広島県の玩具 |
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広島県と言えば、まず日本三景の一つ「安芸の宮島」を思い浮かべる。ここには平安末期、平清盛の加護により大きく発展した厳島神社があり、世界遺産に登録された昨今はさらに大勢の参拝客が訪れている。島内には昔から様々な宮島土産があった。たとえば甲子園の高校野球で応援に使われる宮島杓子。敵を“召し取る(飯とる)”の洒落だが、もともと江戸時代・寛政期に宮島で修行していた僧侶が、弁財天の持つ琵琶の形から着想を得て参詣みやげに作らせたもの。特に日清・日露戦争に出征する兵士が厳島神社に参拝するようになってから有名になった(1)。郷土玩具としては、大鳥居や管弦祭の和船(お漕ぎ船)のミニチュア、舞楽を模した土製や張子の人形がある。この舞楽人形(蘭陵王)は土製で高さ15p。(H27.3.14)

明治時代からほぼ同じデザインで作られてきた手捻りの土人形。宮島のシンボルともいえる鹿と猿は島に野生で生息していたという。とくに、鹿は厳島神社の“神鹿”として大切にされてきたが、最近は生息数が増加して被害も出ているようだ。一方、猿のほうも増え過ぎたため、人の手で捕獲されて愛知県犬山市の日本モンキーセンターに送られた。残された頭数が少ないため、今では猿の姿はほとんど見かけないという。鹿の背中に猿がチョコンと乗ったのどかな情景はもう目にできないのだろうか。高さ5p。(H27.3.14)

昭和50年代の創始という比較的新しい張子。その分、伝統にとらわれない自由な発想と斬新な色使いが魅力である。面や首振りはもとより、壁掛け式の張子なども手掛ける。また、細かい造形を可能にするために、雄型を作る従来の方法ではなく、石膏で作った雌型の内側に反古紙を貼るなど、新しい工夫もしている。インコは起き上がりで高さ7p。鳥の起き上がりには他にニワトリ、カモ、サギ、オシドリがある。(H27.3.14)

宮島張子には珍しく、伝統的な形と色使いの天神だが、振るとカラカラ音がするところは宮島張子に共通の特徴である。高さ14p。(H27.3.14)

現在、宮島は廿日市市に編入されているが、その廿日市は山陽道の宿場町として栄えたところで、ここにも元禄期から続く張子がある。木型は百種以上とされているが、いま作られているのは主に祭用の張子面と「おぼこ人形」。おぼこは子供が病気の時に枕元に置いてやり、海に流すと病気が治るという。これには、熱病のお姫様の身代わりに海に入水した御殿女中を偲んで作ったという云い伝えがある。高松張子(香川県)の「ほうこ人形(奉公さん)」にも同じような話が伝わっている。また、その鮮やかな赤色が疱瘡神を退散させるともいわれる(1)(金太郎04、埼玉01)。高さ28p。(H27.3.14)

廿日市張子にも使われる大竹市産の和紙で出来た緋鯉である。一方の真鯉(水族館15)の背には豪快なタッチで金太郎が描かれている。江戸中期から鯉のぼりは和紙で作るのが一般的であった。その後は木綿製も出たが、重くてよく泳がないことから、紙鯉にも根強い人気があった。しかし、昭和40年ころからナイロン製に押されるようになり、最盛期に7〜8軒あった紙鯉の製造業者も今ではただ1軒となった。絵付の際に染料がにじまないように、コウゾに松ヤニを混ぜた“こいがみ”と呼ぶ和紙を張り合わせ、鯉の形に裁断し、さらに背ビレなどを付けてから刷毛で手早く絵付けする。筆はいっさい使わないという(2)。長さ120cm。(H27.3.14)

西日本でよく見かける両目の入った鉢巻だるま。「願いが成る(鳴る)」ように鈴や小石が入れてあり、振るとカラカラ音がする。植木市とだるま市で有名な三原の神明市は、約400年の伝統を誇る山陽道一のお祭りである。この地方では、昔から毎年新しいだるまを家族の数だけ買い、だるまの背に銘々の名前を書いて、向こう1年神棚に飾る習慣があった。三原のだるまは小早川隆景公に発祥を持つ歴史あるものだが、戦前に廃絶。1988年に三原市シルバー人材センターの有志が力を合わせて復活し、かれこれ30年になる。作り手によって出来もまだ一定しないが、皆さん勉強熱心で、各地のだるま業者を見学したり、現物を取り寄せて分解してみたりしながら研鑽を積んでいる。また、木型に代わるものとして石膏型を、反古紙の代りには牛乳パックのリサイクル品を使うなど、工夫も怠らない。右の男女一対は握りだるまとも呼ばれるもの(高さ6.5p)。ほかに蛸だるま(水族館10)などもある。(H27.3.14)

広島県は張子の多いところだが、沼隈町常石にも張子人形の名品がある。元来は県下の十日市人形(三次人形)を模して土人形を作っていたが、破損による返品が多く、張子に転向したもので、明治20年頃の創始という。型に土人形の抜き型をそのまま用いたため、大型ではあるが凹凸に乏しいので、描彩でそれが何か分かるよう工夫をしている。また、着色には泥絵具が使われていて、いっそう素朴な趣がある。高さ21p。(H27.4.1)

