高野素十 たかの・すじゅう(1893—1976)


 

本名=高野与巳(たかの・よしみ)
明治26年3月3日—昭和51年10月4日 
享年83歳(山王院金風素十居士)❖素十忌 
千葉県君津市鹿野山324–1 神野寺(真言宗)



俳人。茨城県生。東京帝国大学卒。大学在学中、水原秋櫻子らと句作をはじめ、大正12年高浜虚子に師事。「東大俳句会」のメンバーであり、『ホトトギス』「四S時代」の一人。昭和24年新潟医科大学学長。32年『芹』を創刊・主宰。句集に『初鴉』『雪片』『野花集』などがある。







柊の花一本の香かな

風吹いて蝶々迅く飛びにけり 
    
泡のびて一動きしぬ薄氷

甘草の芽のとびとびのひとならび

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる
 
もちの葉の落ちたる土にうらがへる

方丈の大庇より春の蝶

蟻地獄松風を聞くばかりなり

くもの糸一すぢよぎる百合の前

わが星のいづくにあるや天の川                                                      



 

 〈俳句の道は たゞ これ 写生。これ たゞ 写生。〉と主張、いわゆる〈四S時代〉の一人として、生涯において「写生」を標榜しつづけた。彼の句は、瑣末主義の代表として「草の芽俳句」と罵辞されもした。陽春の淡い光のなか、爽やかな風に青々とそよぐ穂を〈百姓の血筋の吾に麦青む〉と詠んだ素十の、自然に素直に従う姿勢を私は限りなく尊いと思う。師高浜虚子の提唱した「客観写生」の俳句を忠実に実践し、多くの秀句を詠んだ。
 昭和45年、京都山科の閑居で軽い脳梗塞を発病した。47年、神奈川県相模原市の長女宅近くに移り小康を得たのだが、51年8月、前立腺肥大症のため入院。10月4日午前5時25分、相模原の自宅で息を引き取った。



 

 高浜虚子の「歯塚」があることでも知られている鹿野山神野寺には二つの墓地がある。
 大方の墓はかなり離れた第二墓地とでもいうところにあり、山門手前、蝉の声が響き渡る杉木立の中、かつてこの寺に詣で〈秋山のわが墓どころこゝならん〉と詠んだ老友川名句一歩の墓から指呼の間に「高野素十居士墓」はある。隣には高浜虚子、高野素十に師事し、松尾芭蕉研究でも知られた村松紅花の墓が建っている。
 古色蒼然、陰陰と苔生した歴代住職の墓地に連なる聖域に、真夏の木漏れ日はレーザー光線のように降り差して、乾ききった枯れ落ち葉はからからと風に舞っている。〈蟷螂のとぶ蟷螂をうしろに見〉の絶句を以て83年の生涯を閉じた素十居士こそ不動なり。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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