第2部 アラン・カルデック自伝
──孤独と休みなき戦いの日々(『遺稿集』第四章「自伝的ノート」から抄訳)
第21章 人類の再生のとき
一八六六年四月二十五日、パリにて、霊媒はM氏ならびにT氏。
「様々な事件が相次いで起こっています。そこで、最早『その時は近づいている』とは言わず、次のように言いましょう。すなわち、『その時がやってきた』と。
とはいえ、洪水、地震、天変地異が起こると言っているのではありません。地球が部分的に痙攣することは、あらゆる時代に起こってきましたし、今も起こっています。それらは地球の構造自体から起こるものなのです。そして、そういったことは時代のしるしではありません。
とはいえ、福音書の中で予言されていることは、全て実現するでしょう。いや、現に実現しつつあります。あなた方は、それをやがて知ることになるでしょう。しかし、そうしたしるしを表面的に解釈するのではなく、その深い意味を汲み取らなければなりません。
聖書全体が、偉大なる真理を述べているのですが、それらは寓意のヴェールを纏っています。その為、これまでの注釈者達は、それらを文字通りに受け取ることで過ちを犯してきました。彼らは、真の意味を理解する為の鍵を持っていなかったのです。
その鍵は、科学上の発見、そして、霊実在主義が我々に明かした、見えない世界の法則があります。こうした新たな知識に従うことで、今まで分かりにくかったことが、これからは明快に説明されるでしょう。
全ては自然の秩序に従っているのであり、神の不変の法則が覆されることは絶対にありません。本来、奇跡、不思議、超自然等といったことは存在しないのです。全ては自然法則で説明出来るからです。
時代の先触れを捜す為に空を眺める必要などないのです。それよりも、身の周りを見ればよろしい。周りの人間をよく観察すれば、そこに、これからの時代を告げるものが発見出来るはずです。
地球に風が吹き渡り、全ての人間に覚醒を促しているのを感じませんか? 嵐が近づきつつあるという漠然とした予感が、世界全体を包んでいるのではありませんか?
しかし、世界の終わりが来るわけではありません。地球は、創られた時以来、進化を続けているのであって、これからもまだ進化を続ける必要があるからです。しかし、人類は、大いなる変容の時期に差し掛かっています。地球は次なる段階に入っていかなければなりません。
したがって、訪れようとしているのは、物質的な世界の終焉ではなくて、これまでの精神のあり方の終焉なのです。偏見、エゴイズム、傲慢、狂信が滅んでいくのです。毎日少しずつ、それらが消滅していき、やがて、新たな世代が新たな建物を建て、それに続く世代が、その建物を堅固にし、完成させていくでしょう。
罪が償われ、地球は幸福な星になっていくでしょう。そして、そこに住むことは、罰ではなく、報いを意味することになるでしょう。悪に代わって、善がそこを支配するようになるでしょう。
人類が地球上で幸せに暮らすには、地球が、善き人々で満たされる必要があります。善を望む人々だけが生まれ変わってくる必要があるのです。そして、実際にそうした時期がやってきました。
現在、大規模な移住が進行中です。悪の為に悪を犯す人々、善の感情を持つことが出来ない人々は、変容後の地球には相応しくないので、地球外へと移り住むことになるでしょう。なぜなら、彼らが残っていると、新たに混乱をもたらして、進化の邪魔をすることになるからです。彼らは、地球よりも進化の遅れた星に移住して、そこで、善に対して無感覚になった心を変えていく必要があります。地球で獲得した知識を携えて、その星に行き、そこで、その星の進化の為に使命を果たすのです。
彼らが出ていった後には、もっと優れた魂がやってきて、正義と平和と友愛に基づく生活を展開するでしょう。
既に言ったように、地球は、一世代全体を滅ぼすような大規模な天変地異によって変容するのではありません。今地球上に生きている世代は徐々に姿を消し、それに続く世代が同じく徐々に姿を現すのです。自然の秩序が乱れるということはありません。物理的な世界が変わるのではありません。そうではなくて、『今まで地球で生まれ変わっていた魂達の一部が、最早地球に生まれてこなくなる』ということなのです。
これからは、未発達の、悪に傾き易い魂の代わりに、進化した、善への傾向を持った魂が生まれてくるということです。人類の肉体が大きく変わるということではなくて、そこに宿る魂達のレベルが上がるということなのです。
したがって、『何か超自然的な、驚くべきことが起こって、人類が変わっていくだろう』と思っている人々は、失望することになるでしょう。
現在は、移行の時期です。今は、二つの世代が混在しているのです。あなた方は過渡期にあって、一つの世代が地球を去り、別の世代が地球にやってくるのを見るでしょう。
それらの世代を見分けるのは簡単です。それぞれに性格が際立っているからです。
交代しつつある二つの世代は、まったく異なるものの見方、考え方を持っています。心の傾向性もそうですが、生まれつきの直観力において大きく異なっていますので、両者を区別するのは極めて簡単です。