常石張子の原型となった三次土人形は、もともと雛や端午、八朔など節句向けに作られたもので、娘ものや金太郎(金太郎01)、武者など大型の人形が多く、その流れを汲む常石張子も概して大型である。八朔の節句は旧暦8月1日に行われる祝で、豊作を願う農村部の「田の実」の節句と、都市部で平素庇護関係にある人に贈り物をする「頼(たの)も」の風習が結びついたものとされる(3)。鎌倉時代から始まり、西日本で盛んに行われる。とりわけ瀬戸内海沿岸から福岡県にかけては、今も様々な八朔行事が残っている(船10、馬10)。写真は五条大橋の弁慶(高さ43p)。(H27.4.1)

張子は土人形より少々下に見られていたのか、地元では常石張子を「張りぼて」などと呼んでいる。しかし、天神や八朔人形をはじめ、古代犬(左)、座り狆(右)、立ち狆(犬02)などはなかなか立派で、土人形と比べても見劣りしない出来である。常石張子の干支では、羊が1991年の年賀切手に採用されている。座り狆の高さ21p。(H27.4.1)

常石張子のもとになった三次土人形。特筆すべきは気品ある顔の美しさで、独特の艶があることから「光り人形」とも呼ばれている。濃度の異なる胡粉を何度も塗り、乾いた後に絹で丹念に磨き上げて艶をだす“磨きだし”の技法は一子相伝である。人形には大きく分けて天神、女もの、武者ものがあるが、天神一つをとってみても松負い、縄乗り、梅持ち、牛乗り、船天神などいろいろあり、それぞれに大小があるので種類は多い。松の大樹を背にした松負い天神は三次人形にのみ見られる型で、京都・北野天満宮にある「影向(ようごう)の松」に因む話(初日には御祭神(天神)がこの松に降臨して歌を詠まれるとの伝説)を表現しているともいわれる(4)。松の緑と衣裳の赤の対比が素晴しい。高さ16p。(H27.4.25)

数多ある天神人形だが、姿の良い立ち天神にはなかなかお目にかかれない。そんな中、三次の梅持ち天神(右)は、冠を頂点として流れるような両袖の線に加え、ややせり出した腹部も調和のとれた安定感を創りだしている。左は縄乗り(綱敷き)天神。道真公が冤罪のため大宰府に流される途中、立ち寄った湊に貴人が座る敷物(円座)が無かったため、地元の漁師が船に積んでいた縄(綱)を円座のように巻いてお迎えしたという云い伝え(綱敷天満宮縁起)がもとになっている。縄乗り天神の高さ23p。(H27.4.25)

尾道の夏。八坂神社の祇園祭りには町の東部、中央、西部から三体の神輿(みこし)が繰り出し、三つ巴になって町内随所でぶつかりあうので、別名“けんか神輿”とも呼ばれる。おもちゃの神輿の足には棕櫚(しゅろ)の毛が植えられており、畳や机の上などに置いてトントンと叩くと、本物のけんか神輿のようにもつれあう。田面船(船10)の作者が、本職である木工業の傍ら製作を続けている。高さ5p。(H27.4.25)

ベッチャー祭りは11月に一宮社で執り行われる奇祭。3日目の神輿(みこし)渡御に際し、赤い獅子頭を着けた先払い、天狗面を着けササラを持った先導役の猿田彦(俗称ショーキー)に続いて、太い祝棒を持った般若面の大蛇(おろち、ソバ)と、同じく祝棒を持ち武悪面を着けたベタが登場、“ベッチャー、ベッチャー”と囃したてる子供達を追い回し、尻を突いたり叩いたりする。むかし、疱瘡やコレラが流行した時、その厄払いのために始まったと伝わる祭りで、棒で叩かれるとその冬は風邪をひかないという(2)。実際の祭りで使われる面は木製だが、露店では張子面が売られている。このうち、天狗面と般若面は各地の張子面と大同小異なのに対し、絹糸の髪が植えられた武悪面(高さ16p)は他に類を見ない。武悪とは「猛々しく恐ろしい」と言う意味で、もともと狂言では鬼を表す面である(5)。(H27.4.25)

郷土の陶芸家の指導をうけ、ベッチャー面をもとに昭和54年に製作された土鈴。石膏型の中に水で溶いた粘土を流し込む技法なので、表面の彫は細かくて深い。釉薬を塗ったあと高熱で焼成してあるため、カラカラと澄んだ音色がする。左より天狗面(ショーキー)、武悪面(ベタ)、般若面(ソバ)。「ショーキー」や「ソバ」とは妙な呼び名だが、一説では最初に天狗面を着けた人の名が庄吉で、般若面を着けた人の職業が蕎麦屋だったとか。また、「ベタ」はベタっとした平面的な面なのでそう呼ばれたといい、「ベッチャー」も「ベタ」が訛った呼び名といわれる。土鈴の高さ6p。(H27.4.25)
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