2001年宇宙の旅 ★☆☆
(2001:A Space Odyssey)

1968 US
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ケア・デュリア、ゲーリー・ロックウッド、ウィリアム・シルベスター



<一口プロット解説>
月面に出現した石版モノリスの謎を解明する為、宇宙船ディスカバリー号が飛び立つが途中でコンピュータのHALが叛乱を起す。
<入間洋のコメント>
 皮肉なことに「2001年宇宙の旅」というタイトルで示される2001年には歴史を変えるようなイベントが発生しました。それはこの映画が描くような宇宙を舞台としたイベントではまるでなく、「2001年宇宙の旅」が製作された頃にはまだ陰も形もなかった世界貿易センタービルに、テロリストにハイジャックされた旅客機が突っ込むというような、凡そ当時は予想もできなかったであろうような事件でした。映画ファン或いはSFファンならずとも「2001年宇宙の旅」というタイトルは聞いたことがあったはずであり、恐らく2001年すなわち21世紀の最初の年は何か特別な年になるのではないかと予感していた人も多かったのではないかと思いますが、それがあのような事件によってであろうとは誰が考えたでしょうか。「2001年宇宙の旅」とテロリストの攻撃によるWTCの倒壊が完全に無関係であったかと言うと、無理をすれば共通項を見出せないことはありません。「2001年宇宙の旅」ではテロリストではなくコンピューターが叛乱を起しますが、その意味ではこの映画にテクノロジー批判的なものを読み取ることは不可能ではありません。同様にまた、ある意味でテロリストがターゲットとしたものの1つはWTCが象徴する西側のテクノロジー優先主義であったと言えます。WTCが完成した頃に製作された「タワーリング・インフェルノ」(1974)という映画に、既に2001年を予言するような要素があったのではないかということはそちらのレビューに書きました。勿論、別にキューブリックとテロリストを同一視する意図はありませんが、謀反を起こすコンピューターのHALを通じて、キューブリックは既に1960年代から暗鬱たる未来を予見していたと言えばさすがに言いすぎでしょうか。

 ところで「2001年宇宙の旅」は、1960年代に製作された映画であるにも関わらずインターネット等で議論される機会が極めて多い稀有な作品です。私めもこの映画に関するレビューをプロのものも素人のものも含め様々読む機会がこれまでにもありましたが、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「西部劇の凋落 《ビッグトレイル》」でも述べたように肝心の映画そのものはこれまで一度しか見たことがありませんでした。今回DVDを買ってきて見直してみましたが、そこで気が付いてことはこの作品は、コンテンツよりもフォームにより大きな重心が置かれている映画だということです。インターネットのレビューなどを読んでいると、実に面白い解釈が書かれていたりしますが、その事実からも見て取れるようにこの映画の最大の特徴はあらゆる解釈を許すということであり、様々な解釈が可能であるということです。何故ならば、この作品の最大の特徴はコンテンツではなくフォームにあるからです。すなわち、フォームとは、コンピュータ用語を拝借すればポリモルフィックに様々なコンテンツで埋めることが出来る一種の容器だということです。フォームとはコンテンツよりも高い次元に属する高位概念であり、具体レベルに属するコンテンツとは異なり高度な抽象性が要求されるわけですが、キューブリックはそれを視覚優先という手段によって実現させます。視覚は嗅覚や触覚などの他の感覚器官とは異なり、能動的に感覚与件を取捨選択する能力を持っており、すなわち高度な抽象作用を有しているのですね。それ以前の作品に関しては必ずしも当て嵌まらないかもしれませんが、「2001年宇宙の旅」以降のキューブリックは視覚に大きなポイントを置く傾向が際立っており、「時計じかけのオレンジ」(1971)、「バリー・リンドン」(1975)、「シャイニング」(1980)そして彼の最後の作品「アイズ・ワイド・シャット」(1998)は視覚印象で成立している映画だと言っても必ずしも言い過ぎではないでしょう。また「2001年宇宙の旅」での異次元空間航行シーンでのケア・デュリア演ずる主人公ボーマン船長の瞳、或いは目玉のおやじのようなコンピューターHALの目、「時計じかけのオレンジ」でのマルコム・マクダウエル演ずる主人公アレックスの目が閉じないようにする拷問装置等を見ていると、キューブリックがいかに「目」にこだわっていたかが分かるのではないでしょうか。このように「2001年宇宙の旅」も視覚中心の極めて抽象性の高い映画であり、それ故にたとえば「モノリスとは一体何の象徴か?」或いは「あのラストシーンは何を意味しているのか?」などというような解のない問いが散りばめられていても、映画としての構図は全く崩れ去らないのです。何故ならば抽象的なフォームを満たすのは個々のオーディエンスの想像力だからであり、であるからこそこの映画に関する各人各様の解釈が登場するわけです。たとえば、この作品が、視覚優先ではなく語り優先で構成されていたとしたならば、それらの問いに対するソリューションが提示されていなければ語りとしてのナレーションが全く成立せず完全なる失敗作になっていたはずです。この映画が恐ろしくエニグマティックな内容を持っていてもなお且つ高い評価と人気を得ているのも、まさにこの映画が、視覚優先的で極めて抽象度の高い作品だからであることは何度述べても述べすぎることにはならないでしょう。

