第15章 二つの世界の相互関係
第1節 ●可視の世界と不可視の世界
地上の人間の意識は、とかく目に見え、手で触れることの出来る範囲に限られている為、周りに目に見えない世界が実在することを理解するのは、中々難しい。しかし、物質が個体と液体と気体という三つの形態で、可視と不可視の状態の間を行ったり来たりしながら常に変化していることを理解するのは、さほど難しいことではない。
可視の世界は、不可視の実在がその要素の組み合わせによって、たまたま肉眼に映じる形態を取っているだけのことである。植物の成分の九十五パーセントは、大気中から摂取されたものであることが科学的に分かっている。空気なくしては、人間は数分間も生きられないのであるから、大気は他のいかなる可視的物質よりも大切であり、人類は大気という不可視の大洋を母体として生きていると言えよう。
窒素は、大気の大部分を構成しているものであるが、植物や動物の成育と存在には致命的な関係を持っている。水素ガスと酸素ガスは、目に見えないガスの状態から、目に見える水や氷の状態に絶えず変化を続けている。炭素もまた同様である。小は電子から大は遊星や太陽を動かすエネルギーまで、音や香りや寒暖の温度の法則やその他の諸々の現象は、触れることも見ることも出来ない要素である。
科学的親和力、エネルギー、植物の生活、動物の生活、知的並びに精神的作用に見られるように、あらゆる活動力は、化学現象であれ生命現象であれ精神現象であれ、その働きは肉眼には見えていない。これで分かる通り、目に見える世界のあらゆる構成要素が、その根元と永続性とを目に見えない世界に置いていることは明らかである。目に見えない世界は、目に見える世界の根元なのである。
第2節 ●否定しがたいスピリットの実在
このように、客観的存在も不可視の物質とエネルギーの組み合わせの産物に過ぎないことを知れば、目に見えない世界の存在は容易に理解されよう。自然界の極微の世界における科学の驚異的な進歩を考える時、物的身体から独立したスピリットが存在するという説は、いやしくも思考力をそなえた者なら誰しも納得しうるものと思う。古今を通じ、又あらゆる文学作品において、スピリットの存在や死後の生命ほど確たる証拠を有するテーマは他にない。
米国の歴史家フィスクは、
「現段階で分かった限りでは、あらゆる人種において祖先崇拝(死者[スピリット]との接触)は礼拝の最も初期の形態であり、アフリカ、アジア、中国、日本、ヨーロッパのアーリア人種、アメリカのインディアン等で広く行われていた」と言っている。
同じく歴史家のアレンは、その著書Histry of Civilization(文明の歴史)の中で、「世界中のどの未開の人種も、人間の魂や霊の世界の概念を持ち、一般に不死の信仰を持っている。未開人は来世を単純にこの世の続きと考えている。彼等は又、神秘的な力を持つ別の自我の存在を認めている。死とは、そのもう一つの自我が肉体を離れることであり、その自我は死後も尚、近くに存在するものと想像されている。この世の愛や憎しみは、死後にも持ち越されると考えている」と述べている。
孔子は「過度の嘆きをもって死者を悲しんではいけない。死者は献身的で誠実な友である。彼等はいつも我々と共にある」と言っている。
名著を残した古代の思想家――ソクラテス、ヘロドトス、ソフォクレス、エウリピデス、プラトン、アリストテレス、ホラチウス、ベルギリウス、プルターク、ヨセフス、チュロスのマクシモス等は、繰り返しスピリットの存在を当たり前のように記述している。例えば、キケロはこう書いている。
「天国の殆どが、かつての人間で満たされているのではなかろうか。神々も実は、その起源をこの地上に持っていたのであり、この地上から天へと上ったのである」
初代キリスト教がスピリットの存在を認めていたことは、聖アントニー、テルトゥリアス、オリゲネスや同時代の人間の著作の中で十分に証明されていることであり、改めて強調する必要はない程である。
バイブルは、スピリットに関する記述が豊富である。ヘブル書12・1、ヨハネ第一書4・1、ヘブル書12・23、コリント前書15・44・46等々、いくらでも引用出来る。
スウェーデンボルグは、改めて紹介するまでもないであろう。ドクター・ジョンソンこと、サミュエル・ジョンソンは「私はスピリットの存在を信じているのではなく、多くのスピリットを見てきているのである」と書いている。
メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは、その著The Invisible World(不可視の世界)の中で次のように述べている。
