ブレードランナー ★★★
(Blade Runner)

1982 US
監督:リドリー・スコット
出演:ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤング、ダリル・ハンナ

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<一口プロット解説>
人造人間=レプリカントを見分けて抹殺する使命を担ったブレードランナーと呼ばれる警察官(ハリソン・フォード)が、脱走した4人のレプリカント達を追跡する。
<入間洋のコメント>
 「ブレードランナー」は、1980年代初頭に製作された映画で当ホームページのサブタイトルが示す年代からははずれますが、次の2つの理由からここに取り上げることにしました。第一の理由は、「ブレードランナー」に限らず1980年代のSF映画一般にどのような傾向があったかを考えてみることによって、それ以前すなわち1950年代から1980年代までのSF映画の持っていた傾向を逆照射し、より明確に浮き彫りにする為です。とはいえ、たとえば最近では「未来惑星ザルドス」(1974)のレビューなどで述べたように、1950年代から1970年代の期間のみを取り上げたとしても、SF映画の傾向は大きく変化してきました。しかしながら、それ以上に大きく変化するのが1980年代以後です。具体的な意味はこれから説明しますが、1980年代のSF映画はいわゆるポストモダン的色彩が濃厚になります。「スター・ウォーズ」(1977)を唯一の例外とすれば、1980年代に入るまではポストモダン的な傾向はほとんど全く見られなかったのです。以下、1980年代に全盛を迎える新たなこの傾向をポストモダン、それ以前から存在した傾向をハイモダンと呼ぶことにします(何故そのように呼ぶかというと、これから紹介するビビアン・ソブチャックのSF論「Screen Space」がそのような呼び方をしているからです)。実は、1980年代初頭に製作された「ブレードランナー」は、いまだに既存のSF映画の流れ、すなわちハイモダン的な傾向を維持しながらも、同時にポストモダン的な要素も濃厚に見られる過渡的な性格を持った作品なのです。リドリー・スコットの前作「エイリアン」(1979)は極めてユニークな作品であり、ホラー要素とSF要素がミックスされる傾向が強くあった1950年代SFへの先祖返り的な特色を持っていました(多くの1950年代SF映画が持つホラージャンルとの混淆性については、ボディー・スナッチャー/恐怖の街」(1956)のレビューを参照して下さい)。実はこの前作「エイリアン」の特徴を見事に反転した、というよりも過剰化して表面化したのが「ブレードランナー」であるというのがこのレビューの主張の1つですが、それだけでは「何のこっちゃ?」と思われるはずであり、これについてはこれから徐々に明らかにします。1980年代の作品を取り上げる第二の理由は、ここ何度かSF映画のレビューで取り上げてきたビビアン・ソブチャックのSF論「Screening Space」(Rutgers University Press)が極めて興味深いので、その内容をある程度まとめて紹介したいこともあってです。「Screening Space」は1980年代後半に出版されたにも関わらずどうやら日本語訳はまだないようであり、またソブチャックの名前をGoogle Japanでサーチしてもほとんど日本語の記事は検索されないようなので、彼女自身日本ではまだほとんど知られていないかもしれません。多分、日本では映画論或いは表象論関係を専攻する大学の専門家くらいにしか知られていないのではないかと思われます。しかしながら「Screening Space」は専門家以外が読んでも極めて面白い本であり、1950年代から80年代までの米国産SF映画に対象が限られるとはいえ個人的にこれまで読んだ映画論の中でも最も興味深いものだと断言できます。ソブチャックのこの本は、全部で4章から構成されており、第1−3章までは専ら1950年代から1970年代のSF作品とその特徴に関して書かれており、これらの章に書かれている内容のいくばくかについてはこれまで何度か引用してきました。最後の第4章は、専ら1980年代のSF映画に焦点が当てられており、当レビューもこの「Screening Space」の第4章の内容に大幅に依拠して書く予定です。この本が出版されたのは1980年代なので、1980年代のSF作品とは、この本にとってはコンテンポラリーなSF作品であったことになります。1つ付記しておかなければならないことは、第1−3章までは英語が読めさえすれば恐らく誰でも分かるような平易な内容であるにもかかわらず、第4章のみはフレドリック・ジェームソン、ジャン・ボードリヤール、ミシェル・フーコーなどへの引用が頻繁に見られ、表象論やポストモダンに関する理論などの知識がなければ相当に読みにくい面があることです。とはいえ、よく読めば極めて含蓄に富んだ内容が記されていることが分かり、読みながら何度も唸ってしまいました。ということで、「ブレードランナー」のレビューの場を借りて、今まで取り上げなかった「Screening Space」の第4章について紹介することにしました。従って、以下の見方の多くはこの本に依拠したものであることを最初にお断りしておきます。また、出典箇所を明確にするために、「Screening Space」の対応する原文を可能な限り脚注として添付しておくことにしました。[対応原文X]と本文中にある場合、それは対応する原文が脚注として記載されていることを意味します。今回は引用量も多いこともあって原文のみ記しますが、必ずしも脚注原文を読まなくても分かるように本文を記述するよう注意を払っています。但し、興味のある人で英語が問題でなければ、是非とも脚注の原文も読んでみてください。脚注原文末尾の()内に「Screening Space」の該当ページを付記しておきました。

