干支の牛 特集 |
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牛は馬とならんで古くから家畜として飼われていた動物である。だから何かと馬と比べられるが、機敏さの点でかなり分が悪い。ことわざでも“不利なほうから有利なほうへ鞍替えする”ことを、「牛を馬に乗り換える(歩みののろい牛から速い馬に乗り換える)」というし、“何も使わぬよりは使ったほうがまし”ということを、「馬に乗るまでは牛に乗れ」という。一方、「牛も千里、馬も千里」ともいう。これは、“遅くても速くても(上手くても下手でも)結局行き着くところは同じ”という意味である。筆者はダンゼン牛のほうに親近感を抱くのである。さて、牛は人にとって身近な存在だけに、郷土玩具の素材にも多く取り上げられている。俵牛は米の豊作を願うとともに牛の強健を祈るもの。土人形の祖といわれる伏見人形(京都府)に基本の型があり、全国で見られる。また、俵牛は張子玩具でも代表的な型である(岩手県08) (福島県14) (宮城県11)。高さ11cm。(H20.11.3)

下川原の牛(右:高さ8cm)は米俵と一緒に大根を背負っているのが珍しい。野菜の出来も祈願するのかもしれない。一方、能古見の牛(左)はこの地にある日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷神社に因んで宝珠を背にしている。ほかに、童子やだるま(東京都30)などを乗せた牛も見られる。

たくましい黒牛である。昔から沖縄では牛どうしを戦わす闘牛が田舎の正月、祭日の娯楽となっていた。とくにいくつかの闘牛場がある中部では、骨肉を打ち鳴らしての熾烈な戦いに観衆は我を忘れて熱中する。勝負は背を向けて逃げ出した方が負けとなる(1)。首振り張子なので全体的にユーモラスな印象も受けるが、見開いた眼はらんらんとして勝負の厳しさを表しているようだ(高さ10cm)。なお、この牛はひと巡り前(1997年)の年賀切手に採用されている。わが国ではほかに新潟県小千谷(新潟県13)、愛媛県宇和島、東京都八丈島などにも闘牛(牛相撲とも呼ぶ)の伝統が残されている。相撲であるから、戦うにも厳格なルールや禁じ手があるという。

平安時代、柳津虚空蔵堂を建立するおり「建材運搬の使役に使われた逞しい赤牛が、寺院完成のあかつきに一夜忽然と寺院前に石と化し、自ら永く御仏のお供を願った」という伝説から作られた張子。一説には会津城主・蒲生氏郷が、副業奨励のため京都から職人を呼び、武士の内職として製作を始めたものという。また、昔はこのような赤物(全体を赤く塗った玩具)が天然痘除けの見舞いとして贈られたりもした。体には黒に白の輪郭の斑が描かれただけだが、巧まずにノッソリとした牛の雰囲気を表していて傑作である。高さ15cm。(H20.11.29)

わが国固有の牛(在来牛)は体が強健で性質はおとなしく、飼育にも手がかからず肉質も良いなどの利点を持っていたが、小柄で晩熟、産肉量及び産乳量が少ない欠点があった。明治以後、欧米系の品種との交配を進めた結果、生育が早く体格も良い改良和牛が誕生し、今では畜産資源の主流となっている。一方で在来牛は減っていき、山口県萩市の見島と鹿児島県トカラ列島の二箇所に生存しているに過ぎないという(2)。因伯牛は因幡伯耆二州で昔から飼われている和牛で、写真はそれを玩具化した倉吉張子である。高さ9cm。(H20.11.29)

美作(みまさか・岡山県津山地方)も良い牛がいることで知られている。ただし、こちらは役牛(働き牛)。力が強く賢いことから、労力を必要とする農村(遠くは四国方面)にまで貸し牛として出稼ぎに行き、その代りとして米をもらって来たという(3)。郷土玩具の作州牛(左)は竹を材料に昭和30年頃から創り出されたものである。牛のほかにも竹細工で様々な動物が作られている。一方の出雲牛(右)は出雲大社近くで作られている張子で、勇ましい顔つきとどっしりとした体が牛の重量感を感じさせる。出雲大社の神紋を染めた腹掛けをしているところから、神牛とも呼ばれる。今も出雲大社の境内には大きな銅製の神牛が寄進されている。出雲牛の高さ6cm。(H20.11.29)

“食べてすぐ寝ると牛になる“とよくいわれる。人は満腹になると眠くなるのがふつうだが、食後すぐに横になるのはいかにも行儀が悪いので、戒めに”牛になる“といったものだ。臥牛(がぎゅう)は牛が寝そべってゆっくり草を反芻(すう)している姿である。草と皮膚病の瘡(くさ、できもの)を掛け、臥牛を瘡治療のマジナイとする風習は各地にある。また、家畜の健康や安産を願うほか、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛など一般的な願い事も託される。呼び方も寝牛、撫(なで)牛、招き牛、牛神様とさまざまだが、お詣りする人が神社に奉納されている臥牛を一つ借りて帰り、願いがかなったらもう一つの臥牛を添えて返納する慣わしは共通している。前列左は田倉牛神社(岡山県)の牛神様で備前焼。右は八橋人形(秋田県)の臥牛。後列左は津秦(つはた)天満宮(和歌山県)の瓦牛で、瓦職人が余技で作るもの。右は堤人形(宮城県)の撫牛。京都の伏見人形にならい額に大黒天と宝珠を表してある。丑の日に大豆餅を供えて開運出世を念ずれば願いがかなうともいう。体長15cm。(H20.12.14)

