田畑修一郎 たばた・しゅういちろう(1903—1943)


 

本名=田畑修蔵(たばた・しゅうぞう)
明治36年9月2日—昭和18年7月23日 
享年39歳(文誉修道居士)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園19区8側41番
 



小説家。島根県生。早稲田大学中退。宇野浩二に師事。大学在学中の大正15年火野葦平らと『街』を創刊。『麒麟』『文科』等多くの同人誌に関係。『鳥羽家の子供』が芥川賞候補となり、以後、長編『医師高間房一氏』、長編童話『さかだち学校』などを発表。



 



 無意味な曖昧な、信ぜられないものばかりが残った。……僕はそれらのことを書くのに困惑を感ずる。正當な、満足すべき言葉がないのだ。そして又、それらの僕の周圍に起ったこと、僕の中に起ったこと、それが何だといふのだらう。何でもありはしない。何の意味もありはしない。僕はその頃、自分の病気であることを信じてゐたが、今ではそれすら信じないのである。その頃も今も、僕は孤獨なのだ。それが僕の本音であり、僕の全部なのだ。あゝ、この孤獨がどんなものか、僕は説明しようとは思はない。僕は島へ來る前に友人と話をして、俺は孤獨なのだ、と云った。僕はそれを、ありうべからざる風に、滑稽な風に話した。そして、彼も笑ひ、僕も笑った。だが、二人の笑びが全然ちがったものであることを僕は知ってゐる。そんなことはそれ以外に話しやうがないのである。若し眞面目に話さうとしたら、それこそ眞に滑稽で、眞に不快なものになる。だが、僕が孤獨だといふのも、やはり一時的なもので、やはり意味がない。では、どこに、どんな風にして、永久なもの、意味のあるものがあるのか。
                                                               
(南 方)



 

 明治39年、病弱の母が死去。父河野弥吉は事業の失敗から自殺、後妻に入っていた旅館を営む田畑キクの養子になった。養母との不和や両親を早くに失った孤独感が田畑修一郎の文学的基調となったが、昭和3年、養母が死んだことによって旅館を整理、創作活動に専念する。
 13年、『鳥羽家の子供』で芥川賞候補になって認められ、『さかだち学校』で童話に新境地をひらいたのだが、昭和18年7月23日、東北地方の民話取材の途上、盲腸炎手術後の余病併発によって盛岡の赤十字病院で急逝、不幸にして田畑修一郎の道は中途で閉ざされた。本来上品ではあっても地味な作風は、文壇の狭間にある独自の立場を不遇のものにして、充分に才能を開花させることは叶わなかった。



 

 文学一筋に生きることを決断して旅館を整理、故郷の島根県益田を去ったが、整理して得た金も不遇時代に底をついてしまった。若くして家庭を持ち、三人の子供の成長とともに、生活のため身を削って逝った作家であった。
 修一郎倒れるの報に駆けつけたマツ夫人一行は死に目に会えず、棺に一杯の花をつめ、荼毘に付して遺骨を東京に持ち帰った。——「田畑」と自筆を刻された碑は、参り道の傍らにひっそりと上品に佇んでいた。前日の雨に濡れて柔らかくなった線香が、ぐにゃりと地に垂れ下がっている。あゝこの安らかな匂いは……、膝折れた私にふと、いい知れぬ心地よい感覚が沸き上がってくるのを想ったりもした。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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