 ということで、まず「ブレードランナー」という一作品に特化せず、1980年代のSF映画にはどのような特徴があったかについて考えてみることから始めましょう。それに関してソブチャックは、1980年代に特徴的となるビジュアル空間のマッピング様式として2つのキーワード「deflation」と「inflation」を挙げます。何故ビジュアル空間かというと、まさに1980年代のSF映画は、物語叙述(ナラティブ)を中心とする従来的なあり方が、ビジュアル空間の提示様式によって寸断される傾向がしばしば見られるようになるからですが、これについてはこれから徐々に説明します。また、マッピング様式とはどのような意味かについて、説明しておく必要があるでしょう。映画は基本的にはスクリーンというビジュアルな空間に映し出されなければならないが故に、たとえば物語叙述(ナラティブ)ですら最終的にはビジュアル空間に投影されねばなりません。つまり、物語叙述を一連のビジュアル画像にマッピングしなければならないということです。映画評論家たちがよく口にする意味での「モンタージュ」とは、そのようなマッピングを行う技術の1つであると定義できますが、それについて説明し始めるときりがなくなるので、ここでそれは行いません。このようなビジュアル空間へのマッピングは、何も物語叙述だけに関して問題になるのではなく、たとえば人間の心理をどのようにビジュアル空間にマッピングするかというような命題も当然存在し得ます。この命題に対する回答の1つが、光と陰のコントラストを強調する表現主義の技法であったことは言うまでもありません。その意味では、表現主義とは、表現主義マッピングというビジュアル空間へのマッピング技法の1様式であったと言い換えても差し支えないでしょう。さて、では、そのようなマッピング様式としての「deflation」或いは「inflation」とはいったいどのような意味なのでしょうか。辞書的には、前者は「放出、収縮」、後者はその逆に「膨張」という意味がありますが、勿論ソブチャックは相当特殊化された意味でこれらの用語を使用していることは言うまでもありません。まず、「deflationマッピング」から説明しましょう。結論的に云えば、彼女はこれをビジュアル空間として表現される表現の次元を、多次元からフラットな二次元に低減させ「収縮させる」というような意味で使用しているようです。或いは彼女の言に従えば、「次元の喪失」というよりもむしろ「表面の過剰」として捉えるべきであるとも述べており[対応原文1]、このマッピングが適用された作品が提示するハイパースペースは、誇らしげに二次元的であるとも語っています[対応原文2]。その最も端的な現れは、たとえば「トロン」(1982)のようなSF映画にしばしば見られる、宇宙空間とエレクトロニクス空間を等値する傾向に見出せます[対応原文3]。但し、このような言い方をすると、映画が投影されるスクリーンはそもそも平面なのだから、3D映画でもない限り映画のビジュアル空間がフラットな二次元であるのは当たり前田のクラッカーではないかと思われこと必定でしょう。しかしながら勿論、ここでいうビジュアル空間の次元とは象徴的な意味において言及されているのであり、そもそもそうでなければ「ブルネレスキさんだったかアルベルティさんだったかが誇らしげに始めた遠近法だってフラットじゃん」ということになってしまいます。実は、それどころか、ソブチャックが云いたいことは単に遠近法のような純粋に視覚的なビジュアル効果のことだけを指しているのではなく、たとえば表現主義映画に見られるような心理的な効果を狙った陰影などによる「深さ」の表現などをも含めてビジュアル空間の次元と言っているのですね。その意味で言えば、1950年代のSF映画にしばしば見られた個人心理に深く根差す傾向を持つホラー映画との混淆性は、まさしくビジュアル空間の多次元性が「心理的な深さ」として極端化して顕現したケースであったとも考えられるかもしれません。リドリー・スコットの前作「エイリアン」は、1970年代も末に製作された作品であるにも関わらず、この見地から見れば全く先祖返り的なビジュアル空間を持った作品であると見なせるのです。「エイリアン」のレビューの中で、同映画は「デカルト・ニュートン的な等質化された空間表象が色濃く反映される宇宙という舞台を取り上げて、そこに有機的、内臓感覚的なイメージを詰め込んだ」と書きましたが、有機的、内臓感覚的とは、これこそまさに「深さ」の次元の具体的な体現様式であると見なすことができます。これに対して、1980年代のSF映画では,ソブチャックの用語を用いれば、空間が意味論的(semantically)にも全くの表面或いは表層(surface)として扱われ、その中をたとえば宇宙船などのオブジェクトが動力学的に(kinetically)移動する(この意味は次の段落にて詳しく説明します)とでもいうべき表現が一般的になります[対応原文4]。「意味論的」とわざわざ断りが入っているのは、前述したようにソブチャックがいうビジュアル空間の次元とは単に視覚的な次元のみを指しているわけではないからです。このような表面或いは表層への拘泥は、無数の偶然的で仔細なビジュアルイベントのコラージュを視覚が捕捉してそれを享受するとでもいうべきビジュアル表現を生み出します[対応原文5]。これは、まさしくゲーム画面、それも殊にシューティングゲーム画面の感覚であるとも云えるのではないでしょうか。シューティングゲーム画面においては、UFOなどの無数のオブジェクトが織り成すブラウン運動のような動きによって発生する数限りのないの些細なビジュアルイベントがゲーマーのビジュアルフィールドを襲ってくるのであり、そのような過剰なビジュアルに対処する技術を身につけた人々、或いは更に云えばそのようなビジュアルフィールドを豪華フランス料理のように享受する術を身につけた人々がベテランゲーマーと呼ばれるのです。「スター・ウォーズ」のクライマックスのシューティングゲームのノリの宇宙戦闘シーンなどがまさにそのようなビジュアル空間の顕現の際たるものであり、それ故1970年代の作品の中にあっては「スター・ウォーズ」は極めて先駆的であったと言えるのです。かくして「深さ」のない「浅い」表層に覆われたビジュアル空間においては、隠されるべきものは何もなくなり、全てが画面というフラットな表面に顕現し、明示的に表示されます[対応原文6]。そうなると、表現主義的な、或いはフロイト流の「何かが隠されている」という表現様式自体全く無意味となり、それのみか「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のような宇宙人のひそかな侵略などというストーリー展開もビジュアル面と不調和を来たす結果になります。かくして、もはやビジュアル空間はその背後に意味を内包する背景コンテクストとしては機能しなくなり、ただ前景としてのテクストのみが剥きだしのまま提示される傾向が圧倒的になります[対応原文7]。「誰がシューティングゲームの背後に、ありもしない隠された意味を見出そうとするのでしょうか?」、「誰が「スター・ウォーズ」の宇宙戦闘シーンの背後に、ありもしない隠された意味を見出そうとするのでしょうか?」というわけですね。このことは、 ターミナル」(2004)のレビューの中で「近年の映画においては行動する主人公に焦点があまりにも置かれ過ぎていて、主人公を取り巻く環境としての「場所(Place)」に重きが置かれることがほとんどない」、或いは「近年のアクション映画にカーチェイスシーンが多いのも、アクションヒーローを取り巻く環境とは当のアクションヒーローにしてみればその中を高速で移動する抽象的空間でしかないが故に生じる環境搾取の反映であり、従ってそこに環境との相互インタラクションなど望むべくもなく、アクションヒーローの運転する車が駆け抜けた後は、瓦礫の山と化した廃墟しか残されない」と述べた点と、似た側面があるようにも考えられるのではないでしょうか。