一段と進んだ時代をつくる新たな世代は、幼少の頃から発達する知性と理性、生まれつき持っている善への傾向性、見えないものを信じる力などによって際立っていますが、それらは、彼らが過去世でしっかり修行してきたことの、疑いようもない証なのです。彼ら全員が、霊格の非常に高い人々だというわけではありません。そうではなくて、既に、ある程度の進化を遂げている為に、進んだ考え方を取り込み易く、人類を再生させる運動を支えることが出来る、ということなのです。
逆に、未発達霊の特徴は、摂理を否定し、高級霊の存在を否定し、神に対して反逆することです。さらに、低劣な欲望に本能的に惹かれ、傲慢、憎悪、嫉妬、煩悩といった、人と人を切り離す感情に親和性があり、そして物質に対する執着が非常に強いということなのです。
そうした悪しき精神作用を地球から一掃しなければなりません。その為には、進化を拒否する人々には地球から出ていってもらう他ないでしょう。これからやってくる友愛の時代に、彼らは相応しくないからです。彼らがいると、善なる人々が苦しむことになるからです。
その結果、地球は解放された星となり、人類は、よりよき未来に向かって自由に進んでいけるでしょう。その努力によって、その忍耐力によって、この地球上で善なる世界をつくることが可能となるのです。そして、より完全な心の浄化を果たすことで、あの世の、より優れた世界に還ることが可能となるのです。
霊人達の移住という話をしましたが、それは、『あらゆる未発達霊が地球から去っていき、地球より劣った星に送られる』ということを意味しているのではありません。その多くは、地球上で修行を続けることを受け入れているからです。彼らのエゴの内側には、柔らかい部分もあるのです。
死によって肉体から解放され、物質の影響から自由になれば、彼らの殆どは、生前とは全く違ったものの見方をするようになります。
あなた方は既に、数多く、その例を見てきたはずです。彼らは、思いやりのある霊人達に助けられ、徐々に悟り、自分が地上でいかに間違った道を歩いたかということを理解していきます。また、あなた方も、諭しと祈りによって、彼らの向上に協力することが出来るでしょう。というのも、この世を去った者達と、この世に留まる者達との間には、永遠の絆が結ばれているからです。
彼らもまた、やがて地上に生まれ変わってきて、幸福に暮らすことが出来るでしょう。彼らが、善き感情に基づいて行動する限り、多少の失敗は大目に見てあげることです。社会と進歩に敵対しない限り、彼らも有益な補助者となり得るのです。彼らもまた、新たな世代に属することになるでしょう。
したがって、地球から出ていってもらうのは、反抗心が染み付いてしまい、無知よりも、むしろ傲慢とエゴイズムによって、善と理性の声が聞こえなくなってしまった、極めつきの霊達に限られるでしょう。しかし、彼らとて、永遠に劣った状態に留まる訳ではありません。やがては、彼らも過去と決別し、光に対して目を開くことになるのです。
ですから、そうした頑になってしまった霊達の為に祈ってあげてください。まだ間に合います。贖罪の日がやってくるのは、これからだからです。
不幸なことに、神の声を理解することが出来ず、盲目的な状態のままに留まっている霊も沢山います。しかし、彼らがいつまでも闘争を続けることは許されていません。彼らは錯乱のあまり、自らの破滅に向けてまっしぐらに進んでいきますが、彼らが破壊を繰り返すことで、災難、不幸が数知れず生み出され、その結果、彼らは、それと知らずに、次なる大改革の時代を招き寄せているのです。
そして、それ以外にも、自殺者の数が前代未聞のレベルに達するでしょう。そこには子供達さえ含まれることになります。多くの人々が狂気に取り憑かれ、自らの命を絶つことになるのです。まさに、それこそが、時代の異常さを告げるしるしとなるでしょう。
以上のようなことが、次から次へと生じるはずですが、それらは全て自然の法則に則っているのです。
とはいえ、あなた方を覆っている黒い雲を通して――既に嵐のうなり声が聞こえていませんか?――、新たな時代の光が射し始めているのを感じ取ってください。
地球上のあちこちで、友愛の基礎が築かれ、人々は手を差し伸べ合っています。野蛮が姿を消しつつあります。これまで数多くの流血の原因となってきた、民族的な偏見、宗教的な偏見が消えつつあります。狂信、不寛容がその立場を失いつつあり、一方で、良心の自由が社会に導入され、一つの権利となりつつあります。
あらゆる場所で、人々の考え方が変化してきています。悪が至るところに見られますが、人々はその悪を癒そうとしています。しかし、多くの人が、羅針盤なしに歩んでおり、夢想の世界に迷い込んでいます。世界は今、産みの苦しみの最中なのです。これは、まだ百年は続くでしょう。まだまだ混乱は続きますが、やがては目的がはっきり見えてくるでしょう。和解の先触れである統合が感じられるようになるはずです。
