未来惑星ザルドス ★☆☆
(Zardoz)

1974 UK
監督:ジョン・ブアマン
出演:ショーン・コネリー、シャーロット・ランプリング、セーラ・ケステルマン、ジョン・アルダートン

左:ショーン・コネリー、右:シャーロット・ランプリング

先月「地球の危機」(1961)を取り上げた際、SF映画の基本的な流れとして、1950年代はカルト的なBクラス作品を主流(というよりも、それしか存在しなかった)としていたのが、1970年代の後半になってジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」(1977)が登場して、メインライン娯楽エンターテインメント大作と変化していったことを述べました。勿論娯楽大作にはほど遠いとはいえ、この転換の先駆けを為す作品が、1960年代初頭の「地球の危機」と「タイムマシン」(1960)であったと見なせることをそこでは述べました。さて、そこで次に必ずや疑問になるであろうことが、それではその間、すなわち1960年代中盤から1970年代中盤(以下これを「SF映画過渡期の10年」と呼ぶことにします)のSF作品は如何であったのかという点です。その回答の一端は、スタンリー・キューブリックのかの話題作「2001年宇宙の旅」(1968)にあることは間違いがないでしょう。しかしながら、「2001年宇宙の旅」は何を議論するにしてもあまりにも有名になりすぎたということは別にしても、スケール的な面から考えても、「SF映画過渡期の10年」の他のSF作品とはやや異なった趣があり、また当ホームページでも既にレビュー済みということもあり、ここで繰り返し取り上げることはしません。それでは、「SF映画過渡期の10年」のSF作品としてどの作品がふさわしいだろうかとつらつらと考えていて思い出したのが、この「未来惑星ザルドス」です。この作品は、監督及び主演二人の国籍からも分かるようにイギリス産のようであり、ハリウッドの作品と同列に位置付けるにはやや難がありますが、内容的には典型的に「SF映画過渡期の10年」のSF作品であると見なせることもあり、ここに取り上げることとしました。まず最初に正直に述べなければならないことは、「ザルドス」同様に未来を舞台としたSF作品である「ローラーボール」(1975)を監督したノーマン・ジュイソンが、当時劇場公開されていた「ザルドス」を見て「見た瞬間に嫌いになった」と「ローラーボール」のDVD音声解説で述べていますが、同様な印象を受けるオーディエンスも少なくはないのではないかとも思われ、実のところ個人的にもそれ程、この作品を好んで見るというわけではないことです。この作品の一番の問題点として、あまりにも思弁的すぎて、???というシーンが多すぎることが挙げられるでしょう。しかしながら、思弁的であるという特徴は、「SF映画過渡期の10年」のSF作品の1つの大きな特徴でもあり、「2001年宇宙の旅」などはその最たるものであったと見なせます。思弁的であるがゆえに、抽象的な未来、それも悲観的な未来を舞台としているという点が、この時期のSF作品の一般的な特徴でした。「ザルドス」では、不老不死のユートピア(但し悪さをすると年を取らされるが死なない)が反ユートピアとなり、死を求めることが人々の信仰の対象と化してしまった未来世界が描かれていますが、このような観念的な側面は、1950年代のSF作品にはほとんど存在しませんでした。「縮みゆく人間」(1957)のラストの哲学的なコメントなどは極めて例外的なのですね。それに対して「スター・ウォーズ」以後の作品に関しては、このような「SF映画過渡期の10年」のSF作品の特徴がある程度受け継がれていることには間違いがありません。たとえば、フィリップ・K・ディックが原作の「ブレードランナー」(1982)、「トータル・リコール」(1990)や「マイノリティ・リポート」(2002)、ジョージ・オーウェルが原作の「1984」(1984)、或いはテリー・ギリアムが監督した「未来世紀ブラジル」(1985)などが挙げられるでしょう。しかしながら、これらの1980年代以後のSF作品が「SF映画過渡期の10年」のSF作品と大きく異なるのは、それらがいわば「スター・ウォーズ」影響圏の中で製作されていて、娯楽エンターテインメント大作が意図されており、ギリアムの作品にはややその傾向が無きにしもあらずとはいえ、基本的には思弁性が勝ってオーディエンスを???という状況に追い込むことはあまりないということです。子供が見ても楽しめることが優先されているのですね。面白いことにフィリップ・K・ディックが原作のSF作品の場合、必ずしもディック自身は日本で言えば星新一やかんべむさし或いは初期のSFに限れば筒井康隆のように中短編専門のSF作家ではないにも関わらず、短編作品が超大作として映画化されるケースが極めて多いように思われます。つまり、本来小ぶりの作品ですら、娯楽エンターテインメントを主眼としたバイアス(必ずしも悪い意味ではありません)がかけられているということです。この点は、「SF映画過渡期の10年」のSF作品との大きな相違だと見なせます。「未来惑星ザルドス」は勿論のこと、かの「2001年宇宙の旅」ですら子供が見るには、あまりにも思弁的要素が多すぎるのは明白であり、確かに「ウエストワールド」(1973)のような例外的な作品もあるにはありますが、子供でも分かるような娯楽性に乏しいのが「SF映画過渡期の10年」のSF諸作品だと云えるでしょう。