めぐり逢い ★★☆
(An Affair to Remember)

1957 US
監督:レオ・マッケリー
出演:ケーリー・グラント、デボラ・カー、リチャード・デニング、キャスリン・ネスビット



<一口プロット解説>
デボラ・カー演ずるテリーは豪華客船の中でプレイボーイ(ケーリー・グラント)に出逢い、船がニューヨークに着いて別かれる際、エンパイアステートビルディングで再会することを約束する。
<入間洋のコメント>
 ハリウッドはこの題材が余程気に入ったのか、このテーマを直接または間接的に取り上げた作品が4バージョンほどあります。1939年のシャルル・ボワイエ+アイリーン・ダンバージョンから始まって、ここに取り上げる1957年のケーリー・グラント+デボラ・カーバージョン、1993年のトム・ハンクス+メグ・ライアンバージョン、及び1994年のウォーレン・ビーティ+アネット・ベニングバージョンの4本です。残念ながら最初のバージョンは見たことがありませんが、90年代の2本はイマイチな印象がありました。どうしてもこの1957年バージョンと比較してしまうからでしょう。1957年バージョンの最も素晴らしい点は、アメリカ映画であるにもかかわらず、イギリス出身の2大スター、ケーリー・グラントとデボラ・カーが起用されているところに起因します。そのような言い方をすると、アメリカ映画にイギリス出身の俳優が出演すると、何でも傑作になるかのように聞こえますが、勿論そんなはずはなく、イギリス的に瀟洒で且つ抑制の効いた二人が作品の題材にマッチしていることに大きな意味があるのです。というのは、当バージョンはソフィスティケートされたコメディとメロドラマが見事に融合された作品に仕上がっていますが、ケーリー・グラント及びデボラ・カーのようなパーソナリティを持った俳優さん達が演じない限り、通常はこの2つの要素はそう簡単に調和しないからです。メロドラマは、オーディエンスのフルコミットメント、或いは完璧な感情移入を要請するのに対して、ソフィスティケートされたコメディは、ある程度場面から距離を置いたリラックスした見方を要請します。また、演じる役者さんに対しても同じことが当て嵌まり、メロドラマは役柄へのフルコミットメントを要請するのに対し、ソフィスティケートされたコメディはバランス感覚のあるリラックスした余裕がオーディエンスに感ぜられる演技を要請します。
 ソフィスティケートされたコメディには、バランス感覚のあるリラックスした余裕がオーディエンスに感ぜられる演技が要請されるとはどのような意味か若干分かり難いかもしれないので、少し説明しましょう。ソフィスティケートされたコメディのサブジャンルの1つとしてロマンティック・コメディが挙げられます。古くはクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールの「或る夜の出来事」(1934)あたりから始まって、30年代はクラーク・ゲーブルやキャロル・ロンバードなどが、40年代はケーリー・グラント、スペンサー・トレイシー、キャサリン・ヘップバーンなどが、50年代はロック・ハドソン、ドリス・デイなどが、60年代に入ると50年代の二人に加えてジェームズ・ガーナー、ロッド・テイラーなどがこの分野で活躍します。70年代以降は本数はかなり減りますが、70年代ではジョージ・シーガルとグレンダ・ジャクソンが主演した「ウイークエンド・ラブ」(1973)などが挙げられ、また最近でもたとえば「素晴らしき日」(1996)やメグ・ライアンが主演する作品など、このジャンルに属する優れた作品があります。面白いことに、映画メディアそのものがまだ若く、出演する俳優さんも総じて比較的若かった30年代を別とすれば、ロマンティック・コメディの主演を務めるのは、若くてカッコいいおにいちゃんであるとか、うら若いピチピチギャルなどでは決してありませんでした。時代を越えジャンルに共通していえることは、ロマンティック・コメディの主役を務めるには、かなり年季の入ったいわば少しトウのたった俳優さんが必要になることです。それは上に挙げた俳優さん達のその年代での年齢を考えてみれば明らかあり、最近でもこの傾向はほとんど変わっていません。「素晴らしき日」は、ジョージ・クルーニー+ミシェル・ファイファー主演ですが、彼らは既に40才でしょう。メグ・ライアンは40歳を越えてもまだロマコメに出演しています。というわけで、ロマンティック・コメディには経験豊富な俳優さん達が必要であることが分かります。それは何故でしょうか。この問いに対する回答はいくつかあるはずですが、一番大きな理由は、ロマンティック・コメディでは、演技に際して、フルコミットメントよりも経験の豊富さに由来するリラックスした余裕のある雰囲気を維持することの方が重要視されるからだと思われます。若いと、どうしても若さ故にフルコミットメントせざるを得ないであろうし、オーディエンスの方でもそれを期待してしまうのです。若い内から老境に達したような演技をしていると、あいつは若さが足りないなどと評されるのがオチなのです。
