東京国際映画祭日記

00/11/10

 昨年上京してきて、今年もおおいに楽しんだ東京国際映画祭。昨年は「雨あがる」「シュリ」の2作品しか見なかったが、今年はある方から東京国際映画祭のチケットを多数頂いたため、コンペを「式日」「僕たちのアナ・バナナ」の2作以外、16本中14本を見るというチャンスに恵まれた。特別招待作品、東京ファンタスティック映画祭も含めると20本も見ることになった。

 そして、コンペでは、先日、予想通り、「アモーレス・ぺロス」のグランプリが決まった。

 今年の映画祭について振り返ってみたい。

10/28 

「ラン・フォー・マネー」

 上映に遅れそうで、暗い渋谷を走ってBunkamuraに駆け込んだのが思い出深い。東京国際映画祭開幕の第一本目ということで、期待と不安があったが、本作は、オープニング作品にふさわしいコンパクトにまとまった佳作であった。内容は経済学部の学生である私にとって、きわめて興味深かった。カネにまつわる物語をペーソスたっぷりの寓話として描いていて、人間の悲しいサガをアイロニカルに描き出す。

 上映後行われる監督に直接質問できる、ティーチインというイベントは私にとって、初めての経験であった。わくわくしたが、とっさに質問は出来なかった。

 しかし、振り返れば、本作のティーチインはトルコの現状について(トルコ人の観客も交えた)激しい議論になり、肝心の映画の普遍的テーマについて、少ししも語られないという不幸なものだった。トルコの現状などこの映画ではどうでも良く、むしろ資本主義と人間の衝突が語られるべきなのに・・・。

10/29 

「ジャニス・ベアードWPM45」

 今、元気なイギリス映画らしいかわいらしいコメディで、芸達者な俳優陣に安心して見ることが出来た。OLが主人公のドラマに必須のテーマである「男性社会への不満」、少女漫画によくある、「女性間のイビり合い」などなど、ツボをしっかり押さえていて、「日本でもよくある話だなあ」と、テーマ自体の普遍性にあらためて感心した。この監督自身のOL時代の経験がしっかり生かされていて、OLたちの生態を、明るくコミカルに描き出している。処女作と思えない佳作であった。

 ティーチインでは、監督が契約社員から舞台演出、そして映画監督へと若いのにいかに多彩な人生を歩んできたかに質問が集まった。本作のハリウッドのリメイクも早くも登場するそうで、嬉しそうな監督の表情が忘れられない。

「キング・イズ・アライブ」

 特別招待作品で本年度のカンヌ映画祭パルムドールの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督ラース・フォン・トリアーの起こしたドグマ'95という監督集団の一人、クリスチャン・レヴリングの監督作品。その話題性のためか、観客席はコンペ作品にも関わらず、超満員であった。

 ところが、肝心の中身は、現代的でドキュメンタリータッチの映像の中に、すこしもドラマ性を見いだせない凡作に終わった。暗いテーマが、淡々と語られるだけの全く面白みの無い内容に、私を含めた観客たちも失望を隠せずにいた。ティーチインどころか挨拶にも訪れない製作者側の態度にも、おおいに腹立った。

「アモーレス・ぺロス」

 ラテンアメリカ映画というのは、今年「ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ」を見て、その独特の感性に強く感銘を受けたのだが、それは、ヴィム・ヴェンダースというドイツ人が描いた「外国から見たラテンアメリカ」。本作は若いメキシコ人監督の処女作にして、2時間半を越える大作である。

 ところが司会の襟川クロさんが、「あっという間の2時間33分です。」と上映前に語ったので、それが耳に残ったまま、本作を見ることになった。そして、まさに彼女の言う通りであった。

 冒頭から、スピーディーでパンチの利いた映像で飛び出す第1部では、血なまぐさく荒々しい闘犬と、それにまつわる男達の物語にまず、目を奪われた。闘犬の迫力を揺れ動くキャメラが直に捕える。そして、貧しく暴力の支配するメキシコ社会を浮き彫りにし、若い俳優達の荒い息遣いが伝わってくるような殺伐としたドラマは、じつに斬新で素晴らしかった。

 しかし、冒頭の事故が繰り返して始まる第二部では、そのテンポが一転。急におとなしくなる。主人公も替わり、家族を捨てた男と人気モデルの愛を描いた、メランコリーな物語。モデルの夢と挫折。前章と同監督とは思えない作りに、監督の確かな手腕を感じた。

