竹内浩三 たけうち・こうぞう(1921—1945)


 

本名=竹内浩三(たけうち・こうぞう)
大正10年5月12日—昭和20年4月9日 
享年23歳 
三重県伊勢市・一誉坊墓地から平成17年12月、三重県伊勢市朝熊町548 金剛証寺(臨済宗)奥の院墓地に改葬 



詩人。三重県生。日本大学卒。昭和17年宇治山田中学校時代の友人と同人誌『伊勢文学』を創刊。同年、日本大学を卒業、入営。20年4月フィリピンにて戦死。『愚の旗―竹内浩三作品集』『竹内浩三全作品集―日本が見えない』『戦死やあわれ』などがある。



 一誉坊墓地にあったころの墓

朝熊山金剛証寺奥の院・詩碑横に移された墓



戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消えるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
                             
     
(骨のうたう)

  


 

 応召の日、竹内浩三は自室に閉じこもり、膝を抱くようにしてチャイコフスキーの『悲愴』を聞いていた。〈うたうたいは うたうたえと きみ言えど 口おもく うたうたえず。うたうたいが うたうたわざれば 死つるよりほか すべなからんや。魚のごと あぼあぼと 生きるこそ 悲しけれ〉と悲痛のハガキを『伊勢文学』の友人に送ったりもした。
 〈公報二四八〇〇號、本籍 三重縣宇治山田市吹上町三八九、陸軍兵長 竹内浩三、昭和二十年四月九日時刻不明、比島バギオ北方一〇五二高地方面の戦斗に於いて戦死せられましたから御知らせ致します〉。昭和22年6月13日付、三重県知事青木理による一枚の古びた死亡告知書が、哀しき詩人の命であった。



 

 碑を包むように、ほとんど判別できない字句がびっしりと彫りつけてある。〈私のすきな三ツ星さん 私はいつも元気です いつでも私を見て下さい 私は諸君に見られても はずかしくない生活を 力一ぱいやりまする 私のすきなカシオペヤ 私は諸君が大すきだ いつでも三人きっちりと ならんですゝむ星さんよ 生きることはたのしいね ほんとに私は生きている〉。この墓の土塊の下には遥か南方の空に消え失せた浩三の遺骨はない。
 10年目の命日に最愛の姉、松崎こうは〈一片のみ骨も還らずおくつきに手ずれし学帽深く埋めぬ〉と詠った。——〈日本よ オレの国よ オレにはお前が見えない 一体オレは本当に日本に帰ってきているのか なにもみえない オレの日本はなくなった オレの日本がみえない〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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