「英国の一般人、否、ヨーロッパの教養ある人々の大部分が、魔女や幽霊の物語を迷信として片付けている。私はそれを残念に思う。そしてバイブルを信じている人達が、そういうものを信じない人に呈する間違った賛辞に対して、この機会に厳粛に抗議しておきたい。このように考えることは、バイブルに反するばかりでなく、あらゆる時代、あらゆる国々の先賢達の直観的判断にも反する。先賢達は、霊媒現象を否定することは、事実上バイブルを放棄することになるということを理解していたのである」
右のジョン・ウェスレーの父親、サミュエル・ウェスレーの館で、色々な怪奇を伴った心霊現象が何か月間も続いて起きた、いわゆる〝エプワース事件〟は有名である。
シェークスピア、ミルトン、ワーズワース、テニスン、ロングフェロー、その他の多くの詩人が、人間の死後存続についての深い理解をもって詩を書いている。
クルックス教授、アルフレッド・ウェーレス、オリバー・ロッジ、コナン・ドイル、キャンベル牧師、コリー大執事、ニュートン牧師、W・T・ステッド、カミーユ・フラマリオン、バラデュク博士、ジャネー博士、リシェ教授、ロンブローゾ教授、ホジソン博士、I・K・ファンク博士、ジェームズ教授、ヒスロップ教授、キャリントン博士、その他、多くの現代の科学者、哲学者、牧師、医師、心理学者による説得力のある研究業績は、我々のよく知るところである。
トーマス・ハドソン博士は、その著書The Law of Psychic Phenomena(心霊現象の法則)の中でこう述べている。
「今日、心霊現象を否定する人は、懐疑派と呼ばれるにも値しない――只の〝無知〟に過ぎないのである」
ニューヨークの聖パウロ教会の牧師、ジョージ・M・サール博士は、
「スピリットの実在ということは、この問題を研究した科学者の間でさえ、もはや疑問のテーマではない。心霊現象を欺瞞だとかトリックだとか妄想だとか考えるような人間は、時代遅れであることを表明しているに過ぎない」と言っている。
イエズス会のG・G・フランコはCivilta Cattolica(著書名の訳、不明)の中でこう述べている。
「現代では、よくよくの変わり者を除いて、霊的事実の実在を否定する人はいない。心霊現象は、人間の五感の範囲で起きる現象であり、全ての人間に観察出来る。そして、そうした現象が多くの著名な、信頼の置ける人によって証言されている以上、それに反論することは愚かしく滑稽であるばかりでなく、第一、無益なのである。理性的な人間にとっても、今もって確証の得られた事実であることに変わりはない」
第3節 ●霊の世界と物質の世界の相互作用
霊の世界と物質の世界との間では、絶えず相互作用が行われている。霊界は空漠とした世界ではなく、実体のある自然界であって、物質より一段と純化された材料から形成された、活動と進歩に溢れた広大な世界である。そこでの生活は、この物的世界での生活の続きである。
物質界においては、魂は、その世界での経験や対象物との接触によって知識を獲得し、肉体器官を通しての表現によって存在を自覚する。霊界においても個々の進化は継続し、自発的な奉仕、高い理想の認識と成就、そしてますます広がっていく生命の目的の理解などを通じて、理性に導かれながら、魂が開発されていくのである。
一般に陰鬱な恐怖をもって見つめられている〝死〟は――この〝死〟という用語は実は間違っている――自然に、そして簡単に推移するので、多くの人間が肉体から離れた後もその移行に気付かず、又、霊界の生活についての知識を何一つ持ち合わせないので、彼等はそれまでと全く別の生活環境に入っていることに少しも気付かない。肉体の感覚器官を取り上げられているので、物質界の光を見ることも出来ず、又、より高い人生目的の理解も欠いているので、彼等は霊的に盲目であり、バイブルで〝暗黒界〟と呼ばれている薄暗い境涯にいて、地上圏に属する領域をさ迷っている。
死は、罪多き人間を聖人にするものでもなければ、愚か者を賢人にするものでもない。その個性は生前と同じであり、地上時代と同じ欲望・習慣・信条・間違った教義・来世に関する無知な不信といったものを、そのまま携えて霊界入りするのである。そして地上時代の精神状態がそのまま具現化した容姿をして、幾百万ものスピリットがしばしば地上圏に留まり、多くの場合、地上生活を送った場所にいて、地上時代と同じ習慣や趣味を固辞しているのである。
霊界の高い界層にまで進化したスピリット達は、こうした地縛霊を導こうと常に努力しているのであるが、彼等は死後についての誤った先入観の為に、先に霊界入りしているスピリットが訪れても〝死者〟とか〝幽霊〟と思って恐れ、たとえ友人が会いに来ても、それを友人と認めようとせず、自分の置かれている身の上を理解しようともしないのである。
