吉武輝子 よしたけ・てるこ(1931—2012)


 

本名=吉武輝子(よしたけ・てるこ)
昭和6年7月27日—平成24年4月17日 
享年80歳(文泉院華英妙輝信女)
東京都大田区池上1丁目1–1 池上本門寺(日蓮宗)



評論家。兵庫県生。慶應義塾大学卒。昭和29年東映に入社。日本初の女性宣伝プロデューサーを経て婦人・教育・労働・政治問題などの分野で評論活動を展開した。『女人吉屋信子』『愛すれど孤独』『夫と妻の定年人生学』などがある。






  

 男社会にとって都合のいい女になるべく育てられ、生かされてきた女たちは、足にあわない靴を無理やり履いて歩けば靴ずれができるように、身丈にあわぬ人生を強制されたおかげで、精神の靴ずれに悩まされてきました。でも長年にわたって女たちは、精神の靴ずれに関しては口を閉ざしてきたのです。女かくあるべしとぃぅ女の人生の枠の中に収まり切れないのは、どこか自分には女として欠陥があるのではないかと己れの責めに帰し、その事実を世間に知られるのを恐れ、精神の靴ずれの痛みをぐっと我慢し、にこやかに振る舞って見せもしてきたのです。
 でも、リプの集会に参加した後輩の女たちは、精神の靴ずれの存在をはっきりと表明したのでした。伝統的な女の人生を生かされることの居心地の悪さ。男との関係性の中に存在する不本意さ。性を仲立ちにした関係がもたらす抑圧と強迫観念。女たちはまるで自分の臓物をさらけ出すように、詳細に具体的に精神の靴ずれのありようを語り抜きました。はじめの頃は、そんなに露悪的になることないじゃないのと、顔赤らめ、思わず耳をふさいでしまうこともありましたが、今考えてみれば、実は彼女たちの語る事柄にわたくし自身思い当たることがありすぎたため、なにか自分の内面が観衆の前にさらけ出されてしまったような狼狽感で、思わず耳をふさいでしまっていたのではないでしょうか。
 彼女たちは人前で話をするのは、その時が初めてだったのだと思います。他の女が″精神の靴ずれが痛いよ″と赤裸々に語るのを聞きながら、〝そうか、痛いよといっても構わないのだわ〟と勇気づけられ、自分自身の精神の靴ずれについて、〝聞いて、聞いて〟と、息せききって語っていたにちがいありません。

(死と生を見すえて)


 

 14歳、終戦の年、弟にせがまれるままに、桜の花びらのレイを作りに行った青山霊園で進駐軍の兵士に性暴力を受けた経験から「戦争への道を許さない女たちの連絡会」の世話人を務めるなど女性の地位向上や人権運動、反戦、平和問題などに取り組み、東日本大震災後には、呼びかけ人の一人となって「脱原発をめざす女たちの会」を立ち上げた吉武輝子であったが、晩年は膠原病、慢性呼吸不全、大腸がん、慢性骨髄性白血病などの病を抱えながらの闘病生活を余儀なくされた。平成23年12月より膠原病治療のため長女でエッセイストの宮子あずさがかつて看護師として勤務していた東京・新宿の東京厚生年金病院に入院していたのだが、翌年3月半ばから病状が悪化、4月17日午後1時14分、肺炎のために死去した。


 

 池上本門寺境内の大堂裏のお休み処から大坊坂へと下りかける左側、こんもりと樹木の茂る高台傾斜地を東西に細長く拓いた墓地に、輝子が死去した東京厚生年金病院にほど近い神楽坂の毘沙門天善国寺の永代供養納骨塔があった。この供養塔は夫宮子勝治が死んだ時に輝子が選んだ墓である。「南無妙法蓮華経」と刻まれた塔の右横に建つ墓誌には平成12年4月15日に亡くなった勝治の法名から数えて7人目に、勝治の三回忌を終えた期に「宮子輝子」から旧姓「吉武輝子」に法定復帰させた輝子の法名「文泉院華英妙輝信女」と、夫と二日違いの命日である没年月日、俗名、行年が読める。家庭内離婚状態であったという結婚生活を垣間見るような法名の離れ具合がなんとも微妙であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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