必ずしも思弁的であるとは言えないとしても、「華氏451」(1966)、「赤ちゃんよ永遠に」(1972)、「サイレント・ランニング」(1972)、「ソイレント・グリーン」(1973)、「ローラーボール」(1975)、「2300年未来への旅」(1976)、それから前述の「ウエストワールド」にしても、「SF映画過渡期の10年」に製作された未来SFには、常に社会批判やテクノロジー批判が前面に押し出されていました。勿論、社会批判やテクノロジー批判が含まれていれば娯楽性がゼロになるというわけではないとしても、やはり「スター・ウォーズ」が持つ明快な娯楽性からは遥かに遠ざからざるを得ません。また思弁性が高いとは、言い換えれば抽象的であるということでもあり、そのことはまた、細部はオーディエンスの想像力が埋めなければならないということを意味します。詳細は「2001年宇宙の旅」のレビューに譲るものとして、ここで要点だけを述べると、思弁的な色彩の濃い作品はストーリーの自然な流れよりもビジュアルを重視する傾向があります。「2001年宇宙の旅」とともに「未来惑星ザルドス」はまさにそのような傾向を見事に体現している作品であり、たとえばショーン・コネリー演ずる主人公がクリスタルの内部に落ち込むシーンなどその典型だと云えます。確かに「2001年宇宙の旅」にしろ「未来惑星ザルドス」にしろストーリーが存在しないわけではなく、ストーリーの大きな枠組みは厳然としてあります。しかしながら、個々のシーンを取り出してみると、そのままではどうにも理解できないケースがあまりにも多いのですね。つまり、個々のシーンの意味は、オーディエンス自身が想像力或いは創造力を駆使して埋めなければならないのです。その点では、「2001年宇宙の旅」よりも「未来惑星ザルドス」の方が遥かに徹底しており、そのような思わせぶりが、ノーマン・ジュイソンのような具体派を苛立たせるということかもしれません。それからもう1つ指摘しておくべきことは、直接宗教性に言及されることはほとんどないとはいえども、宗教的メッセージが裏に含まれていることは明白であるということです。そのような裏に隠れた宗教的メッセージという意味合いにおいては、1970年代前半のハイライトとも云えるパニック映画にも同様なことが当て嵌まりますが、これについては「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「パニック映画は宗教テーマの復活 《ポセイドン・アドベンチャー》」を参照して下さい。しかしながら、SF映画はサイエンス・フィクションであり科学がテーマであって基本的に宗教とは無縁なのではないかと思われるとすれば、そこには大きな誤解があると言わねばならないでしょう。これは「Screening Space」(Rutgers University Press)という極めて興味深いSF論を書いたビビアン・シブチャックの受け売りですが、というのも、1950年代のSF作品ですら既に、未知の現象や未知の敵と対峙するには科学が極めて不十分である事実に人々が直面せざるを得ない場面で、人々が宗教に救済を求めようとするシーンがしばしば描かれてきたからです。シブチャックはそのような例の1つとして、「宇宙戦争」(1953)を挙げています。「宇宙戦争」では、人類が持つ科学の力では火星人の襲来にとても太刀打ちできないと知った人々は、最後に教会に集まって神に祈りを捧げ始めます。すると、あら不思議、それまで無敵であった火星人艦隊が、海ならぬ陸の藻屑となって墜落していくではありませんか。火星人にはバクテリアに対する免疫がなかったという科学的な説明がラストで加えられますが、それ自体は科学的な説明であったとしても、ストーリーという観点から見ればそれはまさに「機械仕掛けの神」であるという他はないでしょう。「未来惑星ザルドス」も或る意味で未来人類の救済に関するストーリーが語られているとも考えられるでしょうが、不老不死の世界で人々が求める救済とは皮肉にも死なのですね。このあたりに、一筋縄では捉えられない捻りが加えられているとはいえ、やはり宗教的テーマが見え隠れしていると見なせるように思われます。ここには、いわば変形された終末論が存在すると云えるかもしれません。ということで、正直云えば全く万人向けの作品とはいえず、むしろノーマン・ジュイソンのようにたちどころに嫌悪感を催すオーディエンスも多いことが予想されますが、「SF映画過渡期の10年」のSF作品としては典型的であるという点においてそれなりに意味のある作品であると個人的には考えています。ショーン・コネリー演ずる主人公の脳にオシロスコープを接続してエロ感応度を調べるシーンで、エロビデオを見せても波形に何の変化もなかったのに、シャーロット・ランプリング演ずる女王様?を彼が見た途端、波形がビンビンに振れ始めるシーンには笑えますね。ランプリングには、妖艶とはまた違った独特の中性的魅力(魔力?)があります。やはり彼女は、海千山千のカリスマであるショーン・コネリーを相手にしても、それに飲み込まれない彼女一流の雰囲気を持っています。おちんちんがああなってこうなってと、聴衆を前にして眉一つ動かさずに図解説明する彼女の姿は、彼女ならばさもありなんと納得させるところがあって、これが彼女ではなかったとすれば、ほとんど出来の悪いスラップスティックジョークになるだろうなと思わせるほどです。尚、この作品を見た人はご存知のはずですが、「Zardos」とは「The Wizard of Oz(オズの魔法使)」を切り詰めたものであり(なので本来「ザルドス」ではなく「ザルドズ」と言うべきかもしれません)、その一事を取り上げても、思わず「はあ???何じゃそりゃ???」と言いたくなりますね。


2008/08/22 by Hiroshi Iruma
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