 そして、3部の元パルチザンの殺人請負人エル・チーボの物語。彼は全編を通して、謎の多い人物として描かれるが、この第3部で明らかになる、父親としての彼の極上の物語。エミリオ氏の極上の演技に酔いしれる・・・。

 これほど、気合いの入った作品には、最近ついぞお目にかかっていないので、監督の意気込みがひしひしと感じられた。一緒に見た友人と、「グランプリになるなら本作だな」とそのとき、すでに確信した。

 ティーチインは、監督とエル・チーボを演じたエミリオ氏がジョークを多数交えて、大変面白いものになった。「犬」や「父親」について、監督がさまざまな解釈を語った。ストーリーが一見、感情の赴くままに展開しているように見えて、いかに監督が計算して演出していたか。そして、監督が本作の脚本に大変な労力を注ぎ込んだことに、強く胸を撃たれた。

10/30

「西洋鏡」 

 監督のアン・フーは、文革終結後はじめてアメリカに渡った留学生の一人である。そして、今では完全にアメリカ人。その彼女が「自分のルーツが気になる」として作ったのがこの物語。

 映画に初めて触れる人の感動。まるで「ニューシネマパラダイス」だ(監督はこの作品は見てないとその影響を否定した)。友情、恋愛、葛藤などを実にバランスよく配置し、監督の手腕は確かであった。実際にはこのレイモンドなる人物は実在しないのだが、彼の存在無しではこの映画は語れない。で、そこではたと疑問が湧いた。「これはハリウッド映画か?中国映画ではないのか?」。本作の語り口は、チェン・カイコーやチャン・イーモウのそれとは明らかに違っていた。いわゆる計算され尽くした「ハリウッド型」の映画だったのである。あまりに良く出来た物語とあまりにバランスよく配置されたキャラクターに、中盤以降、私はとめどもない違和感にさいなまれた。

 ティーチインで、監督が尊敬すると語った監督はオーソンウェルズなどアメリカ人ばかり。中国映画について、質問した人がいたが、彼女の返事はあやふやであった。ハリウッドシステムまでがグローバルスタンダードになったように感じられて、悪寒がした。

「ワン・モア・デイ」

 この作品の前に、相当無理して並んで「花様年華」を見たため、疲れが出てしまい、上映中に少し眠ってしまった。盛り上がりに欠けるストーリーと、静かなワンシーンワンショットが眠気を誘わないわけが無い。キアロスタミが恋しくなった。

 ただ、驚くべくは「西洋鏡」が明らかにハリウッドスタイルなのに対し、カナダに在住している監督の本作は、いかにもイラン映画だったのである。厳しい検閲の中で作られたこの素朴だがとてつもなく深いこの恋愛映画に、私は混迷した。内容があまりにも断片的で多くを語らず、難解。このような経験はタルコフスキーの「鏡」を見て以来。この作品はチケットを下さったSさんと一緒に見たのだが、さすがよく内容を理解していらっしゃった。少々悔しい思いもしたが、疲れが出ていたので、ティーチインは遠慮した。

10/31

「見知らぬ街へ」 

 「ラン・フォー・マネー」とともに選ばれたトルコ映画。しかし本作は、ドイツに住む女性トルコ人監督の実体験もふまえたロードムーヴィー。ドイツなどに見られるトルコ人移民の問題。オーストリアのハイダー氏がこれに強圧的であることなど、いまだにタイムリーな話である。その上、ホモへの偏見、貧しい故の子供の排斥、などなど同じ「親探し」の「パリ・テキサス」と異なり、救いが無い。主人公のゼキとツェナイの物語には共感しつつも、社会問題を痛々しく見せられる。かなり重苦しく、堅いが、そこに湯水のごとく流れてくるペルシャ音楽。あの独特の旋律に癒されるわけでもなく、キズを深められるわけでもなく、ただ淡々と物語が展開する。監督の厳しい視点が厳しすぎた印象。

