鳥 ★★☆
(The Birds)

1963 US
監督:アルフレッド・ヒチコック
出演:ロッド・テイラー、ティッピー・ヘドレン、ジェシカ・タンディ、スザンヌ・プレシェット



<一口プロット解説>
鳥達が、ある日突然人間を襲い始める。
<入間洋のコメント>
 小生がかつて勤めていた会社のすぐ近くに新宿中央公園があったが、そこでは世慣れたカラス達が我が者顔で飛び廻っている。彼奴等のふてぶてしさは尋常一様ではなく、しかもその自信に満ち溢れた立ち居振舞いには驚嘆すべきものがある。この前など、小生がすぐ傍を通っているにも関わらず、ゴミ箱の縁に傍若無人に舞い降りてきて、こちらの存在など一向おかまいなしにゴミ箱を漁り始め、向かうところ敵無しという風情であった。しかも彼ら彼女らは栄養が行き渡っている為か妙に重量感があり、ゴミ箱の縁に止まる時のドサッという音に得も言われぬ迫力があった。この新宿中央公園のストーカーガラスを見る度にいつも思い出すのがヒチコックの「鳥」であり、「まさかこいつらあの「鳥」のように自分を目掛けて襲い掛かってはこないだろうな。あの重量感で束になって攻めてこられたらたまったものではないだろうな」と思わず不安が頭の中に忍び寄って来たほどである。ところで、この不安はたとえば狂暴そうな犬に対して抱く不安とは若干異なるところがある。というのは、犬という存在は人間から見ても個体的な存在であるのに対し、鳥という存在は人間からすると集合的且つ匿名的な存在であり、何か得体の知れないところがあるからである。狂暴な犬が荒れ狂っていれば、それが事実ではなかったとしても、必ずや何か理由があるに違いない、或いはもし犬が人間を襲うならばそれには必ず何らかの理由があるに違いないという印象を受けるのが普通だが、集団としての鳥には何の理由もなしに突如人間を襲ってきたとしても何の不思議もないような怖さがある。この印象は、犬は人間の生活においては擬人化され個体化されて認識されるのが普通であるのに対し、鳥は一般的には集合的、匿名的にしか扱われないというところから発生する。一言で言えば、誰も新宿中央公園のカラスに名前を付けたりはしないということである。言い方は悪いかもしれないが、鳥が持つこのような集合性、匿名性が人間に対してもたらす不安感を利用して見る者の神経を見事に逆なでするのがヒチコックの「鳥」という作品であり、裏を返せばヒチコックの「鳥」を見ていなければ、新宿中央公園のカラスにいたずらに不安感を覚えることはなかったに違いない。

 さてそのヒチコックの「鳥」であるが、この作品はユーモアを排除して純粋なミステリー或いはスリラーとして仕上げられた作品群に属し、たとえ僅かであってもユーモアを隠し味とするのが身上であったヒチコックとしてはどちらかというと少数派に属する作品である。確かにヒチコックがチラリと顔を見せる冒頭のペットショップのシーンのみにはユーモアがあるが、それ以後はほとんどユーモアとは無縁の展開となる。このタイプに属する作品は、1950年代以降ではこの作品と「見知らぬ乗客」(1951)、「サイコ」(1960)、「マーニー」(1964)があるくらいである。また「鳥」は、これらのユーモアを排除した作品群の中にあっても異彩を放っており、前段で述べたように人間の心の奥深くに眠る不安感、恐怖感を煽る点において極めて深層心理的なモチーフが存在する。このように言うと、「深層心理的?それなら「サイコ」や「マーニー」の方が遥かに深層心理的ではないのか?」という疑問が湧くかもしれないので付け加えておくと、「サイコ」や「マーニー」が扱ういかにも深層心理的に見える内容は、実際は深層心理的であるどころか演劇的であると個人的には見なしている。たとえば「サイコ」において、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)が女性を次々と殺害するのは彼の心の中の母親形象が彼と出会う女性全てに対してジェラシーを抱くからであるというようなもっともらしい説明が最後になされるが、正直言えばこのいかにも精神分析的に響くフレーズは単にミステリーを解決する為に強引に追加された説明であるようにしか思えず、世の実際の狂気的な連続殺人犯でそのような明瞭な心理機制に支配されていたという例は皆無ではなかろうか。すなわち、あまりにも論理的或いはこう言ってよければ説明的すぎる感があり、深層心理がこのような単純なロジックに支配されているとはどうにも信じ難く、心の中にある母親形象のジェラシーというような説明は、「サイコ」というドラマの進行の中で最後に何らかの解決が必要であったが故に付け加えられた説明であり、故に深層心理的どころか演劇的であると言った方が良いのである。要するに、そのような説明はノーマン・ベイツが女性を殺害した動機が明かされなければ、ドラマそのものが解決されたことにはならないが故に付加されたドラマツルギーの一種ではないかということである。

