華氏451 ★★★
(Fahrenheit 451)

1966 UK
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:オスカー・ウエルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック、アントン・ディフリング



<一口プロット解説>
本を読むことが禁じられた未来世界のSF物語。
<雷小僧のコメント>
今回(2003/10)、この作品のDVDを新たに購入して新たな角度からこの映画を見ました。このDVDは、ジュリー・クリスティ等による音声解説、メイキング、原作者レイ・ブラッドベリ自身のコメント等を含む特典も充実しており実に素晴らしいプロダクトなのですが、DVDの画面そのもの及び特典にあるインタビュー等を通して、以前VHSテープで見ていた頃には気がつかなかった点にいくつか気付くことが出来ました。そこで、この作品に関するレビューは既にVHSバージョンを見ることによって数年前に書いてパブリッシュしていたのですが、今回DVDで見た印象を加えて新たに書き直すことにしました。殊に、この作品は特典の中のインタビューの中で述べられているようにビジュアルな側面が1つの重要な要素を構成しており、DVDの鮮明な画面で見た印象は非常に大きな意味を持つと言えます。以前VHSで見ていた頃から、この映画の持つ硬質、抽象的、無機質な画面の持つ美しさに驚嘆していたのですが、DVDの画像では余計にそれがはっきりと感得出来ます。特典の中でコロンビア大学のある先生(女性です)が、「antiseptic and sterile landscape(防腐剤的且つ不毛な風景)」というような表現を用いていますがまさにその通りであると言えるでしょう。またこれから述べるように、このような防腐剤的で不毛な印象を与える無機質且つ抽象的な画像は、この作品が描く高度管理社会のイメージとも重なるわけです。病院に一歩踏み入れた時に鼻をついて入ってくる消毒液のにおいはきわめて両義的な側面があり、かたや消毒液で消毒される対象となるばい菌であるとか膿であるとかいうような有機的な側面を想起させる面があるのと同時に、一方で無機的な管理機構の存在をも想起させますが(すなわち病院とは有機的な逸脱を無機的なコントロールで中和しようとするシステムであると言えるでしょう)、この映画で描かれている光景もかなりそれに近いものがあると言えるのではないでしょうか。
ところでご存知の方も多いと思いますが、このレイ・ブラッドベリのSF小説に基く作品は、フランスの有名な映画監督フランソワ・トリュフォーの英語映画第一作です(というよりも英語映画はこれだけかな?)。ヨーロッパ出身の監督さんの手になる作品ということで、SF映画というとたとえば「スターウォーズ」シリーズであるとか比較的最近の「インデペンデンスデイ」等のハリウッド映画を想像される向きには、この作品が如何にそれらとは異なっているかが想像出来ることでしょう。私目は、もともとこれらの大作SF映画は好きではないので、逆に「華氏451」のような小さくまとまったある意味で詩的な映画の方が私目の好みにあっているようです。特に後に自身有名な映画監督になるニコラス・ローグのカメラは、前段で述べたように硬質且つ抽象的、無機質的な美しさが横溢していると言っても過言ではありません。さて、「華氏451」は本を読むことが禁じられた要するに焚書坑儒(坑儒はないようですが、特典の中でコロンビア大学教授女史が述べているように本を平気で燃やす行為の先では人を平気で抹殺する行為が容易に結びつくと言えるでしょう)の未来世界を描いたSF映画なのですが、映画中に禁書として以外には一度も書かれた文字が現れないので、どちらかと言えば文字そのものが追放された世界が描かれていると言ってもよいでしょう。その点においては、オープニングクレジットが文字ではなく音声によって語られるのが演出効果としてはなかなか効果的に機能していると言えます。ところで、この映画の素晴らしい点の1つに、その詩的とも言える描写があります。ラストシーンで、権威当局から逃れた人々が、降りしきる雪の中で有名な詩や小説を暗唱しながらそぞろ歩いているシーンは非常に印象的です。このようなシーンを見ていると、個人の生活には2つの側面があり、1つには自らの生計を立て生き残っていかなければならないという外面的現実的な側面があり、この点においては自由な存在としての個人という意味合いにおいて多くの譲歩が個人に強いられるということと、もう1つには内面的な側面があり個人個人がそれによって自らの生きていく意味を見出していかなければならないという側面があるということがよく分かります。