地球の危機 ★☆☆
(Voyage to the Bottom of the Sea)

1961 US
監督:アーウィン・アレン
出演:ウォルター・ピジョン、ジョーン・フォンテン、バーバラ・イーデン、ピーター・ローレ

左から:バーバラ・イーデン、ジョーン・フォンテン、ウォルター・ピジョン、ピーター・ローレ

昔々、私めがまだお子ちゃまであった頃、その頃はまだ地獄の閻魔大王様のお世話になっていなかった私めのオヤジめは、いい年をして、テレビの前に陣取って一生懸命得体の知れないメリケンの番組を見ていました。実は、この得体の知れないメリケンの番組とは、正確なタイトルは忘れましたが有名な「原子力潜水艦シービュー号」シリーズのことです。因みに、このオヤジめというのが、妙なオッサンで、一日中テレビの前に座ってブラウン管を眺めながら、なななななんと!手垢にまみれたトランプを手にして一日中飽くことなく「ソリテア」をしていたのですね。ところで、殊にWindowsのスタンダードなおまけになって以来、「ソリテア」は有名になりましたが、「ソリテア」とは単に一人遊びという意味であり、あのゲームの本名は「クロンダイク」とかそのような名称であったはずです。もう一つ因みに、この「クロンダイク」には、手札を3枚ごとにめくって行き詰まるまで何順でもやり直しがきくバージョン(こちらのバージョンでは、成功効率を上げる為の戦術を適用することが容易にできます)と、1枚ずつめくるけれども2順或いは3順しか手札をめくることができないバージョンがあります。私めのオヤジめは、この前者のバージョンを採用していました。しかしまあ、世の中のどこを探せば、あっという間にカードが手垢にまみれるほど一日中ソリテアに打ち興じている人など見つかるのでしょうか? と例によって、いきなり大きく脱線してしまいましたが、ご存知の方も多いように、オヤジめが夢中になっていたらしいこの「原子力潜水艦シービュー号」シリーズの元になっているのが、「地球の危機」という1961年にアーウィン・アレンが監督した作品です。先日、「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」(1956)のレビューの中で、SF映画とは何であろうかということについて書きましたが、1960年代初頭に製作された「地球の危機」は紛れもなく純粋なSF映画の範疇に入ります。ここで何故、「純粋なSF映画」というような言い方をしたかと云うと、ホラー要素の色濃い「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」がそうであったように、1950年代までのSF映画は他分野それも主にホラー分野とクロスオーバーするケースが結構多かったからです。純粋であるか否かは別としても、いずれにせよ現在のオーディエンスがSF映画と聞くと、たとえば「スター・ウォーズ」シリーズ、「ターミネーター」シリーズ、或いはジェリー・ブラックカイマーが製作したSF大作や、ローランド・エメリッヒが監督したSF大作というように、メインラインの超豪華なエンターテインメント作品をついつい想像しがちになるのではないでしょうか。しかしながら、実はそのような傾向は1970年代後半にジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」(1977)を撮った時に本格的に開始されたのであり、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)のようなほんの一握りの突然変異を除けば、それまでは基本的にSF映画=低予算Bクラス映画であったのですね。しかも、1950年代は殊にそうであり、ロバート・ワイズの「地球が静止する日」(1951)や近年スピルバーグによってリメイクされた「宇宙戦争」(1953)、或いは「スター・ウォーズ」の先駆けのようなロボットが活躍する「禁断の惑星」(1956)のような現在でも人気のある作品にしたところで、基本的にはBクラス作品なのであり、そのことは当時エンターテインメント作品として圧倒的な人気を誇っていたスペクタクル史劇と比較すれば一目瞭然になります。つらつら考えてみると、かの有名なレイ・ハリーハウゼンの特殊効果は、そのようなSF映画のBクラス志向を背景とせずには生まれ得なかったと云えるかもしれません。しかしこの1950年代のSF作品のBクラス志向は1960年代に入るとやや変化の兆しを見せ始めます。そのような変化の兆しをもたらした2つのビッグネームが、ジョージ・パルとアーウィン・アレンでした。と云っても勿論、パルもアレンも1950年代まではいかにも1950年代らしい作品を撮っていましたが、1960年代に入って前者が監督したH・G・ウエルズ原作の「タイム・マシン」(1960)と後者が監督した「地球の危機」は、少なくとも私めの頭の中では1950年代のBクラス志向カルトSF作品群からは一線を画しているような印象を持っています。では、どこがと問われると回答に窮せざるを得ませんが、1950年代のBクラスSF作品が共有するどのような特徴が、「タイム・マシン」や「地球の危機」では見られなくなったのかというマイナス方向から考えてみることにしましょう。現在思い付く限りでは、1950年代BクラスSFの特徴として、

