干支の虎 特集 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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郷土玩具では馬に次いで種類が豊富なのが虎である。本「ふるさとの玩具」でも、すでに福島県10や埼玉県5・埼玉県7などで紹介したところだ。日本に棲んでもいない猛獣が、こんなにも多くおもちゃの題材に取り上げられているのは、いわゆる“張子の虎型”の虎が創案されたからであろう。首振りによって動きも工夫され、可愛らしく親しみやすい虎玩具が完成した(1)。一方、虎を勇猛果敢の象徴とする中国や朝鮮の影響から、男の子の健やかな生長を願って、虎の人形を誕生祝いに贈ったり端午の節句に飾ったりする風習は西日本を中心に今でも残っている。この場合の虎は四肢を踏ん張った力強い大型のものである。高さ38cm。(H21.11.15)
年賀切手の図案を郷土玩具に求めるようになったのは昭和28年(1953年)の「三番叟人形」からである。当初は必ずしもエトにこだわったものではなかったが、昭和35年以降はほぼ十二支に沿った選択がなされている。寅年の年賀切手は昭和37年が最初で、この出雲張子が選ばれた。出雲地方では魔除け、または勝負に強いという縁起から、古くより節句に虎を飾る習慣がある。跳ね上がった尾やピンと張ったヒゲ、大きく見開いた眼、均整のとれた体躯は、数ある虎玩の中でも秀逸とされ、いの一番に選ばれたのもうなずける。なお、昭和49年は虎が採用されず、次が昭和61年で神農の虎(大阪府)。さらに平成10年は三春の腰高虎(福島県9)と博多張子の虎(福岡県)、と続いた。高さ15cm。(H21.11.15)
昭和61年(1986年)の年賀切手。大阪の道修町(どしょうまち)の少彦名(すくなひこな)神社では、中国の祖神“神農”を祀っているが、ここのお守りが神農の虎である。文政5年(1822年)、コレラが大流行した際、道修町の薬種問屋たちが虎の頭骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り少彦名神社で祈祷して世に出したところ、コレラを患う人々に効き目があった。このときに張子の虎をお守りとして授与したのが始まりという(2)。道修町は日本を代表する製薬メーカー発祥の地であり、今でもこの町に本社屋を構える企業は多い。高さ5cm。(H21.11.22)
さて、平成22年(2010年)の年賀切手には金沢と静岡の二種の虎が選ばれた。金沢の虎は丸みを帯びた愛嬌のある可愛い張子で、少しもいかめしいところが無く“招福の虎”などと呼ぶ人もあるが、加賀地方ではその威をもって悪魔を追い払い千里往って千里帰る勇武を念じ、男の子の節句に飾られるものである(3)。これとは別に、金沢には“魔除け虎”と呼ぶ土製の虎もあって、こちらは凶事に用いられた。今は廃絶したが、死人が出ると棺の上に置いて魔除けとなし、葬式を出す折には門口で叩き壊される役目になっていたという(4)。右の高さ6cm。(H21.11.22)
静岡県は郷土玩具に恵まれた土地で、張子も静岡、清水、浜松の三箇所に現存している。左の静岡張子の虎(高さ12cm)は平成22年の年賀切手にとりあげられた。栞には「戦災以来20余年ぶりに復活したばかりで木型が少なく、注文に応じ切れない悩みがある」とある。猛々しさは無く、短い足で大きな首を振る姿はユーモラスである。中央は清水張子の虎。別名“いちろんさんの張子の虎”と呼ばれる。いちろんさんとは幕末前後に清水張子を始めた堀尾市郎右衛門の訛りで、参勤交代の武士たちの間に「虎は千里走って千里帰る。死しても皮を残す」と評判だったと伝えられる。右は浜松張子。やはり維新ごろの創始といわれ、台車に載った動物や“転がし物”(狸07)と呼ばれる張子に特色がある。大型の虎には首に注連縄を巻いて魔除けの役割を明らかにしたものもある。(H21.11.22)