現代は、中世の束縛的な社会から個人が解放された社会であるように言われていますが(中世が現代に比べてどういう意味において束縛的であったかということが問われずにこういう言い方をするのは本来妥当ではないということは周知していますが)、それでも前者に大きな強調点があることに間違いはないでしょう。詩や小説が何故後者の点において豊穣な意味を持つかというと、それはそれらの作品を残した人々の内的な心的構造を追体験する媒体を提示することによって、読者に内的意味を再構築する手段を与えてくれるという点を挙げることが出来るでしょう。特典の中でコロンビア大学教授女史が、本を燃やすという行為は、過去のメモリー及びそれと同時に過去のプライベートな経験に関するメモリーも抹消することを意味するというような主旨のことを述べていますがまさにその通りでしょう。それが最も如実に示されているのが、オスカー・ウエルナー演ずる主人公のモンタークが4人の女性の前で詩を朗読するシーンであり、この中で一人の女性が感極まって泣き出すのですが、朗読されるテクストが自分の過去の体験の連想的な想起を通して生きられる体験としての意味と結びつけられない限りそのような反応をすることは可能ではないはずなのです。従ってそのような想起を行う能力を失ってしまった他の3人の女性はオスカー・ウエルナー演ずる主人公の詩の朗読に対して何の反応も示さないばかりか敵視さえするわけです。コロンビア大学教授女史が「文学、そして書かれた文字、そして生きられた息吹きに充溢し読む人に感動を与える能力を持つプロセスとしてのテクストという概念、この映画はこれらに対する情熱的(passionate)なオマージュである」と的確に述べているように、この「華氏451」という作品は、書物の持つこのような貴重な価値を実に見事な表現によって我々に気付かせてくれると言っても過言ではないでしょう。
ところで、書物の持つこのような潜在力は、逆に社会的な構造そのものを揺るがす可能性があるわけであり、常に現行の力関係/構造を維持しようとする権威当局にとっては必ずしも有難いものではないわけです。すなわち、権威の側から見れば書物の有する潜在力は逸脱であると見做すことが出来るわけであり、それは抑圧或いは最低でもコントロールされるべき対象になり得るわけですが、この映画はそのような側面(冒頭の表現を繰り返すと、有機的な逸脱を無機的なコントロールで中和する必要性)を極端な形で描写しているとも言えます。重要なことは、権威当局とはこの映画で言えばファイアーマンのような外的な圧力機構としてのみ存在するのみではなく、各個人の内面にも色々な社会教育を通して刷り込まれるのであり、この映画でもそういう点がうまく表現されています。たとえば、オスカー・ウエルナーが4人のハウスワイフの前で詩を朗読するシーンで1人を除いた他の3人は書物の有する価値を全く認めることが出来ないことは前段で述べましたが、要するにこれは、3人のハウスワイフの心の中に刷り込まれた検閲メカニズムが現行の社会構造を脅かすことになりかねないような事象を勝手に入力情報から排除していることを意味しているわけです。また、そもそもそのようなメカニズムが自己アイデンティティの一部を構成する程迄に刷り込みが完璧に浸透されている為に、自らはそういう検閲メカニズムの存在に気付くことが出来ないわけです。従って、権威当局の抑圧から逃れるには、外的な抑圧機関と闘うだけではなく、自からの心の中に取込んでしまった権威当局とも格闘する必要があることを意味するわけです。この映画では、最初は権威の象徴たるファイアーマンであったオスカー・ウエルナー演ずる主人公のモンタークが徐々に自己格闘し変化していく様子を通して、そのような観点が見事に表現されています。
さて議論が少々込入ってしまうのですが、書物及び書かれた文字という存在はこの映画では追放の対象になっているわけですが、よく考えてみるとむしろ書物及び書かれた文字とはこの映画が描くような高度管理社会を実現する為の1つの条件なのではないかという疑問が湧いてきたとしてもさ程不思議ではないはずです。何故ならば、文書を記録するという手段と高度管理社会とは切っても切れない関係にあるのではないかと思われるからです。それにも係わらず、この映画は書物を追放する高度(極限のと言う方が妥当でしょうね)管理社会を描いているわけであり、その点が何やら随分と矛盾しているように思われます。「メディア論」で有名なマーシャル・マクルーハンは、書物の大量印刷の時代の到来とともに、音声的触覚的な社会から視覚中心の社会への劇的な転換が行われ、この転換はまた均一化/抽象化という新たな特質を社会に齎したとも述べています。高度管理社会が成立するには、この均一化/抽象化という要素が絶対に不可欠であると言えます。何故ならば、本来多様であるはずの人々を統一するには、何らかの共通な基準尺度が必要であるからです。