SF/ボディ・スナッチャー ★★☆
(Invasion of the Body Snatchers)

1978 US
監督:フィリップ・カウフマン
出演:ドナルド・サザーランド、ブルック・アダムス、レナード・ニモイ、ベロニカ・カートライト

左:ドナルド・サザーランド、右:レナード・ニモイ

同じ題材が3度映画化されており、最も有名なものは1956年に公開されたドン・シーゲル監督によるオリジナルバージョンですが、オリジナルバージョンのビデオがいくら捜しても見つからないので1978年バージョンを取り上げました(※)。78年バージョンは、オリジナルバージョンに比べ内容的にやや劣るとはいえ、まずそこそこ悪くはない出来です。78年バージョンは確かにリメイクであるとはいえ、オリジナルバージョンの続編であると見なしても面白いかもしれません。というのも、オリジナルバージョンで主演を勤めたケビン・マッカーシーが、当バージョンでもカメオ出演しており、冒頭のシーンでドナルド・サザーランド演ずる主人公の乗った車に駆け寄って来て、「やつら」に対する警告をするからです。すなわち、オリジナルバージョンのエンドと当バージョンのスタートが繋がっていると考えるわけです。両バージョンとも、題材は宇宙人の地球侵略ですが、宇宙人があからさまに攻めてくるシーンは全くなく、静かに町中の住人が宇宙人に置き換えられていく様子が描かれています。すなわち、町の住人の体が複製され、眠っている間に全人格が乗っ取られていくのです。従って、宇宙人に乗っ取られないようにするには眠ってはならないというストーリー上の前提があります。それに関するハンドリングは、オリジナルバージョンの方が巧みであり、殊に主人公(ケビン・マッカーシー)がヒロイン(ダナ・ウインター)にキスをしている間に後者の体が乗っ取られるラスト近くのシーンは無気味でした。実をいえば、このような題材は、内容が内容であるだけに、下手をすると極めてグロテスクな表現に陥る危険があるにも関わらず、オリジナルバージョンはその点に関して巧みにコントロールされており、グロテスクな印象が無気味な印象に先行しないようハンドリングされていました。但し、この点に関しては画像が白黒である点が有効に機能していたとも考えられます。78年バージョンの方では、たとえば主人公の複製が成長する様子(ボサボサ頭の彼の複製には思わず笑ってしまいます)、人面犬の登場、或いはラストシーンなどのビジュアル面に残念ながらグロテスクな表現への偏向が見出せ、その点が78年バージョンよりもオリジナルバージョンの方を優れているように思わせる要因の1つです。勿論、78年バージョンには78年バージョンの良さがあるのは確かとはいえ、無気味さと緊張感溢れる展開という点ではオリジナルバージョンの方が遥かに優れているというのが個人的な見解です。ところで、「SF・ボディ・スナッチャー」を取り上げた理由は、現代のアメリカ社会が抱える問題に関して何人かのアメリカ研究家が分担して記事を執筆した「アメリカ学入門」という本(というよりも雑誌のようなもの)を読んでいたところ、当作品に関する言及があったからです。この本には、殊にオスカーを受賞したマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002)に関する言及がかなり見られますが、ある記事の中で、郊外批判になると必ず引き合いに出されるのが「SF・ボディ・スナッチャー」であると述べられています。尚、執筆者は、この点に関してどうやらオリジナルバージョンではなく78年バージョンに言及しているつもりのようであり、その点は間違いではないかと思われます。なぜならば、舞台が郊外に置かれていたオリジナルバージョンとは異なり、78年バージョンでは、郊外ではなくシティ(都市の中心)に舞台が置かれているからです(上記画像参照)。従って、郊外批判になると必ず引き合いに出されるのはオリジナルバージョンの方ではないかと考えられ、そうであればオリジナルバージョンは恐ろしく先見の明のある作品であったことが分かるはずです。というのも、オリジナルバージョンが製作されたのは1956年であり、この本に取り上げられている郊外の問題、たとえばコミニュケーションの不可能性、或いは80年代以後のゲートコミュニティの発展に代表されるコミュニティの閉鎖化などが具現化するのは、製作当時から見れば遥か未来であったからです。執筆者は続けて、作品のもたらすホラー要素の源泉は画一性にあると述べており、これには納得できます。宇宙人に乗っ取られた無感情な住民達は、郊外の集合住宅地のように画一的であり、人間がコピー化される様が画一性という用語によって見事に表現されているからです。さなぎ化した複製人間のイメージがオーディエンスに怖気を催させるとするならば、それはその形状がグロテスクであること以上に、それらがあまりにも画一的に見えるからではないでしょうか。更に執筆者は、「大量生産ゆえに差異のない「ポッド」(ポッドとは複製人間がその中で成長するさなぎのことを指しますが、執筆者によれば郊外の住宅地のことをポッドと呼ぶこともあるそうです)で生活していると、住んでいる人間までもが個性のないコピー人間になってしまうという批判である」と述べており、これもまさにその通りでしょう。何しろ、まだ宇宙人に乗っ取られていない主人公達の最良の逃走戦術は、「やつら」と同じように行動し、可能な限り個性という差異を消去することにあるくらいなのです。すなわち、「SF・ボディ・スナッチャー」では、大量生産、大量消費をベースとした現代社会の病弊が、巧妙な比喩によって暴露されているということです。執筆者は続けて「コピー人間になることを拒んだ主人公は異質な存在として郊外の外へと追い立てられるのだ」と述べていますが、これはオリジナルバージョンにしか当て嵌まりません。というのも、78年バージョンでは主人公が「やつら」の仲間になったことが示唆されジエンドを迎えるからです。いずれにしても、皮肉なのは、かくして異質な存在として郊外の外へと追い立てられたオリジナルバージョンの主人公は、郊外のそのまた外部に位置する野山に向かって追い立てられるのではなく、内部にあるシティに向かって追い立てられることです。すなわち、スプロール現象の病理に蝕まれた本末転倒した現代社会の様相が、ここでも皮肉を込めた比喩によって表現されていると見て取ることも可能なのです。大袈裟な言い方をすると、かつては郊外とはシティあっての郊外であったはずなのに、今や空洞化したシティは郊外のそのまた郊外に反転凋落してしまったということです。都市のスラム化と郊外の画一化は、まさに表裏一体の関係にあると言えるのではないでしょうか。ということで、見てくれはホラー映画であるとはいえ、内容的には極めてインテリジェントで懐の深い作品であると評価できます。

※その後ビデオは見つかり、オリジナルバージョンのレビューも新たに追加しました。また2007年には「インベーション」というタイトルの4度目の映画化が登場しています。(2008/06/26追記)


2003/09/27 by 雷小僧
(2008/12/13 revised by Hiroshi Iruma)
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