 次に疑問になるであろうことは、それでは何故、或いはいったいどのような目的で「deflationマッピング」が1980年代になって隆盛を誇るようになったのかという点でしょう。言い換えると、「deflationマッピング」は、いったい何をビジュアル空間にマッピングしようとしているのでしょうか。「Screening Space」は通しで2回は読んでいる上、今回このレビューを書く為に第4章だけ部分的に何度か読み返していますが、実を云うと、どうもこれに対する回答は明示的には書かれていないようです。従って、この問に関しては個人的に考えてみるしかないようです。そこでつらつらと考えてみると、前段落の「オブジェクトが動力学的に(kinetically)移動するといったような表現」に大きなヒントがあることに気付くことができます。まず、「動力学的に(kinetically)」の意味を明確にしましょう。「kinetically」は勿論「kinetic(運動の、動力学の)」の副詞化された形態であり、それを扱う科学が「kinetics(動力学)」です。では「動力学(どうりょくがくではなく、りきがくの一分野である「どう−りきがく」なので念のため)」とは、いったいどのような科学なのでしょうか。個人所有の英和辞典には「kinetics」は「動力学」であるとしか記載されていないので、インターネット上のAnswers.comで調べてみると、「物体、或いは複数の物体から構成されるシステムの運動に力が及ぼす影響に関連する力学の一分野であり、殊に、そのシステム自身に起源を持たない力の影響を扱う(The branch of mechanics that is concerned with the effects of forces on the motion of a body or system of bodies, especially of forces that do not originate within the system itself.)」とあります。ここで重要なのは後半の「そのシステム自身に起源を持たない力」という部分です。つまり、ある運動を観察した時に、その運動を内在的な力によって説明しないということです。たとえば、キューで突かれたビリヤードの玉が動くのは、そもそもプレイヤーがキューで玉を突いたからであり、ビリヤードの玉自身が汗をかきかきヒーヒー言いながらながら転がっているわけでないことは言うまでもありません。但し一つ注意すべきは、上の定義で「especially(殊に)」という一語が挿入されていることです。この副詞は例外をすべて排除するという意味ではないので、裏を返せば、「そのシステム自身に起源を持たない力の影響を扱う」のが普通ではあるが、「そのシステム自身に起源を持つ力の影響を扱う」ケースもあり得ることを示唆します。従って、むしろこの定義は、内的な動因にせよ外的な動因にせよ観察対象となるシステムに一度トリガーが与えられてしまえば、たとえかくして与えられた力の影響に対して更に変化を引き起こすだけの自律的な能力がそのシステムに備わっていたとしても、それについては全く考慮せず、また、初期トリガーを与えた動因が何であるかについても不問に付し、トリガーとして与えられた力の純粋な量と、トリガーを与えられたシステムのその後の現象的な変化(たとえば単位時間あたりの移動距離など)の相関を観察するというように読み替えるべきなのでしょう。このように考えてみると、一度(外部から)衝撃を受けて転がり始めたビリヤードの玉が、その影響のみによって(すなわちビリヤードの玉が、ウケを狙って自分の意志でふいに立ち止まったりしないことを前提として)以後どのような運動を示すかについて論ずるのが動力学であるというようなところになるのではないでしょうか。端的に云えば、動力学は、動因が何であるかに関わらず、物体にある力が及んだ場合、それが物体にどのような作用を及ぼすかを研究するというようなところとイコールになるのでしょう。そうすると、「オブジェクトが動力学的に(kinetically)移動するといったような表現」の真の意味は、いわばUFOなどのオブジェクトが、空間座標上を現象的に移動する様を、その動因を捨象して表現するというようなところになるでしょう。たとえば「長距離ランナーの孤独」(1962)や「炎のランナー」(1981)で、マラソンランナーが心臓をバクバクいわせヒーヒーいいながら走っているシーンがあったとすれば、それをもって「動力学的に(kinetically)移動する」表現であるとは言えないということです。何故ならば、そこには必ずや運動主体すなわちマラソンランナーの意志という動因に突き動かされて彼=オブジェクトは走っているのだというコノテーションが含まれているはずだからです。「彼=オブジェクト」と書きましたが、実はこのような表現が行われてしまえばもはや「彼」をオブジェクトとしては見ていないということを意味します。裏を返せば、運動主体の意志を全く無視した表現がなされれば、人間であっても十分に「オブジェクト」たり得るということです。しかしながら、人間を例として取り上げるのはあまり適当ではないと指摘されそうなので、それならば「2001年宇宙の旅」(1968)冒頭近くで描かれる、ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のメロディに載って人工衛星が軽やかに舞い踊るビューティフルなビューティフルなシーンはどうでしょうか。「美しき青きドナウ」の調べは、勿論舞い踊る人工衛星に内在するわけではなくサウンドトラックというビジュアル空間の外から与えられているので、一見するとこれは前記動力学の定義に違反してはいないように見えます。しかしながら、実はそうではないのですね。というのも、このシーンでは、まさしくサウンドトラックというビジュアル空間の外から与えられているはずの「美しき青きドナウ」のメロディの軽やかさが、あたかも人工衛星に内在するかのようにオーディエンスによって体験されるように意図されているからです。すなわち、キューブリックは、この場面では「軽やかさ」という主観的なコノテーションを持ったサウンドをビジュアル空間にまさにマッピングしようとしているのです。「いとも軽々と踊っている」という主体的な動因に基く身振りが擬態されているということですね。「2001年宇宙の旅」のレビューで述べたように、この作品の抽象性は極めて斬新なものであったことは間違いなく、だからこそ現在でも「ブレードランナー」以上に巷で言及されることの多い作品なのですが、やはりそれでもシューティングゲームのようにフラットなビジュアル空間の中でオブジェクトが主体動因なくブラウン運動のように動く世界が表現されているわけではないのです。一言で云えば、「2001年宇宙の旅」で提示される宇宙は依然として「ディープ・スペース」なのです。「スター・ウォーズ」のような動力学的なビジュアル空間を誇るポストモダンSFと違って、「2001年宇宙の旅」が提示するビジュアル空間は「ディープ・スペース」であるからこそ、奥底に眠っているであろう意味の鉱脈を求めてオーディエンスは尽きせぬ思索にいざなわれるのです。パウル・クレーの青一色に塗りつぶされた絵が、見る者を深い瞑想に誘い込むのも、それらの絵が「ディープ・スペース」を表現しているからではないでしょうか。これに対して、1980年代の「deflationマッピング」されたビジュアル空間においては、主体的な動因に基く身振りが擬態される可能性が全く排除されているのです。ここで注意しなければならないのは、これは必ずしもそのような映像がオーディエンスの運動感覚に全く働きかけないことを意味するのではなく、むしろその反対であり、オーディエンスに動力学的な動きを誘発するという方が正しいでしょう。しかしながら、それはあくまでも動力学的な力のビジュアル表現に対する感応に由来する反射的反応なのであり、主人公の主体的な動因に対する共感などでは全くないのです。「スター・ウォーズ」の宇宙戦闘の場面では、主人公が乗った宇宙船がいかに困難な動きを見せようが、それは主人公の超人的な主体的努力を表しているのではないのです。そもそも主人公の超人的な努力を表すには、宇宙船の動きはあまりにも速すぎ且つ複雑すぎるのですね。従って、「スター・ウォーズ」を見ているオーディエンスが、宇宙戦闘シーンで主人公の乗った宇宙船の動きに合わせて、自分の体を右に左にくねくねさせたとしても、それは宇宙船の動力学的な動きに対する単なる反射的な反応であると見なされるべきでしょう。そのように考えてみると、裏を返せば、「スター・ウォーズ」以前の映画は、人間であろうが物体であろうがそれがその映画の重要な構成要素であるならば、その動きの中には「主体的な動因に基く身振り」が擬態されねばならないと考える限界に捉われていたと見なせるかもしれません。たとえば、いかにジェームズ・ボンドの活躍が超人的であったとしても、そこでは超人的なボンドの主体的な身振りが全く消去されていたわけではないのです。つまり、ジェームス・ボンドというヒーローは、人間的な身振りの限界の中で超人的でなければならないのです。だからこそ、ボンド映画においては、危険なシーンでは生のスタントマンがボンド役を肩代わりする必要があったのですね。多分現在でもボンドシリーズでは、コンピュータグラフィックスなどによってボンドの動きが表現されることはないはずです。ボンドシリーズのある作品のDVD音声解説の中で、製作関係者の一人が、コンピュータグラフィックスのようなトリックは一切用いられてないことを誇らしげに語っていましたが、彼の直感は全く正しいと言えるでしょう。もしコンピュータグラフィックスのようなトリックに頼るようになってしまえば、「主体的な動因に基く身振り」が極めて重要であるボンド映画は一巻の終わりであるということを製作者達も了解していたということです。このような既存の傾向に対して、「deflationマッピング」は、「主体的な動因に基く身振りを擬態する」必要性を抹消するためのマッピングであったといううことができます。従って、お気付きのことと思いますが、コンピュータグラフィックスなどの高度なテクニックが発達しない限り、このマッピングを実現することは困難だということです。日本では、というよりも当時世界中を探しても、ブロック崩しやインベーダーゲーム程度のコンピュータゲームしか存在しなかった折に、「スター・ウォーズ」を撮った事実は、やはり特筆すべきものがあるでしょう。そして、今やシューティングゲームまがいのアクション映画が全盛を迎えているわけであり、「主体的な動因に基く身振りを擬態する」必要性からの解放を意味する「deflationマッピング」の効果は絶大であったと言わざるを得ないでしょう。