従って、書物の大量印刷が、高度管理社会の到来を齎す1つの要因となったと言うことは出来ても、その発展を阻害したとは言えないはずです。この映画及びストーリーの唯一の欠点は、この矛盾がある故に、この映画はSFであるという論拠を持ち出さない限り、このようなシチュエーションはまず有り得ないであろうという印象をオーディエンスに与えてしまう点です。しかしながら、この映画はH.G.ウエルズやG.オーウエルの未来の予測ではないのであり、前段で述べたように、この映画が文学や書かれた文字に対する情熱的なオマージュであるとするならば、それを最もうまく表現する方法は、それの否定系すなわち書物を排除する高度管理社会を描くことによってそれを浮き彫りにすることであるということは間違いがないところでしょう。
それでは次に問われねばならないことは、何故この映画は高度管理社会を描きながらも、高度管理社会にとっては極めて危険な存在であるはずの書物の持つ内的な潜在力を表現することに成功しているのでしょうか。第1の回答は、以下の点にあります。それは、前述マーシャル・マクルーハンもその著「グーテンベルクの銀河系」で「(書物の)印刷は、被支配階級の均一化と中央集権的国家を齎すことになったが、また同時にそれに対して抗うための個人主義及び抵抗手段をも齎した」と書いているように、実は書物というのはヤヌス的な側面を持っているということが挙げられます。要するに、書物は権威を構成する手段を提供すると共に、その権威に自由意志を持って抵抗する手段も生み出したということです。この映画では、このような側面が、本を丸ごと記憶してその文化が失われないようにし且つ権威当局に対して抵抗する「Book People」というコミュニティによってうまく表現されていると言えるのではないでしょうか。第2点には、「華氏451」で描かれている書物は、どちらかというと大量印刷された書物を象徴しているというよりも、大量印刷到来以前の書物を象徴しているのではないかということがあります。大量印刷到来以前の書物というのは、人の手で丹念に複写されたものであり極めて触覚的な要素が強いものでした。この映画でも、書物に対して触覚的音声的な感覚を与えるシーンが少なからずあります。たとえば、前に述べた朗読シーンやビューティフルなラストシーン、或いはオスカー・ウエルナーが夜中に一人で指をなぞらせながら書物を音読しているシーンなどです。また、逆説的ですが書物が焼かれる場面で本のページが火で捲くれあがっていくシーンなども極めて触覚的な印象を与えます。また、直接書物には関係ありませんがモノレール内のシーンで、網タイツの女性の脚や、女性が自分の唇を手でなぞっている様子、或いはガラスにキスをしている乗客等が写し出されるシーンがあります。特典の中では、このシーンに関してはエロティシズム(くだんのコロンビア大学教授女史は、防腐剤的且つ不毛な風景が人間のボディまで拡張され、そのような脱エロティシズムを通じてナルシシズムに転換されたエロティシズムが表現されているというような主旨のことを述べており、それはそれで冒頭で述べた有機的な逸脱(事象)の無機的なコントロールによる中和という側面にパラレルなものがありふむむと思いましたが)という文脈の中で語られていますが、私目はむしろ触覚というタームを通してこのシーンを見ることが出来るのではないかと考えています。すなわち、これらのシーンを見ていると、この映画においてはある意味で書物の音声的触覚的側面の復興が示唆されているようにも受取ることが出来ます。
最後に今回DVD及び付属の特典を見るまでは全く気が付かなかったことがいくつかあり、それについていくつかコメントしておきます。まず第一は、コロンビア大学教授女史が特典の中でナチズムとの繋がりを指摘している点です。すなわち、オスカー・ウエルナーのドイツ語アクセントから始まって、ファイアーマンの黒いユニフォーム、オスカー・ウエルナーとシリル・キューザックが挨拶する時の挨拶の仕方、シリル・キューザックがヒトラーの「わが闘争」を手に取るシーン、そしてファイアーマンが放つ火(すなわちアウシュビッツ等のホロコーストのイメージ)、これらはナチズムを想起させるということです。意識的であるか無意識的であるかは別として、高度管理社会のイメージをナチズムのイメージに結びつけているのは間違いがないところであると思われます。但し、これは何もナチズムが高度管理社会であったとか、或いは逆に高度管理社会は自ずとナチズムが支配した社会のようになるとこの映画が示唆していると捉えるべきでは全くなく(そもそもそれには全く根拠がありません)、単なるイメージ的な重ねあわせであると捉えた方が良いのかもしれません。それから特典で「華氏451」のプロデューサー達がヒチコック映画の影響に関して述べている点を挙げることが出来ます。