福島県の玩具 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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福島県といえば張子であろう。現在も三春をはじめ福島、船引、白河、磐梯熱海、会津若松、野沢の各地で張子人形が作られている。このほか、富岡や久之浜にも最近まで張子があった。張子人形の代表はだるまである。デコ屋敷(郡山市高柴地区)で作られる三春だるまは、頭が平らで顔の彫りは深く、睨み顔の周囲を青く縁取りし、出っ腹なのが特徴。デコ屋敷の“デコ”は“でく(木偶=人形)”が訛ったもので、いずれも橋本姓を名乗る五軒の張子屋が、だるまのほか面や三春人形(天神、歌舞伎、動物などを題材とした人形)を競って製作している。左のだるま22cm。(H16. 11.26)
左から福島市、白河市、会津若松市のだるま。面積の広い福島県は浜通り(太平洋岸)、中通り(奥州街道沿い)、会津の三地域に分けられる。中通りの福島だるまは、同じく中通りの三春だるま(郡山市)の影響を色濃く受けており、頭が平らで彫りの深い睨み顔をしている。やはり郡山との往来が盛んな会津若松のだるまにも、形や彩色に三春の影響を認める。一方、中通りでも県最南端の白河だるまは、頭が丸く顔は平板で目が無く、眉や髯が装飾的に描かれるなど、むしろ関東だるま圏(豊岡系=群馬県高崎市)に属する(1)。なお、白河だるまの眉は鶴を、髯は亀を表わしているという。会津だるまの高さ20cm。(H16. 11.26)
久之浜など浜通りのだるまでは三春の影響は限られたものとなる。顔は青く縁取られているが彫りは浅く、目は開いているが睨み顔ではない。鼻つきなどは隣の茨城県産だるま(那珂湊、大洗)に、眉や髯の描き方などは関東だるまに類似している。高さ33cm。(H16. 11.26)
三春人形は歌舞伎の演目や風俗などを張子の技を駆使して写実的に表現したものである。江戸時代には藩主の庇護のもと、芸術の域に達した作品が数々作られて幕府や他藩への贈答品にもなったという。しかし、その作り手といえば城下町を離れて普段は農業を営む郷士達で、草深い田舎でこのように粋で洒落た人形がどうして誕生したのか不思議に思われる。そして、デコ屋敷では今も変わらず農業の傍ら張子が作られているのである。この作品は、奈良期に中国から渡来した雅楽の鼓、“鞨鼓(かっこ)”を胸に着けて打ち鳴らしながらダイナミックに舞う姿を生き生きと写している。振り上げたバチ、撥ね上げられた色鮮やかな振袖が印象的である。なお、鞨は匈奴と同族の民族。高さ21cm。(H16. 12.8)
三春張子の特色は、人形と別々に作った部品を効果的に使うことによって作品をより写実的、立体的に見せる“取り組み”と呼ぶ技法にある。ここでいえば、髪を飾る笄(こうがい)、手に持った春駒や扇がそれである。舞姿(右)の高さ19cm。(H16. 12.9)
三春張子の起源は判然としないが、歌舞伎ものが多いことから、歌舞伎好きの藩主が職人を江戸に連れて行き技術を習得させたのが始まりという説がある。しかし、必ずしも江戸の人形に歌舞伎ものが多いとはいえず、むしろ堤(宮城県)や相良(山形県)など南東北の土人形によく歌舞伎ものが見られることから、こちらとの結びつきを考えるのが自然である。土人形に比べ、紙の柔らかさ(可塑性)はより細かい表現に優れ、様々な部品の“取組み”により人形はさらに精巧なものとなる。それに、落としても割れない。当時の“フィギュア”に張子は最適だったことだろう。写真は“子供三番叟(さんばそう)”で高さ27cm。三番叟は歌舞伎の顔見世、正月の仕初、劇場のこけら落しなどに祝儀で舞われる舞。(H16. 12.12)
