谷崎潤一郎 たにざき・じゅんいちろう(1886—1965)


 

本名=谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)
明治19年7月24日—昭和40年7月30日 
享年79歳(安楽寿院功誉文林徳潤居士)❖谷崎忌・潤一郎忌 
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30 法然院(浄土宗)
東京都豊島区巣鴨5丁目37–35 慈眼寺(日蓮宗 )



小説家。東京府生。東京帝国大学中退。明治43年小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。『誕生』『刺青』を発表、永井荷風の激賞を受けた。「耽美派」「悪魔主義」の時代を経て『痴人の愛』『蓼喰ふ虫』『卍』『春琴抄』などによって谷崎文学は結実した。『細雪』『鍵』『瘋癲老人日記』などがある。



 京都・法然院

 東京・慈眼寺



 程經て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしひになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云つた。佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を發し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生れてから後にも先にも此の沈黙の敷分間程楽しい時を生きたことがなかつた昔悪七兵衛景清は頼朝の器量に感じて復讐の念を断じ最早や再ぴ此の人の姿を見まいと誓ひ両眼を抉り取つたと云ふそれと動機は異なるけれどもその志の悲壮なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如きことであつた乎過日彼女が涙を流して訴へたのは、私がこんな災難に遭つた以上お前も盲目になつて欲しいと云ふ意であつた乎そこ迄はそん忖度し難いけれども、佐助それはほんたうかと云つた短かい一語が佐助の耳には喜ぴに慄へてゐるやうに聞えた。そして無言で相對しつヽある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来て唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自づと會得することが出来た今迄肉體の交渉はありながら師弟の差別に隔てられてゐた心と心とが始めてひしと抱き合ひ一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生つて来たがそれとは全然心持が違つた几そ大概な盲人は光の方向感だけは持つてゐる故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼此れが本當にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだ此れで漸うお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思つたもう衰へた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはつきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうつと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思へなかつたつい二た月前迄のお師匠様の圓満徴妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎佛の如く浮かんだ
                                                              
(春琴抄)



 

 終生、反自然主義的な姿勢で臨み、物語の筋を重視したことで芥川龍之介と論争になり、芥川が『文芸的な、余りにも文芸的な』という文学論を発表して注目を浴びたこともあった。
 後に夫人となった根津松子に〈私に取りましては芸術のためのあなた様ではなく、あなた様の芸術でございます〉と書き送った谷崎文学の美意識には、ある面で辟易とすることもあるのだが、それ故に安堵するところもあった。
 その悪魔的、偽悪的なポーズと官能に満ち満ちた文学を支えてきた長年の活力が著しく衰えを見せたのは、前立腺肥大症発病の昭和39年春頃からであった。翌年7月24日、79歳の誕生日を祝った6日後の30日朝、腎不全から心不全を併発、湯河原の自宅で死去した。



 

 京都鹿ヶ谷法然院墓地の上段、日本画家福田平八郎の隣に位置する一劃に、紅しだれを挟み「空」「寂」の二基の墓石が据えられてあった。「空」には松子夫人の妹重子夫妻の墓、「寂」には潤一郎夫妻が眠っている。哲学の道に程近い東山にある浄土宗のこの寺の墓所は谷崎家代々の日蓮宗を嫌って潤一郎が生前に求めたものであった。
 古都の西日を浴びて明暗を演出するこの塚は、過激にいえば自分の芸術のために独善的な人生を送った潤一郎の文学の完結を象徴するものであろうか。ただし、のちに嫌っていた日蓮宗の、それもかつての論争相手だった芥川龍之介も眠る東京巣鴨・慈眼寺の谷崎家代々墓地に分骨されることになるとは思いもしなかったであろうが。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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