マイノリティ・リポート ★★★
(Minority Report)

2002 US
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:トム・クルーズ、サマンサ・モートン、コリン・ファレル、マックス・フォン・シドー



<一口プロット解説>
未来を予知して殺人を防止する未来社会の或る組織の重要メンバーの一人ジョン・アンダートンは、或る日自分自身が加害者の一人として予知されてしまう。
<雷小僧のコメント>
 フィリップ・K・ディックのSF小説は高校生の頃よく読んでいたのを覚えていますが、思い出せるタイトルは、長篇の「高い城の男」、「ユービック」くらいであり、「マイノリティ・リポート」を読んだことがあるかどうかは全く覚えていません(当時は英語がスラスラ読めたわけではないので、日本語訳が存在していなければ当然読んでいないということになります)。フィリップ・K・ディックのSF小説にはどこか幻惑的なイメージがあり、感覚的に一種麻薬的な効果があると言っても良いでしょう。この感覚がうまく捉えられているか否かがフィリップ・K・ディックが原作である映画が成功する為の1つのポイントであるとも言っても良く、リドリー・スコットの「ブレードランナー」(1982)はそれが成功した例の1つですが、この「マイノリティ・リポート」も十分にそのような感覚が表現されているように思われます。この映画も未来社会を舞台としたSF映画の御多分に漏れず、非人間的な程に迄個人管理が徹底したダークな未来社会が描かれているわけですが、青系統のフィルターがかかっている為かほとんど白黒(白青?)にも見えるような色彩的なモノトーン画像が、この映画が描く未来管理社会のダークでモノトーンなイメージとよくマッチしています。このようなダークな未来管理社会を扱ったSF映画は、「華氏451」(1966)辺りから始まり1970年代に隆盛を迎えますが、80年代以後はちらほらという程度になります(比較的最近では「ガタカ」(1997)等を思い出すことが出来ます)。まあ私目は未来を描くSF映画は何故いつもダークで悲観的なトーンになってしまうのかなと思っているのですが、思うにプラグマティックではあるとは言いながらも宗教感情が結構強いアメリカ等では終末論的世界観(eschatology)がかなり強い影響力を持っているのかなと勘ぐってみたくもなります。
 さて、この「マイノリティ・リポート」の最も優れた点は、そのようなダークな未来社会を描くにあたって70年代近辺のSF未来映画ではあまり見られなかった2つの要素が絶妙に取り入れられている点にあります。1つは未来管理社会の持つ根底的且つ病的にアンバランスな側面が実に見事に捉えられている点です。それは交通手段等のパブリックな領域においては進化したテクノロジーがふんだんに利用されている様子が描かれているにも関わらず、人々が住むプライベートな領域においては何も進化していないどころかかえって退化しているとさえ言えるような様子が描かれている点に如実に表現されています。この映画を最初に映画館で見た時、この点に関しては少し不自然過ぎるのではないかという印象を受けたのですが、DVDで何度も見直している内に不自然である印象を与えることが未来社会のアンバランスさを表現する効果的な手段になっていると思い直すようになりました。すなわち、全体主義的管理社会とはプライベートな領域が次々と搾取され狭小化されてしまうような社会のいいであり、この映画の荒れ果てた長屋のようなプライベートレジデンスの描写によって、高度に発達したパブリック空間との対比においてその様な狭小化されたプライベート空間というイメージが実にうまく表現されていると思い直すようになったわけです。
 2つ目は、これも未来社会のアンバランスさということとも関連しますが、古代的なイメージと未来社会のイメージ、すなわち古代の託宣的、占星術的、非科学的なイメージとハイテクノロジーをベースとした未来というイメージが有機的に関連させられることなく併置ミックスされている点です。この映画では未来予知能力を持ったプレコグと呼ばれるいわば巫女達の託宣に従って社会の秩序が維持されているわけですが、これは古代ギリシャにおいてデルフォイの神殿で神様の託宣(oracle)を伺いながら政治を行っていたことと軌を一にしているとも言えるわけです。これはある意味でこの映画が描く未来社会における人々の生活或いは政治様式が、民主主義的な原理とは正反対の極めて専制的且つ恣意的な手段によって支配されていることを示唆しているとも言えるわけです。