前回と同じく、歌舞伎の演目や所作事(舞踊)を題材にした作品を紹介する。さて、江戸時代、とりわけ文化・文政期に隆盛を極めた三春張子だが、明治以後は次第に衰退した。戦後もしばらく製作されることが無かったが、デコ屋敷に木型が多数残っていたのを惜しむ人々が、わずかな資料から昔の作品を想像し模索しながら少しずつ復元を始める。昭和34年、大阪の百貨店で開かれた張子の実演会場を一人の収集家が訪れ、自宅のコレクションを見に来るように工人達を誘った。そこには江戸時代の優品がずらりと並んでおり、工人達は先祖の素晴らしい技に身が震えるほどの感動を覚えたという。本格的な三春人形再興の契機となった「本出コレクション」は平成7年仙台市博物館に寄贈され、公開もされている。(H16. 12.12)
三春張子は、@だるま、A歌舞伎や風俗に題材をとったもの、B天神、恵比寿、大黒など民間信仰に根ざしたもの、C兎、虎、牛など動物を玩具化したもの、に大別される。このうちAの作品群は“三春人形”と呼ばれている。今回はBの縁起物の例として、牛乗り恵比寿(左、高さ25cm)と太鼓乗り大黒(右)を紹介する。いずれもユーモアに富む珍しい型であるが、大黒が太鼓に乗っていることについて、実は議論の余地がある。木型は残っていても当時の完成品が残されていない場合、やむを得ず作品を想像しながら復元することになる。木型で大黒が乗っているのは、”何か円柱(円筒)状のもの”であって、実際に太鼓かどうかは分からない。打ち出の小槌の上には鼠が乗っているところから推して、もともと大黒は米俵に乗っていたとする説もあるのである(2)。(H16. 12.18)
三春張子の虎で、“腰高虎”と呼ばれる。山形張子の“ねまり虎” (山形県の玩具、01山形張子(その1)(山形市))同様に、獲物を威嚇し今にも跳びかかろうとする様を表わしている。ピンとはね上がった髯、鋭い牙、大きく見開いた眼、波うつ尾、堂々とした体つきは虎玩具の白眉である。しかし、どこかユーモラスでもある。見たこともない虎を想像しながら猫の怒る姿でも一生懸命スケッチしたのだろうか。高さ25cm。(H16. 12.18)
三春のほかにも県内各地で張子の虎が作られている。写真は中列左が船引町、右が会津若松市、その他は福島市産である。尾の巻き方や縞の描き方などに三春の影響が見られる。会津若松の白虎は “白虎隊”(幕末に会津藩が編制した少年隊で、城が火に包まれるのを望見して全員自刃した)に因んだもの。高さ6cm。(H16. 12.20)
つぶらな瞳をした丸い白兎で、古くから受け継がれている型である。簡潔なフォルムに対し、複雑な模様は何を意味しているのか不明。一説には何らかの縁起を、一説には菊かタンポポの花咲く草むらを表わしているという。左の高さ11cm。(H16. 12.20)
三春張子には座天神や立ち天神もあるが、出色なのは牛乗り天神である(高さ25cm)。達者な筆遣いで上品に描かれたお顔を頂点に、牛の体までが三角形を成している姿には隙がない。天神様(菅原道真)は牛とよくよく縁が深い方である。天神様は丑の日の丑の刻に生まれ丑の日に亡くなったとされ、さらに遺体を運ぶ牛が動かなくなった場所にお墓が作られたとの言い伝えがある。従って牛乗り天神は各地の郷土玩具によく見られる型であるが、牛の代わりに馬、亀(まるで浦島太郎のようだ)、鷽(うそ)、さらには象に乗った天神様までいる。(H16. 12.23)
全国に天神人形はあまた在るが、随一の美男ぶりと称えられるのが会津の天神様である。10cmほどから数十cmのものまで大小あり、人形の胴は小型では練り物で、大型では張子で作られるが、頭(かしら)はいずれも練り物製となっている。磨きのかかった卵型のお顔にはうっすらと頬紅もさされ、天神様も白面の貴公子といった趣。三月の節句にも飾られるので“雛天神”とも呼ばれる。会津天神の創始は幕末だが、会津張子自体は戦国大名・蒲生氏郷が松坂(三重県)から会津に移封された折、殖産振興を計るために京都から各種職人を招いたのが始まりとされ、たいへん古い伝統をもつ。高さ36cm。(H16. 12.26)
