第2部 アラン・カルデック自伝
──孤独と休みなき戦いの日々(『遺稿集』第四章「自伝的ノート」から抄訳)

第1章 霊実在主義との出会い
私が[回転するテーブル]のことを初めて聞いたのは、一八五四年のことだった。ある日、以前から名前は知っていたが、それまで会ったことのなかったフォルチエ氏に会ったのである。彼は言った。

「動物磁気[オーストリアの医師メスエル(1734 01815)が唱えた、「生体に流れる目に見えない磁気エネルギー」のこと]に関してはご存知だと思うのですが、実は、磁気化の対象が、どうも人間だけではなさそうだということが分かってきたのです。テーブルを磁気化して回転させたり、思いのままに動かしたりすることが出来るようなのですよ」

「それは誠に興味深いことです」と私は答えた。「しかし、そんなことが実際に起こるとは思われませんね。『動物磁気が、命を持たぬ物体に働きかけて、それを動かす』などということが有り得るものでしょうか?」
ナント、マルセイユ、或はその他の都市での実験記録が新聞に掲載されてはいたが、私には、そのような現象が現実に起こり得るとはどうしても考えられなかった。

その時から暫くして、私はまたフォルチエ氏に会った。彼は私に言った。
「もっと驚くべきことが起こり始めましたよ。テーブルを磁気化して動かすだけでなく、テーブルに話をさせることも可能になったのです。テーブルに質問すると、なんと、その質問に答えるのです! 」

「それは、また別の問題ですね」と私は答えた。「それを実際に見ることが出来、そして、『テーブルが、考える為の脳を備え、感じる為の神経を持ち、人間のように話をすることが可能だ』と証明されたのなら、そういうことを信じもしましょう。それまでは、おとぎ話ということにしておきます」

私の推論は、論理的なものだった。何らかのメカニズムによってテーブルが動くことは考えられた。しかし、その現象がどのようにして起こるか、その原因、法則を知らなかったので、単なる物質が知性を持つように振る舞うことが荒唐無稽であるように思われたのである。今日、未だにそれらの現象を信じないでいる人々と同じ立場に私はいたのである。つまり、自分が理解出来ないことに関しては、それを存在しないと見なす立場である。

十九世紀初頭に、「たった一時間で、二千キロ離れた場所に手紙を送り、その返事を受け取ることが出来る」と言ったとすれば、鼻先であざ笑われたであろう。科学的に考えれば、そんなことは無理に決まっているからである。電気の法則が知られている今日では、そんなことは常識である。

実は、霊現象に関しても、全く同じことなのだ。霊現象に関する法則を知らなければ、それは摩訶不思議な現象、したがって、有り得ない現象だと思われるのである。しかし、ひとたび法則が明らかになるや否や、荒唐無稽なものではなくなる。理性によって、その可能性が、充分、許容出来るようになるからだ。
しかし、その頃はまだ事実がしっかり説明されていなかった。したがって、それは明らかに自然法則に反すると思われた。私の理性はそれを受け入れることは拒否していた。私はまだ、そうした現象を何一つ見ていなかったのである。

実験が、尊敬すべき、信頼に足る人々の前で行われたとすれば、その場においてテーブルが動いたということは、有り得ないことではないと思われた。しかし、そのテーブルが[語る]となると、到底受け入れられるものではなかった。

翌年、つまり一八五五年の初頭に、私は25歳の若き友人カルロッティ氏に会った。彼は、[語るテーブル]について一時間近くも熱心に語り、私に新たな考え方を提示してくださった。
カルロッティ氏は、コルシカの生まれであり、エネルギッシュで熱い人である。彼の大いなる、美しい魂を愛してはいたが、話し振りに誇張があるのが気になった。

彼は、そうした現象に霊が介在している、ということについて私に語った初めての人間だった。数々の驚くべきことを私に教えてくれたが、それらは私を納得させるどころか、かえって私の疑いを掻き立てたのだった。
「あなたもいずれ私達の仲間になりますよ」と彼は言った。
「そうならないとは言いません」と私は答えた。「そのうち分かることです」

それから暫くして、一八五五年の五月頃、私はフォルチエ氏と共に、夢遊病者のロジェ夫人の家を訪れ、そこで、パチエ氏ならびにプレヌメゾン夫人に会った。彼らは、テーブルにまつわる現象に関して、カルロッティ氏と同じような意味合いのことを言ったが、その語り口は全く異なっていた。