すなわち「マイノリティ・レポート」の描く未来社会は、プレコグ達の無謬性がその絶対的な成立基盤として前提とされているということであり、またこの無謬性が否定されたその瞬間にそれの持つ成立基盤は瓦解してしまうということです。最後のシーンでトム・クルーズがマックス・フォン・シドーに対して自分を殺さなければプレコグの予言が外れたことが公になり彼が確立した制度自体が雲散霧消してしまうぞという主旨のことを言いますが(また逆にもし自分を殺せばマックス・フォン・シドーは自分の確立した社会から自分が排除されなければならないことになり、ここでトム・クルーズ演ずる主人公はマックス・フォン・シドーをジレンマに追い込んでいるわけです)、このシーンによってまさに全体主義的な管理機構に支配される未来社会の基盤が極めて脆弱なものであるということが示唆されているわけです。
 また翻って考えると、これによって民主主義の長所が逆に浮き彫りにされていると言っても良いように思われます。すなわち、民主主義というアイデアの根底には、無謬であるようなものはどこにも存在しないということをまず第一前提とするという考え方があるということです。たとえば古代の神権政治は神の無謬性が社会の成立基盤として前提とされていたわけです。また、ヒトラーの支配した第二次世界大戦中のドイツの全体主義社会はヒトラーの無謬性という考え方がその存立基盤の根底に存在していたわけです。これに対し、無謬であり得るような存在はこの世には存在しない、従って無謬であると見做される何らかの存在(たとえば先程の例で言えば神やヒトラー)に社会の全ての存在根拠や権力を委譲し、その絶対的な権限によって社会を維持するのではなく、無謬ではあり得ない各個人個人の合議によって、またその合議事項自体に関してもそれは決して無謬であるということを意味しているわけではないということを予め受け入れることによって社会を運用していこうという考え方の中に民主主義のアイデアの基本はあるわけです。余談になりますが、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957)が素晴らしいのは、まさにこの点が実に明瞭に描かれている点にあると言えるでしょう。「マイノリティ・リポート」では、前述したようにプレコグが未来を予知し、その予知によって社会の統制が行われるわけですが(勿論この映画では犯罪の予知という治安面だけがストーリーの焦点になっている為必ずしも全ての社会事象に渡ってプレコグの未来予知が適用されているように描かれているわけではありませんが、しかしながら治安に未来予知が適用されているのであれば、その他の社会事象にもそれが適用されていないはずがないと考える方が自然でしょうね)、これは言わば民主主義の考え方が生まれる迄人類が長い間そこから抜け出すことが出来ないでいた無謬性という神話が、未来において再び先祖返り的に復活したことを意味しているわけです。また、無謬性という神話がその語が与える印象とは全く逆に実は脆弱な原理であるということが、この映画では実に見事に表現されていることは前述した通りです。何故無謬性という神話が脆弱であるかと言うと、無謬であるということ自体が修正の可能性を予め排除しているが故に、たった1つでも無謬であることに対する反証が現れると新たな状況に対する修正が効かず、一挙にそれを前提としたシステム自体が瓦解の危機に瀕してしまうからです。また何故民主主義がかくも重要且つ強固であるかというと、その1つの理由は、それが自身の(或いはその他いかなるものに関しても)無謬性を民主主義自体が成立する為の絶対的な前提として必要であるとはしていないが故に、新たな状況に対するシステム自体のダイナミックな修正が原理的にも許容されているからであると言えるでしょう。「マイノリティ・リポート」では、実はプレコグ達も誤ることがあるということになっているわけですが、その事実が知られてはシステム自体の基盤となる無謬性に対する反証となってしまうので、その記録はマイノリティ・リポートとして密かに保管されていて、それがストーリーのキーポイントともなっているわけです。すなわちタイトルにもあるマイノリティ・リポートとは無謬性という神話に支配された未来社会の成立根拠に関する危険な論理的反証でもあるということです(何故そんなものを即座に消去せずにわざわざ保管しておくのかという疑問はありますが)。かくしてテクノロジーのみが進化し、政治、文化的な側面においては逆に退化してしまった未来社会の様子が、ハイテクノロジーと古代的なイメージとの奇異とも言えるような併置という形を通じて表現されているのがこの映画であり、それによって外面と内面両側面がアンバンランスに進化してしまった社会が直面する矛盾が見事に表現されていると言っても良いでしょう。