“張子の虎”は虎玩具の完成された形ともいえるもので、各地に多くの類型がある。一方、張子以外の虎にも面や絵馬、木地玩具、起き上がりに面白いものがあるので、いくつか紹介する。まずは磐梯熱海温泉の面(左、高さ20cm)。立派なヒゲもさることながら、思い切った色使いや派手な隈取は鶏面(干支の鶏06)同様、どことなく南国の雰囲気を漂わせている。一方、長浜の面(右、高さ15cm)では虎の顔が端整に描かれている。猿、狸、兎などの動物や小面、天狗など、種類も多い。薄張りで安価な面だが、どれをとっても面相がしっかりしているのは、作者が伝統ある石見神楽面や長浜人形の作り手だからである。(H21.12.3)
右は大津絵(滋賀県)の絵馬で、絵柄は定番の“竹に虎”。獰猛(どうもう)なはずの虎がちっとも恐ろしくなく、笹にじゃれ付く猫のようで愛嬌がある。大津絵は江戸時代から東海道の京と伏見の分かれ道にあたる追分(大津)で旅人向けに売られた戯画。仏画から派生したものと言われ、各絵柄にそれぞれ教訓が暗示されている。左上は大乗防(大阪市)の絵馬で、虎が押絵で出来ている。左下の橿原神宮(奈良県)の絵馬には、どういう訳か名古屋の虎車が描かれている。大津絵の高さ24cm。(H21.12.3)
干支に因んで創案された木地玩具。車を動かすと虎の舌と尾が伸び縮みする。この虎から始まり、羊まで続いたところで作者が他界。残念ながら十二支が揃うことはもう無い。ところで、からくり仕立ての木地玩具といえば先ず江戸独楽を思い起こすが、東北の温泉場でも昔から仕掛け独楽、鶴車や海老車(仕組みは虎車と同じ)、人物や動物が乗った四つ車などが作られていた。最近では新しい木地玩具もいろいろ工夫されている(山形県15)。高さ8cm。(H21.12.26)
左の虎笛は下川原人形(青森県02)のひとつ。毎年、干支に因んで動物笛が作られているが、この虎は少々リアル過ぎて面白みに欠ける。右の寅童子は徳川家康に因むもの。家康は、於大の方が鳳来寺(愛知県新城市)に男子出産を祈願した末に、寅年の寅の日の寅の刻に生まれたとされる。不思議なことに、家康が誕生すると同時に、鳳来寺の十二神将像のうち寅の方角にあった真達羅(しんだら)大将(寅童子)が忽然と姿を消し、家康が他界すると再び現れて元の所へ納まったという(5)。この起き上がり小法師(こぼし)は、七転び八起きして天下を取った家康に相応しい郷土玩具といえよう。振るとカラカラと音がする。高さ10cm。(H21.12.26)
寅年もすでに一巡りしたが、また和唐内(和藤内)の続きから再開しよう。埼玉07や前回でも述べた通り、「国姓爺合戦」は正徳5年(1715年)初演の近松門左衛門作の浄瑠璃で、歌舞伎化もされた。中国人の父と日本人の母を持ち、明国の復興運動に携わった実在の人物、鄭成功(別名、国姓爺)がモデル。主人公の和唐内が唐土に渡って猛虎を退治し、日本の神の加護と自らの怪力を異国の兵士たちに見せつけるという、歌舞伎の荒事の一場面である。和唐内の目の下に引かれた紅の一本隈は、荒事に用いる隈取。腹掛けには「〇に和」の字も見える。高さ10p。
文化文政年間(1804〜30年)に最盛期を向かえた三春張子は、歌舞伎やこれを源流とする錦絵に題材を取った人形が多い(福島04-07)。こちらの国姓爺合戦は堤人形とは対照的。和唐内の表情はどこかユーモラスで、虎もとても猛虎には見えず、まるで和唐内とじゃれ合う猫のようである。高さ20p。 (参考)三春張子の和唐内(福島県) 番外にて古作の和唐内(日本民芸館蔵)を紹介する。こちらは和唐内が片足立ちになって虎からヒラリと身をかわす姿で、歌舞伎の所作をダイナミックに表現した傑作である(文献7より許可を得て転載)。
