裏街 ★☆☆
(Back Street)

1961 US
監督:デビッド・ミラー
出演:スーザン・ヘイワード、ジョン・ギャビン、ベラ・マイルズ、バージニア・グレイ
背:ジョン・ギャビン、向:スーザン・ヘイワード

スーザン・ヘイワードは、何度かノミネートされた後、「私は死にたくない」(1958)でようやく待望のアカデミー主演女優賞を手にします。彼女は、もともと冒険活劇、西部劇、歴史劇というようなどちらかと言えば動きが重視されるタイプの作品に出演することが多く、イメージ的にもかなりスケールの大きさを感じさせる方の女優さんでした。ところが、「私は死にたくない」や或いはその数年前の作品でありアカデミー主演女優賞にもノミネートされた「明日泣く」(1955)あたりから、念願のオスカー狙いということもあってか動きよりもドラマ性が重視される作品に出演するようになります。かくして「私は死にたくない」で目出度くオスカーを手中にした彼女は、その後1960年代に入るとドラマはドラマでも昼メロソープオペラを思わせるようなお涙頂戴式のメロドラマに専ら出演するようになります。川本三郎氏の「アカデミー賞」(中公新書)によれば、オスカーを受賞した彼女は、「これまでオスカーのために仕事をしてきた。これからは楽しみのため、お金のために仕事をしたい」と笑顔を見せたそうですが、そうしてみるとメロドラマ出演が楽しみでありおゼゼ儲けだったということなのかなという疑問が湧いてきます。まあ、40を越えてなかなか思うような作品がこなかったというのが実際のところかもしれませんね。それは余談として、1960年代に入るとここで取り上げる「裏街」を皮切りとして「愛の勝利」(1963)、「愛よいずこへ」(1964)、「三人の女性への招待状」(1967)、「哀愁の花びら」(1967)がメロドラマ作品として挙げられますが、「裏街」はこの手のメロドラマの典型のような作品であると言っても過言ではない作品です。実を云えばこのような傾向は彼女に限られた話ではなく、テレビの影響もあってか1960年代に入るころからこの手のスケールの小さなメロドラマがポツポツと目立つようになります。スーザン・ヘイワードの他にも、「黒い肖像」(1960)、「By Love Possessed」(1961)、「母の旅路」(1966)に出演したラナ・ターナーなどもそれまでとは異なった家庭問題という或る意味でせせこましいテーマを扱った作品に出演するようになります。或いは50年代にはスケールの大きな歴史劇に出演することが多かったジーン・シモンズですらも「The Happy Ending」(1969)のようなせせこましいドラマ作品に出演して、意外にも始めてのアカデミー主演女優賞候補にノミネートされたりします。勿論、1960年代以前にはメロドラマは存在しなかったなどということはありませんが、しかし1960年代以後のこの手のメロドラマ作品は扱われている内容に関して射程がおそろしく短くなったような印象があり、映画というよりもテレビドラマに近いと言った方が適当であるような作品が増えます。その証拠にテレビ出身の監督さんが活躍し始めるのも1950年代後半から1960年代にかけてであり、たとえば「母の旅路」を監督したデビッド・ローウエル・リッチはテレビ出身のはずです。因みに、「母の旅路」は女性ファンが多い作品ではあるようですが、テレビ的な印象が色濃く存在することは否定できず、そちらのレビューにも書きましたが、そうであるからこそ一種の感情移入許容度の高さがあることもこれまた確かです。しかし「母の旅路」は別としても、これらのメロドラマ作品には一種の安易さと凡庸さが目立つケースが多く、現在では全く忘れ去られている作品がほとんどであるのもむべなるかなという気がします。「裏街」も現在ではほとんど忘れ去られた作品ですが、前述の通り当時のメロドラマの典型とも云える作品なのでここに取り上げてみました。といいつつも実はこのマテリアルは、アイリーン・ダン主演により1932年に、またシャルル・ボワイエ主演により1941年に映画化されており、これで3度目の映画化ということになります。従ってマテリアル的には必ずしも1960年代固有のものであるとはとても言えませんが、しかしハンドリングにはそれぞれの時代に固有の特徴があるはずです。