種田山頭火 たねだ・さんとうか(1882—1940)


 

本名=種田正一(たねだ・しょういち)
明治15年12月3日—昭和15年10月11日 
享年57歳 ❖一草忌 
山口県防府市本橋町2–11 護国寺(曹洞宗)



俳人。山口県生。早稲田大学中退。10歳の時に母が自殺。神経衰弱で大学は中退。郷里で酒造業を営み、大正2年荻原井泉水に師事。俳誌『層雲』に投句活躍した。のち破産、熊本に移り、出家得度して翌年漂泊の旅に出た。昭和7年山口県小郡に其中庵を結ぶが遍歴をやめず、14年松山市に「一草庵」を結庵。句集『鉢の子』『草木塔』などがある。



 



分け入っても分け入っても青い山
    
ゆっくり歩かう萩がこぼれる 
 
うしろすがたのしぐれてゆくか 

笠へぽっとり椿だった 

ほっかりと眼ざめて山ほとゝぎす
                  
おもひ出の草のこみちをお墓まで 

けふはおわかれの糸瓜がぶらり  

雨ふるふるさとははだしであるく

月へひとりの戸はあけとく 

何を求める風の中ゆく



 

 母フサの自殺、父は破産で消息不明、結婚して子も成した。荻原井泉水に師事、『層雲』に投稿をはじめ頭角を現したが弟の自殺で一層酒に逃げた。妻子からも逃げ得度、堂守となった。それから先は旅から旅。旅先から投稿は続けた。随分と歩いてきたものだ。昭和14年12月、放浪の果て松山の一草庵に落ち着くことになった。翌15年10月8日の日記に〈巡礼の心は私のふるさとであった筈であるから。〉とある。それ以後の書き込みはない。
 10日夜、句会が催されたが、山頭火は床をとって寝ていたという。句会に出席していた高橋一洵が、気づかって翌朝2時過ぎに庵をのぞくと、容態は急変していた。往診もままならず、すでに手遅れの状態であった。死亡時刻午前四時過ぎ、まさに念願のころり往生であった。



 

 満州から急遽松山に馳せ参じた息子の種田健によって、その亡骸は郷里防府の護国寺裏共同墓地に葬られた。(元妻サキノの住んでいた熊本市の安国禅寺には分骨墓がある。)昭和31年の17回忌に建てられた慎ましやかな「俳人種田山頭火之墓」、母フサの墓と並んで眠っている。
 〈無駄に無駄を重ねたやうな一生だつた、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたやうな一生だつた〉。晩年の日記に記されたその一生は、この土の中に収まりきってあるはずもなかろうが、墓前にカップ酒が数本。この分では墓に入ってからの山頭火に酒の切れた日はなさそうだったが、なんだか背の竹笹が揺れ始めた。夕立の気配がしてきたようだ。
 ——〈もりもりもりあがる雲へ歩む〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   高田 保

   高田敏子  

   高野素十

   高橋和巳

   高橋新吉

   高橋元吉

   高浜虚子

   高見 順

   高村光太郎

   高群逸枝

   高安月郊

   高山樗牛

   滝井孝作

   瀧口修造

   瀧田樗陰

   田久保英夫

   竹内浩三

   竹内てるよ

   竹内 好

  武田泰淳 ・百合子

   竹中 郁

   武林無想庵

   竹久夢二

   竹山道雄

   田沢稲舟

   多田智満子

   立花 隆

   立原正秋

   立原道造

   立野信之

   立松和平

   田中小実昌

   田中澄江

   田中英光

   田中冬二

   田辺茂一

   谷川 雁

   谷川徹三

   谷崎潤一郎

   種田山頭火

   種村季弘

   田畑修一郎

   田宮虎彦

   田村泰次郎

   田村俊子

   田村隆一

   田山花袋