 話が大きくそれましたが、「めぐり逢い」も一面ではロマンティック・コメディであり、演技にはかなりの経験が必要とされます。その点に関しては、ケーリー・グラントとデボラ・カーはまさにうってつけでした。また、前述の通り、この手の作品では、演技に際して、フルコミットメントよりも経験豊富さからくるリラックスした余裕のある雰囲気を維持することの方が重要視されますが、以下に説明するように、両者ともイギリス出身である事実が、余裕のある雰囲気を醸しだすことに寄与しているのです。イギリス出身の両者が、そうであるにも関わらずアメリカでかくも成功した要因の1つには、アメリカの大味な俳優さん達が持っていない瀟洒でヨーロピアンな雰囲気を彼らが持ち合わせていたからであるように思われます。同じ事は、フランス出身でアメリカ映画で成功した役者、たとえばモーリス・シュバリエ、シャルル・ボワイエ、或いはルイ・ジュールダンなどにも当て嵌まります。アメリカでは、これらヨーロッパ出身の俳優さん達は、いわば異化効果を持っていたということです。西部劇を典型例として、アメリカ映画にはアメリカ映画のカラーが確かに存在しますが、それとは違った要素をこれらの俳優さん達は持っており、彼らの存在によってフルコミットメントの演技による重さではなく、微妙な距離感に基く軽さが巧みに醸成されるが故に、ある種の映画では彼らが重用されたのではないかと考えられます。従って、アメリカンなフルコミットメントが要求される西部劇には、脇役はともかく主役でヨーロッパ出身の俳優さんが起用されることはなかったはずです。それに対して、アメリカンなフルコミットメントが要請されないどころか、むしろ距離を置いた洒脱さが必要とされる「めぐり逢い」では、逆にイギリス出身の両者の存在が大きくものを言うのです。
 しかしながら勿論、「めぐり逢い」は、単なるロマンティック・コメディではなく、同時にメロドラマでもあります。前述の通り、メロドラマとコメディはエモーショナルな面で相反し、悲喜劇同様下手にミックスすると、どっちつかずの中途半端な作品に終わる可能性が大いにあります。けれども、「めぐり逢い」はそのような陥穽からうまく免れています。その理由の1つは、「めぐり逢い」が提示するメロドラマは、全体のバランスが崩れる程のシリアスさを持ってハンドリングされていない点にあるように思われます。たとえば50年代にはメロドラマの巨匠と賞賛されたダグラス・サークという監督さんがいます。彼が監督した作品には、たとえば階級の違いや人種などの社会的な落差を大なり小なり題材として利用し、メロドラマに仕立てているものが数多くあります。かくして社会的パースペクティブを持ち込めば、主題的にどうしてもシリアスにならざるを得ないのです。ところが、この「めぐり逢い」では、確かにケーリー・グラントは億万長者を演じデボラ・カーはそうでないとはいえ、メロドラマはそのような社会的なレベルから発生しているわけではなく、単に交通事故という個人的なドラマから発生しているに過ぎません。億万長者と一般民の階級差のような社会的なパースペクティブが一旦持ち込まれてしまえば、明らかにそのシリアスさにおいて、もう1つの要素であるソフィスティケートされたコメディとうまく溶け合うはずはありません。ところが、ケーリー・グラントを億万長者のプレイボーイに仕立てながら、そもそもデボラ・カー演ずるテリーは彼に臆面を抱くことすらなく、社会的な関係に言及されることは「めぐり逢い」では皆無なのです。また、ダグラス・サークも得意とするところですが、ギリシャ悲劇のごとく、個人では変えることのできない運命を強調するメロドラマもあります。運命のような、人知を越えたパワーの介入は、必ずやストーリーを途轍もなくシリアスにするはずですが、そのような過剰さはこの「めぐり逢い」にはありません。再会を約束したエンパイアステートメントビルの真下で、まさに再会の日にテリーが交通事故に会うのは確かに運命と呼べないことはないかもしれません。しかし、「めぐり逢い」の場合は、運命であるかに見えるのは、実は単なる突発的な事故であり、無力な人間のモラル的な葛藤などのシリアスなドラマはそこには微塵も含まれていないのです。「リタと大学教授」(1983)という個人的に大好きな80年代の作品で、マイケル・ケイン演ずる大学教授は、ギリシア悲劇と日常の悲劇の違いを講釈しているシーンがありますが、「めぐり逢い」の自動車事故は明らかに後者の範疇に属するのです。すなわち、「めぐり逢い」は現代的な意味でのメロドラマではあっても、決してシリアスな悲劇ではあり得ないのであり、だからこそ臆面もなくハッピーエンドでジエンドを迎えることができるのです。つまり、オーディエンスは、悲劇を鑑賞する時のように悲しくて泣くのではなく、幸せな気分に浸って嬉し泣き(とはちょっと違うかな?)に泣くのです。明らかに、ここには、ソフィスティケートされたコメディとの親和性が否定されるべき理由は何もないのです。というわけで、「めぐり逢い」は、多くの映画ファンの記憶に残っている作品であることは改めて指摘するまでもないでしょう。総括すると、「めぐり逢い」は、ケーリー・グラントとデボラ・カーという二人の名優が織り成すバランス感覚のよいドラマの進行がウリの作品なのです。一般には、お涙頂戴のラストの展開は、エモーショナルであると見なされがちであるかもしれませんが、実は全く逆であり、実際にはエモーショナルな面で無理強いされるような過剰さはなく、オーディエンスにとっては心地よいリズムが最初から最後まで途切れることのない瀟洒なドラマが繰り広げられているのです。裏を返せば、純粋にドラマチックなドラマを期待して見ると、人生に関する大上段に構えたメッセージなどどこにもないお気楽なストーリー展開に物足りなさを覚えるかもしれません。しかしながら、この作品にはこの作品の波長があり、それにうまく合えば素晴らしい作品に見えることには間違いがないでしょう。だからこそ、多くの映画ファンの記憶に残っているのです。ヒューゴー・フリードホーファーの音楽が印象的であり、主題歌の「思い出の恋」は映画音楽スタンダードの一曲であることを最後に付け加えておきましょう。この主題歌で、この作品を思い出す人も多いことでしょう。

2000/11/19 by 雷小僧
(2008/11/13 revised by Hiroshi Iruma)
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