これについては、個人的には前2バージョンは見ていないので判定資格がありませんが、たとえばレオナルド・マルティン氏はこの3番目のバージョンに関しては殊更「unbelievable third version」であると述べており、前2バージョンにはないハンドリングなされているが故にこのバージョンは「unbelievable」だという評価が下されているのではないかと思われます。さてそれはさておき、この作品は一言で言えばいかにも昼メロ的な「不倫」を扱った作品であり、或る意味で極めて安易で定型的なストーリーが最初から最後まで展開されます。しかしながら、それは必ずしもマイナスであるばかりではなく、お気軽に感情移入可能であるという点ではプラスでもあり、またそのような傾向があるが故にテレビドラマ的であるような印象があるのかもしれません。所謂「tear-jerker」と呼ばれるお涙頂戴式メロドラマの場合、新奇であるよりは予想がある程度可能であるような定型的なストーリー展開の方がベターであると言えるかもしれませんね。因みに1つ指摘しておくと「裏街」という邦題には何やら洒落た響きがありますが、ややこれは誤解を招く恐れがあるように思われます。過去2バージョンのいずれも邦題は「裏街」なので3番目のバージョンでも単にそれを踏襲しただけであろうことは明らかですが、少なくともこのバージョンを見る限りでは「裏街」というタイトルは内容と合致しないように思われます。原題は「Back Street」ですが、原題に忠実であろうとするならばストレートに「裏通り」とした方が内容的にはふさわしかったはずであり、語感の良さから安易に「裏街」という邦題が付けられたのでしょう。というのも、この作品の中で「back street」という用語が使用されるのは、正妻が旦那の愛人を誹謗するシーンの中においてであり、その時の罵詈雑言の中で「あの女はローマであろうがロンドンであろうがback streetに潜んでいて、時折何やら思い出したように這い出してきては自分の旦那とコソコソと逢引(うわっ!もしかして逢引って死語かな)を重ねている」というような意味で使用されており、つまり自分の非合法な陰のライバルの素行の怪しさを表現する隠喩的な言い回しとして「back street」という用語が使用されています。従って「裏街」というような優雅な響きのある日本語よりは、素直に「裏通り」とするか或いは「路地裏」のようなネガティブなコノテーションを多分に含んだ用語の方が適当であったように思われます。と言いつつも、実は少なくともこのバージョンに関して云えば、何やら同情的な視点がスーザン・ヘイワード演ずる「愛人」に対して向けられていることもあり(この点が余計に昼メロソープオペラのような印象を与えるわけですが)、完璧に的外れであるとは言えない側面もあるかもしれません、と少々弱気になってしまいました。いずれにしても、この作品が何やらテレビのメロドラマのように安易であるように見えるとするならば、それは次のような理由からです。まず、この作品では重要な転回点となるイベントがほとんど偶然により発生します。たとえば、ニューヨークでスーザン・ヘイワード演ずる服飾デザイナーとジョン・ギャビン演ずるホテル王が久しぶりに再会するのも偶然であれば、ローマで再々会するのも偶然です。また、ホテル王の息子が、自分のオヤジとスーザン・ヘイワード演ずる服飾デザイナーが密会していることを知るのも、空港のカウンターで受付嬢の噂話を彼がたまたま耳にするからです。それから、登場人物の心理の変遷が気まぐれであるように思われるケースが多いことです。たとえば、ニューヨークで最初に再会した折には、くだんのホテル王が女房子供持ちであることを知っているので、スーザン・ヘイワード演ずる服飾デザイナーは彼から逃れるようにしてローマに旅立つにも関わらず、ローマで再々会した折には、あっけなく愛人すなわち一種の妾のような立場を甘んずるようになりますが、何故そのような心境の変化が起きたのかは全く不明です。また、ホテル王の息子は、オヤジの愛人を激しく憎んでいたにも関わらず、両親が事故死してしまうとあっさりと身寄りをなくしたと言いながら彼女の家にやって来て幼い妹を含め3人で抱き合うシーンでジ・エンドになります。確かに憎んでいたと云えども所詮は幼い子供のことであり、寄る辺ない境遇に陥れば実の世の中ではそのような変節に至ってもそれ程不思議ではないかもしれませんが、しかしながら映画の中でそのようなストーリーが臆面もなく展開されるとどうしてもお涙頂戴を狙って都合のよいように人物配置を行ったのではないかという疑いがムクムク湧いてくることは避けられないところです。