条件1:ホラー・ジャンルと混淆しがちになる
条件2:身近な生活環境に舞台が設定される
条件3:ビジュアルが垢抜けしていない面がある(しかも意図的であるように見えるケースすらある)
条件4:上映時間が90分前後と短い(時には80分程度の場合もある)
条件5:製作当時のトップスターは出演していない

などが挙げられます。条件2−条件5は、明らかに低予算であるということも少なからず関係しているのでしょうね。また、条件1、2の詳細については「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のレビューをご参照下さい。ここで、誤解のないよう付け加えておくと1950年代のBクラスSF作品であれば必ず上記5つの条件を全て充たしていると主張したいわけではなく、たとえば「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」は上記全ての条件をほぼ充たしていたとしても、「地球が静止する日」では条件1はまず当て嵌まらず、「禁断の惑星」では明らかに条件2は当て嵌まりません。しかしいずれにせよ、1950年代のBクラスSF作品であれば、上記条件中少なくとも3つ或いはほぼ4つは当て嵌まると考えても構わないように思われます。それでは、まず「タイム・マシン」からこの基準を適用してみましょう。条件1に関しては確かに、余程無理をすれば地底人の登場にホラー要素を見て取れないこともありませんが、しかし明らかにホラー映画としてのホラー性をそこに読み取ることは全くできません。条件2に関しては、一番当て嵌まってしまうすなわち1950年代BクラスSFたる条件を充たしてしまう点であり、身近な世界から未知の世界へ向かっていくという方向性は、「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のレビューでビビアン・ソブチャックに依拠して「1950年代に製作されていたカルトSF映画の多くが、舞台としては我々人類が暮らす見慣れた生活環境が選ばれるけれども、ストーリーが展開されるにつれて、我々に馴染みのない未知の無気味な世界へとオーディエンスをいざなおうとする傾向がある」と述べた1950年代SFの特徴と見事にマッチしてしまいます。但し、「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のコメントで述べたのは主に空間的及び心理的な意味合いにおける方向性に関してですが、「タイム・マシン」の場合にはそれが時間軸に沿った方向性を意味するという違いがあります。条件3に関しては、確かにCG花盛りの現在のレベルと比較して見れば、ビジュアルが垢抜けしているようにはとても見えないことは仕方がないとしても、1950年代的な安っぽさからは遥かに大きな進歩が見られます。そもそも、ビジュアル面を向上させようとする意図の有無が問題なのであり、その意味では「タイム・マシン」は、ビジュアル的にも決定的に現代的なエンターテインメント作品なのですね。その証拠に、「タイム・マシン」にレイ・ハリーハウゼンの特殊効果を適用するなどとは全く考えられないでしょう。条件4に関しては102分であり、これくらいになればメインラインの映画と大きな違いはありません。条件5に関しては、明らかに当て嵌まってしまいます。敢えて云えば、主演のロッド・テイラーはすぐに1960年代前半を代表する俳優の一人になるので、その面では先見の明があったということかもしれません。ということで、5つの条件の内、当て嵌まるのは2つだけで、3つは確実に当て嵌まりません。次に「地球の危機」について、見てみましょう。条件1に関しては、この作品にホラー要素を認めることは全くできません。ほとんど洒落のように、ピーター・ローレが出演していることだけが唯一ホラー映画を思わせるとでも云えばよいでしょうか。条件2に関しては、地球全体が舞台になっているのでこれも全く当て嵌まりません。