深い睡眠状態にある者も多く、途方に暮れ、困惑した状態にある者もいる。その迷いの心は、奇妙な闇の恐怖につきまとわれ、また良心の呵責を覚え始めた者は、地上生活中の行為の為に恐れと悔恨の中で苦しんでいる。
一方には、利己的で邪悪な性向に動かされて、その欲望のはけ口を見出そうと、適当な人間を探し回っている者もいる。彼等は、こうした破壊的な欲望から脱して、魂が悟りと光を求め、高級なスピリットによる救いの手が差し伸べられるまで、その状態に留まっている。
彼等は、生前の性癖や欲望を満たす為の道具(肉体)はもう失っている。そこで、多くのスピリットは、生者から放射されている磁気的光輝に引き付けられ、意識的に、或は無意識的に、その磁気的オーラに取り憑いて、それを欲望を満たす為の手段とするのである。
こうして憑依したスピリットは、霊的な過敏な体質のその人間に自分の想念を押し付け、自分の感情を移入させ、その人間の意志の力を弱めさせ、しばしばその行動まで支配し、大きな問題や精神的混乱や苦痛を生ぜしめるのである。
昔から〝悪魔(デビル)〟と呼ばれていたのは、こうした地縛霊のことなのである。実質的には人間に由来するものであり、利己主義や間違った教義、無知などによる副産物であり、何も知らないまま霊界へ送り込まれて、無知という名の束縛に囚えられているのである。
世の中の不可解な出来事や不幸の原因は、実はこれらの地縛霊の影響なのである。清らかな生活や正しい動機、高い知性が必ずしも憑依からの防御を約束してくれるものではない。唯一の防衛手段は、こうした問題についての認識と知識である。
地縛霊の侵入を受ける側の肉体的条件は多様である。生来の感受性、神経の衰弱、急激なショックなどによることが多い。肉体の不調も憑依を招きやすい。生命力が低下すると抵抗力が弱まり、スピリットの侵入が容易になるのである。その際、憑依される人間も憑依するスピリットの方も、互いに相手の存在を意識していないものである。
スピリットの侵入は、その人間の性格を一変せしめ、人格が変わったように見え、多重人格症、ないし人格分裂症、単純な精神異常から、あらゆるタイプのデメンチア・ヒステリー、てんかん、憂鬱症、戦争痴呆症、病的盗癖、白痴的行為、狂信、自殺狂、その他記憶喪失症、神経衰弱、渇酒症、不道徳行為、獣的行為、凶暴、等々の犯罪行為を起こさせる。
地上人類は、高尚な人生の目的を理解していない無数の死者の想念に取り囲まれていると思ってよい。その事実を認識することによって、ふとした出来心、激情、奇妙な予感、陰鬱な気分、イライラ、不可解な衝動、不合理な癇癪玉の爆発、コントロール出来ない熱中、その他の無数の精神的奇行等の原因が理解出来る。
第4節 ●憑依現象に関する記録
憑依現象の記録は、遥か古代から現代にまで及んでいる。英国の著名な人類学者のタイラー博士は、その著Primitive Culture(原始文化)の中で次のように述べている。
「人類は今でも、その半数が、本質的に同種の現象を説明する為の説として本質的に同種の説、すなわち憑霊説を信じており、原始時代の先祖の考えをそのまま踏襲していると言っても過言ではない」
ドイツの言語学者ミュラーはUrreligionen(原始宗教)という著書の中でこう述べている。
「現代の未開民族の間では、てんかん、ヒステリー、精神錯乱、白痴、狂気等は、ある種の悪魔に肉体をコントロールされた為に起こると信じられている」
古代にも文献は多い。ギリシャの詩人ホーマー(ホメロス)は、悪霊の存在に度々言及しており、「痩せ衰えていく病人は、邪悪なスピリットに凝視されている為である」と述べている。
同じくギリシャの哲学者プラトンも、悪魔が生者に取り憑くことを信じていたし、かの有名なソクラテスは、ずばり、精神病は悪霊に取り憑かれて起きると述べている。やはりギリシャ人の名著『英雄伝』で有名なプルタークは、
「凶暴な悪霊の中には、欲情を満足させる為に地上の人間の中から適当なのを選んで、その魂を唆して、楽しみの為に騒乱、乱行、征服戦争を起こさせることまでする者がいる」
と書いている。ユダヤの歴史家ヨセフスは「悪霊というのは、邪悪な人間のスピリットである」と言っている。
スピリットの存在及びそれが人間に憑依する事実については、新旧両聖書に度々出てくる。特に、使徒の時代にはそれがごく当たり前のこととして信じられていたので、邪霊を追い出す能力は、イエスの真の弟子の重要な〝しるし〟の一つとされていた。イエスが行ったとされている〝不思議〟の中でも、悪魔を追い出すことが相当部分を占めていたといっても過言ではあるまい。そのことは、新約聖書の次の部分から十分に窺われる。マタイ伝・10・1、マルコ伝・1・39、ルカ伝・8・27、29、36、使徒行伝・19・12、マルコ伝・9・17~29.
