ソイレント・グリーン ★★☆
(Soylent Green)

1973 US
監督:リチャード・フライシャー
出演:チャールトン・ヘストン、リー・テイラー−ヤング、エドワード・G・ロビンソン、ジョセフ・コットン



<一口プロット解説>
環境破壊が進行し緑がまったく存在しない近未来社会で、ソイレント・グリーンと呼ばれる合成食を製造する大企業の重役(ジョゼフ・コットン)が暗殺されるが、チャールトン・ヘストン演ずる主人公はその調査の過程で驚くべき真実を発見する。
<雷小僧のコメント>
子供の頃の21世紀の未来イメージとして、都市上空には空飛ぶ自家用車が飛び廻わり、地球の廻りには宇宙ステーションが衛星都市のように周回しシャトル宇宙船が地上と宇宙ステーションの間を往来し、家庭内の器具は全自動でしかもロボットが人間様の面倒をすべて見てくれるというような、まさにユートピア的なバラ色のイメージを持っていたものですが、実はそのようなバラ色の未来を思い描いていたのは子供ばかりであったようであり、私目が青少年期を過ごした頃すなわち1960年代後半から1970年代にかけては、お先真っ暗な未来を描いた映画が次から次へと製作されていました。まあジョージ・オーウエルの影響ここに極まれりと言えるかもしれませんが、その中の1つがこの「ソイレント・グリーン」です。この映画にここで注目している理由は、この映画は舞台となる年代が2022年と明確に述べられているからです。2022年という年は、この映画が製作された1973年から見てもそれ程遥かな未来ではなく、そもそもこの映画を監督した1916年生まれのリチャード・フライシャーがその年に106才でまだ生きていたとしても、それは少なくとも奇跡によってではないと言えるはずです。すなわちこの作品をコンテンポラリーで見た多くの人々が、2022年にはまだ生存しているであろうことが十分予想出来るわけであり、すなわちこの映画は未来SFであるとはいえども、ある程度の現実性が要求されるような設定がわざわざされているということであり、これから説明するようにこの映画はそのような現実感がうまく醸成されている作品であると言うことが出来ます。
この作品を見てまず第一に気が付くことは、この作品は未来SFであるにも関わらず何やら妙に生活臭が漂ってくるような現実的な感覚に訴えるような描写が数多くあるように思われることです。たとえば、チャールトン・ヘストンとエドワード・G・ロビンゾンが昔なつかし野菜やステーキを食べる部屋の様子であるとか、その部屋に至るまでの廊下に人がゴロゴロ寝そべっている様子等です。1970年代の未来SF映画と言えば高度管理社会が焦点になることがしばしばありましたが、この映画はむしろそれよりも環境破壊によって人間の住む環境領域(ハビタート)が徹底的に破壊されてしまった未来世界が描かれていると言えます。その意味において、この作品の舞台設定は非常に現実的であるということが出来、たとえば本を読むことが禁じられた未来世界を舞台とする「華氏451」(1966)、赤ちゃんを生むことが禁じられた世界を描く「赤ちゃんよ永遠に」(1972)、桃源郷のように自己充足し死すら存在しない変化のない社会を描いた「未来惑星ザルドス」(1974)、老人の存在しない社会を描いた「2300年未来への旅」(1976)等と比較してみると、人間が素材の合成食の存在は別として作品中で描かれているような状況が近未来において発生する可能性は遥かに高いと言えます。殊にこの作品が製作された1970年代初期はまだ脱産業社会的なポストモダニズムが産声を挙げたばかりの頃であり、いわんや日本においては高度経済成長の真っ只中であり、或る意味で環境破壊に対する危機感は、エコロジーに関する考慮が曲がりなりにも真剣に検討されるようになった今日この頃よりもむしろ高かったと言えるかもしれません。その証拠がこの作品や「サイレント・ランニング」(1972)のような作品であり、言ってみれば「サイレント・ランニング」の地上版が「ソイレント・グリーン」であると言えるでしょう。
さて、これらの映画が描く緑のない世界とは単にいくつかのあるべき何ものかが欠落した世界であるというだけではなく、欠落した部分がその世界そのものの喪失をも意味するようなそのような世界であるわけです。すなわち緑とは、我々人類もその中に組み込まれる、極めて微妙な均衡の上に成り立つ環境世界に関する秩序/平衡維持(ホメオスタシス)のシンボルそのものであると言ってもよく、その秩序/平衡維持のシンボルが破壊された世界とは、この「ソイレント・グリーン」が暗示的に示すように熱力学第二法則が無気味に予言するエントロピーの増大による熱的死すなわちカオスへと通ずる世界であると言えます。言い換えると、緑がシンボライズする生命とは秩序/平衡を維持するパワーを持った存在のいいであり、そのようなパワーを失った世界がカオスに至るのは、一度も掃除されることのない部屋が決して自然に元のクリーンな状態に戻ったりはしないのと同様であるということです。この「ソイレント・グリーン」という作品には、かくして環境が徹底的に破壊されカオスに向かっていかざるを得ないような世界が実に巧みに描かれているような印象があります※。エコロジーとはまさにこの秩序/平衡を維持する自律的なオートノミーの自然なメカニズムを破壊しないようにすることであり、それは他の多くの未来SFが描く高度管理社会が外部から人為的な秩序を強制することとは全く異なるわけです。そのように考えてみると、他の多くの未来SFで何故極端な高度管理社会が描かれるかが朧気ながら理解出来ます。すなわち秩序を維持する自律的なオートノミーが既に破壊された世界では、人為強制的な秩序維持機構が不可欠となり、それがなければエントロピーの増大による熱的死という一切の秩序の崩壊へと向かわざるを得ないからなのですね。