条件3に関しては、いくら現在の目から見れば真っ赤に焼け爛れた空の光景など稚拙に見えたとしても、50年代SFのそれこそペインティングしましたというようなビジュアルに比べれば遥かに進歩しており、またアーウィン・アレンが絶頂を迎える70年代前半の彼のパニック映画作品に見られるビジュアル特殊効果を既に彷彿とするところすら見られます。条件4に関しては、105分で「タイム・マシン」とほぼ同様です。条件5のみは、当て嵌まってしまいます。但し、これに関しても、主演ではないとはいえジョーン・フォンテンは、明らかに1950年代のカルトSFに出演するようなタイプの女優さんではありませんでした(と言いつつも、仲が悪いことで評判のお姉さまとともに1960年代には没落の道をひた走るフォンテンは、「The Witches」(1966)のような???なホラー作品に出演して自身のキャリアにとどめをさしてしまいますが)。ということは、5つの条件中、当て嵌まるのは1つだけということになり、「タイム・マシン」よりさらに50年代BクラスSF映画の範疇から遠ざかっていると考えることができます。また、「原子力潜水艦シービュー号」シリーズとしてTVシリーズ化されたという事実にも、この作品が特殊なBクラスカルト映画ではなく、一般受けする作品であったという証拠が見出せるかもしれません。そもそも、いかにも地球の運命やいかにというSF的展開は極めてオーソドックスであるとも言え、子供の頃この作品(「シービュー号」シリーズのことではありません)をテレビ放映で見た時、感心して見ていたことを覚えています。バンアレン帯などという聞きなれない言葉も、その時耳にして頭に焼き付いてしまった程です。でも、まさか監督がアーウィン・アレンだからバンアレン帯などという一般の人が知らないような用語をわざわざ持ち出したわけではないでしょうね? かくして、SF映画の歴史を画する作品を監督したアレンは、1970年代にはあの「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)や「タワーリング・インフェルノ」(1974)を始めとするパニック映画の製作(後者に関してはアクションシーンの監督も)で有名になります。パニック映画は基本的には、実際に起きても不思議ではない状況でのパニックが描かれる為ややSFとは異なる側面もありますが、まさにアレンのこれらのエンターテイニングなメインライン作品を経由したからこそ、現在のエンターテイニングなメインラインSFの存在があるようにも考えられるのではないでしょうか。アレン自身に関して云えば、70年代パニック映画の頂点である前述2作を製作した輝かしき栄光の後、「スウォーム」(1978)、「ポセイドン・アドベンチャー2」(1979)、「世界崩壊の序曲」(1980)を監督或いは製作して残念ながらクラッシュダイブの体勢に入ってしまいます。ということで、現在の目から見ると欠陥が目につき過ぎることは否めないとはいえ(たとえば最も単純な例を挙げると、ラスト近くの意味のない二度目の大ダコの登場など全くもって無駄というものでしょう)、テレビシリーズの元祖になっただけあって娯楽作品としてはなかなか楽しめる作品ではあります。でも、ラスト近くのシーンで水槽に転落してしまう哀れなフォンテンさん、あなた一体そんなところで何をしているんですか? まるで60年代の彼女の行く末を暗示しているようにも見えます。それからピーター・ローレさんも、出るところを間違えているのでは? また冒頭で、海面と45度くらいの角度でシービュー号の船首が突き出し、船体の1/3くらいが海面に現れたところでやおら船首を下げて海面と平行になるというような浮上の仕方をしますが、実際にそんな無茶な浮上をすれば乗組員はたまったものではないでしょうね。まあ、どうでもいいことですが。


2008/07/11 by Hiroshi Iruma
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