初代キリスト教の文献を見ると、聖アントニーは、
「我々は、邪悪な想念を発散している悪霊のひしめく中を歩いている。が同時に、善き天使達の中をも歩んでいる。その善き天使達と共にある時は不安も争いも喧騒もなく、どこか静かで優しい雰囲気があって、魂が喜びに満たされる。幾多の悲しみの体験と断食行の後で、私が一団の天使達に囲まれ、喜ばしく天使達の歌に唱和した事実は、何よりも主イエスがその証人である」と述べている。
神学者のテルトゥリアヌスは、悪霊を追い出すことに関して、異教徒に対してその是非についての論争を申し込んでいるし、ローマの弁護士であり教論者であるミヌチウス・フェリックスは『オクタビウス』の中で、
「かつては聖職にありながら堕落し、自分自身を破滅させた後、他の人間をも破滅させることを止めない不誠実な浮浪者のようなスピリットがいるものだ」と書いている。
数年前、ロンドンのゴッドフリー・ローパート博士は、法王ピウス十世から委任されて、スピリチュアリズムについて、米国のカトリック教徒に講義した時に、次のような主旨のことを述べている。
「心霊現象の問題を放置しておくことは、もはや不可能である。世界中の科学者がスピリチュアリズムを〝本物〟と認めており、これを握り潰すことは危険である。こうしたことから、この問題に対して取るべき態度をカトリック教徒に話すように、法主から要請されたのである。
もともとキリスト教会は、このような心霊現象やスピリットの実在を認めているのであり、事実、これまでも常に認めてきているのである。現在の問題は、その霊的存在の本質を明らかにすることである。我々は今や、世界を大変革せしめるかも知れない新発見の一歩手前まで来ているのである。今のところまだ、現象の全てを説明しうる段階ではない。最後の判断は、この問題がもう少し解明されるまで待たねばならない。スピリチュアリズムの研究はまだ新しくて、それ故に危険も伴うものである。生兵法は大ケガのもとである(憑依される危険性のこと)」
ニューヨーク市聖パトリック大寺院のラベル院長も、ある日の講演の中でこう述べている。
「悪霊の憑依ということが昔からあったことに疑いの余地はない。カトリック教会が、この可能性を認めていたことは、悪魔払い(エクソシスト)の為の規定があることでも明らかである」
ジュリアン・ホーソンは、ある一流新聞にこう書いている。
「邪悪な心の持ち主や邪悪な行為の常習者が、毎日、何千何万と死んでいく。彼等のスピリットは、その後どうなるのだろうか。彼等は、実はこの世へ帰りたがっているのである。ますます大胆にそして執拗に、その機会を狙っていることを示す証拠がいくらでもある。それを防ぐ方法は二つある。一つは、そうした好ましくないスピリットの供給源を断つことであり、もう一つは、彼らが侵入しようとする門戸を閉ざすことである」
A・グスターフソン博士は、自分で興味を覚えた実例を幾つか挙げてから「復讐心に燃えたスピリットは、死後、ある条件のもとで地上の人間の身体に進入して、これをコントロールする力をもっている」と述べている。
第5節 ●精神病とスピリットの憑依
ミシガン州カラマズー大学のH・L・ステットソン教授は、シカゴ大学での講義の中でこう述べている。
「悪霊の憑依ということは、神話上の話ではない。病気は、しばしば悪霊の憑依に起因していることがある。悪霊の存在は広く信じられていることである」
米国医師会・精神科のE・N・ウェブスター博士は、こう述べている。
「私は、精神病を起こさせているスピリットを何度も見ている。時にはその〝声〟まで聞こえることがある。不治と言われている精神病者は、単数又は複数のスピリットに完全に支配されてしまっていることがよくある。そうした精神病者を、死後、解剖して調べてみても、脳にも神経系統にも何ら異常がないことが多い」
ハーバード大学のウィリアム・ジェームズ教授は、心霊研究協会(SPR)の会報で「憑霊説が再び注目されるようになるであろう。これは、絶対確実のように思える。この問題に関して我々は、あくまでも〝科学的〟――愚直なまでに科学的であらねばならない」と述べている。