天神とならぶ代表的な会津張子に赤べこ(写真左)がある。“べこ”とは牛の方言で、もっさりとした体に悠然と首を振る姿は、いかにも東北の風土から生まれた玩具という気がする。由来書によると平城天皇の御代、会津柳津の虚空蔵建立に使役されて黙々と働いていた逞しい赤牛が、永く御仏をお守りするために寺院完成の暁に一夜にして寺院前で石と化したのだという。また、赤色は痘瘡除けにご利益があるとされ、赤べこを授与された病児は程なく全快したことから、人々はますます虚空蔵尊の霊験あらたかなるを称えるようになった。三春の俵牛(写真右)はわずか5〜6cmの可愛らしい小品で、黒い首に白い線を描き、赤い胴に緑の俵を載せたところに配色の妙がある。やはり古くから伝わる型である。(H16. 12.26)
頭の尖った小さな起き上がり小法師。赤い着物を簡単に描き、顔も非常に簡略化されている。旧正月のだるま市などで売り出されるが、これを買うときには必ず家族の数より一つ余分に買う慣わしがある。神棚に祀ってその年の無病息災や子宝を得るように祈るのだが、「繭が良く起き上がる」ように蚕の守り神にもする。左が会津若松(高さ3.5cm)、右が三春の起き姫。(H16. 12.26)
馬乗り大名ともいう。もう大分前だが、当時会津若松の駅前通りにあった張子店を訪ねた折、前出の会津だるまと一緒にディスプレー用に飾ってあったものである。永いこと店ざらしになっていたせいで所々に色落ちやニスの剥落がみられたのだが、ぜひにと頼み込んで譲ってもらった思い出の品。素朴ではあるが堂々とした張子で、いかにも郷土玩具と呼ぶにふさわしい雰囲気を感じる。高さ35cm。(H16. 12.26)
「野沢張子の創始は約40年程前で、さほど長い歴史ではありません。会津赤ベこ製作が始めです。赤ベこを始めて12〜3年間は和紙を木型に張り付け、張子細工として100%手作り作業で製作しておりました。当時から私共の地域は会津若松より40km程西の新潟県境で観光地でもなく、製作した赤ベこは会津若松市の問屋に納品するだけの仕事でした。時が経つにつれ赤ベこ以外も製作するようになりましたが、和紙を原料とした張り子細工は製造原価に限度があり、紙を原料とする真空成型を「高崎だるま」産地より取り入れ、張子として生産するに至りました。しかし、だるまを作る型の真空成型では小さな作品では精度の高いものは出来ず、手作りの張子に近い作品を作るための型は、7年余りの時間を掛けて私共で開発しました。新しい作品を作る場合、デザインした作品の木型を作成し和紙を使ったサンプルを作成します。手張り張子はこの最初の作品のみです。製品としてお客様にお渡しするものは、すべて真空成型により作られるものです。江戸時代より庶民の中から生まれ育ち、高度経済成長にともない滅び行く一途の郷土玩具を、製法は違えども後世に残して行けたらと思うとき、私共があります。」(野沢民芸品製作企業組合・伊藤理事長の話)虎の高さ8cm。(H17. 1.2)
その土地で、その風土に根ざして作られた類は、伝統の有る無しに関わらず郷土玩具といえるだろう。前回紹介の野沢張子は、地元の人々の努力が実り地場産業としても認められた良い例である。磐梯熱海の張子も戦後生まれだが、会津街道沿いに住まいする作者が工夫を重ねて完成し、今では温泉土産として定着している。この鯉乗り金太郎は、張子の持ち味を生かした柔らかで大胆な造形と描彩が魅力。東北には珍しい「唐人凧」を作るのもこの作者である。高さ12cm。(H17. 1.2)