たとえばオスカー・ウエルナーが夜中にうなされるシーンであるとか、壁掛けの背後から本が予期せぬ仕方で現れるシーン等にそれを見て取ることが出来るということが示唆されています。また、ジュリー・クリスティが働いていた学校の廊下がヒチコックの「めまい」(1958)におけるシーンのようにズームイン/アウトされる様子は、DVDを見て始めて気が付きました。「華氏451」はTV及びビデオで間違いなく10回は見ているはずですが、これまでは一度も気が付くことがなかったので、DVDの画像がいかに優れているかがこれによっても分かるのではないかと思われます。それから特典のメイキングの中でコロンビア大学教授女史の指摘している点には、私目もほぼ同意することが出来ますが、一点だけ???と思えるコメントがあり、それは彼女が「Book People」が詩や小説を暗唱するラストシーンで表現されているのは、コミュニティではなく自己充足的でナルシスティックな個々バラバラな個人であり、それは前述した防腐剤的且つ不毛な風景とマッチしたナルシシズムと軌を一にするものであるというような主旨のことを述べている点です。確かにラストシーンだけを切り離してビジュアルな印象のみで見ればそれはその通りであると言えるように思われます。しかしながら、この作品はまさにそのような視覚偏重的な考え方から由来する社会に対する批判が込められているのであり、むしろそのような見方は最も避けられなければならないのではないかと思われます。そもそも、詩や小説の朗読及びそれらの口頭伝承とは、個人がナルシスティックに行う行為を指すわけではなく、必ずどこかにコミュニティが関連する営みであるはずであり、そのようなことはコロンビア大学教授女史も分かっていないはずはないはずなのです。従って、彼女が何故わざわざそのような見てくれの印象によるコメントをするのかが理解出来ないのですね。他の点では、ふむむと感心するコメントが多いのですが、これだけは???と思ってしまいました。それからあまり大したことではないのですが、1つこの映画のキャラクタースタディで興味深いことがあって、それはジュリー・クリスティの2役でも主演のオスカー・ウエルナーに関してでもなく、オスカー・ウエルナー演ずるモンタークを毛嫌いするファイアーマンを演じるアントン・ディフリングに関してです。あれだけ毛嫌いしているところが描かれながら、モンタークに対する影響という観点から見るとこの映画の中でのディフリングの役割はほとんど無に等しいのですね。むしろモンタークの敵として最終的に立ちはだかるのはシリル・キューザック演ずる彼の上司であるし、モンタークがこっそりと本を自分の鞄の中に詰め込むのをディフリング演ずるキャラクターは盗み見していながら結局モンタークを当局に告発するのはジュリー・クリスティ演ずる彼の奥さんなのです。すなわち、アントン・ディフリング演ずるファイアーマンのこの映画における立場とは、どこかコメディ的なところすら感ぜられるのですね。それが証拠に学校でのあるシーンでかつらを被って女装したようないでたちで一瞬登場したりします(一瞬のシーンなので今まで全く気が付かなかったのですが、これもメイキングを見ることによって始めて知りました)。冒頭のふてくされて林檎を吐き出すシーンであるとか、ディフリングのキャラクターを見ているとある意味ガキンチョのように滑稽で可笑しいとさえ言えます。
ということで、「華氏451」という作品を改めてDVDで見直して、この作品がまさにクラシックと呼ぶに相応しい作品であるということが確認出来たが故に、もう一度レビューを書き直してみました。たとえばラストシーンの美しさ(特典の中で原作者のレイ・ブラッドベリーは、どんな映画のラストシーンよりも美しいと手前味噌もあるのか述べています)は、VHSで見た時にははっきりと分からなかったのですが、DVDバージョンではそれが良く分かります。DVDの画像のクオリティも60年代当時製作された映画としては最高であり(但したとえばモノレールの中など一部のシーンが他のシーンに比べると画質が落ちているように見えますが気のせいでしょうか)、豊富な特典とも合わせて絶対のお薦めプロダクトであると言えるでしょう。この作品は必ずしもマイナーであるわけではないので、きっとその内国内でもDVDが発売されるのではないかと思われますが、その折にはたとえVHSで持っていたとしても絶対に買って損のないプロダクトであると言えます。これを買わずして、何を買う、そう言い切れる程素晴らしい作品であり素晴らしいプロダクトであると言うことが出来ます。

2003/10/25 by 雷小僧
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