パチエ氏は、かなり年輩の公務員であって、教養豊かであり、真面目で、冷静かつ穏やかな人柄だった。あらゆる熱狂から無縁な彼の話を聞いて、私は深い印象を受けた。

その為、「グランジュ・バトリエール街にあるプレヌメゾン夫人の家で実験が行われるので、出席されてはどうですか」と勧められた時、私は喜んでその会合に出席することにした。翌週の火曜日、夜八時に伺う約束をした。
そういうわけで、私はその日、初めて、回転し、飛び跳ね、動き回るテーブルを、目の当たりにしたのだった。それは、疑いを差し挟む余地のない状況のもとで行われた。また、不完全な形ではあるが、霊媒が籠に固定されたペンを使って自動書記を行うのも見た。

私は大いに興味を掻き立てられた。そうした現象には原因があるはずだった。それらは一見たわいのないお遊びのようにも思われたが、私には、それらの背後に極めて重大な何か、新たな法則のようなものが隠されているように感じられた。そして、それを探究してみようと考えた。

やがて、もっと注意深く観察する機会が与えられた。プレヌメゾン夫人の所で開かれていた集いで、当時ロシュシュアール街に住んでいたボダン一家と知り合うことになったからである。ボダン氏は、毎週ボダン家で行われていたセッションに招いてくださったので、私は欠かさず出席することにした。

この集いには、かなりの人数が出席していた。「常連の他に、誰でも、来たい人は来てよろしい」ということになっていたからである。
霊媒は、ボダン家の二人の娘が勤めた。彼女達は、二人で持った籠を石盤の上に乗せて自動書記をするのだった。この方法だと、霊媒が二人要るわけだが、それだけに、霊媒の考えが記述の内容に影響を及ぼす可能性はゼロである。

このようにして、質問に対する答えが与えられるのであるが、時には、心で質問を考えただけで、その答えが与えられることもあった。
質問の内容は、大体どうでもいいようなことが多かった。生活上の細々したこと、将来のこと等、要するに、本当に真剣な質問はなされなかったのである。好奇心を満たし、面白がることが、出席者達の関心であるようだった。

答える霊は、大体いつも[Zephyr(そよ風)]と署名していたが、これは、この交霊会の性格と降りてくる霊の性格を完璧に言い表す名前であった。

この霊は非常に善良で、「ボダン家の家族を守っている」と言っていた。冗談を言うことが多かったが、必要とあれば智慧に満ちた忠告をすることも出来た。また、時には、辛辣で機知に富んだ警句を吐くこともあった。
やがて、私もこの霊と話すようになった。彼は私に対していつも非常に好意的だった。霊格が特に高いというわけではなかったが、後々、上位の霊の指導の下、私の初期の仕事を助けてくれることになる。
そのうち、「そろそろ地上に生まれ変わる」と言い始め、その後、通信が途絶えた。
この辺りから、私は真面目に霊現象を研究し始めた。起こっていることをじっくりと、真剣に観察するようになったのである。

そして、かつて自然科学を学んだ時の方法論、つまり実験的な手法を、この新たな科学にも適用した。前もって仮説を立てるということをせず、注意深く観察し、比較し、結論を推測した。帰納を行い、事実を論理的に結びつけ、結果から原因を探り、問題を全て解決出来ない限り、その説明を認めないようにした。これが、私が25歳以来ずっと取ってきた方法だった。

私は、まず、「起こっている事態がとてつもなく重大であるらしい」ということを感じた。「そこには、人類の過去及び未来に関するあらゆる問題を、完全に解く鍵が潜んでいる可能性がある」ということに気がついたのだ。もしかすると、私がそれまでずっと探し求めてきた最終的な解決法が見つかるかもしれなかったのである。つまり、「哲学と信仰に関する革命が起こり得る」ということだった。
したがって、軽々しく振る舞うべきではなく、慎重にも慎重を期さなければならないと自戒した。幻想に囚われないように、あらゆる思い込みを捨て、厳格に実証主義を貫くべきだと思った。