 さて、次は「inflationマッピング」です。「inflation」は「deflation」の反対語なので、この2つの特質は共存できないように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。この2つの性質は十分に共存し得ます。というのも、「deflationマッピング」の場合には、前述の通りビジュアル空間の「次元のdeflation」という意味でこの語が使用されていましたが、「inflationマッピング」の場合「inflate」されるのは視覚オブジェクトの密度だからです。荒っぽい言い方をすれば、次元が減ってしまえば、減った次元にかつて含まれていた内容物は、残された次元に投射され直されなければならないので、残された次元に含まれるべき内容物の密度はふくれあがってしまうということです(これに関するソブチャックの主張は後述します)。すなわち、「inflationマッピング」は、ビジュアル空間に配置される視覚対象となるオブジェクト、すなわち「モノ」の数を増殖させ、まるでガラクタ置き場のように空間を稠密にさせるのですね[対応原文8]。たとえば、「ブレードランナー」のビジュアル空間は、フラットではないとしても、隙間のない程「モノ」「モノ」「モノ」で溢れかえり、まさに「モノ」が大増殖しています。あたかも、精神病患者があらゆる空白を見つけてはそこに何らかのオブジェクトを埋め込まなければ気が済まないといった体であり、ワイドスクリーン画面をこれだけの「モノ」で氾濫させるには随分とおゼゼがかかっただろうになどと余計な心配すらしたくなります。これは、まさに「inflationマッピング」が作用した結果であり、後述するように個人的には「ブレードランナー」は、その最初の実例ではないかとすら考えているほどです。ところで、ここでソブチャックは、相当に大胆で且つ極めて興味深い主張を繰り広げます。それは、このようなオブジェクトの増殖は、質としての「深さ」が脱指標化(de-sign)され、量としての「表面」へと再指標化された結果であるという主張です[対応原文9]。言い換えれば1980年代のSF映画では、目に見えるはずのない「深さ」の次元が、表層の「オブジェクト」へと視覚化されているということです[対応原文10]。すなわち表現主義が明暗のコントラストを巧みに利用して、心理的な次元をビジュアル空間にマッピングしたとするならば、「deflationマッピング」は、そのような「深さ」の次元を、表層に配置されるオブジェクトによってマッピングしようと意図するものであるといえるでしょう。確かに一方では、「ブレードランナー」がオーディエンスに提示する終始暗い色調の画面は、フィルムノワール的であると評されることが多いようであり、ソブチャックもそのように評する一人ですが、実はフィルムノワールという表現主義的傾向はギャング映画やホラー映画に適用されることが多かったのであり、恐怖とか不安或いは暴力性などというようなネガティブな心理面に強く結び付いていたように思われます。ところが、「ブレードランナー」の凄さは、ノワール的な雰囲気が濃厚にありながらも、必ずしもそのようなネガティブな心理面の投射のみにビジュアル空間の表現様式が限られているわけではないことです。これから述べるように、「ブレードランナー」にはエロティック或いはノスタルジックなどというような心理面も同時に表現されているのであり、そのようなポジティブな心理表現が可能になるのは、まさに「inflationマッピング」が効果的に機能することによってであるというのが私見です。「深さ」の次元から掘り出された滋味豊かなイメージが表層に投射されるが故に、画面上を所狭しと埋め尽くす「モノ」にそのようなポジティブな価値が反映されると言えばよいでしょうか。これに関してソブチャックは次のように述べます。すなわち、画面上に現れる「モノ」は表層に固定される以前の段階では無意識的な領域に隠されていたものである為、エロティックで感覚的な色合いを帯びて立ち現れてくると[対応原文11]。このように述べると随分とブっ飛んで聞こえるかもしれませんが、このことは、「ブレードランナー」のえも言われぬ画面にうっとりと見入ったことがある人には感覚的に十分理解できるのではないかと思います。また「弧の増殖」のような細かい幾何学的オブジェクトが増殖する様子を描くのが得意なタンギーの絵のように、無気味さの中にもえも言われぬエロティックでシュールな魅力があるとも云えるかもしれません。かくして「ブレードランナー」のような作品が出現した一方で、このようなある意味では息がつまるようなオブジェクトの過剰からの脱出を図り、オープンスペースを求めんとするタイプの「未知との遭遇」(1977)や「スターマン」(1984)のようなSF映画もあるとソブチャックは述べます[対応原文13]。ただこれに関しては、「スターマン」はまあ良しとしても、「未知との遭遇」は「スター・ウォーズ」と同時期に製作された1970年代の作品であり、「inflationマッピング」が効力を発揮して「モノ」が溢れかえっているビジュアルを特徴とするSF作品はそれ以前にはなかったはずであることを考えれば、確かに動機説明としては面白くとも、これらの作品が「inflationマッピング」に対するリアクションとして出現したと考えるとするならば、それには難があるというのが個人的な印象です。

