田村隆一 たむら・りゅういち(1923—1998)


 

本名=田村隆一(たむら・りゅういち)
大正12年3月18日—平成10年8月26日 
享年75歳(泰樹院想風日隆居士)
神奈川県鎌倉市大町1丁目15–1 妙本寺(日蓮宗)



詩人。東京府生。明治大学卒。昭和22年鮎川信夫らと『荒地』を創刊。31年第一詩集『四千の日と夜』を刊行。『言葉のない世界』で高村光太郎賞、『奴隷の歓び』で読売文学賞を受賞。ほかに『ハミングバード』など。エッセイに『ぼくの遊覧船』『青いライオンと金色のウイスキー』などがある。



 



一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない、
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線をわれわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとリの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像カと四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなけれぱならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であリ、
われわれはその道を行かなければならない
                               
(四千の日と夜)



 

 なんといっても戦後詩を語るうえにおいて最も重要な詩人であった田村隆一。彼にはもうひとつ、「モダニズム」という言葉が常についてまわるのだが、その断定的なフォルムは正しく衝撃的であった。吉本隆明は日本でプロフェッショナルだと呼べる詩人が三人いるとして挙げた、その一人が田村隆一だった。あとの二人は谷川俊太郎、吉増剛造。
 平成10年8月26日午後11時27分、食道がんのため逝った詩人に、大岡信は追悼する。〈田村さん 隆一さん あんたが 好きも嫌ひもはつきり語つた二十世紀も了る。 こほろぎがばかに多い都会の荒地を、 寝巻きの上へインバネス羽織つただけのすてすつてんてん あんたはゆつくり 哄笑しながら歩み去る〉。



 

 告別式が行われた鎌倉市大町の妙本寺、本堂裏を辿る奥域に、俗音をすべて遮断したような墓群がある。東京は大塚花街の鳥料理店が生家だった背景によるわけでもあるまいが、酒と女性を愛し、生涯五人の妻を娶った田村隆一。〈言葉なんか覚えるんじゃなかった〉と嘆息を託った隆一。
 〈わたしの屍体を地に寝かすな おまえたちの死は 地に休むことができない わたしの屍体は 立棺のなかにおさめて 直立させよ〉。
 隆一は明晰な悲劇調を歌った。杉木立に囲まれた「田村隆一」墓、思いっきり太く、深く、彫り込まれた文字の窪みに雨水のたまり、カップ酒一本、ピンクと白の供花、ただ一人の影、真昼の空間に「言葉のない世界」が時を刻んである。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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