ローラーボール ★☆☆
(Rollerball)

1975 US
監督:ノーマン・ジュイソン
出演:ジェームズ・カーン、ジョン・ハウスマン、モード・アダムス、ラルフ・リチャードソン
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<一口プロット解説>
ローラーボールのスター選手として得意の絶頂を極めるジョナサン(ジェームス・カーン)は、ある日突然、社長?(ジョン・ハウスマン)から引退するように言い渡される。
<入間洋のコメント>
 1970年代前半であったか、その昔、ローラーゲームと呼ばれる奇妙なスポーツがテレビで放映されていた頃がありました。アメリカではローラーダービーとも呼ばれており、アメリカ以外の海外チームとしては、確か我が日本の東京をベースとした東京ボンバーズしか存在しなかったのではないかと覚えています(間違っていたらゴメンナサイ)。ローラーゲームの細かなルールは、今でははっきりとは覚えていませんが、うろ覚えでは敵味方2チームの男女2ユニットが交代交代ローラースケートリンクをグルグル廻りながら、肘で敵の選手をど突いたりしながら相手選手を追い越しては何やら得点を重ねていくという実に珍妙なスポーツでした。ローラーゲームを扱った映画としては、個人的に知る限りでは、ラクエル・ウエルチが主演した「カンサス・シティの爆弾娘」(1972)が挙げられるのみですが、ローラーゲームが熱狂的に流行っていた1970年代前半であればともかく(私めもテレビでよく見ていました)、それすら今改めて見直してみると、さっぱり面白くなく、テーマの珍しさとラクエル・ウエルチの爆弾ボディだけが取り柄であるようにしか見えない作品であると言わざるを得ないでしょう。「カンサス・シティの爆弾娘」のようにローラーゲームそのものを扱っているわけではないとはいえ、「ローラーボール」に登場するこれまた奇々怪々なスポーツ、ローラーボールも、恐らくこのローラーゲームがモデルになっているのではないかと思われます。しかし、何度見ても、このローラーボールと銘打たれたローラーゲームまがいのスポーツのルールがイマイチはっきりせず、何やらローラースケートをはいた選手とバイクに乗った選手が、グルグルとリングを周回しながら鉄球を運んで(上掲画像中央参照)、穴の中にそれを放り込めば得点になるということくらいしか分からないのですね。どうやら、それ以外は何でもアリということのようで、ほとんどプロレスのようにすら見えます。しかも、鉄球を穴の中に放り込む得点シーンも、放り投げるか或いは鉄球を握った手をただ穴の中に突っ込むだけで、どんなに荒っぽいスポーツであっても少なくともいくばくかは持っているはずのエレガントさがどこを探しても全く見つかりません。確かに、ローラーボールという珍妙な新発明スポーツをお披露目するのがこの映画の目的ではないのでしょうから、それでも構わないと云えばそれでも構わないのでしょうが、どうにも見ていてイマイチ乗れないところがあるのも確かです。映画の中の観客達がローラーボールの試合を見て熱狂しているのが不思議に見えてしまう程、ローラーボールというスポーツがスポーツとしての体をなしていないように見えてしまう点が、見ていて気になってしまうのです。因みに、ジョン・マクティアンの手によるリメイクでは、その印象が更に大きくなっていたように覚えています。更にもう1つの問題点として、ローラーボールという恐ろしく暴力的なスポーツを描いているにも関わらず、眠たくなるようなスローさが映画全体に感じられることです。上映時間は2時間を越えていますが、今回見直してみても、最低でも15分は短縮できるというのが個人的な印象です。パーティシーンなど無駄に長過ぎるシーンが多く、また光線銃とおぼしきもので木を焼き払うシーンなどは何の為に挿入されているのか???と思わざるを得ません。