フィクションの場合には、避けようと思えばたとえば大金持ちの叔父さんがいたという設定にしさえしておけばそのような展開は簡単に避けられたはずであり、それにも関わらずそのようなラストシーンが何の躊躇もなく提示されているのを見ると、最初からラストのお涙頂戴シーンを演出する為の布石を巧妙に配置することを目的として、オヤジの浮気に関する情報を偶然に聞かせるような不自然なシーンをわざわざ挿入してまでも、いたいけない幼い息子をスーザン・ヘイワード演ずる主人公に反目させるように仕向けるストーリーがそこでは強引に展開されているのではないのかと勘繰りたくなるわけです。つまり、巧妙に誘導されているような印象が避けられないということです。いずれにせよ、このような展開は、私めのような斜に構えたオーディエンスの眼からするとどうしても御都合主義であるように見えざるを得ませんが、しかしながら逆の言い方をすれば、そのような詮索するような眼差しによってではなく、このタイプのメロドラマをハンカチーフを片手に見て諸行無常の世の中のことはしばし忘れてカタルシスを得ようというような動機を持って見る場合には、むしろ感情移入が容易になり共感を呼ぶということなのかもしれません。また、偶然のイベントが多いという事実は必ずしも欠点であるとばかりは言い切れず、たとえばヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」やアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」などにおいてすら、読んでいるこちらが呆れるほど臆面もなく主要登場人物達が平然と偶然の出会いを重ねたり、偶然の関連付けが行われたりします。つまり、文学史に残る作家であるとはいえ彼らは大衆小説作家であったというのが実際のところであり、面倒くさい理屈よりも物語をより面白くすることを重要視して、偶然が多すぎるというような点は等閑に付したのではないかと思われ、実際にそのようにして成立した血湧き肉踊る彼らの作品は、諸行無常の世の中のことをしばし忘れるには格好のエンターテイエンメントに仕上がっています。それと同様に、この手のメロドラマの特徴も、少々の論理的不整合や心理描写の不足には目を瞑って、エモーショナルでメロドラマティックなストーリーを通じてオーディエンスを楽しませようというような意図があるのではないかと考えられます。勿論見方が少しでも異なれば、そのような特徴はすぐにマイナス方向に反転することも確かであり、1960年代のメロドラマ作品には、1950年代メロドラマの神様としての名声を欲しいままにしたダグラス・サークの作品に含まれていたギリシア悲劇的な「運命」というモチーフも存在しなければ、また「ピクニック」(1956)や「青春物語」(1957)のような1950年代のドラマ作品が有していた公共性も存在せず、従って射程が短いような印象をどうしても個人的には持ってしまうわけですね。それから1960年代のメロドラマの特徴は、スーザン・ヘイワードやラナ・ターナーのようなスター女優が主演していることからも推測されるように女性登場人物を中心に展開されていて、それ故か相手役となる男優は二線級以下が多かったということです。「裏街」の場合もその例外ではなく、ロック・ハドソンに顔は似ているとはいえ、ロック・ハドソンの持つカリスマ性が皆無であるジョン・ギャビン(その上名前はフランス映画のカリスマの一人ジャン・ギャバンに似ています)が相手役を務めています。上記挙げた彼女の他のメロドラマやラナ・ターナーやジーン・シモンズのメロドラマも同様ですが、ここではいちいち列挙しません。ということで、前述の通り「裏街」は見る側の見方によって大きく評価が左右されるようなタイプの作品ですが、極めて大雑把な言い方をすれば、男の子向けの作品であるとはとても云えないけれども、明言はできないとはいえ女の子は結構この手のメロドラマが好きな人は多いのではないかと勝手に想像しています。


2007/10/03 by Hiroshi Iruma
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