 前述の通り、「inflationマッピング」と「deflationマッピング」は両立し得ますが、それどころかむしろ融合する傾向があり、ソブチャックはわざわざこの融合したマッピング様式を第3のマッピングとして分類しています[対応原文12]。かくして、ビジュアル次元が平板化し、その平板化した表面が、増殖した視覚オブジェクトで充たされるようになると、時間的次元を統御するナラティブすなわち物語叙述が寸断化される傾向が出現します。つまり、物語の流れの連続性や統合性が不安定化します。「小さな巨人」(1970)の註でも述べたようにナラティブとは単に物語叙述を指すだけではなく、そのような物語叙述によって支えられるべき社会的或いは個人的なアイデンティティをも同時に含意されます。従って、かくして寸断化された物語叙述は同時に登場人物達のアイデンティティの描写にも大きく影響を与えざるを得ません[対応原文14、15]。更に、時間次元の不安定化はまた、物語の叙述レベルにおいて過去、現在、未来が融合されがちになるという効果をもたらします。たとえば、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズなどが典型例であり、ソブチャックもこのシリーズをそのような例として挙げていますが、それは単にストーリーが過去や未来にジャンプするからというのではなく、基本的にこのシリーズで描かれる風景或いはその中に置かれた様々なオブジェクトは、時代指標をほとんど有しておらずむしろ無時間的だからです[対応原文16]。これはソブチャックの弁ではありませんが、1980年代以後のSFにおける過去、現在、未来の融合化傾向は次のような点にも見出だされるのではないかと考えられます。すなわち、「マイノリティ・リポート」(2002)のレビューで「交通手段等のパブリックな領域においては進化したテクノロジーがふんだんに利用されている様子が描かれているにも関わらず、人々が住むプライベートな領域においては何も進化していないどころかかえって退化しているとさえ言えるような様子が描かれている」と述べたように、未来的な光景と何やら昭和30年代とでもいえそうな光景が同居しているシーンがしばしば見受けられる点にです。この傾向は、「ブレードランナー」にも見事に当て嵌まるでしょう。また過去、現在、未来という時間のモードが融合されがちになるというだけではなく、東洋的な光景と西洋的な光景も平然と同一空間に融合併置され、この点に関して「ブレードランナー」が最も雄弁にその実例を示していることは一目瞭然でしょう。要するに時間的差異であろうが空間的差異であろうが、差異の部分がなしくずしにされて、何もかもが交換可能な等価的価値を帯びて平然と併置されるのです。ソブチャックは第4章では、ポストモダン高度資本主義社会における表象文化論で知られる「政治的無意識」(平凡社)のフレドリック・ジェームソンをしきりに引用しており、話がややこしくなるのでここでその詳述は行いませんが、要するにこのような時間空間表象の様式はポストモダン高度資本主義社会の特質とパラレルであると考えているようです。つまりそのような文化様式が、見事にこれらのSF映画の中に顕現しているということです。

 このようにして、「inflationマッピング」と「deflationマッピング」の徹底的な適用により、時間次元すなわちナラティブが徹底的に断片化されると、一種分裂病的(schizophrenic)なナンセンスに陥りがちになることは明らかです。ソブチャックは、このような断片化されたポストモダン的ビジュアル空間の提示と従来的なハイモダンなナラティブの提示の間の均衡を失った格好の例を「砂の惑星」(1984)に見出しており、それに対してそれより数年前に製作された「ブレードランナー」は、そのような均衡を取るのにまだ成功していると考えているようです[対応原文17]。従って、「ブレードランナー」は、既存のハイモダンな様式と1980年代のポストモダンな様式の双方がバランスよく含まれている過渡的な作品であるように考えられています。かくして陥った分裂病的ナンセンスによって、「砂の惑星」などの、一方で従来的なナラティブに固着しようとして均衡を取ることに失敗したポストモダンSFは、マッドキャップなコメディであるかの様相を呈することが時にあるとソブチャックは述べます[対応原文18]。スラップスティックコメディアンが時間軸に沿ったナラティブを軽々と逸脱して断片的でマッドキャップなビジュアルシーンをこれでもかこれでもかと繰り出すのと同様、ナラティブという糸がプッツンしたポストモダンSFは時に見事にスラップスティック的領域に突入することがあるということです。私見ではその点では、既に「ブレードランナー」にも同様な傾向が萌芽的に見て取れると考えています。たとえばクライマックスのハリソン・フォード演ずるデッカードとルトガー・ハウアー演ずるレプリカントとの対決(というよりデッカードがひたすら逃げまくっているだけですが)などは、むしろコメディ仕立てであるようにすら見えます。というよりも、コミカルに見えることが意図されていることは明らかであり、ルトガー・ハウアー演ずるレプリカントのコミックなセリフは別としても、そもそも主人公のデッカードが、スラップスティックコメディアンよろしくひたすら逃げ回っている点に既にそのような傾向が明瞭に現れています。しかしながらこのような分裂病的傾向は、必ずしも「砂の惑星」のような「わやくちゃ」を生み出すものとしてマイナス方向にばかり捉えるべきではなく、むしろ「分裂病的な」という用語が一般に与えるような病的なコノテーションを脱し、時間軸に沿ったナラティブの専制から解放された新しい感覚の創造を可能にするという見方をとりプラス方向に考えることもできると、ジェームソンを援用しながらソブチャックは主張します[対応原文19]。彼女によれば、「断片の集積」を病的なイメージであると見なすことがなくなれば、多幸的幸福感(euphoria)が不安感や疎外感(※)に取って代わると述べます[対応原文20]。また、ここで云う多幸的幸福感とは、時間軸に沿ったナラティブに支えられた従来的な主体的な自己によって生み出されるのではなく、空間の中のオブジェクトとして拡散された自己によって構造化され表象されると述べます[対応原文21]。かなり難しい言い方がされていますが、「ブレードランナー」を見た時に感ずるエロティックで感覚的な幸福感とは、出来のよい物語を聞いた時に感ずるような、時間軸に沿って徐々に組み立てられていく体験集積的な感覚なのでは全くなく、無意識的な刻印を帯びたオブジェクトが視覚空間に散りばめられている様を一挙に視覚的に捉えることによって得られる感覚なのであり、ソブチャックの言はそのような意味で解釈できるように思われます。これは言い換えると、従来は時間軸に沿ったナラティブに支えられた主体によって表現されていた「特殊主体的な感情(special affect)」が、ポストモダンSFでは空間的に表現された「特殊効果(special effect)」によって置換されていることを意味します[対応原文22]。従来のSF作品では、特殊効果と云えば最先端の技術すなわち科学の有する客観性を代弁し「冷徹な理性(rational coolness)」の存在を象徴するものであったのが、ポストモダンSFにおいては強度の感情から放射される「非理性的な暖かさ(irrational warmth)」の象徴として機能するケースが増えているということです[対応原文23]。そのような傾向を有する映画の草分けは「未知との遭遇」ということになりますが、「スターマン」、「E.T.」(1982)、「コクーン」(1985)或いは比較的最近の作品では「A.I.」(2001)などが典型な作品として挙げられるでしょう。スティーブン・スピルバーグの作品が多いですね。

