サイレント・ランニング ★★☆
(Silent Running)

1972 US
監督:ダグラス・トランブル
出演:ブルース・ダーン



<一口プロット解説>
主人公(ブルース・ダーン)達は、世界に残された最後の自然が保護されている宇宙船ドームのメインテナンス作業に従事しているが、ある日管理当局はドームを全て破棄せよとの命令を下す。
<入間洋のコメント>
 最近でも、本質的にはハリウッドのメガロマニアックなパニック映画と何ら変わるところのない「デイ・アフター・トウモロー」(2004)のような映画で、エコロジーが1つの焦点であるような宣伝がされていたが、エコロジーがはっきりと1つのテーマとして映画の中で取り上げられるようになったのは1970年代初頭である。最も典型的な作品として挙げられるのが「サイレント・ランニング」であり、ジョーン・バエズが主題歌を歌っているのは単なる偶然ではなかろう。他には、環境破壊によって人間の住む環境世界が徹底的に破壊されてしまった近未来を描く「ソイレント・グリーン」(1973)などが、1970年代初頭に製作されたエコロジー映画の代表作として挙げられる。面白いことにこれらの映画では、高度管理社会が舞台になっていることでも共通しており、一種の管理社会批判として見ることも可能である。これは単なる偶然ではなく、環境が徹底的に破壊し尽くされた世界とは、自然環境が本来有しているはずの秩序/平衡状態を維持する自律的オートノミーが機能しなくなった世界であり、自然環境が本来持っているはずの調節機構を人間の手によって管理代行しなければならないことが、高度管理社会の存在によって示唆されているのである。「ソイレント・グリーン」で人間が人間自身を栄養の糧としなければならなくなるのは、自然が破壊され自然の食物連鎖が断ち切られた世界では、人間自身が食物連鎖の一部を代行せねばならないという強烈な皮肉でもある。

 「自然環境が本来持っているはずの調節機構を人間の手によって管理代行しなければならない」とは、そのように言うこと自体がそもそも既に決定的な自己撞着に陥っているのであり、この手の近未来映画で描かれる高度管理社会が100パーセント硬直した社会として描かれているのは至極当然である。極めて単純なサーモスタットの仕組みを考えても分かる通り、オートノミーがある一定の範囲で変化の可能性を受け入れる用意があるのとは異なり、高度管理社会は変化がもたらされる可能性のある事象を常に監視し排除し続ける傾向を持つ。本書でも紹介した「華氏451」(1966)で本を読むことが何故禁止されるかというと、その理由の1つは書物の存在には多様な思考様式の容認が前提とされているからである。「赤ちゃんよ永遠に」(1972)で赤ちゃんを生むことが禁じられるのは、新たな人間の誕生は新たな可能性が社会に付け加わることを意味するからである。「ローラーボール」(1975)で世界を支配する巨大企業がカリスマ的なスターの存在を許容出来ないのは、カリスマ的であることそのことが既に高度管理社会のアンチテーゼだからである。「2300年未来への旅」(1976)で老人の存在が許されないのは、累積的な知識を持つものの存在は既存制度にとっては脅威だからである。かくして、自律的なオートノミーの崩壊度は、その社会が何を排除するかによって測ることが出来る。たとえばナチス支配下のユダヤ人排斥は、ナチス社会の持つオートノミーの欠如を雄弁に物語っている。言い換えると、多様性を認めることが出来ないのが高度管理社会の大きな特徴であり、そこにおいては生命とは本質的に多様であるという事実との矛盾が避けられず、自然のオートノミーが欠如したところでは多様性は必ず抹殺されることになる。

 エコロジー運動は、そのような硬直した管理社会の到来が必然的な結果になる以前に、自然の持つオートノミーを破壊しないことをその最大の目標としている。自然保護という言い方には、何やら大人である人間が子供である自然を保護するという管理的なイメージが付き纏うが、エコロジーの焦点はそれとは逆に自然の持つ自浄力を人間の干渉によって破壊しないことにあるのではなかろうか。1960年代後半から1970年代前半にかけて高度管理社会を描いたSF映画が数多く製作されるようになった理由の1つは、その頃盛り上がりを見せ始めていたエコロジー運動のアンチテーゼとして高度管理社会を描くことにより、エコロジーの必要性を浮き彫りにしようとしたが為であると考えられる。すなわち、高度管理社会がひとたび到来すれば、既にその時には全てが終わっているということをフィクションの中で示すことにより、今ならばまだ遅くはないというメッセージを伝達することがそこには意図されているということである。

 「サイレント・ランニング」では、宇宙船の中にある森林ドームに保護されている最後の自然を、管理当局は経済的な理由から破壊しようとするが、これは自然の持つオートノミーの最後に残った砦を破壊しようとする行為であり、主人公のローウェル(ブルース・ダーン)は自らの命を捨ててまでその最後の痕跡を救おうとする。この映画の素晴らしい点の1つは、自然が持つ多様性とそれを破壊しようとする管理当局との対比が子供でも分かる程明瞭に描かれていることである。冒頭で森林ドームに保護されている植物や動物達の様子が描写されるが、このシーンの美しさは有機生命体の持つ多様性の美しさに由来する。これに対し、管理当局が森林ドームを破壊せよという命令を下すのは、多様性に対する管理社会の不寛容を象徴する。また、ローウェル以外の乗組員達は皆合成食品を食べているが、多様性を排除し均質性を追い求める管理社会の特徴が合成食品の均質性とも見事に重なる。主人公のローウェルが「今や地球上ではどこも温度が一定に保たれている。どこに行こうが、他の場所と異なるところは全くない。」と嘆くシーンがあるが、本来多様であるものの均質化は実は生命の本質の否定そのものでもあることがこの言葉によって仄めかされており、ここには「大都会の凋落《おかしな夫婦》」で述べた現代社会における均質性の病理の行き着く先が示されているとも言えるのではなかろうか。主人公が命を賭して救った森林ドームとそれをケアする一体のロボットが、無限の宇宙に向かって飛び立って行くラストシーンは瞑想的とも言える程に美しいが、それはまた、それを破壊しようとする人間がいなくなったことによって、小さくはあるけれども1つのオートノミーを構成する自然が永遠に宇宙をさまよい続ける様子が喚起する眩惑的なイメージの持つ美しさでもある。またそれと同時に、そのような美しさを維持出来ない高度管理社会、或いはこう言ってよければそのような高度管理社会の出来が必然であるような状況を作り出してしまう愚かな人間達に対する強烈な皮肉でもある。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/07/02 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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