牛は天神様とよくよく縁が深い動物である。そのわけは、「菅原道真公は丑の年の丑の日の丑の刻に誕生し丑の日に没したとされ、また公の遺体を運ぶ牛が動かなくなった地(今の九州大宰府)を墓所に定めたから」という。祭祀なども丑の日に行われることが多いのはこのためだ。一方、「天神(天満大自在天神)はバラモン教(ヒンズー教)の最高神・シバ神が仏教に組み込まれて護法神となったもので、シバ神はもともと白牛にまたがった姿で描かれるから」との説があり、有力である。ほかに「農耕神としての天神信仰と、農耕に不可欠な牛が結びついた」とする説などもある(4)。写真は順に、1)津屋崎人形(福岡県、高さ26cm)、2)伏見人形(京都府、11cm)、3)高松張子(香川県、16cm)、4)出雲張子(島根県、24cm)、5)津山土人形(岡山県、12cm)、6)三春張子(福島県、25cm)。このうち、伏見人形の牛乗り天神は代表的な型であり、各地で類型が見られる(秋田県01)(宮城県03)。(H20.12.14)

ことわざに「牛に引かれて善光寺詣り」というのがある。信仰心のない強欲な老婆が、布切れを角に引っ掛けて逃げた牛を追いかけて善光寺まで行き、そこの霊気に打たれて仏教信者になったという説話(今昔物語)からだが、現在では“子や友に誘われて、気のすすまぬところへ連れて行かれる”という意味に使われる。善光寺門前のみやげもの屋では今でも土製、陶製、張子製などいろいろな布引牛を見かける。手前の布引牛の高さ6cm。(H20.12.14)

郷土色豊な玩具が大量生産のおもちゃにとって代わられ衰退していく傾向は、かつて崎山嗣昌、古倉保文の両氏が活躍した沖縄でも例外ではない(1)。しかし、最近になって中村真理子さん(故古倉保文の孫)や豊永盛人さんら若い作家が先人の意思を継いで伝統を守っているのは頼もしい。牛の玩具は地味な色彩のものが多いが、この牛は柴と紅の強烈な色使いがいかにも南国的である。今年の干支に因んだ豊永さんの新作。高さ13cm。(H21.1.11)

伊予宇和島では郷社である和霊神社の夏祭りに牛相撲(闘牛)が行われる。一方、宇和四郡の総鎮守である宇和津彦神社の秋祭りには悪霊払いの“牛鬼“が町に繰り出す。牛鬼とは竹を編んで造った胴体に、丸太を芯にしたキリンのような長い首、その先に牛と鬼の合いの子のようなグロテスクな頭がついた怪物で、首丈は民家の屋根を抜くように高く、重さは750kgにもなる。それを数十名の若衆が担いで町を練り歩き、商店街の軒先に首を突っ込んではいくらかのご祝儀にあずかる。周りで大勢の子供たちが竹ボラをブーブーと吹き、それに合わせてヤレヤレと囃し立てるので、別名”ブーヤレ“とも呼ばれている。起源は定かではないが、枕草紙や太平記にもその名が現れているというから、古い歴史のある奇祭である(5)。奥は木製の牛鬼で、首の部分には実物のようにシュロの皮が巻いてある。手前は張子のミニチュアで高さ25cm。(H21.1.31)

2020年はコロナ禍で多難な一年であった。東京五輪も中止となり、第三波の到来で未だ感染の終息は見通せないままである。人類はむかしから多くの疫病に遭遇して来た。今世紀に入っては重症急性呼吸器症候群(SARS、2002年)、新型インフルエンザ(2009年)、中東呼吸器症候群(MERS、2012年) に見舞われている。しかし、人々はそのたびに知恵を絞って疫病に立ち向かって来た。例えば、かつては不治の病とされた天然痘や結核も、ワクチンや治療薬の開発により克服、あるいは克服しつつある。それには来年の干支である牛も大いに貢献している。写真は会津(福島県)の赤べこ。赤色が病魔を退散させるとの謂れは中国から伝わり、わが国でも赤絵(疱瘡絵)や赤物玩具が庶民に広まった(表紙59)。赤べこは代表的な赤物玩具だが、近頃では米俵や小槌を背負うなど、旧型(牛04)に比べるとだいぶ派手になった。高さ14p。(R2.12.30)

種痘は、牛の天然痘(牛痘)を人に接種する天然痘のワクチンである。英国の医師ジェンナーが、乳絞りの女性は天然痘に罹らないことに気がついて創案した。もともと牛痘のウイルスと天然痘のウイルスは祖先が同じなので、この女性たちには牛痘によって天然痘に対する免疫ができていたのである。種痘が普及したおかげで、天然痘患者は1977年のソマリアを最後に地球上から姿を消した。やはり、結核のワクチンであるBCGも、人には病原性を持たない牛の結核菌をもとに製造される。とくに乳幼児の結核予防に効果が認められており、わが国でも6か月前後の乳児に定期接種している。牛にあやかり、来年こそは1日も早くコロナ禍から抜け出し、当たり前の生活に戻りたいものである。写真は妙高市(旧新井市)平丸地区で製作されるスゲ細工の牛。平丸の十二支では、かつて猪(猪04)と馬が年賀切手に選ばれている。高さ12p。(R2.12.30)
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