高浜虚子 たかはま・きょし(1874—1959)


 

本名=高浜 清(たかはま・きよし)
明治7年2月22日—昭和34年4月8日 
享年85歳(虚子庵高吟椿寿居士)❖虚子忌・椿寿忌 
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17–7 寿福寺(臨済宗)



俳人・小説家。愛媛県生。旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。正岡子規に師事。『ホトトギス』を主宰。同誌に句作・俳論を執筆した。子規没後は小説に没頭、『風流懺法』『斑鳩物語』『大内旅館』などを発表。大正2年俳壇復帰。碧梧桐の〈新傾向俳句〉に対決する決意を表明した。句集に『虚子句集』『虚子俳話』などがある。







 骨肉も尚ほ死ぬるものだといふ事は父母の死以来一応合点されてゐ乍ら、其が自分の子供の上になると、何の理屈無しに決して死なぬといふ堅い自信を持ってゐたものが此時以来がらりと崩れてしまったのである。‥‥‥私は其後度々墓参をした。凡てのものゝ亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るやうに此墓表に映って見えた。「これから自分を中心として自分の世界が徐々として亡びて行く其有様を見て行かう。」私はぢっと墓表の前に立っていつもそんな事を考へた。‥‥‥諸法実相といふのはここの事だ、唯ありの儘をありの儘として考へるより外は無いと思った。

(落葉降る下にて)

桐一葉日当たりながら落ちにけり

静さへ耐へずして降る落ち葉かな

帚木に影といふものありにけり

                             


 

 師正岡子規の死後、高浜虚子は中学時代からの友人河東碧梧桐とともに俳句運動の発展に尽くし、俳誌『ホトトギス』を継承、俳壇に於いて全盛の時代を築いたが、碧梧桐とは俳句観の違いからたもとを分かつことにもなってしまった。
 生涯に20万句を詠んだといわれる虚子、朝から俳小屋で数人の来客を相手に日を過ごしていた昭和34年4月1日午後8時過ぎ、激しい疲れを覚えて就寝したのだったが、2時間たらずの後、突然脳出血をおこし意識不明になった。手を尽くした介護の甲斐もなく8日午後4時、臨終をむかえた。師子規の苦痛に満ちた生涯とはうらはらに、悠々自適に生きた文学者にふさわしく、静かに眠るような大往生であった。通夜の棺の中には彼の好きだった八重椿の小枝が入れられた。



 

 鎌倉五山の一つである北鎌倉の寿福寺は、四季を通じて鎌倉散策の観光客にも人気の風格ある寺である。しんしんと冷え込む山内の裏墓地、「源実朝」と「北条政子」の五輪塔が安置されている薄暗いやぐらの前を通りすぎると、冬寒の陽をさえぎって深閑としたやぐらの中に、「紅童女墓」(孫娘)、「白童女墓」(四女)を左右に並べた真ん中に椿寿居士「虚子の墓」は建てられてあった。
 この墓地の内には少し離れたところに次女の星野立子や長男の高浜年尾の墓もあるのだが、数メートル先で虚子の墓に向きあって楚々として建っていたのは、虚子の小説『虹』のヒロインで〈虹たちて忽ち君の在る如し〉と詠われ、29歳で肺を病み亡くなった愛弟子、森田愛子の墓であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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