 それからこの映画が面白い点の1つに、一種のタイムパラドックスがストーリー展開自体に巧妙に埋め込まれている点を挙げることが出来ます。タイムパラドックスというと、たとえばタイムマシンで過去に行って過去の出来事を変更したならば一体現在はどうなってしまうのかという形式で問われることが多いのですが(何らかの形でこのテーマを応用した映画は枚挙に暇が無く、最近の例だけでも「ニューヨークの恋人」(2001)、「ターミネーター3」(2003)、「タイムライン」(2003)等かなりあります)、「マイノリティ・リポート」においては無謬であるはずの未来の予知を現在において変更してしまったならば未来予知及びその無謬性は一体どうなってしまうのかというような少し変った形式でそれが提示されています。しかもこの映画ではタイムパラドックスが単に卵が先か鶏が先かというようようなよくあるミーハー的な興味で展開されるのではなく、前段で述べたような社会的な存立基盤の問題及びトム・クルーズ演ずる主人公が自らの存在基盤となる社会(自分自身が未来予知によって犯罪者と見做されるようになるまでは、彼はそのような社会を推進する為の重要なメンバーの一人であったわけです)の成立を脅かすことにもなるタイムパラドックスを前にしてどのような行動を取るのかというような行動パターンとも有機的に絡めて語られているところがこの映画の奥行きを感じさせます。それから、この映画でのトム・クルーズ演ずる主人公ジョン・アンダートンと、レイ・ブラッドベリの未来SFが原作である「華氏451」のオスカー・ウェルナー演ずる主人公モンタークを比べて見るのも映画ファン(或いはSFファン)としてはまた一興かもしれません。「マイノリティ・リポート」でのトム・クルーズ演ずる主人公ジョン・アンダートンは自分の意志によって自ら社会のアウトカーストになっていくわけではなく自分が犯罪者として託宣されたことがきっかけとなって突然そういう状態に陥ってしまうのに対し、「華氏451」でのオスカー・ウェルナー演ずる主人公モンタークはジュリー・クリスティ演ずるお隣りさんの導きがあったとはいえ徐々に自分の心の中に自らが帰属する社会に対する疑問の種子を自ら撒いていくという違いはありますが、どちらも自らがその重要メンバーであった社会に対して疑問を抱き反旗を翻すことになるストーリー展開が似ているからです。「華氏451」の方はストーリー展開が極めてシンプルであるのに対し「マイノリティ・リポート」のそれは前節で述べたように未来予知に関連したタイムパラドックス的要素迄をも導入した極めて複雑なものでありアプローチの仕方はかなり違いますが、どちらにおいてもそのような主人公を通しての管理社会批判が見事な語り口で語られていると言えます。最後にシューベルトの「未完成」が巧妙に利用されていて感心したことを付け加えておきます。わざわざ指摘する必要もないことかもしれませんが、この映画でのシューベルトの「未完成」は、この映画自体のバックグラウンドミュージックとして流されているわけではないことに注意する必要があります。すなわち、シューベルトの「未完成」は、トム・クルーズ演ずる主人公が操るマシンが作動している時にのみ流れているのであり(トム・クルーズ演ずる主人公がマシンのスイッチをOFFにすると「未完成」もOFFになるのです)、すなわちこれは劇中事象の1つとして「未完成」が流されていることを意味しているのであり、映画自体のバックグラウンド音楽として流されているわけではないということになります。そう言えば、「ソイレント・グリーン」(1973)というチャールトン・ヘストンのこれまた未来を舞台にした管理社会批判の映画がありましたが、この映画の中でもエドワード・G・ロビソンンが安楽死を遂げる最後のシーンで、安楽死施設の(映画自体のではありません)バックグラウンドにチャイコフスキー、ベートーベン、グリーグ等のクラシック音楽が流されていました。どうもこの手の映画ではクラシック音楽が良くマッチするのが不思議なところで、「マイノリティ・リポート」の場合もそれが極めて効果的であると言えます。ということで、さすがはスピルバーグということの出来る優れたSF作品であると言えるでしょう。

2004/04/18 by 雷小僧
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