダークなのはあたり前田のクラッカーではないかと言われそうですが、実はここではそのような作品の内容面のみではなく、画面イメージとして提示されるそのあり方までをも含めてそのように言えるところがミソなのです。このような画面提示のされ方の変遷は、全く同じシリーズの二つの作品たとえば「スター・ウォーズ」と「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)の間にも看取可能なものであり、全体的な画面イメージの提示のされ方に関して、1970年代に製作された前者はやはりどこかに一昔前の名残りが存在すのに比べ、1980年代初頭すなわち「エイリアン」よりも後に製作された後者は既に現代の映画と何ら変わらない印象があります。ではそれはどのような提示のされ方であるかと問われても正確に指摘することは極めて困難ですが、現代の殊にSF、アクション、スリラー、ホラー等のジャンルに属する作品の多くは明度をわざと落としてダークな色彩が強調され輝度が落とされているような印象があり、そのような印象を持つ映画のルーツとなる作品が、私めの知る限りではこの「エイリアン」なのです。単に宇宙空間が暗いからそうであるというのではなく、たとえば同じ宇宙空間が舞台であっても、「2001年宇宙の旅」や「スター・ウォーズ」で描写される宇宙と「エイリアン」のそれでは暗さの質がかなり異なるように思われます。こう言ってよければ、「エイリアン」には映画の内容面ばかりではなく映画の視覚的プレゼンテーションそのものに押し殺されたような黙示録的な暗さが内包されており、監督のリドリー・スコットは次作の「ブレードランナー」(1982)でその傾向をより一層鮮明にします。かくして、「スター・ウォーズ」のレビューで述べたようにジョージ・ルーカスが映画の内容面において老若男女の全ての階層に対して低年齢層のテーストを浸透させるという快挙(人によっては愚挙)を為しとげた一方で、「エイリアン」の監督であるリドリー・スコットは、画面イメージの提示のされ方という形式面において、黙示録的な暗さという新しい要素を注入したと言えます。すなわち、現代のSF、アクション、スリラー、ホラー等に属する多くの映画は、内容面においてジョージ・ルーカス、画面提示という形式面においてリドリー・スコットという二人の監督さんの影響が強く陰を落としているように思われます。

 さて、それとは別に内容面においても「エイリアン」には画期的な要素を見出すことができます。それは、宇宙を舞台にしたSF映画の従来的なイメージを、ホラー要素を取り込むことによって変えたという点です。と言ってもSFはともするとホラーとの境界が曖昧になるケースがもともと多いのであり、従ってSFにホラー要素を加えたことが彼の独創であると言っているわけではなく、デカルト・ニュートン的な等質化された空間表象が色濃く反映される宇宙という舞台を取り上げて、そこに有機的、内臓感覚的なイメージを詰め込んだことが当時にあっては極めてユニークであったことに大きな意味があります。これは裏を返せば、有機的、内臓感覚的なホラー要素をたとえば墓地であるとか田舎の古びた屋敷のようないかにもそれに相応しい舞台から引き剥がして、それとは最も親和性のなさそうなデカルト・ニュートン的宇宙空間に置き(従って必然的にSF的な設定になるわけです)、そのコントラストによってホラー映画が元来有している有機的、内臓感覚的側面をより一層際立たせることに成功したということになります。つまり、デカルト・ニュートン的科学を盲目的に信奉する現代人に、現代人にとっては絶対的とも言えるそのような科学によって構成される表象空間のちょっとした狭間に巣食う得体の知れない無気味さを垣間見させることにより、これまでにはなかったような戦慄を見る者に覚えさせることにこの作品は成功しているということです。