 このような問題点を抱えている映画であるにも関わらず、この作品には極めて興味深い点もあります(そうでなければ、わざわざここに取り上げたりはしないでしょう)。何度も何度も他のレビューで述べているので、ここでは敢えて繰り返しませんが、「ローラーボール」が製作された1970年代中盤は、ベトナム敗戦やウォーターゲート事件などで、アメリカが恐ろしく動揺していた時代であり、そのような世相を背景にして、アメリカの政府機関やアメリカ企業を悪玉として槍玉に挙げた映画が続々とリリースされていました。前者には「コンドル」(1975)、「大統領の陰謀」(1976)などが代表的な作品として挙げられ(但し「大統領の陰謀」に関して云えば、タイトルから想像される政治映画としての色彩よりも、ジャーナリズムに関する映画としての色彩の方が勝っていますが)、後者には「パララックス・ビュー」(1974)や「ネットワーク」(1976)などとともにこの「ローラーボール」が挙げられます。殊に、得体の知れない多国籍企業を扱っているという点では、「ローラーボール」は「パララックス・ビュー」に次ぐ重要な作品として位置付けられると個人的には考えています。「ローラーボール」では、ジョン・ハウスマン演ずる社長?のバーソロミュー一人が、諸悪の根源であるかのようにも見えますが、実際には彼も多国籍企業に宮仕えする雇用者の一人なのであり、ロックフェラー、フォード、バンダービルドのような、かつてのアメリカン・ドリームを体現したカリスマ的大物実業家達とは全く異なっています。ジョン・ハウスマンはそもそもプロデューサーとして知られた人であり、私めの大好きな「ペーパー・チェイス」(1973)でオスカー助演男優賞に輝いているとはいえ、基本的にはカリスマ的大物実業家を演ずるようなタイプではなく、大組織をバックに巨体をふんぞり返らせているのが似合うような俳優さんであると言う方が正解でしょう。その彼が演ずるバーソロミューが宮仕えする多国籍企業では、一人のカリスマ的大物実業家がモノを言うのではなく、それとは全く反対に中心的な人物が誰もおらず、ある意味で責任が網の目のように全体に拡散されるような組織構成に大きな特色があります。殊に1890年にアメリカのフロンティアが消失してからは、自らの腕一本で一財産築き上げた創始者を中心とした企業というような明確な企業構造が次第に希薄化し、外部からはヌエのように見える巨大な迷宮のような構造を持つ多国籍企業がやがてアメリカを中心とした先進諸国を席巻するようになるのです。たとえば、IBMと云ったところで、現在世界中に散らばっているこの企業の中心を明確に名指すことなどできないのです。それは、本社がどこかに存在し、社長や会長がいたとしてもです。「パララックス・ビュー」や「ローラーボール」が製作された1970年代中頃とは、まさにこのような中心の明確ではない多国籍企業が跳梁跋扈するようになった頃だったのではないでしょうか。とはいえ、この点に関しては、そのような傾向がそのまま現在まで続いているわけではないことに注意する必要があります。というのも、1970年代後半あたりから、小型コンピュータ、すなわちパソコンをメインとしたベンチャー企業が相次いで出現し、たとえばマイクロソフト社はビル・ゲイツというように、カリスマ的個人が中心に存在することが明確であるような企業が復活し、かつてのフロンティア時代に逆戻りしたような傾向が再び現れるからです。要するに土地という意味では消失してしまったフロンティアが、それから1世紀弱を経てテクノロジーという領域で復活したのだとも考えられます。そのような新たなフロンティアが、新たなテクノロジーをバックとして出現する直前の時代が、「ローラーボール」が製作された1970年代中盤であったことに留意する必要があるということです。

 そのような時代背景も考慮に入れながらこの作品を見たとしても疑問に思われる点は、社長のバーソロミューが何故ドル箱スターであるはずのジョナサン(ジェームズ・カーン)を引退させたがっているのかではないでしょうか。資本主義社会の企業論理から考えれば、金さえ儲かればそれでいいじゃんと、どうしても思えてしまうからです。実を云えば、私見では、この問いに答える、或いはこの問いに対する答を見出そうと努めることが、この暴力的且つ冗長な作品を、見るに値するものに変えるとすら考えています。しかしながら、バーソロミューがジョナサンを社長室に呼び寄せて引退を勧告するシーン(上掲画像左参照)での二人の会話を聞いていても、多国籍企業の総意を代表するバーソロミューがジョナサンの引退を望む理由は、オーディエンスを納得させる程明確には語られていません。というよりも、ローラーボールというゲームの目的は社会奉仕だ、或いは企業間競争は過去の話だなどと説教されたところで、それとローラーボールのドル箱スター選手の引退と何がどう関係するのか???であり、ほとんど全く何も語られていないという方が正しいでしょう。事実、説教を聞いていた当のジョナサンですら、「おっしゃることがよく分かりませんが」というような返答をしています。ということで、ジョナサンに引退を勧告する理由が映画の中で直接語られることはありませんが、それをいいことに、ここで私めの見方を開陳することにしましょう。結論を先取りすると、20世紀半ばを越えて出現した多国籍企業は、中心を持たずアメーバのように触手をのばしながら外界を絶えず内部に取り込もうとするモンスターであり、それまでのような単純な集積的な資本の論理のみに支配されているわけではないということが、誇張が少なからずあるとは云え、この作品では見事に描かれているのです。従って、中心を持たない多国籍企業にあっては、かつてのカリスマ的大物実業家を髣髴とさせるスター性は不要であるばかりか、むしろ危険ですらあるのです。カリスマ的スター性を持つ人物は、組織の中で中心的な位置を占めることにより、かくして自らが生み出した中心点から次第に周囲を凝結固定化させていきますが、「フロー(流動)」が極めて重要である多国籍企業においては、そのような凝結化が致命傷になり兼ねないからです。多国籍企業ではフローが極めて重要であるという点が極めて説得的に語られているシーンが、「ネットワーク」にあります。それは、アメリカの大手テレビネットワーク局を経営する会長(ネッド・ビーティ)が、傘下の人気ニュースキャスター(ピーター・フィンチ)に滔々と説教するシーンです。勿論、アメリカ国内のみを対象としたネットワーク局は、多国籍企業とはとても見なせないとはいえ、このシーンでネッド・ビーティ演ずる会長が朗々と唱える理念は、まさに多国籍企業のそれなのです。シナリオ担当のパディ・チャイエフスキーの才気溢れるセリフによるヴィルトゥオーソパフォーマンスが炸裂するとでもいうべき見せ場でもあり(というよりネッド・ビーティのパフォーマンスは、ほとんどオーバーアクティング気味にすら見えます)、ここにセリフの全文を挙げておきます。尚、日本語版DVDの日本語字幕からそのまま書き写しましたが、冒頭付近明らかに不適当な訳があるのでそれについては註として付記しておきました。