 ティーチインでは、ゼキを演じたヒルミ氏が「今度はマッチョな役がやりたい」と語って会場を沸かせたが、やはり重苦しい雰囲気が残ってしまった。

「非・バランス」

 コンペでようやく邦画が出てきた。あまり期待していなかったが、これが実にすがすがしい青春映画。ティーチインでも、硬派な青年が思わずエールを送ってしまうかわいらしいチアキと、外国人記者が「抱きしめたい」とコメントしたオカマのキクチャン。この絶妙のコンビが、お互いのキズをなめあい、挫折から再生へと向かっていく。オーソドックスながら、映像の美しさ、オカマという設定の面白さ、そして「いじめ」へのテーマがしっかり盛り込まれ、おおいに楽しめる内容であった。正直、こういう国際コンペで、邦画にどんな映画が選ばれているか不安で仕方なかったが、冨樫監督が「大のオトナがこんなかわいらしい映画を作ってしまいました」と照れながら語る本作は、そんな不安を完全に払拭する、素晴らしいものだった。

しかし、この晩に、「田園のユーウツ」を見て、またしても邦画に不安を覚えてしまうのだが・・・。

11/1

「バック・ドア」

 アンゲロプロスしかギリシャ映画を知らなかった私にとって、当初から興味深い作品ではあった。しかし、フタを開けてみると、この作品も「西洋鏡」と同様、ハリウッドスタイルなのである。映像に若干のこだわりもあるが、監督の体験が含まれているという以外は、きわめてオーソドックスな青春映画なのである。性の目覚め、新しい父との葛藤、恋愛の破局など、成長物語にありがちなテーマがポンポン飛び出す。そして、60年代のギリシャの政治状況、「ギリシャにも都会はあること」(監督の弁・・・暗にアンゲロプロス作品を揶揄してるのか?)などは理解できた。しかし、監督が描きたかったものが、もう一つ浮かび上がってこない。監督がカメラ越しに恋したというコンスタンティノス君は確かに素晴らしい演技を見せてくれるが、13才の少年がセックスし、梅毒になる設定に気持ち悪さも残った。

「2000・限りある日々」

 コーエン兄弟の「バートン・フィンク」でコミカルで怪しげなキャラクターを演じたタトゥーロが今回も好演。若いのに「死ぬ前に何をするか?」という「永遠と一日」にも共通するテーマを選んだこの監督に、一抹の不安を覚えながら本作を見た。しかし、そんな不安は全くの杞憂であった。

 そんな暗い話が、コメディとして描かれているからだ。古生物学者のベンジャミンが、あまりに人間ばなれしたコミカル(グロテスク?)な表情を見せるので、人の不幸をと知りながら、笑いを誘ってしまうのである。しかも、脳みそが肥大化するという、なんとも奇妙な病気。脳みそのクローンを作ったり、それに足の骨をくっつけてうめたり(監督いわく次世代の古生物学者へのメッセージだという)、観客は同情を忘れて、死を受け入れてユーモアに生きるベンジャミンに、笑いを求めてしまう。そんな彼がついに幻覚症状や記憶障害が出る。ところがそれも監督はさらりと幻想的に描いてしまう。記憶が思い起こされる媒体に、「映画のフィルム」という装置を用いるというアイデアも、素晴らしい。ビル街に映写される彼の記憶。思わず涙してしまうシーンである。

 「人の死を自然に受け入れる」ことに気をつけた監督の演出は冴え渡っている。シンプルさにこだわったキャメラマンの映像も見事である。「アモーレス・ぺロス」で無ければ、本作がグランプリかも、と思った。

 その晩、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でまた、感動して涙してしまう。

11/2

「オー!スジョン」

 この日、「式日」のチケットが取れなかった私は3本も韓国映画(これと東京ファンタスティック映画祭で「カル」「ユリョン」)を見ることになる。その一本目がこれ。全編モノクロの斬新な実験映画である。男女の記憶をたよりに、再現した恋愛過程がこんな感じでした、と提示して見せる両者の記憶の食い違い。この「記憶」のあいまいさを逆手にとって、映画自体を解体するという手法に、おもわず興奮した。物語自体はいたってシンプルなので、分かりやすい。監督もそれをこころがけたようで、それが「情報量の少ない」モノクロにした理由だという。しかし、独創的なアイデアだけに、もう少しひねっても面白かったかもしれない。実験映画の枠を越えた、傑作になっただろう。