最初に分かったのは、「霊といっても人間の塊にすぎず、したがって、必ずしも至高の知識や至高の智慧を備えているわけではない」ということだった。「悟りの段階に応じて彼らの知は限られており、その意見は個人的なものにすぎない」ということである。この事実を知った為に、私は、霊が無謬(むびゅう)であるということを信じ込まずにいられたのだ。そのお陰で、「一人ないしは数人の霊人の言うことだけを基にして、早急に理論を作り上げる」という過ちを犯さずに済んだ。

霊との交流から学んだことは、「我々の周りに、見えない世界、すなわち霊界が広がっている」ということだった。それだけで、既に大変なことだった。「無限とも言える領域が、我々の探究を待っている」ということだからだ。また、「これまで説明不能だった山のような現象を合理的に説明する鍵を手に入れられる」ということだからだ。

さらに、これも同様に重要なことであるが、「霊界の状態、霊人達の生活習慣を知ることが出来る」ということである。
やがて、それぞれの霊人から、その境涯に応じた情報を得ることになっていく。
それは、丁度、外国人から、その国に関する情報を教えてもらうようなものだった。各人から、彼が属する階級や境遇に応じたことを教えてもらえるが、あくまでも、それは個人的な情報にすぎず、それだけでは、国の全体について知ることは決して出来ない。様々な方面から情報を集め、それらを吟味し、比較し、照合し、その上で全体像を作り上げるのは、我々の役目である。

そんなふうにして、人間と付き合うようにして霊人達と付き合った。最もつまらない霊から、最も偉大な霊に至るまで、決してその言葉を鵜呑みにすることなく、あくまでも単なる情報提供者として扱ったのである。
以上が私の基本的な態度であり、常にそのようにして私は霊界の研究を続けた。「観察し、比較し、判断する」、これが私が取り続けた方法論だった。

その頃まで、ボダン家におけるセッションには、これといった目的はなかった。しかし、私は、その場を借りて、哲学に関し、心理学に関し、また、霊界の性質に関し、色々と質問して、それまで未解決だった問題の解決を図ることにした。セッションに行く前に、予め一連の質問を用意していったのである。それらの質問に対しては、いつも的確で論理的かつ深遠な答えが返された。

それ以来、集いは全く新たな様相を呈するようになった。出席者の中に、真摯な人々が加わるようになり、彼らが本当に積極的に会を運営するようになったのである。どうでもいいような質問は姿を消した。

当初は、自分が学ぶことしか考えていなかった。しかし、徐々にそれが体系をなし、一つの教義としての体裁を整えていくに従い、私はやがて、それらを多くの人の為に出版しようと考えるようになった。こうして、数々の質問を通して徐々に進展し、完全になっていった一連の主題が、『霊の書』の基礎をなすことになったのである。

翌年の一八五六年には、ティクトヌ街のルスタン氏の家で行われていた集いにも参加するようになった。この集いは真摯なものであり、厳正に行われていた。霊界との交流は、ジャフェ嬢が霊媒を務め、小さな籠を使った自動書記によって行われていた。

その頃、私の本はほぼ完成しかかっていた。しかし、違う霊媒を使い、違う霊人達からの情報も収集して、原稿をさらに吟味する必要があることを感じた。そこで、ルスタン氏の主宰する集いの場を借りて、あるテーマに関する最終的な詰めを行うことにした。

セッションを始めて暫くすると、霊人達が、「もっと静かな場で、内密に、そのテーマを取り扱いたい」と言ってきた。そして、「その為に、数日の間、ジャフェ嬢とあなた二人だけを相手にしたセッションを行いたい」と提案してきた。

その後、このセッションは行われたのだが、私はその結果には満足しなかった。私は既に、それまで、随分多くの霊人達と接触して、色々と忠告を受けており、その為に私の要求水準は相当高くなっていたからである。

異なる霊媒を介して霊界通信を行う機会があるごとに、私は、様々な霊人達に、最も厄介な問題に関して質問してきた。既に十人以上の霊媒とセッションを行ってきており、それらで得られた情報を比較し、吟味し、統合し、その上で、瞑想しては、何度も何度も手直ししてきた。

そのようにして、一八五七年四月十八日に『霊の書』が刊行されたのである。
この年の終わり頃には、ボダン家の二人のお嬢さんが結婚した為に、集いは行われなくなった。しかし、私の交際する霊媒の範囲は広がっていたので、付き合う霊人達も多くなっており、数多くの霊人達から、その後の仕事を進める為の情報を得るようになったのである。