◎君は自然の力に逆らっている。それは困るんだ。分かるかね?君は商取引をストップしたが、アラブが奪った金は取り返すべきだ。潮の干満のようにバランスをとる。国家や国民に対する君の考えは時代遅れだ。今は国家も国民もない。ソ連もアラブも無い。発展途上国も西欧無い。あるのは全体的なシステムだけだ。巨大にしてかつ複雑な機能を持ち、国家を超越したドル。石油ドル。そのほかのドルだ。ドイツ・マルク、ルーブル、ポンド。地球上の全人類を動かすのは、国際的な通過システムなのだ。それが今日の自然の秩序だ。すなわち、今日における原子的かつ宇宙的な社会構造なのだ。そして君は自然の根本的な力に逆らった。償うべきだ!分かるかね?君はテレビの小さな画面の中で、米国や民主主義を説くが、米国も民主主義も無い。あるのはIBMやデュポンやエクソンなどの巨大企業だけだ。それらが今日の国家なのだ。ソ連が会議で討議するのは、マルクスじゃない。管理システムや統計理論や商取引や投資の収支など我々と同じだ。国家やイデオロギーより、企業やビジネスの世の中なんだ。ビジネスの法則が万事を決定する。世の中はビジネスだよ。人類の創生期からそうなんだ。我々の子供の時代には、きっと戦争も飢きんも抑圧も蛮行も無い完ぺきな世の中になる。それは1つの巨大な会社だ。皆が共通の利益を求めて働く。皆が株を持ち、あらゆる必要は満たされ、悩みはすべて解決され、退屈も無くなる。君に、それを説いてもらいたい。

註:冒頭付近の「アラブが奪った金は取り返すべきだ」に対応する原文は、「The Arabs have taken billions of dollers out of this country, and now they must put it back.」ですが、この訳では我々すなわちアメリカ人が努力してアラブ人に奪われた金を取り戻さなければならないという意味になり、それでは明らかに本来の意図と逆のことを述べていることになってしまいます。そうではなく、アラブ人がアメリカ人から奪った金は、自然の成り行きとして、すなわち潮の干満のバランスに従って、いずれアラブ人自らがアメリカに戻す結果に必ずやならざるを得ないというのが原文の主旨であることは明白です。