虎玩具の代表といえば、やはり張子の虎である。見世物の虎が日本に初登場したのは幕末だが、江戸前期の浮世草子には子供向きの張子の虎がすでに載っており、実物を目にするよりもかなり前から愛玩されていたようだ。なかでも首振り虎や虎車には人気があった。また、戦時中は“虎は千里往きて千里帰る”という縁起から、出征兵士のお守りにも迎えられた(4)。三春の虎としては、デコ屋敷(福島01)の橋本家による「腰高虎」(福島09)が有名だが、ほかに首振り虎などいろいろある。前回の和唐内の虎も、今では単独で干支に出されている(右端、高さ9p)。
張子の虎の落穂拾い、次は会津張子である。従来ある会津地方の張子虎(福島10、17)とは作者が異なるせいか、おだやかな表情でのんびり首を振っているが微笑ましい。右の高さ13p。
左は高松張子(香川03)の首振り虎。大小5種類の型があり、写真は最小型で高さ8p。尖った耳は大きくて真っ赤、角張った顔は怪異、髭をピンと立て、真っ赤な口を大きく開けたところなど、小さいながらいかにも唐風である。中央は出雲張子(島根08、牛06、蛇04)、右は博多張子(福岡03)の首振り虎。いずれも小型だが、大型(虎01-02)同様、やはり大陸の雰囲気が感じられる。 (参考)中国の布老虎(ブーラオフー) 左は老虎枕(ラオフーチェン)と呼ばれる縫い包みで、本来は子供の昼寝に使う枕である。右の人形も幼児が遊ぶ縫い包みで、高さ12p。ほかにも1ヵ月になる乳児には爪先に虎をあしらった布製の靴を履かせるし、端午の節句には虎柄の衣を着せたり虎の肩飾りを付けたりする。また、寒さを防ぐために老虎帽(ラオフーマオ)という綿入れの帽子を被せることもある(2)。このように、中国では虎と子供は切っても切れない縁があるし、虎の額には千年の劫を経て初めて生じるという「王」の字が必ず付けられるのも面白い(8)。
左は山科毘沙門堂(京都市東山区)の虎面。節分に授与される張子の面守りで、これを門口や室内に吊しておけば魔除けになるという。大正15年の初寅に頒布したのが始まりといわれる。その後、虎の顔にも幾度か変遷があるようだが、漫画的な表情は一貫して変わりがない。ほかに信貴山朝護孫子寺(奈良12)や鞍馬寺(京都10)などでも虎のお守りを授けている。いずれの寺も祀られているのは毘沙門天(多聞天)。その眷属(お遣い)が虎で、毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に出現したからだという。右は常石張子(広島08-10)の虎面。こちらはいたってリアルな面相で、縁日などで売られている。左11p、右18p。
張子に続いては土人形の落穂ひろい。この虎は“小幡の和唐内”とも云われる「虎乗り唐子」(虎11)の虎とほぼ同型で、らんらんと輝く眼や肩を怒らせた堂々たる体躯は虎の伝統的表現である。小幡の干支人形では、旧型(牛01、馬02)のほか、新作(滋賀01、龍03、猪11)も時おり世に出るので、毎年楽しみにしている。高さ10p。
中野人形には京都の伏見人形を原型とするものが多いが、これは平成10年(1998年)の寅歳に因んだ新作。元々は一対の「親子虎」だったが、子虎のほうは東日本大震災で壊れてしまい、親虎だけが何とか残った。虎は子をたいへん可愛がることで知られ、大切なものを“虎の子”というのもここから来ている。また、ライオンの生息しない中国や朝鮮では、虎こそが百獣の王であり、“山獣の君”と呼ばれる。この虎もなかなか堂々としていてその名に相応しいが、とぼけた表情がまた良い。高さ10p。
やはり平成10年寅歳の新作。こちらも中野人形に負けず劣らずユニークである。八橋人形は、秋田市にある菅原神社の天神信仰を背景とする天神人形(秋田01-03)が有名であったが、最後の作者が2014年に亡くなり廃絶した。高さ10p。 |
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