吉川英治 よしかわ・えいじ(1892—1962)


 

本名=吉川英次(よしかわ・ひでつぐ)
明治25年8月11日—昭和37年9月7日 
享年70歳(崇文院殿釈仁英大居士)❖英治忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園20区1種51側5番 



小説家。神奈川県生。山内尋常高等小学校中退。高等小学校中退後、印刷工、給仕など各種の職業を転々としながら小説を書き始めた。関東大震災のあと、『大阪毎日新聞』に連載した『鳴門秘帖』が好評を得て以後、『燃える富士』『宮本武蔵』、戦後も『新・平家物語』『私本太平記』を発表。ほかに『親鸞』などがある。






  

 麻鳥と蓬の老夫婦が、吉野の一目千本の桜霞を前に、谷に臨んで白髪の雛でも並べたように行儀よく、そしていつまでも黙然とすわっている---。
 思えばおそろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節をおいて、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。栄華を誇った平家が滅びたあと、その平家一門を討った判官義経も、あえなく平泉の露と消え果ててしまった。そしてその義経を滅した兄頼朝も急死した。また義経を讒言した梶原景時も、頼朝の死後、たちまち没落した。その源氏の世さえ、もう先が見えている---。
 ただ、世の権力の興亡のの外に生きてきた町医者麻鳥夫妻の上に、いま平和な幸せが訪れていた。 (中略)
 そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは。
 やっと、箸も終って、
 「おいしかったね。……蓬」
 と、初めて、そこで声が聞かれた。
 「ほんとに、夢の中で食べてるみたいに、食べてしまいました」
 「ほら、鴬がないてるよ、あれも迦陵頻迦と聞こえる。極楽とか天国とかいうのは、こんな日のことだろうな」
 「ええ、わたくしたちの今が」
 「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから」

(新・平家物語)



 

 〈祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけきものも遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ〉——。
 無常と幸福、いつの時にも英治の思いには常にこのふたつのテーマが巡っていた。妻・文子、子供達との生活、その平凡な幸せ。しかし昭和36年秋の始まりから体調の異常を感じ、入院・肺がんの手術をした。その後一時の回復を見て、翌年2月には長女曙美の結婚式にも出席できるまでになったが、遂に7月10日、癌転移によって言葉を失い24日に再手術がおこなわれたが、甲斐なく8月31日危篤、9月7日午前9時9分、旅立った。亡骸はお気に入りの文子夫人の着物に包まれて柩におさまった。



 

 吉川英治は肺ガンのため築地の国立がんセンター中央病院で亡くなったが、私の人生の終焉には新・平家物語の最後の章「吉野雛」のような場面をむかえてみたいと強く願うのだ。極楽に住むという迦陵頻迦の鳴き声を聞きながら〈何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから〉——。
 文机を模した台座のうえに六角型の経筒型碑石が置かれたこの小さな碑面に対して静止すると、心からその思いが深くなる。幾たびとなく過ぎ去っていった昨日、今日そして明日、青紫のりんどうのたたずまいが、さらに遠くへ思いを馳せ、澄んだ音をたてて微風がすりぬけていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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