いわき七浜の一つ、久之浜は美しい海岸線をもつ海水浴場である。また、鰹船の漁港としても知られ、昔から張子の天狗面を神棚に飾って航海の安全を祈る風習があった。この特大の天狗は50cm以上もある長い鼻を取り外すことができ、鬚として白い絹糸が植えられているところも奇抜である。ところで、縁日玩具の定番であるお面も今ではビニール製で大量生産されるようになった。モデルもテレビやアニメの人気者達である。斉藤良輔編「日本人形玩具辞典」(3)によると、張子に代わってセルロイドのお面が多く出回るようになったのは大正期だそうだ。しかし、仙台では私が子供の頃(昭和30年代)も張子のお面が売られていたように記憶している。(H17. 1.2)
三春の張子面は今も変わらず手張りの手法で作られている。@木型に布で油を引き、後で紙が剥がれ易くする。A湯に浸した和紙を軽く絞り、手で適当な大きさにちぎって丁寧に張り付ける。B張り終わった表面に手のひらで糊をすり込む。紙の継ぎ目を滑らかにすること、紙の内部に糊を染み込ませて乾燥後の強度を増すことが目的である。C天日か火に当てて乾燥させる。D木型の側面から割を入れて、張子を木型から抜き取る。これが素張り(すばり)の張子である。Eさらに、胡粉(貝殻の粉末)と膠(にかわ)を混ぜたものを下塗りしてから彩色して完成する。古くから使い込まれ黒光りした木型は、木彫品としても鑑賞に堪えるものである。1000種以上の木型があったそうだが、現在作られているのは数十種程度とか。写真は上段左より天狗、烏天狗、雄狐、雌狐、下段左よりひょっとこ、毘沙門(多聞天)、獅子(猪)、般若。天狗の鼻は別の木型で作り、最後に組み合わせて完成させる。(H17. 1.2)
「初音(はつね)」は竹で作る一種の鳥笛で、旧正月の元朝に近郷のものがこれを鳴らしながら売り歩いたものだという。「風車」は艶紙の羽根に金色の巾着、小判、宝船、打ち出の小槌などの切り絵が貼られた美しいもの。金の回りが良くなるようにという縁起から、大きいものが好んで買われる。これらに「起き姫」(15回)を加え会津の三縁起物と呼び、現在では正月に会津若松の十日市などで売られている。会津のろうそくは五百年ほど前、時の領主が漆の植樹を奨励したことに始まる。樹液は漆塗料に、種からは蝋(ろう)が採取されるため、漆器とろうそくは今に続く会津の伝統的産業となった。江戸時代には藩主松平氏が財源として活用して全国に知られるようになり、付加価値の高い「絵ろうそく」も考案されて当時の大名や神社仏閣、上流社会で愛用された。「白虎隊士」と「小原庄助」の起き上がりは共に新作で、起き姫の作者が作っている。小原庄助は民謡“会津磐梯山”で有名だが謎の人物である。一説は律儀な武士としての庄助で、墓も残っている。また一説では朝寝、朝酒、朝湯が大好き、放蕩の末に身上を潰した材木商(あるいは会津塗り師)の庄助で、こちらにも墓がある。人形はもちろん後者の庄助さんである。風車の直径30cm、絵ろうそくの長さ14cm。(H17. 1.10)
張子の豊富な福島県ではあるが、土人形は少ない。三春でもごく初期には伏見や堤などを模して土人形を製作していたようである。また、根子町(福島市)や二本松にも土人形が在ったが、何れも明治期に廃絶した。中湯川人形は今や福島県を代表する土人形である。といっても、現作者が昭和47年から廃村となった中湯川に移り住み、57年に創始した歴史の浅い土人形である。しかし、我が国の民俗・文化を踏まえて自ら型を起こし、伝統的な二枚型の手法で作られた本格的な仕上がりは、他の歴史ある土人形に比べていささかも遜色ない。写真は明治の学生風俗を表わしたもの。当初鶴岡土人形を手本にしたためか、人形を振るとカラカラ音が鳴るようになっている。女学生の高さ16cm。(H17. 1.10)