※昨日、「デイ・アフター・トウモロー」(2004)というディザスタームービーの新作を見ましたが、この映画の内容は温室効果の蓄積で南極の氷が融けそれが海流の流れに影響して氷河期がやってくるというようなものでしたが、これはまさに地球環境が持つオートノミーの破壊によってよりカオス度の高い状況が出来する様子が描かれていると言えるでしょう。但し、この映画にはオートノミーの破壊が一過的な過激なディザスターとなって現れるというような印象を与える側面があるように思われ、そのあたりはやはりこの映画は環境問題ではなくディザスターがテーマであるような映画であるということなのでしょう。

その意味で言えばこの映画のラストで、ソイレント・グリーンという合成食が実は人間が原材料であったということが分かり、主演のチャールトン・ヘストンが「Soylen Green is people!」と叫ぶシーンは、1つのサプライズエレメントであると同時に強烈なアイロニーでもあります。何故ならば自律的なオートノミーによる食物連鎖が断ち切られた世界では、人為的な手段を通して人間自身がリサイクルされなければならないということが強烈な皮肉によって示唆されているとも言えるからです。またその為にエドワード・G・ロビンソンが自ら赴く安楽死施設が示すような人為的な死の儀式化、制度化が行われ、いわば一旦断ち切られた自律的なオートノミーによる食物連鎖を補填する為にありとあらゆる人為的手段が講じられなければならないわけです。考えてみれば植物が育たないような世界は当然ながらそれを糧として生きる草食動物も育たないわけであり、そうなると今度は草食動物を糧として生きる肉食動物も育たないわけであり、そうなるとそれらを糧として生きる人間は一体何を糧とすればよいかというと最早自分達自身しかないわけです。このような当たり前の方程式を無視して環境破壊を続ける人類という種属の滑稽さが、このラストシーンではアイロニックな嘲笑の対象となっているとも言えるわけです。
ところで、人為的な手段によってオートノミーを強制的に維持しようとする制度がいかに硬直的なものになるかということは、高度管理社会を描く未来SFの主要テーマの1つであると言えます。そもそも自律的であるはずのオートノミーの強制的な維持とは、そのように言うこと自体が既に自己撞着しているわけですが、そのような不可能なことが意図されればその仕組み自体極めて硬直的なものにならざるを得ないわけです。従って自律的オートノミーがある一定の範囲で変化の可能性を受け入れる用意があるのとは異なり、そのような人為的な制度は変化が齎される可能性のある事象を常に監視し排除し続ける傾向を持つことになります。「華氏451」(1966)で何故本を読むことが禁止されるかというと、その理由の1つは書物は多様な思考様式を許容することがその前提として存在するからです。「赤ちゃんよ永遠に」(1972)で赤ちゃんを生むことが禁じられるのは、新しい人間が生れるということは新しい何かを齎す可能性が社会に付け加わることを意味するからです。「ローラーボール」(1975)で世界を支配するようになったコーポレートがカリスマ的なスターが存在することを許容出来ないのは、カリスマ的であることそのことが既に制度的な強要のアンチテーゼを意味するからです。「2300年未来への旅」(1976)で老人の存在が許されないのは、累積的な知識を持つものの存在は既存制度にとっては危険な存在になり得るからです。かくして自律的なオートノミーが崩壊した社会に関して言及する時、その社会が何を排除するかによって崩壊の程度を測ることが出来るとも言えるでしょう。たとえばナチス支配下のユダヤ人排斥は、ただ単に民族というレッテルだけによって排除を行うことが意味されているわけであり、翻って見るとこれはナチス社会の持つオートノミーの欠如を雄弁に物語っていることになるわけです。「ソイレント・グリーン」にはこのような高度管理による秩序維持の強制という側面はあまり表面的に描かれてはいませんが(人間が素材である合成食の存在は、ある意味で隠れた強制力の存在を示唆すると言えるかもしれませんが)、自律的なオートノミーの崩壊によって秩序が崩壊しつつある様子が、リアルな描写によって実に巧みに描かれていると言っても良いでしょう。先程脚注の中で新作「デイ・アフター・トウモロー」(2004)について言及しましたが、自律的なオートノミーの崩壊はこの新作が描くような自然現象においてのみではなく、社会現象においても発生し得るわけです。またこの新作はその特殊効果の素晴らしさにも関わらず、多くの人間が自然の秩序崩壊の犠牲になっているという実感が湧いてこないということは新作コーナーで述べましたが、それとは逆にこの「ソイレント・グリーン」という作品では、人目を惹くような迫力のあるシーンは皆無であるといえども、人間社会/社会生活に対する秩序崩壊の影響が微に入り細を穿ってミクロ的に描かれており非常に現実感があります。
というわけで「ソイレント・グリーン」という作品は、1960年代後半から1970年代にかけて栄華を極めたダークな未来社会を描くSF作品の中の一本ですが、それらの中では最もリアルな現実感を持つ作品の1つであり、エコロジー問題の提起ということに関して言えば最も優れた映画の一本であると言うことが出来ます。というのも同時代の他の多くの作品においては高度管理社会批判に焦点が置かれているように思われるのに対し、この作品はむしろ環境破壊による社会秩序崩壊の人々の生活への影響にその焦点が置かれているからであり、またたとえば新作「デイ・アフター・トウモロー」が自然が主人公であるような映画であるのに対し、この作品はそれによって影響を受ける人間社会が主人公であるからであり、前者が単に現象面を極大化しただけで終っているのに対し、「ソイレント・グリーン」はそのような現象が齎す人間社会への影響という結果が描かれているからです。

2004/07/04 by 雷小僧
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