 それに対して「鳥」の場合は、何も説明しないで見る者の心の中に直接不安感を呼び覚ます。この映画を見た人ならば誰でも気付くように、この映画では何故鳥が人間を襲うのかという説明はただの一言たりともなされない。子供の頃最初に「鳥」を見た時、頭の中にあった最も大きな関心事は、子供らしく「何故?何故?」であり(発達心理学者のジャン・ピアジェも言うように、子供は無神論者にはなれないのである)、何故鳥が人間を襲うのかということであった。それがラストシーンに至るまで全く明かされない為、子供であった自分にとっては、この映画そのものが全く不可解であるとしか思えなかったことを覚えている。しかもこの「鳥」という映画は、完全にオープンエンドであり、確かにラストシーンでロッド・テイラーやティッピー・ヘドレン演ずる主人公達は、無数の鳥に囲まれた家から脱出することに成功するが、オーディエンスの心の中ではそれでストーリーが完結するはずはないにも関わらず、無情にもこの映画はこの時点でジエンドになる。ドラマとしての解決には何の関心もないかの如く突然終了し、オーディエンスの心の中に掻き立てられた不安感が解決されることは決してない。また前述したように、個々の個体が匿名的に抹消された上に成立するマスとしての集団に対する一種の恐怖感が、個人として成立する我々オーディエンス一人一人に対して得も言われぬ不安感を与えるのがこの映画であり、「鳥」が「サイコ」等よりも遥かに深層心理的であると言ったのは、この作品がかくしてオーディエンスに与える影響が深層心理的であると言う意味においてである。

 この点をより明瞭にしてみよう。エリアス・カネッティの「群衆と権力」であったかうろ覚えであるが、個が群衆に埋没する恐怖感について書かれた本があった。この本を読んだ時に思い出したのが、池袋駅でかつて個人的に体験した出来事についてである。この出来事とは次のようなものである。ラッシュアワーでごった返す池袋駅地下コンコースをいつものように出勤途上歩いていると、爆弾が仕掛けられたという情報によって一時改札が一斉に閉鎖された。ところが朝のラッシュアワー時の池袋駅には群衆が後から後から押し寄せてくる為、前方の改札は閉鎖され後方からは人が押し寄せてくるという状態になり、前にも後にも動けないような状態になった。しばらくすると、身動きが取れなくなった群衆が一種のうねりのような蠕動運動を引き起こし、このうねりが心の中に得もいわれぬ不安を引き起こし、パニックを起こしそうになったことを覚えている。つまりこの時、物理的のみならず心理的にも群衆の中に完全に埋没してしまうのではないかという未だかつて経験したことがないような恐怖感が心の奥底から突然沸き上がってきたのである。今でも確信しているが、その時誰か一人でもパニックを起こして悲鳴でも挙げていようものならば、パニックが燎原の火のように伝播し圧死者が出て文字通り池袋駅は阿鼻叫喚の巷と化していたかもしれない。群衆に個が飲み込まれることに対する恐怖感が一種の集合的無意識のようなものとして心の中の埋もれた領域に存在することをこの時始めて実感したものである。個として存在する人間が無数の鳥達に何の目的もなく襲われるシーンは、池袋駅で体験したような、個の立場からすると全く不可解な集合体である群衆に個が飲み込まれるシーンを髣髴とする。それ故、「鳥」という映画には誰しもの心の奥底にある、個が匿名的な群衆に飲み込まれることに対する恐怖感を煽るような印象があるのである。「意識の起源史」を書いたユング派心理学者エーリッヒ・ノイマンらの主張は、そのような原初的な状態からいかにして意識が発生してきたか、又その逆に意識はいかに容易にそのような原初状態に逆戻りし得るかということであったが、「鳥」には人の心の中に存在するそのような根源的な領域への侵犯が含まれているとも考えられ、しかるに深層心理的な映画であると言ったのである。


※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2004/03/20 by 雷小僧
(2008/10/16 revised by Hiroshi Iruma)
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