中湯川は会津若松市郊外の東山温泉から車でさらに20分かかる山の中という。作者はそこで毎年4、5種ずつ新しい型を生み出しており、干支ものはその代表である。兎と春駒童は確かな造型と丁寧な絵付けから生まれた佳品で、小物にも決して手を抜かない作者の誠実な人柄が表れている。また、前掲した鶏抱き童と同様、子供や動物の愛らしい表情が何ともいえない。このチャンチャンコを羽織った兎は木版で栞にも刷られていて、中湯川人形のシンボルともなっている。高さ7.5cm。(H17. 1.10)
7月23日の朝、浜通りにある原町市には近郷から鎧甲冑に旗指物で身を固めた武者が馬に跨り続々と終結してくる。相馬野馬追の出陣である。御神旗を得んと大勢の騎馬武者が牧を駆け競う神旗争奪戦が祭のクライマックスとなる。一千余年の昔、平将門が新しい軍事力として馬の活用を考え、現在の千葉県流山市付近の牧に野馬を放牧し、敵兵に見立てた野馬を追いかけて捕らえる軍事訓練として行ったのが野馬追の始まりという。訓練は将門の末裔が相馬領主となった後も明治維新まで続けられ、さらに現在の祭に至っている。騎馬武者姿を模した土製の野馬追人形は戦後廃絶していたが、何度か形を変えて復活した。左は以前の復元品(旗指物は失われている)、右は最近の復元品(高さ9cm)である。(H17. 1.10)
天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た。その旅姿を写したのがこの串人形だが、おどけた顔の陰にはこんな話も隠されているのである。相馬移民は10年にわたり1,300人以上にものぼったという。高さ19cm。(H17. 1.10)
左より黒塚人形、あだたら鈴、鶉(うずら)車。何れも土地の伝説に基づいて作られたもので、「古代玩具」と名づけられている。黒塚人形は“旅人の生き胆を狙う”という安達が原の鬼女伝説に由来する。あだたら鈴は安達太良山の神を祀るときに里人が鳴らしたという伝説の鈴で、ゴロゴロという鈍い音は山鳴りを現す。また、鶉車は百済から岩代の国(福島県)に住み付いた渡来人が、百歳を迎えた記念に寺院を建立し、その際に手斧(ちょうな)で出来る木っ端から想を得て作ったのが始まりとされる。興味深いことに、九州は宮崎県で見られる鶉車の縁起もこれとよく似ている(古川誠一著「九州の郷土玩具」昭和57年刊)。鶉車の高さ6cm。(H17.1.17)
福島県はこけしの三大発生地の一つで土湯系の中心でもある土湯温泉(福島市)を擁す。土湯系こけし(左4本)は、ロクロによる線模様を主とする胴模様と、小さな蛇ノ目模様を頭頂に冠する独特な様式をもっており、他系統とは容易に区別できる。ほかに県内各地で弥治郎系こけしが作られている(右3本)。作者は左より渡辺忠義(土湯温泉、1尺)、斉藤弘道(土湯温泉)、渡辺幸典(福島市飯坂温泉)、西山憲一(土湯温泉)、佐藤セチ子(熱塩加納村熱塩温泉)、高橋精志(いわき市)、佐藤正(磐梯熱海温泉)の各氏。なお、福島県では土湯系と弥治郎系以外にこけしは作られていない。(H17.1.17)
土湯系には“中ノ沢亜系”ともいうべき、目玉の大きい特異な面相をしたこけしの一群がある。大正の末に木地職人・岩本善吉が、土湯温泉とは峠を挟んで隣の中ノ沢温泉(猪苗代町)に住み着いて創始したという。その経緯には次のような話が伝えられている。善吉は芸事万端に通じ、芸妓に踊りを教えるほどであったが、なかでも逆さになって踊る足踊り“逆さカッポレ”は中ノ沢の名物になるほどだった。その“逆さカッポレ”で股に乗せる張子の首そっくりの面相と牡丹の胴模様を描いたこけしが“タコ坊主”の愛称で評判になったのだという(4)。今日では善吉の孫弟子達が“タコ坊主の会”を作って中ノ沢こけしを伝承している。左より福地芳男(中ノ沢温泉、1尺2寸)、斉藤徳寿(会津若松市)、三瓶春男(中ノ沢温泉)、瀬谷重治(中ノ沢温泉)、本多洋(中ノ沢温泉)の作。(H17.1.17)