 このように述べると1つ疑問が湧いてくるのではないでしょうか。それは、映画の歴史を考えてみればト−キーの時代以前に無声映画が存在していたことを考えてみれば、もともと映画とは本質的に視覚的なのではないか、またそれならば殊更「2001年宇宙の旅」ばかりをそのようなものとして取り上げてもあまり大きな意味はないのではないかという疑問です。しかしもしそう考えたとすると忘れてならないことは、映画は写真とは違って時間の流れの中で提示されるということです。すなわちたとえ音声が存在しなかったとしても、その基盤には必ず時間軸に沿ったナレーションが存在していたということです。さもなければ、単なるスライドショーに終ってしまうのであり、そのスライドショーですら通常は誰かが何らかのナレーションを語ることによって時間軸に沿ってスライドが映写されることに対して何らかの意味合いを与えようとするのが普通です。だとすれば映画にとってナレーションはもともと不可欠な要素だということであり、それを実現する最良の手段である音声が後から加わったのは単純に技術的な問題に過ぎなかったということです(これに関してはミュージカル「雨に唄えば」(1952)でコメディ的に面白おかしく料理されていることは皆さん既にご存知のことでしょう)。「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「彗星のように現れ彗星のように消えていった3D映画 《肉の蝋人形》」で言及した3D映画や3D音響がすぐに消えてしまったのとは異なり、当たり前に響くかもしれませんが音声そのものはそれが映画の本質的構成要素であるが故に一度登場したならば二度とブームが去って消え去るなどということことは有り得ないのですね。そのような文脈の中に置いてみると「2001年宇宙の旅」を始めとするキューブリックの視覚優先的な作品は、視覚が優先されざるを得ないように外見は見える映画というメディアにおいて、本当に視覚イメージを優先させた最初の例であると言えるかもしれません。それと彼の映画が持つエニグマティックな抽象性は密接な関係にあり、言い換えると構造的なフォームが通時的なナレーションを凌駕しているのが彼の作品だということです。もしナレーションにこだわるのならば、それはオーディエンスが自分の想像力で導出しなければならないのであり、それがまたこの作品に関するあまたの解釈が氾濫する理由でもあります。

 ところで、人によってはSF映画の最高傑作であると見なす「2001年宇宙の旅」に関して、私めの評価は★1つとなっているのでこれは少し説明が必要でしょう。これは、何故かというと、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「西部劇の凋落 《ビッグトレイル》」でも少し述べたように宇宙が舞台であるような映画はどうしても閉塞感を免れない印象が私めにはあり「2001年宇宙の旅」もその例外ではないからです。また宇宙空間とは極めて抽象的な概念であり、前段でも述べたようにそのような抽象概念的な宇宙が舞台である映画はどうしても視覚優先的になりがちで、聴覚派映画ファンの私めの趣向に合わないところがあるからです。しかしいずれにしても、「2001年宇宙の旅」や「スター・ウォーズ」シリーズ等の宇宙を舞台としたいわゆるスペースオペラは一般には人気が極めて高いジャンルであることには間違いがありません。それは何故であろうかとつらつら考えてみると、スペースオペラに関して、ポストモダニズムの論客フレドリック・ジェームソンが「The Political Unconscious」(「政治的無意識」という邦題の訳書もあるはずですが絶版かもしれません)という本の中で興味深いことを書いていたのを思い出しましたので、多少長くなりますがここに挙げてみます。尚、ジェームソンはコンラッドの小説を取り上げてコンラッドの「ロード・ジム」等の小説がいかに時代の端境期にあった当時の初期資本主義的な政治的無意識に影響されているかを説明する為にそれとの類似ケースとしてスペースオペラを取り上げており、この文脈を離れて個別に抜粋すると誤解のもとになるかもしれませんが、なかなか面白いので我慢出来ずに取り上げてみました。訳は私め自身によるものですが、あまり良い訳ではない上そもそもこの手の文章は英語の方が遥かに分かりやすいので英語を苦にしない人は原文を読むようにして下さい。