「ノーバディ・ノウズ・エニバディ」

 97年東京国際映画祭グランプリの「オープン・ユア・アイズ」のスタッフが作ったということで、期待して見にいったが、正直、軽いノリの娯楽映画に仕上がっていて失望した。スペイン映画らしいオシャレなセンスは出ていたが、「オープン・ユア・アイズ」を知った後では、ずいぶんお粗末に見える。サスペンスも原作があったと思えないほど面白くないので、結局、観客は主演のエドゥアルド・ノリエガだけに注目することになる。ティーチインでの質問も彼へのものが多く、多くの女性ファンが熱狂していた。

この晩、「カル」「ユリョン」を見た。

11/3

「プリンセシーズ」

 すでに劇場公開も決まったらしいフランスの青春映画。大人になりきれない女性が女性として羽ばたいていくまでを描いている。こう書けばキレイだが、内容は結構ハードボイルドで、殺伐としている。金を巡る男達との逃走劇。男達はみな何か弱々しくて、主人公の彼女達はいたって元気。そんな主人公達に私は共感できなかった。現在人気絶頂だという主演のエマ・ドゥ・コーヌは、ハリウッドに行きたい一心を語っていたが、フランス映画の衰退がいかに深刻かを痛烈に感じた。

「モンディアリート」

 「プリンセシーズ」と同様、エマ・ドゥ・コーヌが出ていて、挨拶とティーチインをした。今回の彼女はよりはつらつとしていて、ブスッと膨れっ面をしていた前作とは大きな差を見せた。ジョルジュとアブドゥ役の二人の屈託の無い演技にも影響されたのかもしれない。内容は軽いがすがすがしいロードムービーであった。

感想

 私は、今年初めてコンペ作品を見た。今年は趣向を変えて、長編映画3本以内の若い監督の作品に絞ったそうだ。結果として、選ばれた作品に、凡作が含まれていることも否めないが、いくつか発見もあった。

 今回の作品の中で突出していたのが、「アモーレス・ぺロス」と「2000・限りある日々」の監督達の凄まじいガッツと、「オー!スジョン」の斬新さ、そして「非・バランス」のバランスの良さ(笑)であった。

 自伝的な作品を作る監督も多く、「ジャニス・ベアードWPM45」「西洋鏡」「見知らぬ町」「バックドア」など、監督の体験が色濃く反映されていた。

 その反面、ハリウッドスタイルがグローバルスタンダードになってしまったのか、その国ならではの映画の作法が思ったほど楽しめなかったのが残念であった。

 実際、そういった作品は当然、シュレンドルフ審査委員長の目には留まらなかったようだ。

 「式日」と「僕たちのアナ・バナナ」はもうじき公開されるであろうから、その際に見にいきたいと思う。

 このほか、11/3には、押井守監督と、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のプロデューサーとフィルム技師によるシンポジウム「デジタルは映画を変えるか」に参加した。

 押井作品の貴重な資料、例えば、「実写版 起動警察パトレイバー」や「GRM(ガロム)」のアニメ版(10分)、実写版(1分)のパイロットフィルムを拝見するチャンスに恵まれたのはラッキーであった。「GRM」はすぐにでもみたい凄まじいスケールのSF映画で、日本のアニメのクォリティの高さをまざまざと見せつけられる思いがした。

 「ダンサー・・」の方では、ドグマ95についてのラース・フォン・トリアーのインタビュー映像(本人は大の飛行機嫌いで日本に来れないのだ!)を見ることが出来た。そして、「ダンサー・・・」が100台以上の家庭用DVを使って撮られたこと。PALの方がNTSCよりも品質が良いこと。DVから35ミリフィルムに焼きだすのに1分300ドル(!?)もかかるということ、などなど、技術的な情報が多数聞けて興味深かった。

 翌日(11/4)見た「アヴァロン」は、まだ監督が手の内を見せてないことが確認できた。早く「GRM」が見たいものである。

 11/5の最終日、シネマプリズムのクロージングの「初恋のきた道」で、尊敬するチャン・イーモウのティーチインに参加できたのはうれしかった。

 若い世代の新たな才能の発掘。20世紀の映画への感謝(今年の東京ファンタスティック映画祭のキャッチフレーズでもあった)。そして、デジタルというカラー、トーキーに続く第三の革命への提言。全体として、世紀末にふさわしい映画祭だったのではないだろうか。私は、今もなお興奮が冷めやらないでいる。このような、とても楽しい映画祭のチャンスをくださったSさんには感謝したい。

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