左:好間町では旧暦の7月6日夕、麦藁で牡牝の七夕馬を作り門口の左右に飾る。その間には松明(迎え火)を焚き、先祖の霊を迎える。飾っていた七夕馬は“二十日お盆”(旧7月20日、盆のおさめ)に馬小屋の屋根に投げ上げる。それは藁葺き屋根の上で次第に風化して天に還るのだという(作者の話)。このような盆の入りに馬を作る習俗は東北各地に残っているが、その形や云われ、飾り方は地域で異なっていて興味深い。ある所では七夕馬が織女牽牛の星伝承により強く結びついているし、ある所では田畑の見回りをして害虫を駆除してくれる“田の神様”の乗り物とされている。材料は稲藁や麦殻、コモ草など、呼び名にしても七夕馬のほか、お盆さま、盆迎え馬、精霊馬、まこも馬、かや馬など多様である。高さ28cm。 右:隙の無い二重螺旋形と艶やかな飴色をした美しい虫かごも麦藁で作られている。不思議なことに、虫を入れる口がどこにも見当たらない。さて、どうすれば口が開くかお分かりですか。高さ41cm。(H17.1.24)
藁やコモ草で馬を作る民間信仰は全国39の都府県に及ぶ。これらの意味するところは、@先祖や神を迎える意思表示や乗り物の提供、A神への願いや感謝の証(あかし)、B悪霊に対する神の存在の誇示、に大別される(5)。七夕馬は@の範疇に入るものだが、七夕馬を馬小屋の屋根に設えたり放り上げたりする習俗はBの意味とも考えられ、分類は厳密なものではない。馬の健康や豊作を願って神棚に飾る藁馬や、岩手県の忍び駒(前掲)などはAの例である。また、@では供える藁馬が2頭であるのに対し、AとBでは1頭が一般的。さらに、藁馬に引き手や乗り手が付いたり、注連縄(しめなわ)を連想させる長い手綱が付いたりする例では、また別な意味が加わる。馬の顔つき一つをとってみても各地で特徴があり、誠に興味は尽きない。写真は鹿島町の七夕馬(高さ40cm)、挿図は富岡町の七夕馬(高さ36cm)。何れも長い手綱が付いており、注連縄同様に悪霊の侵入を防ぐ意味を持っている。(H17.1.30)
唐人凧は約4百年前に中国大陸から長崎へ伝えられたもので、現在でも北九州地方では様々な種類が作られている。しかし、なぜ南蛮系の凧が会津の地に伝わったのだろうか。一説には、秀吉の奥州征伐後に会津を治めた切支丹大名・蒲生氏郷が南蛮文化をこの地に持ち込んでからだという。そういえば唐人凧の形は十字架に見えなくも無い。また一説には、会津藩が幕府公認で朝鮮人参の栽培をしていた江戸中期、会津に朝鮮人参栽培の指導や買い付けに来た長崎商人がもたらしたものともいう。写真左は磐梯熱海温泉で作られる唐人凧(高さ80cm)。もとは会津の凧であったものを子孫が受け継いで同地で製作している。右は会津若松市で作られる唐人凧(高さ70cm)。(H17.2.13)
会津若松の獅子舞は500年以上の歴史をもつ。出陣する兵の士気を鼓舞するため舞ったのがことの起こりだが、ほかに悪疫駆除や豊作の祈願などにも舞われる。しかし、会津人が彼岸獅子を語るとすれば、もっぱら戊辰戦争にまつわる逸話であろう。会津若松の鶴ヶ城が官軍に包囲されたおり、応援に駆けつけた家老・山川大蔵は一計を案じ、小松郷の獅子舞を先頭に笛や太鼓の囃しに合わせて行進しながら敵をあざむき、首尾よく城内へ入ることができた。この功により、小松郷の獅子には藩主松平家より葵(あおい)の定紋を使うことが許されるようになったという。写真は左右が木製、中が陶製の彼岸獅子。同じ題材でもずいぶん趣が違うものである。右の高さ21cm。(H19.8.8) |
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