 この点をもう少し掘り下げてみましょう。宇宙を舞台としたSF映画の代表と言えば何と言っても「2001年宇宙の旅」(1968)であり、そのこと自体に反論する人はほとんどいないのではないかと思います。「2001年宇宙の旅」という作品においては、そちらのレビューに書いたように視覚を中心とした極めて抽象的なイメージが提示されています。このような抽象性は、等質的な宇宙空間というデカルト・ニュートン的な空間表象能力と強く結び付いているとも言えますが、要するに宇宙は三次元であるとはいえ深さが捨象された平面的且つ抽象的なイメージがそこでは展開されているということです。だからこそ、つまり抽象的であるからこそオーディエンスはこの作品に対して自分なりの様々な解釈すなわち内容を盛り込むことができるのであり、その証拠にインターネット上をサーチすればこの映画に関して百花繚乱する議論を読むことができます。「スター・ウォーズ」について言えば、確かに「2001年宇宙の旅」のように抽象度の高い映画であるとはとても言えないことは明らかですが、しかしながら宇宙空間の表象の仕方においては極めて平面的なことに変わりはありません。換骨奪胎して言えば、「スター・ウォーズ」は「宇宙の信長の野望」であり、帝国軍と解放軍の平面的な陣取り合戦がそこでは描かれています。これらの作品に対して、「エイリアン」は決して「瞑想的な宇宙の哲学」でも「宇宙の信長の野望」でもないのですね。この映画の一番凄い点は、宇宙という等質空間の中に内臓感覚的な垂直次元を持ち込んだことです。美術にたとえて言えば、光という表面的な空間表象を重視した印象主義的な様式の一種のアンチテーゼとして、影をベースとして心理的な深みに切れ込もうとする垂直的な空間表象を重視した表現主義が出現したのと似ています。前者がフランスを中心とした運動であるのに対し後者はドイツを中心とした運動であり、お国柄もそこには関係しているかもしれませんが、しかしたとえば映画における表現主義がフリッツ・ラングのような監督さんともどもアメリカに渡りその後のハリウッド映画に少なからず影響を与えたことからも窺えるように、様式としてはユニバーサルな影響力があったことに間違いはありません。因みに、19世紀後半に印象主義を生み出した都市パリ、20世紀前半に表現主義を生み出した都市ベルリンに関して、都市としてのどのような創造的基盤がその背景に存在していたかについて書かれた書物として、ピーター・ホールの「Cities in Civilization」を挙げておきましょう。残念ながらこの1000ページに及ぶ大著の日本語訳はまだであるように思われますが、都市論の決定版とも言われる書物であり、実は私めもこれを書いている現在シコシコと読んでいる状況です。脱線ついでにもう1つ指摘しておくと、英語で印象主義はimpressionism、表現主義はexpressionismであり、すなわち前者が外から内への刻印、後者が内から外への刻印を意味することになります。従って印象主義が、外部にあるデータがいかに人間の有する内部感覚に影響を与えるかに焦点を置くのに対し、表現主義は人間の内に発生する身体感覚をいかに外部へと表出させるかに焦点が置かれ、要するにベクトルが完全に逆になることを意味します。話がまたもや本線から大きく逸れましたので元に戻すと、それと同時に表現主義が出現した時代とは、探査方向を無意識に向かって垂直に掘り下げて行くフロイトの精神分析が出現した時代でもあり、文化的にも水平から垂直へとパースペクティブが遷移した頃です。蛇足的に述べると、このような傾向が1960年代以後ドゥールーズ、ガタリの「アンチ・オイディプス」等を中心として、再度水平方向へ引っくり返されることになり、後述するようにキューブリックの「2001年宇宙の旅」という作品は、少し大袈裟な表現を用いるならばパースペクティブが垂直から水平へと復帰する時代の到来を高らかに宣言するエポックメーキングな作品であったと捉えることができます。