上に示したセリフの中では、多国籍企業という用語が明示的に用いられているわけではありませんが、20世紀後半に出現した多国籍企業の特徴について語っていることは明らかです。唯一「人類の創生期からそうなんだ」という一文については、個人的には全く同意できないとはいえ、それ以外は見事に「ローラーボール」のバーソロミューの考え方を代弁するセリフだと見なせます。本来蓄積されて然るべきはずの資本ですら、ワールドワイドなシステムの中を循環流動することが多国籍企業存続の絶対的な必要条件なのです。ボードリヤール流の用語を用いれば、多国籍企業が全盛を誇るようなハイパーリアルな世界においては、資本が蓄積されるべきものであるという考え方は、最早真実を語ってはいないのです。そのような世界の中では、産業社会の時代、すなわち前ハイパーリアル時代を象徴するジョナサンのようなカリスマ的個人の存在は、ワールドシステム上の循環流動を断ち切る存在以外の何ものでもなく、まさに抹殺されねばならないのです。それは彼が、産業社会の時代であれば企業の究極の目標となるはずの金儲けのネタになるドル箱スターであったとしてもです。というよりもそうであればこそ尚更なのです。何故ならば、多国籍企業が支配する世界においては、資本はワールドシステムの中で循環流動しているのであって、ジョナサンのようなドル箱スターであれ、ロックフェラーやフォードのようなカリスマ的な大物実業家であれ、生身の個人が超人的な努力を払うことによって稼ぎ出す、或いはそのような人物達がモデルとなるような性質のものでは最早なくなっているからであり、むしろ彼らのような存在は、ワールドシステム上の循環を堰きとめてしまう恐れすらあるからです。これが、多国籍企業の総意を代表するバーソロミューがジョナサンの引退を望む真の理由なのです。各国の重役連中を集めたテレビ会議でバーソロミューは、「個人単位の努力はムダだと知らしめるためのゲームだ。我々はその概念を守るべく全力を尽くしてきた。ゲームの意図を邪魔する奴は葬らねばならん(日本語版DVDの日本語字幕より)」と述べます。ここで彼がいうゲームとは勿論ローラーボールという具体的なゲームのことを指してはいますが、それと同時に多国籍企業というワールドシステムが規定するゲーム、すなわち「ネットワーク」でネッド・ビーティ演ずる会長が語るゲームのことをも含意していると考えるべきでしょう。一言で云えば、ジョナサンはワールドシステムという生命体の中に発生した一種の癌のようなものであり、ワールドシステムが1つのシステムである限り、そのような異物は何があっても排除されねばならないということです。

 ところで、「ネットワーク」のネッド・ビーティのセリフの後半部分、すなわち「我々の子供の時代には、きっと戦争も飢きんも抑圧も蛮行も無い完ぺきな世の中になる。それは1つの巨大な会社だ。皆が共通の利益を求めて働く。皆が株を持ち、あらゆる必要は満たされ、悩みはすべて解決され、退屈も無くなる」は、バーソロミューがジョナサンに引退を勧告する時のセリフ「今やっているゲームは社会奉仕が明らかに目的だ。今や世界各国は豊かで、民族同士の戦いもなく、また企業戦争も過去のものとなった。わが社の営業内容やスタッフも固まり、輸送、食糧、通信、家屋、娯楽など事業は順調に伸びて社会に役立てるよう努力を続けている(日本語版DVDの日本語字幕より)」と妙に似通った響きが聞こえてきます。
まるで「ネットワーク」のネッド・ビーティ演ずる会長の云う「我々の子供の時代」が、バーソロミューが語る「ローラーボール」の時代でもあるかのようにすら思えてきます。違いといえば、バーソロミューの方は「社会のため」を矢鱈に強調していることですが、それはジョナサンを説得させる為の一種の「お為ごかし」であると見なすべきでしょう。言葉とは裏腹に、バーソロミューの顔には「社会のため」などと一言も書かれてはいないのです。しかしいずれにせよ、両者の言説に共通する点は、そこに一種の変形したユートピア思想が垣間見られることです。つまり、ある1つの安定したシステムに庇護されて、エデンの園のように泰然と暮らすことが理想であるかのごとく見せる思想がです。そして現代の(というか近未来のというか)エデンの園とは、多国籍企業によって支配され、多国籍企業のゲームのルールに従って均衡が保たれた世界なのです。ここで思い出すのが、レオ・マークスという人の書いた「楽園と機械文明」(研究社)という著書です。この本は、アメリカ史を専攻している人の多くは知っているのではないかと思われる程引用されることの多い本ですが、残念ながら日本語版は1970年に出版されたままであると思われ、古本屋又は図書館で見つけるか、或いは英語原版「The Machine in the Garden」(Oxford University Press)を買うしかないでしょう。個人的にも日本語版は持っていません。マークスによれば、アメリカ社会には常に、エデンの園的な牧歌的風景に惹き寄せられ、「文明(civilization)」からは遠ざかっていくような一種の引力というべきか斥力というべきかが働いていたそうです。また、そのような原初の眠りにも比すべきような催眠状態から覚醒させる一種の気付け薬として機能したのが、たとえば蒸気機関車などの機械(マシン)であったと述べます。つまりバンダービルドの鉄道網やフォードの自動車は、楽園の眠りを覚ます気付け薬であったということです。このような点は、たとえば、グレイス・メタリアスのベストセラーの映画化「青春物語」(1957)でも変形した形で見出すことができます。変形したと述べたのは、エデンの園のような田舎町、ペイトン・プレイスの眠りを覚ますのは、蒸気機関車のようなマシンではなく戦争だからですが、いずれにせよペイトン・プレイスという楽園の眠りをさますのは戦争機械であった(ドゥルーズ的な言い方をしてみましたがちと苦しいですね、これは)と捉えれば、マークスの提唱するテーゼのバリエーションが展開されていると見なすことができるでしょう。つまり産業化時代に入ると、忍び寄る機械の足音によって楽園に住む人々は、いやでも目を覚まさざるを得なかったということです。ところが、産業化時代も佳境を迎え、次第に多国籍企業による世界支配が確立するようになった暁には、再びかつての、すなわち前産業時代の楽園的ユートピアが復活すると、少なくとも「ネットワーク」の会長や「ローラーボール」のバーソロミューは考えているのです。機械を中心とした産業社会の時代から多国籍企業が支配する情報社会へとテイクオフし、機械という気付け薬の重要性ひいては有効性が相対的に小さくなるにつれて、またぞろ楽園ユートピア思想が復活するであろうことを含意する提言として、彼らのセリフを捉えると極めて興味深いものがあります。フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」が、チラと脳裏をよぎるのは私めだけでしょうか。そのように考えてみると、ローラーボールというゲームの持つ暴力性は、もしかするとかつては機械が持っていた、人々を惰眠から目醒めさせる気付け薬としての役割を代行しているのではないかという疑いすら浮かんでくるのではないでしょうか。そして、新たな時代のエデンの園が誘う惰眠の中に人々を誘い込むには、自らが主催しているはずのローラーボールですら最早無用の長物、いやそれどころかむしろ危険だということにすらなります。その意味では、ジョナサンの持つ名声も危険であれば、彼の持つ暴力性も、楽園ユートピアの実現を夢見るバーソロミューにとっては危険であることになります。それは暴力は危険だという当たり前田のクラッカー的な意味においてでは全くなく、暴力が人々を覚醒させる気付け薬にもなり得るという意味においてなのです。