それもまた、時代のしるしなのです。しかし、先に述べたのが、過去が滅びゆく断末魔の姿であったのに対して、これらは、新たに生まれつつある未来の新生児達の泣き声なのです。新たな世紀が目撃することになる曙の最初の光なのです。やがて、新たな世代が力に満ちて立ち上がってきます。十八世紀の様相と十九世紀の様相が明らかに違うように、十九世紀の様相と二十世紀の様相は、はっきりと異なるのです。
新しい世代の持つ特徴のうちで、最も目立つのは、彼らが生まれつき信仰を持っているということです。それも、人間を分断する、偏狭で盲目的な信仰ではなく、人間を隣人への愛と神への愛で一つに結びつける、理性的な信仰なのです。今の世代が消えていくにつれ、精神と社会の進歩に反する不信と狂信の名残も、姿を消していくことでしょう。
霊実在主義は、新生に至る道です。というのも、それは、不信ならびに狂信という二つの大きな障害物を破壊するからです。霊実在主義は、智慧に満ちた確固たる信仰を与えます。霊実在主義は、新しい世界の基礎をなす、あらゆる感情と観念を発達させます。新たな時代には、したがって、霊実在主義は、ごく自然に成長し、発展していくでしょう。霊実在主義は、あらゆる信仰の基礎となり、あらゆる霊感の源泉となるでしょう。
しかし、そうなるまでには、まだまだ、不信と狂信という二つの大きな敵と戦わねばなりません。
奇妙なことに、この不信と狂信は、お互いに手を取り合って霊実在主義に戦いを挑んでいます。おそらく、両者共、自らの運命を予感しているからでしょう。だからこそ、霊実在主義を恐れているのです。
両者共、既に、霊実在主義が、エゴイスティックな古い世界の廃墟の上に、あらゆる人々を結びつける美しい旗を打ち立てるのを見ているでしょう。『慈悲なきところに救済なし』という、古くからある格言の中に、不信と狂信は、自らに対する刑の宣告を読み取るでしょう。というのも、それは、キリストによって宣言された博愛の甦りの象徴でもあるからです。
不信と狂信の徒にとって、それは極めて不吉な言葉のように思われるでしょう。しかし、彼らはその格言に感謝すべきなのです。というのも、それこそが、彼らが今激しく攻撃している人々による反撃から、彼らを守るからです。しかし、気の毒なことに、彼らは、盲目的な力に支配されている為に、自分達を守ってくれるただ一つの存在さえ投げ捨てようとしています。
彼らは今後、自分達を拒否する人々の意見に、どのように対抗するつもりなのでしょうか?
霊実在主義は必ず勝利します。それは疑いを差し挟む余地がありません。というのも、霊実在主義は自然の摂理に則っている為に、不滅であり、負けることが有り得ないからです。霊実在主義の考え方は、あらゆる方法で、あらゆるところに広まり、浸透しています。その方法は、偶然のものではなく、摂理によってもたらされたものです。最初は霊実在主義を損なうように思われた勢力も、なんと、霊実在主義の普及を助ける手段と化していくのです。
未だにまだ霊実在主義を信じていない著名な人々が、やがて、霊実在主義の旗の下に集ってくるでしょう。それを見て、さらに数多くの人が集うようになり、反対勢力は、口をつぐむ他なくなるでしょう。最早、霊実在主義者達を狂人呼ばわりすることは不可能となるからです。
社会的地位の高い人々は、密かに霊実在主義を研究しているのです。しかるべき時が来れば、彼らは表舞台に姿を現すでしょう。それまでは、彼らは姿を隠しているのです。
さらに、やがて、様々な芸術家が、霊実在主義から霊感を得て作品を作り始めるでしょう。画家、音楽家、詩人、小説家等が、霊実在主義の理念に基づいて作品を作り始めるのです。そのうち、異教徒の芸術、キリスト教の芸術等と並んで、霊実在主義の芸術というものが誕生するでしょう。最も偉大な才能を持った芸術家達が、最も偉大な真理に学ぶのです。近いうちに、その萌芽が見られるでしょう。そして、いずれ、そうした芸術は、しかるべき位置を占めるようになるのです。
未来は霊実在主義を奉ずる人々のものです。そしてまた、心の暖かい、献身的な、あらゆる人々のものです。
障害を忘れてはなりません。なぜなら、神の計画を阻止することの出来る存在など有り得ないからです。たゆみなく努力を続けてください。そして、神から、新たな救世事業の前線部隊として選ばれたことに、心から感謝するのです。
それは、あなた方自身が志願した、名誉ある部署であり、あなた方は、勇気、忍耐、献身によった初めて、その部署に相応しい人間となれるのです。
巨大な力に立ち向かう果敢な戦いの最中に命を落とす者は幸いです。しかし、その弱さ故に、或は奥病さ故に命を落とす者は、天上界から見たら、大いに恥ずべき者達なのです。
戦いには、魂を鍛えるという意味もあります。悪に接することで、善の価値をよりよく認識することも出来るようになるのです。諸能力を発達させる戦いがないと、霊は自らの向上に無頓着になることも有り得るのです。自然の力との戦いは、肉体的な諸能力と知性を発達させます。悪との戦いは、モラルの力を発達させるのです」