 このような表層(水平)と深み(垂直)の対立は、あっちへ揺れこっちへ揺れしながら歴史の中で何度も交代してきたのであり、たとえば表現主義によって引っくり返された印象主義自体も深さに重きを置くロマン主義への反動形成として捉えることができ、またそのロマン主義自身ですら、今度はデカルト・ニュートン的な等質空間に根ざす古典主義の反動形成として捉えられるのです。このようなデカルト/ニュートン的パラダイムとそれに対する対抗パラダイムの推移に関しては哲学者ウイトゲンシュタインの弟子でもあったスティーヴン・トゥールミンの著書「Cosmopolis」(邦訳:「近代とは何か」(法政大学出版局))が読んで面白く参考になることを付け加えておきましょう。このような頻繁なパラダイムシフトは当然のことながら映画というメディアにおいても見られるのであり、「エイリアン」という作品は、それまでの水平表象的な宇宙映画の伝統を破って、まさしく見るものの内臓を抉るおどろおどろした垂直表象的な深層の世界に見る者を投げ込むのですね。ここで注意しなければならないことは、伝統と言ってもそもそも宇宙を舞台にした映画自体1950年代以前はほとんど皆無であったに等しいので伝統は浅く、むしろその元祖的存在であった「2001年宇宙の旅」自体が前述したように垂直表象的な表現主義とは全く逆の水平表象的な視覚中心主義の申し子たるスタンリー・キューブリックによって製作されたことは特筆すべきでしょう。というよりも、むしろこれは視覚中心主義の申し子たるスタンリー・キューブリックであったからこそデカルト/ニュートン的な等質的宇宙空間を舞台とした哲学的とも言えるほどに瞑想的な映画を製作し得たと言えるのかもしれません。従って、このような流れを再度逆転して再び闇の奥に向かう垂直方向にパースペクティブを切り裂いたのが「エイリアン」であったということです。内臓感覚と深層的な無意識は深く関連していることを考えてみれば、ここにはフロイト的表象が繰り広げられているさえ言えるかもしれません。有機的なおどろおどろしたアートワークしかもフロイト的とも言えるようなセクシャルなイメージを得意とするH・R・ギーガーがデザイン面で関与していたと思いますが、彼の起用はこの作品の本質面に関わるのであり、その意味においてもリドリー・スコットの直感は極めて正しかったと言えるでしょう。まあフロイトなどをわざわざ持ち出さずとも、ジョン・ハート演ずる宇宙飛行士の内臓を食い破ってうぎゃ!どへ!というようなエイリアンの赤ちゃんがこんにちはと顔を出すシーン(画像中央参照)はまさに腹の底からエゲツなく、いかにも象徴的であると言えるでしょう(ジョン・ハートという俳優さんは、「1984」(1984)で晩年のリチャード・バートンに拷問されたりロクな目に合わない人です)。

 このような「エイリアン」という映画の持つ全く新しい感覚イメージを、少し異なった角度から述べたなかなか興味深い本があったので紹介しておきましょう。それは、シカゴ大学教授のW.J.T.ミッチェルという人の書いた「What Do Pictures Want?」(The University of Chicago Press、邦訳不明)という著書ですが、その中に先端科学の中でも近年最も注目されているバイオテクロロジーという分野によって実現化されつつあるDNA操作、クローン技術などの最新の技術が醸しだすイメージに対する本能的な大衆のリアクションとしての一種のフォビア(恐怖症)という観点から近年の映画が有する傾向を解説する以下のような記述があります。

◎「ブレードランナー」(1982)、「エイリアン」(1979)、「マトリックス」(1999)、「ビデオドローム」(1982)、「ザ・フライ」(1986)、「シックス・デイ」(2000)、「AI」(2001)、「ジュラシック・パーク」(1993)のような映画によって、バイオサイバネティックスを巡って集積する数多くの妄想や恐怖症が明瞭化されてきた。「生物機械」という妖怪、死んだ物質や絶滅した有機体の再活性化、種のアイデンティティや種間の差異の不安定化、人造器官や人造知覚組織の増殖、人間の精神や肉体の無限の可塑性が大衆文化の日常的な要素になったのである。
(Films like Blade Runner, Alien, The Matrix, Videodrome, The Fly, The Sixth Day, AI, and Jurassic Park have made clear the host of fantasies and phobias that cluster around biocybernetics: the specter of the "living machine," the reanimation of dead matter and extinct organisms, the destabilizing of species identity and difference, the proliferation of prosthetic organs and perceptual apparatuses, and the infinite malleability of the human mind and body have become commonplaces popular culture.)


