依田學海 よだ・がっかい(1833—1909)


 

本名=依田朝宗のち百川(よだ・ともむね・ひゃくせん)
天保4年11月24日—明治42年12月27日 
享年76歳(學海居士)
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園乙3号6側13番 



漢学者・演劇評論家。下総国佐倉(現・千葉県)生。藩校・成徳書院(現・県立佐倉高校)で学ぶ。漢学を学び、維新後文部省書記官に任じられたが、明治18年退官して福地桜痴等と演劇改良運動に参加し、評論や小説を書いた。著書に『吉野拾遺名歌誉』『譚海』『新評戯曲十種』などがある。







  

  予性極奇偏  予の性奇偏を極め
  局量苦狭隘  局量にして狭隘に苦しむ
  人訽為傲慢  人訽りて傲慢と為し
  我独恃耿介  我独り耿介を恃む
  所以在於世  世に在る所以は
  常少可多恠  常に可少く恠多し
  為官僅十載  官為ること僅かに十載
  一朝俄摧敗  一朝俄かに摧敗す
  取友諱泛交  友を取るに泛交を諱み
  議論動禁断  議論動もすれば禁断
  諛言誓不発  諛言誓って発せず
  壮語筆端快  壮語して筆端快たり
  屋有万巻蔵  屋に万巻の蔵する有り
  家無一銭債  家に一銭の債無し
  饑寒幸相免  饑寒幸に相ひ免れ
  文字聊可売  文字聊か売るべし
  傲骨以寄此  傲骨以て此に寄せ
  再拝謝天地  再拝して天地に謝す

 

(墨水別墅雑録)



 

 江戸幕府末期の僅かな期間であったが下総国佐倉藩の最期の留守居役として奔走した學海は維新後、文部省の書記官になったが、のち退官し、余生を漢文家として序跋碑文記伝や詩作に力を注いでいた。また念願として歌舞伎演劇改良会創立に参加して守田勘弥、市川團十郎などを支援、劇界の啓蒙につとめ、自らも活歴劇などを書いたりした。森鷗外や幸田露伴、佐佐木信綱、坪内逍遙らの新進文学者と交わっては新しい知識を得ようとしていたが、次第に身辺は寂しくなっていった。晩年になって中風と座骨神経痛を患い身体の自由もきかなくなっていたのだが、明治41年末に牛込区新小川町に転居。翌42年、喜の字と金婚式の祝も済ませていたが、12月27日、泉下の客となった。



 

 幸田露伴を世に送り出し、森鷗外に漢文を指導した事でも知られ、『ヰタ・セクスアリス』の中で15歳の主人公(鷗外)に漢文を教える「文淵先生」として登場する依田學海は、明治8年一家で向島の尼寺青雲軒に寓居を移したときに自分の墓所と決めていたのがこの谷中霊園。横山大観や鳩山一郎などの墓所にも近い桜並木の傍、生前に選定した自筆「學海居士埋骨處」と刻された石碑の下に埋葬されている。百十数年を経て劣化した墓碑銘は所々が欠け落ちて、花立てに揚羽蝶の紋所が浮き彫りにされている。左側面から裏面にかけては近くによっても読み取るのが難しいほど細かく刻まれた學海の経歴碑文が駒込在の字彫り職人として名高い井亀泉の手で刻字されていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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