 最後に1つ指摘しておきたいことは、「2001年宇宙の旅」(1968)以降、近未来や未来を舞台としたSFでは、しばしばクラシック音楽が挿入されることが多くなったということで(比較的最近でも、スピルバーグの「マイノリティ・リポート」(2002)で、シューベルトの「未完成」がなかなか効果的に利用されていたことを覚えている人も多いことでしょう)、「ローラーボール」もその例外ではありません。全体的にはうまく利用されているように思いましたが、ただ1つ、コンピュータセンターの建物が映し出されるシーンで、ショスタコーヴィチの第5交響曲が流されるのは頂けませんね。思わず笑ってしまいました。「
10億ドルの頭脳」(1967)で同じショスタコーヴィチの第7交響曲「レニングラード」が流されているのは皮肉たっぷりでなかなか楽しめましたが、フィンランド出身のレニ・ハーリンが「ダイ・ハード2」(1990)で母国の国民的作曲家シベリウスの「フィンランディア」の勇壮なマーチをさも得意そうに流しているのを聞いた時と同様、これには思わず笑いがこぼれてしまいました。ハーリンの場合は大真面目なのかもしれませんが、「ローラーボール」の場合はむしろ全く不可解とさえ云えるでしょう。そうそうそのコンピューターセンターでは、イギリスの名優ラルフ・リチャードソンが顔を見せています。アクア?コンピューターが言う事をきかないので、思い切り蹴っ飛ばしているのには笑えますね。ということで、個人的な印象では面白いという範疇に属する作品ではないとはいえ、また、ローラーゲームの東京ボンバーズを思い出したのか、日本人クリーシェのオンパレードであるケッタイな日本チーム「トキオ」が登場するのには全く閉口させられるとはいえ(眼鏡をかけた日本人選手すらおり、こんな乱暴なゲームに眼鏡をかけて出場するのは危険極まりないではないかと一瞬思いましたが、もともと殺し合いのようなゲームなので目だけ気にしていても意味がないということなのでしょうねと思い直しました)、ここまで述べてきたように、内容的には興味深い要素を多々含んでいる作品であるものと考えています。

2008/09/26 by Hiroshi Iruma
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