コロンビア大学のJ・H・ヒスロップ教授も、SPR会報の編集者をしていた時に「多くの精神病の根元は、スピリットの憑依であり、除霊によって治せるという事実を実証するものが次第に増えている。科学界もいい加減に目を覚まして関心を向けなければいけない。さもないと、物質科学は精神病をどうすることも出来なくなるであろう」と書いてある。
更に、教授は近著Contact with the Other World(あの世との触れ合い)の中で、次のように述べている。
「生者に悪影響を与えるスピリットの存在は、他の教説と同じくらい明白に新約聖書の中で語られており、旧約聖書の中でもそれを窺わせるものがある。
〝憑依(オブセッション)〟という言葉は、心霊研究家が、生きている人間に与えるスピリットの異常な作用のことを言うのであるが、これを全治させる為には、多くの時間と忍耐、特殊な精神療法を必要とし、憑依霊とコンタクトを取って憑依状態から解放したり、教え諭して、自発的に患者から離れてもらう為に、霊媒を使用することも必要である。
私が調べた分裂症や偏執狂は、いずれもその方法で功を奏し、精神的・肉体的病状が錯綜していても、その奥にスピリットの憑依があることを証明している。外科用のメスや顕微鏡の使用に劣らない実用的価値が見込まれているこの分野で、今や大規模に実験を遂行すべき時期に来ている」
Modern Psychical Phenomena(近代の心霊現象)の中で、著者のH・キャリントン博士はこう述べている。
「スピリットによる憑依の事実は、現代科学も、少なくともその可能性だけはもはや無視することは出来ない。それを立証する顕著な例証がおびただしく存在するのである。故にこの研究は、単に学問的な観点からだけでなく、現実に何千何万という人々が、この憑依によって苦しめられており、その救済は早急の調査と治療を必要としているという事実からも、不可避のものとなっている。一度憑依の可能性が論理的に認められれば、啓発された現代の知識と心理学的理解力が生み出しうる限りの配慮と熟練と忍耐を必要とする広大な研究領域が開かれるのだ」
神経的・精神的疾患の原因や治療の問題をめぐって、医学者や医療関係の役人に限らず、一般大衆の間でも、これほど広く関心をもたれたことは、医学の歴史上かつてなかったことである。統計によると、精神病が驚くべき速度で至る所で増加しつつあるのに、その原因については、医学の専門家の間でも見解の相違が大きく、機能的な精神病(身体上の欠陥が見当たらないもの)の正確な原因については、化学も尚その知識を持ち合わせていないのである。英国のウィンスロー博士にいたっては
「遠からず、全世界が狂気となるであろう」とまで断言している。
大部分の神経科医や精神科医は、精神病の直接的原因も遠因も、神経系統の錯乱にあるとの考えをもっているようであるが、正直言って真の原因については、殆ど分かっていない。フィラデルフィアの保健厚生局長W・M・L・コプリン博士は言う。
「精神病は、多くの場合、患者の脳の構造にはいかなる変化も伴っていないものである。精神病患者の脳を顕微鏡で調べてみても、完全に健康な人間の脳と少しも変ったところがない。それ故、精神病は何か細菌のような極微な微生物から出る毒血症によるものであることは明らかである。何かあるものが精神病を起こしているのであるが、それが何であるかは、我々にもまだ分からない」
ニュージャージー州の精神病収容所〝モリス・プレインズ〟の所長ブリトン・D・エバンズ博士は「脳の腫瘍も熱も、精神を冒すことはないのかも知れない。脳に疾患があっても、なお正常な精神の持ち主であることも有りうるのである」と述べている。
ドイツの著名な精神科医であり、ヒステリーの権威でもあるT・チーヘン博士は「多くの機能的な神経症については、その限界も定義も、正確なものは一つもない。ヒステリーについては病理解剖も何一つ教えてくれないのであるから、一定不変の原因は特定出来ないのである」と書いている。
ルーズベルト病院の医師でありニューヨーク医科大学の神経科教授であるウイリアム・トムソン博士はTuke's Dictionary of Psychological Medecine(ツーク精神医学事典)に言及してこう述べている。