◎次のことを考えてみれば、マスカルチャーのメカニズムとこの特異なナラティブフォーム(すなわちコンラッドの小説が提示するナラティブフォーム)のイデオロギー的操作について多くの知見を得ることが出来よう。すなわち、物理環境的に最も制限された状況について読者が思いを巡らせることより得られる冒険的なセンスと純粋に想像的な刺激のダイナミズムについて把握し、そのようなテクストを読むことによって得られるリビドーを満足させるような経験と、想像も出来ないような不毛な感覚能力の剥奪との密接な関係について感得すればである。
(We would understand a great deal about the mechanics of mass culture and the ideological operation of this particular narrative form, if we could grasp the dynamics of that purely imaginative excitement and sense of adventure which readers derive from the contemplation of one of the most physically restrictive situations - if we could sense the intimate relationship between the libidinally gratifying experience of the reading of such texts and the unimaginablly barren sensory privation.)


つまり、宇宙空間という舞台がもたらす感覚能力の剥奪は、現代のスペースオペラに代表されるマスカルチャーエンターテインメント(「スター・ウォーズ」シリーズが典型的に当て嵌まるのでしょうね)の持つ欲求充足機能と何らかの関係があるのではないかということです。コンラッドの小説「ロード・ジム」で扱われる「海」も「宇宙空間」と似たようなところがあって、ジェームソンは「the peculiarly unpleasant narrative raw materials of the sea(海という奇妙な仕方で不快なナラティブの材料)」と「the day-dreaming fantasies of the mass public(大衆の抱く白昼夢的な幻想)」との間には一種のパラドキシカルな関係があると述べています。私め的に言えば、宇宙空間や海がもたらす感覚能力の剥奪の対象からは視覚は除外されるべきだと考えていますが(ジェームソンはそうは言っていません)、いずれにしても感覚能力が剥奪される宇宙空間という設定はオーディエンスに何らかの特殊な想像力を付与する傾向があるということであり、まさに「2001年宇宙の旅」の魅力の秘訣もそのようなところにあるのかもしれません。では感覚能力の剥奪というネガティブな要因が何故リビドーの欲求充足などというようなポジティブな結果をパラドキシカルにももたらすのかという疑問が湧いてくるのではないでしょうか。これについては、心理学者ではないからかジェームソンも明確には述べてはいないように思われますが、敢えて言えば以下のようなことを述べています。

◎視覚アートの日増しに増大する抽象化傾向は、単に日々の生活の抽象化を表し、断片化と実体化を前提とするのみではない。それはまた、資本主義の発達過程の中で失われたあらゆる物に対するユートピア的な補償作用としても機能する。すなわち、日増しに量化される世界の中における質的な場所として、市場システムの持つ世俗化傾向の中における古代的なものやフィーリングの場所として、計測可能な量的空間拡張と幾何学的抽象化の中における純粋な色や強度の場所としてである。
(The increasing abstraction of visual art thus proves not only to express the abstraction of daily life and to presuppose fragmentation and reification; it also constitute a Utopian compensation for everything lost in the process of the development of capitalism - the place of quality in an increasingly quantified world, the place of the archaic and of feeling amid the desacralization of the market system, the place of sheer color and intensity within the grayness of measurable extention and geometrical abstraction.)


抜粋なので資本主義であるとか市場システムなどの用語が突然飛び出してきて何じゃそりゃと思わせるかもしれませんが、ジェームソンはマルクス主義的立場に立つ評論家なのでそのような言い回しになるわけです。古代的なものの場所というフレーズで思い出しましたが、ある日本の評論家が「スター・トレック」シリーズに関して古代の司祭制度的な含みをそこに見出せると述べていました。上記文章を読んでいて気がつくことは、要するに抽象化傾向そのものが、抽象化傾向を補償するような作用(質的な場所、古代的なもの、フィーリング、純粋な色、強度)をも同時に含んでいるということであり、結局それは何故かという疑問は残ってしまいますが、いずれにしても意識の発生が無意識を生み出したように、抽象化傾向による感覚能力の剥奪は、異なるレベルでの感覚能力の精鋭化をもたらすということなのかもしれません。重要なことは同一レベルで2つの矛盾する傾向が同居することは土台不可能なので、異なるレベルでそれが成就されるということなのではないでしょうか。たとえば現実レベルで感覚能力の剥奪が進行するならば、それを補償する作用は想像レベルで機能するというようにです。

ところで、構造的なフォームが通時的なナレーションを凌駕しているのがキューブリックの作品だとかなり以前の段落で述べましたが、これについてもジェームソンはコンラッド作品「ノストロモ」の分析で関連しそうな興味深いことを述べています。長くなるので、結論部だけ以下に引用します。