※ソブチャックは「疎外(或いは精神錯乱の意味もある)」を意味する「alienation」という単語をしばしば「alien-nation」というようにハイフンで分割して、「疎外(alienation)」と同時に「よそ者(alien)」という意味の双方を持たせようとしているようです。いずれにせよ、ここで云う疎外とは恐らく、断片化された個々の個が、互いに他から切り離されている様を指していているのではないかと考えられます。

 このように考えてみると「ブレードランナー」が、SF映画の発展の歴史で占める位置が浮き彫りにされます。すなわち、一方で「deflationマッピング」の適用によりポストモダン的傾向が顕著に見られるのに対して、ナラティブすなわち物語の叙述様式としてはまだまだ従来的なハイモダンな傾向を有しているということです。前述の通りソブチャックも、「ブレードランナー」においては、ポストモダン的なビジュアル空間の提示と従来的なハイモダンなナラティブの提示の間の均衡が保たれていると考えています[対応原文17]。考えて見れば、SFの巨匠の一人であるフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」というれっきとした原作があることもあり、物語叙述面ではそう滅茶苦茶な改竄はできないことは確かでしょう。それに対して、もともと小説である原作には直接的に目で見える形で存在することのなかったビジュアル面は、手を加えることの出来る幅が極めて大きく、リドリー・スコットの手腕がそこで最大限に活かされたということではないでしょうか。彼の前作は、「エイリアン」ですが、「エイリアン」はまさに「2001年宇宙の旅」や「スター・ウォーズ」などによってSF映画から失われつつあった「深さ」の次元が再度捉え返された、ある意味で先祖返り的な作品であったことは既に何度か述べました。しかしその彼の「エイリアン」の持つ「深さ」のビジュアル感覚が、「ブレードランナー」のビジュアル空間、すなわちビジュアルオブジェクトが表層を増殖するビジュアル空間を可能にしたことも確かなのではないかと考えています(勿論、「エイリアン」ではH.R.ギーガーが、「ブレードランナー」ではシド・ミードが、ビジュアル顧問としてバックアップしていたので、リドリー・スコット一人の業績だというつもりは毛頭ありませんが)。個人的には「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスや「2001年宇宙の旅」のスタンリー・キューブリックが、「ブレードランナー」のビジュアルを実現できたようにはとても思えないところがあります。前者は「deflateマッピング」の傾向があまりに強く「inflationマッピング」がほとんど全く感ぜられないこと、後者は前述の通り主体的な動因に基く身振りの擬態が見られるという論点は別としても、そもそも抽象化の度合いが高すぎてオブジェクトの増殖どころかオブジェクトの貧困(これは量的な意味においてです)といった方が似つかわしいすっきりくっきりした画面特徴が支配的だからです。それに対して、ギーガーの手も借りて創造した「エイリアン」の臓物感覚を表層にマッピングし直せば、きっと「ブレードランナー」のビジュアルが出来上がるのではないだろうかという印象を受けるのは、私めだけではないのではないでしょうか。個人的には、ソブチャックの述べるポストモダンSFの二大マッピング様式のうち、「inflationマッピング」に関しては、まさにリドリー・スコットその人が「ブレードランナー」によって完成させたのだとすら考えています。これに対して、「deflationマッピング」に関して云えば、いまだそれに反するかのように「エイリアン」で表現されていた「深さ」の次元が残されているのです。またナラティブ面でも最初から最後まで明確なプロットが時間軸に沿って途切れることなく維持されています。それ故、過剰すぎるビジュアルにも関わらず???というシーンがほとんど全く存在しないのですね。さらに重要なことは、「ブレードランナー」では主体の視点がなし崩しにされることが決してありません。それどころか、ラストシーン近くのルトガー・ハウアー演ずるレプリカントやショーン・ヤング演ずる秘書レプリカントがそうであるように、ねーんげん的な(すんましぇん、望月市恵他訳のトーマス・マン「魔の山」のロシアのお姉ちゃんの「人間的」を意味する表現が頭にこびりついていて思わず使ってしまいました)主体や感情とは無縁であるはずのレプリカント達ですら、ねーんげん的な感情を見せようとするのですね。一般にポストモダン的なパラダイムの中では、個物はいつでも置換可能であると見なされているのであり、この意味でモノは「オリジナルとコピー」の図式で捉えられるのではなく「オリジナルの存在しないクローン」として捉えられます。これは単に物体のみならず主体的な範疇に関しても同様に当て嵌まります。レプリカント(replicant)とは、レプリカ(replica)などという言い方と同じなので、模倣対象となるオリジナルが存在することを意味します。「ブレードランナー」では、レプリカントは明らかに人間を模倣対象とすることによって、主体性を持ち、感情を持ち、それによって差異としての個を保つアイデンティティを確保しようとしているのです。原作タイトルをもじって云えば、アンドロイド達は、人間になることを夢見ているのです。何とノスタルジックなアイデアでしょうか!これに対し、ポストモダンSFの中でも殊にラディカルなマイナー作品では、差異が差異でしかない、ということは個々の差異が全ての差異の同一性に裏返ってしまうような、すなわちエイリアンが人間化するのではなく人間の方が個々の差異を持たないエイリアンのような存在と化してしまうような世界が描かれているとソブチャックは主張します[対応原文24、25]。それと比較すれば、レプリカントが人間になることを夢見る「ブレードランナー」は、まだ擬人的且つ懐古的な色合いが支配しているとも云えるかもしれません。