「この優れた百科事典の執筆者は、英国・米国・フランス・ドイツ・ハンガリー・ベルギー・デンマーク・スウェーデン・ソ連の最も著名な教授、専門家、精神病院長といったそうそうたる面々である。だが、病的盗癖、渇酒症、慢性躁病などの項目の記述を見ると、病理解剖については一言も述べられていない(何も見つかっていないからである)。同じく、憂鬱病、産褥(さんじょく)期精神病、躁うつ病、殺人症、てんかんの項目でもそうである。いずれも、事故で死亡した健全な人間の脳と比較しても、その脳に何らの病理的変化も認められないという確かな理由から、病理学的記述がなされていないのである」
最近、虫歯、扁桃腺、感染器官の除去によって精神病が治る率が高いという報告が、トレントンのニュージャージー州立精神病院から発表された。トレントン療法の摘要の中でR・S・コープランド博士は、次のように書いている。
「この治療法は、精神病が体内のどこかにある細菌感染からくる毒血症、又は中毒による、という仮説に基づいている。もしもこの仮説が正しければ、症状が特に進行していない場合は、感染組織の除去によって精神症の症状が消えるということになる」
しかし、合衆国政府の統計は、他の統計と同じく、精神病の増加数が人口の増加数に比して大きいことを示しており、歯科医術があまり進歩していなくて開業医も少なかった時代には、人々は虫歯を放置しておくことが多かった筈なのに、精神病は少なかったという事実を考え合わせると、虫歯や扁桃腺疾患を精神病の第一次の原因と考えることは、この医学への関心の高い時代には不当のように思える。
トレントン報告の真偽を問うまでもなく、我々の実験では多くの症例において、たとえ患者がひどい虫歯に苦しんでいても、憑依霊を取り除くことによって、虫歯は放置しておいても精神病が完治しているという事実が厳然と存在する。私の推察では、憑依霊は激痛に過敏に反応することが実験的に判明していることから、トレントン病院によって発表された治癒例は、少なくともその一部は憑依霊が歯科的ないし外科的治療の痛みに耐えかねて立ち退いたということではないかと考えている。
異常心理学を霊魂説に基づいて研究する者にとって、ニューヨーク市の全国精神衛生委員会のF・E・ウィリアムズ博士が報告している精神神経症――仮病のケースは除いて――の多くの症状は、死を自覚していない戦死者のスピリットによる憑依を暗示している。それには次のような症状がある――精神錯乱・幻覚・不安・機能的心不全・麻痺・振顫(しんせん)・歩行障害・発作的けいれん・疼痛(とうつう)・知覚麻痺・知覚過敏・盲目・言語障害、等々。
戦争神経症の憑霊説は更に、強烈な電気的治療で急速に回復する事実によっても裏付けられる。ウィリアムズ博士の報告を引用すれば、「ビンセント博士は、他の精神医の所で数か月も治療を受けていた患者を二、三時間で治し、歩いたり梯子を上ったりさせることも出来る」という。ウィリアムズ博士の次の見解は霊魂説にとっては有利である。
「この神経症は、機械衝撃に晒されていた捕虜や戦傷者の中には稀である。これには中枢神経や脳の強い傷害は伴っていない。機械的治療法よりも心理的治療法の方が効果的である。戦争神経症――実質的には憑依現象――が精神神経症として固定しない内に診断がなされ、直ちに治療が始められるべきである」
最近の新聞に次のような記事があった。ニューヨークに住む凶暴な少年フランク・ジェームズは、十年前にオートバイから落ちて、それまでは快活で優しい素直な少年だったのが、一転して凶暴な少年となり、強盗などの犯罪常習者となってしまった。何回か感化院(救護院)に送られ、また五年間刑務所に収容された後、回復の見込みのない精神病者と宣告されて、州立病院に送られた。
ところが、ジェームズは、その病院から脱走した。早速追跡が開始され、見つけて捕えようとした追跡者に頭を棍棒で殴られ、意識を失ったまま病院へ運ばれた。ところが、翌朝目を覚ました時、少年はすっかり人間が変わって穏やかで従順ないい子になっていて、不安定な心を示す徴候は全く無くなり、その時以来いかなる犯罪の衝動も見せなくなった。
その記事は次のように結んでいる――〝いったい、この少年の脳のメカニズムに何が起こったのか、医学者にも皆目分からない〟