日本語訳の部分の映画のタイトルには原文にはない製作年を付加しておきました。それからも分るようにここで挙げられている作品の中(この文章の後には「ターミネーター2」(1991)に対する言及もあります)では「エイリアン」は最も初期の作品であり、従っていわばバイオテクノロジーに由来する恐怖感を真っ先に描いたのが「エイリアン」であったということになります。勿論、「エイリアン」に登場するエイリアン自体はバイオテクノロジーの産物ではありませんが、絶滅した有機体の再活性化、種のアイデンティティや種間の差異の不安定化(エイリアンは高い知能を持ち、また人体を宿主として成長する)というようなエレメントは「エイリアン」にも明瞭に見出され、まさに「エイリアン」が描く世界はバイオテクノロジーの時代の幕開けに相応しいイメージであったとも言えるのではないでしょうか。たとえば、クローン羊のドリーちゃん(何でも、胸の細胞からクローンされたということで、大きな胸を1つの売り物にしているカントリーシンガー兼女優さんのドリー・パートンから命名されたそうですね)に対する我々の両義的な反応は、一種内臓的な嫌悪感にも結び付いたところがあり、ドリーちゃんとは違ってまさにモンスターであるとはいえエイリアンの持つイメージもかなりそれに近いものがあるように思われ、いわば「エイリアン」という映画は来るべき近未来における先端科学に対する大衆の不安をSFという形式で見事に体現していたとも考えられます。

 最後に付け加えておくと、うぎゃ!どへ!というギーガースペシャルなモンスターに関して個人的には1つだけいまいちと思える点があって、それはこのエイリアンが人間サイズに成長することです。何故イマイチかというと、人間サイズで提示されてしまうとどうしても擬人的なコノテーションをそこに見ようとする衝動に駆られるからであり、人間とは全く異なった未知の無気味な生命体ということで、もとの小さなサイズのままどこからともなく襲ってくるという設定の方が遥かに恐ろしさが増したのではないかと個人的には思っています。従って、私めには後半の展開よりも前半の展開の方が、遥かにスリルがあって怖いですね。ギーガー先生には悪いけれども、成体のエイリアンはむしろ滑稽にすら見えます。この点においては、モンスターの擬人化の可能性が徹底的に排除されていた「遊星からの物体X」(1982)のような作品の方が巧妙であった言えるでしょう。更に細かいチャチャを入れると、イアン・ホルム演ずる年長の宇宙飛行士が実はロボットであったというのは、必然性があるとはほとんど思えず水を差す結果になっているとしか思えません。それからこれは作品自体の問題では必ずしもありませんが、画面が時にあまりにも暗すぎて、劇場の大画面で見ている時はよくとも、我が家の27インチのテレビ画面で見ると何が起こっているのかよく分からないシーンが時々あります(画像左参照)。まあしかしいずれにしても、それらはこの作品が齎したものに比べればマイナーな点であり、いわば「2001年宇宙の旅」のアンチテーゼが「エイリアン」と言っても必ずしも言い過ぎではなく、前半で述べた新たな感覚の画像イメージの提示という面も含めて、「スター・ウォーズ」同様エポックメイキングな作品であったことは間違いないのではないでしょうか。とここまで書いて、さすがに「エイリアン」のレビューにデカルトさんやニュートンさんまで持ち出すのは大袈裟だなと我ながら思いましたが、まあ大袈裟な方が論点がクリアになるだろうということでお許し下さい。失礼しました・・・・・。

2007/08/01 by Hiroshi Iruma
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