 但し、やや議論を混乱させる結果になるかもしれませんが、本来オブジェクトであるはずのレプリカントが人間化するという擬人化傾向については、やや別の視点からも考えてみる必要があることを付け加えておきましょう。というのも、2段落前で説明した「多幸的幸福感」が作用すると、その作品は擬人的で懐古的な雰囲気が濃厚になるであろうことは、「未知との遭遇」、「スターマン」、「E.T.」、「コクーン」、「A.I.」などを見れば一目瞭然だからです。また、それとは別に「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のレビューの中で、これまたソブチャックに依拠して、「「スター・ウォーズ」シリーズが典型的にそうであるように、70年代以後のメインラインSF映画では、大宇宙という我々には全く馴染みの薄い世界が舞台とされながらも、ストーリー展開においては擬人化された側面が際立ち、人間の行動や人間社会の一種のシミュレーションが描かれているような印象を強く与え、そこには50年代のカルトSFとは全く逆方向となるいわば求心的なパワーが働いているような印象を与えます」と述べたように、シューティングゲームのような「deflate」された画面を誇る「スター・ウォーズ」ですら、チューバッカやダースベーダーの存在を考えてみれば分かるように擬人化傾向が色濃く見られるからです。その点では、何度も取り上げている「2001年宇宙の旅」も全く例外ではありません。くだんの「美しき青きドナウ」の流れるシーンも別の言い方をすれば人工衛星の擬人化ということになるでしょう。また、叛乱コンピュータのハルに対抗する為にボーマン船長たちが母船から小型の宇宙船に乗り移り、ハルに支配された母船とボーマン船長たちが乗る小型宇宙船が角突き合わせてにらみ合いになるシーンについて考えてみましょう。このシーンは、「2001年宇宙の旅」レビューの右端の画像がそれにあたるのでまずそれを参照して下さい。対峙しているのは宇宙船ではなく二人の人間であるかのごとく見せようと二隻の宇宙船が配置されていることは明らかでしょう。つまり、決して二隻の宇宙船=オブジェクトがランダムに配置されているのではなく、それらをねーんげん的な構図で捉えようとしているのです。ソブチャックは、「2001年宇宙の旅」の持つ擬人化傾向に関して興味深い指摘を行っていて、一方で、ボーマン船長達は無感情で会話が極めて少なく、人間がまるで機械のように描かれているのに対して、他方で、始終雄弁にしゃべりまくり、ボーマン船長に哀れ解体されるシーンではこの作品一番のエモーショナルなセリフがとうとうと口?をついて出てくるハルは、機械であるのに極めて人間的であると述べています。これに対して、「ボディー・スナッチャー/恐怖の街」のレビューで述べたように、1950年代の低予算カルトSF映画の方がむしろ擬人化傾向を免れているのですね。メインライン映画では、かえって「深さ」の次元を持った「エイリアン」のようなホラーに近い作品の方が擬人化傾向と無縁なのです。このようにして、メインラインSF映画における「モノ」の擬人化に関して云えば、「ハイモダン/ポストモダン」という切り口では語り尽くせない側面があることは、念頭に入れておく必要があるでしょう。

 ということで、ソブチャックの本は、刊行された年からも分かるように1980年代半ば過ぎまでに製作されたSF作品が対象になっている為、そこで述べられている主張い関して、それ以後のSF作品に対しては適用できる面と出来ない面があります。たとえばシュワちゃん主演の一連の作品で「トータル・リコール」(1990)や「ターミネーター2」(1991)あたりまではかなり当て嵌まるように思われます。しかしながらそれ以後のSF作品については、ビミョーなものがありますね。たとえば、スピルバーグの「ジュラシック・パーク」シリーズや、「インデペンデンス・デイ」(1996)などのローランド・エメリッヒの大作SFなどは、むしろ伝統的な路線に戻っているような印象すらあります。それとは反対に、「マトリックス」シリーズなどは「inflationマッピング」や「deflationマッピング」などといった図式のみでは説明し切れないのではないでしょうか。或いは、内容はお粗末とはいえ「イベント・ホライゾン」(1997)のような「エイリアン」の延長戦上にあるような作品もあります。また「マーズ・アタック!」(1996)などのティム・バートン作品や「MIB」(1997)などのスラップスティック調SFはどうでしょうか。それらの作品は決して、ナラティブの断片化の彼岸に出現したコメディなどではなく、厳然としたナラティブの下地が存在します。いずれにせよ、それらに関してはソブチャックの新しい本が刊行されるのを待つしかないでしょう。また気になるのは、1980年代中盤までの作品でも、1960年代後半から1970年代に全盛期を迎えたSF映画の延長のような近未来の高度管理社会を描いた「1984」(1984)や「未来世紀ブラジル」(1985)などの作品に関するコメントが全く見られないことであり、もしかすると都合の悪い作品はオミットしたのかななどという意地悪な感想も持たざるを得ないところです。最後に1つ指摘しておくと、ソブチャックは、ラストシーンでのデッカードとレイチェルの自然風景("natural" landscape)への逃走はいかにも不自然であると述べていますが[対応原文26]、リドリー・スコット自身も当然それは分かっていたようで(つまり映画会社のボスが一般受けを狙ってそのような当たり障りのないラストシーンを強制したということなのでしょう)、「Screen Space」の刊行より後に出た「ブレードランナー」のディレクターズ・カット版にはこのシーンは存在しません。いずれにせよ、「ブレードランナー」が、ハイモダンとポストモダンの過渡期に現れたランドマーク的な作品であることを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。


※※※ 以下対応原文 ※※※
(因みに、文中にあるcontemporary、today、recentなどの表現は全て、現在すなわち2000年代ではなくこの本が書かれた1980年代を指すので注意して下さい)