このような症例を、毒血症説ではどう説明するのであろうか。頭に加えられた一撃が毒血症を根絶して、正常な精神状態を回復させたというのであろうか。我々の主張する霊魂説によれば簡単に説明がつく。すなわち、この少年がオートバイから落ちて、ショックで意識不明となっている間に、犯罪癖のあるスピリットが憑依してコントロールするようになり、頭に加えられた打撃による激痛でそのスピリットが離れたのである。精神病施設で行われている水治療法に帰せられている治療成功例も又、それに付随する不快感を嫌って憑依霊が立ち退いたという説明が出来る。
米国SPRの会長を務めたことにある〝慎重派〟の最右翼のW・プリンス博士は『異常心理学ジャーナル』の中でこう述べている。
「もしも心のメカニズムの底にある確固とした原理を立証しようとするならば、我々は、あらゆる実験的研究ならびに臨床的研究によって見出された知見の相関関係を吟味し、全ての有能な研究者によって得られた結果に正当な考慮を払うべきである」
一般心理学及び異常心理学の問題に付随する迷信的見解や、愚かしい考えを注意深く除外し、また神経性精神病をはじめ熱性神経症、突発性神経症、特異体質などを除いても、なお精神異常者の大多数に説明不可能な異常性が残る。
そもそも精神病の原因についての高名な精神科医や第一級の権威者の見解が大幅に食い違うということ自体、他の治療を個人的ならびに一般的偏見に囚われることなく探究する余地があることを物語っている。我々の直面している立場は重大なものであり、出来るだけ広い寛容性と自由の精神がなければ、到底この探究についていくことは出来ない。精神病は主として心理的、ならびに精神的障害の現れであるから、症候学は病因を確立する為の手引きを提供すべきものであり、また精神病理学の解決を補助すべきものである。
しかし、この問題の解決は、そうした一般心理学ならびに異常心理学の探究だけでなく、第一の前提として人間の二重性――物質と霊、肉体的と霊的――の認識がなくては、十全とはなりえない。
第6節 ●霊媒による精神病者救済の有効性
精神病は恥辱の焼き印では断じてない。この病気に対する態度は〝嫌悪〟ではなくして〝理解〟であるべきであり、見える世界と見えざる世界との緊密な相互関係の認識であらねばならない。
スピリットの憑依ということは、現実にあること――自然法則の倒錯現象――であり、十分に証明しうるものである。これは、スピリットを患者から霊媒に乗り移らせ、精神異常とされているものを一時的に霊媒に転移させることによって何百回も立証済みのことであり、かくして精神病の原因が無知な、或は邪悪なスピリットであることが確認され、そのスピリットの地上時代の身元も証明しうるものである。
この方法によって、スピリットに何の損傷を与えることなく患者を救出し、またそのスピリットに霊的実相を説明してやることによって、暗黒の状態から解放してやることが可能であることも立証されている。それは本書で紹介した経験例が如実に証明している。
目に見える世界と見えない世界との間の相互通話は、自然が与えた特殊な恩恵であり、中継者の役目が出来る霊的素質をもった人間(霊媒)を介して成立するもので、肉体を失ってしまったスピリットも、この霊媒を介して容易に物質界と直結状態に入ることが出来る。
接触の方法にも色々あるが、研究の目的に最も有効なのは無意識のトランス状態でのそれであり、それによって目に見えない世界との直接通話が可能となり、同時にそのスピリットの精神状態がいかなるものか、進化したスピリットか無知のままのスピリットかも確かめることが出来る。
必要な予防策も講じず、霊的法則の理解もなしに、面白半分に心霊実験などに手を出すのは、社会生活の法律を知らなかったり無視したりすると不都合が生じるのと同じで、極めて危険である。使用法を誤って招いた弊害は、それを禁ずる理由にはならない。
心霊研究は格別に科学の領域に属するものである。この種の研究には、関連した法則に精通すると共に、常識と識別力とを具えることが肝要である。かくして霊的現象の研究においても、科学的調査というものが計り知れない価値をもつのである。