1.常に既に開始されたダイナミックとして、また共時的システムの有する至高の特権的ミステリーとしての資本主義の出現、それはそれがひとたび機能するや、リニアな歴史を構築しようとする試み、或いは通時的な性向を持つマインドがそれの開始点について思いを馳せようとする傾向を貶める結果となる。
(The emergence of capitalism as just such an always-already-begin dynamic, as the supreme and previleged mystery of a synchronic system which, once in place, discredits the attempts of "linear" history or the habits of the diachronic mind to concieve of its beginings. )
2.「ノストロモ」は終局的には政治小説でもなければ歴史小説でもない。またもはや歴史に関するリアリスティックな表象でもない。それはそのようなコンテンツを抑圧し、そのような表象の不可能性を表わそうとする作動の中にまさに置かれているのである。
(Nostromo is thus ultimately no longer a political or historical novel, no longer a realistic representation of history; yet in the very movement in which it represses such content and seeks to demonstrate the impossibility of such representation.)
3.完成されたモダニズムの詩的装置は、かつて完成されたリアリズムのナラティブ装置が未だ中心化されていなかった主体のランダムな異種混合性を抑圧するのに成功したのと同様に、歴史を抑圧することに成功した。
(The perfected poetic apparatus of high modernism represses History just as successfully as the perfected narrative apparatus of high realism did the random heterogeneity of the as yet uncentered subject.)
4.ここに至り、ブルジョワ的生活という外観を呈するようになった日常世界においてと同様、モダニストのテクストからも不可視となり、蓄積された実体化作用により情け容赦もなく地下に追いやられた政治的なものは、ついに純粋な無意識と化した。
(At that point, however, the political, no longer visible in the high modernist texts, any more than in the everyday world of appearance of bourgeois life, and relentlessly driven underground by accumulated reification, has at last become a genuine Unconscious.)

3に関しては若干説明が必要でしょう。「かつて完成されたナレーティブ装置が未だ中心化されていなかった主体のランダムな異種混合性を抑圧した」とはどういうことかと言うと、自己(identity)という概念が発達する以前の時代は、中心的な主体性という概念が存在しておらず共通点を持たない種々様々な個々の要素がバラバラにランダムに存在するような様相を呈していたけれども、それがやがてidentityという統合的な概念によって近代以降1つの視点として統合されるようになったことを言っているわけです。つまりそれによって通時的なパースペクティブが真に生まれたということです。というのも、自己という統一的な視点が存在しなければ、種々様々な個々の要素を1つの通時的な様相として統合することなど不可能だからです。それがモダニズムになってもう一度ひっくり返されるのですね。つまり通時的なパースペクティブが共時的な構造によって抑圧されるようになるということです。これによってモダニズムに関しては「poetic apparatus」と呼ばれ、リアリズムに関しては「narrative apparatus」と呼ばれている理由が理解出来るはずです。すなわち詩はより構造的で共時的であるのに対し、ナラティブは通時的だということです。上記1から4を読んでいると何故か私めには、それまでのナラティブ中心であった映画と、キューブリックにより開拓された映像領域との関係とも相同的な関係にあるのではないかというにおいがプンプン漂ってきますが皆さんはどうでしょうか。

 総括すると、ジェームソンは文芸作品に関して政治的状況が無意識レベルにもたらす影響について述べていますが、このように考えてみると文芸作品とは現実的な状況の一種の補償作用として成立している、すなわち強烈にポリティカルな影響を受けているように思われますね。ジェームソンは専ら文学作品を題材としていますが、より大衆的基盤すなわちマスカルチャーに拠って立つ映画というメディアに対してはそれ以上に同じ論理が当て嵌まるのではないでしょうか。またそれが「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」のモチーフの1つでもあったわけです。最後に付け加えておくと宇宙という舞台設定によって剥奪された要素は、オーディエンスが自身の想像力によって補わなければならないのであり、それが1つの大きな魅力になるということかもしれません。とするとそのような映画が苦手な私めには、想像力が不足していということになってしまいますね。うーーん、悲しい結論になってしまいました。しかしながら我が身に関してはどうでも良いとして、いずれにせよ「2001年宇宙の旅」は見る者を「解釈」へと手招きして誘っているような作品であると同時に、これはまた同じことの裏返しになりますがたった1つの解釈が正しいとする見方を嘲笑うような解のない或いは解の存在を否定する作品であると言っても大きな間違いはないはずです。それ故、この作品が製作されてから既に40年近くが経過しているにも関わらず、私めも含めて皆して永遠に飽きることなくこの作品について語り続けているというわけです。

2006/07/09 by Hiroshi Iruma
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