対応原文1:In these films, the "deep" and indexical space of cinematographic representation is deflated -- punctured and punctuated by the superficial and iconic space of electronic simulation. This deflation of deep space, however, is presented not as a loss of dimension, but rather as an excess of surface.(p256)

対応原文2:The hyperspace of these films is proudly two-dimentional -- even its depiction of three-dimentionality.(p256)

対応原文3:This particular SF mapping of spatial existence in postmodern culture constructs a priviledged equivalence between electronic space and "outer" space.(p256)

対応原文4:Most of today's SF films (mainstream or marginal) construct a generic field in which space is semantically described as a surface for play and dispersal, a surface across which existence and objects kinetically dis-place and dis-play their materiality.(p227-8)

対応原文5:Today's SF film evidences a structual and visual willingness to linger on "random" details, takes a certain pleasure (or, as the French put it, "joissance") in holding the moment to sensually engage its surfaces, to embrace its material collections as "happenings" and collage.(p228)

対応原文6:A space perceived and represented as superficial and shallow, as all surfaces, does not conceal things; it displays them. When space is no longer lived and three-dimensional, the '50s concept of "invasion" loses much of its meaning and force.(p229)

対応原文7:Space is now more often a "text" than a context.(p232)

対応原文8:An abundance of things to look at serves to inflate the value of the space that contains them, and emphasizes a particular kind of density and texture.(p262)

対応原文9:The visual demands made on the spectator by an abundance and accumulation of things, by excess scenography, de-sign "texture" as a sign-function of depth and possible movement and re-sign it as a sign-function of quantity and stasis.(p263)

対応原文10:Those values of dimension and texture, density and complexity associated with the older "depth models" of realism and modernism have been presented but reformulated. That is, they have been brought literally to the surface and made concretely visible.(p266)

対応原文11:This visualization of contemporary spacial experience eroticizes and fetishizes material culture, spatializing it as multidimensional and sensuous "clutter".(p262)

対応原文12:The third SF map of spatial existence in postmodern culture conflates spatial deflation and inflation, emphasizing both the value of a surface detail that lacks dimension and text-ure and the value of an excess scenography that substitutes quantity for depth and accumulation for movement.(p269)

対応原文13:Generally conservative and regressive, films like Close Encounters and Starman increase the value of space by "emptying" it of the familiar material clutter that so commonly fills it up and eclipses Nature. Nostalgic for wide open space these films leave urban clutter and literally "go west" (or, at least, midwest) -- looking for an open and dark terrestrial sky that can serve as an empty screen, a clean slate, for some new and marvelous and somehow natural (if still "technological") display.

対応原文14:The inflated value of space and surface has led to a deflation of temporal value, to a collapse of those temporal relationships that formulated time as a continuous and unifying flow -- constituting the coherence of personal identity, history, and narrative.(p272)

対応原文15:The new SF film tends to conflate past, present, and future -- in decor constructed as temporal pastiche and/or in narratives that either temporally turn back on themselves to conflate past, present, and future, or are schizophrenically constituted as a "series of pure and unrelated presents in time."(p273-4)

対応原文16:The peculiar mise-en-scene conflates and homogenizes temporal distinctions to a spacial "nowhere" in time, to a charming and mildly satirized "erewhon" that has no connection with 1955 as a "real" historical past. In both the 1980s and the 1950s, Marty inhabits a nostalgically imagined, romantically generalized American small town. Stripped of historical referents and significant temporal specificity, it appears abstract and highly stylized.(p274)

対応原文17:While Blade Runnner successfully balances itself narratively and visually between the high-modern and the postmodern, the high-modernist narrative impulse of Dune plunges fatally into the absolute space of the post-modern and breaks down into a heap of fragments.(p278)

対応原文18:A wild humor and exhilarating liberation from temporal logic transformdiss the schizophrenic fragmentation and incoherence of a film like Dune (which held high-modernist temporal values) into the explicit, happily re-signed, "mad-cap" spatial logic of postmodern comedy.(p281)

対応原文19:As Jameson suggests, when "schizophrenic disjunction...becomes generalized as a cultural style," it "ceases to entertain a necessary relationship to the morbid content we associate with terms like schizophrenia.・・・Thus, the deemphasis on temporal unification can no longer be seen negatively as desparate, schizophrenic, or diseased. Indeed, even at its most re-signed and nihilistic (as in Liquid Sky), the new postmodern SF film celebrates the ease (not the disease) of its ability to make temporal nonsense into spatial new sense.(p281)

対応原文20:When "heaps of fragments" are no longer regarded with (and as signs of) dis-ease, they become, as Jameson points out, "available for more joyous intensties," for a "euphoria" that displaces "the older effects of anxiety and alienation."(p282)

対応原文21:The peculiarity of this postmodern euphoria is that it is structured and represented not as the intense feeling and expression of a centered subject constructed in time, but rather as the intense feeling and expression of a decentered subjectivity objectified in space. This is extroversion in its most extreme and literal formulation.(p282)

対応原文22:In the contemporary SF film, we can see this extroversion of feeling materialized in the genre's transformation of the centered subjectivity of special affect (joyous intensities and euphoria) into the decentered subjectification of special effect (grand displays of "industrial light and magic").(p282)

対応原文23:In the genre's earlier period, special effects generally functioned to symbolize the "rational coolness" (and fearsome "coldness") associated with high technology and scientific objectivity, and were "authenticated" and made credible by the genre's "documentary" visual attitude. In contrast, today's special effect generally function to symbolize the "irrational wormth" of intense (and usually positive) emotions, and their credibility is not the issue.(p282)

対応原文24:True to postmodern logic, films like Liquid Sky, Repo Man, and The Brother from Another Planet suggest there is no original model for being, and that (as Foucault notes) the similarity we see across difference "develops in series that have neither beigining nor end," representing the circulation of "the simulacrum as an indefinite and reversible relation of the similar to the similar" propagated nonhierarchically from "small differences among small differences."(p297)

対応原文25:Marginal and postmodern SF, however, articulates the relations between aliens and humans in quite another way. To maintain not that "aliens are like us", but "aliens are us" is to assert and dramatize a relation of similitude -- one that can be reversibly articulated as "We are aliens."(p297)

対応原文26:Deckard and Rachel's escape into the "natural" landscape at the end of Blade Runner seems so implausible and artificial.(p237)

※Liquid Sky:「リキッド・スカイ」(1983)、Repo Man:「レポマン」(1984)、the Brother from Another Planet:「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」(1984)

2008/09/12 by Hiroshi Iruma
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