吉野秀雄 よしの・ひでお(1902—1967)


 

本名=吉野秀雄(よしの・ひでお)
明治35年7月3日—昭和42年7月13日 
享年65歳(艸心洞是観秀雄居士)❖艸心忌 
神奈川県鎌倉市二階堂710 瑞泉寺(臨済宗)



歌人。群馬県生。慶応義塾大学中退。大正13年から肺結核など7年余の療養生活を送る。昭和11年『苔径集』刊行。敗戦後、鎌倉アカデミア教授。會津八一に師事。『吉野秀雄歌集』が読売文学賞受賞。『寒蝉集』『早梅集』『含紅集』などがある。






  

うつし身の孤心の極まれば歎異の鈔に縋らまくすも          

真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす

今生のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり             
 
たなうらにみ墓をさすりつつゐたり堪へねばわれはかくのごとしつ

死を厭ひ生をも懼れ人間の揺れさだまらぬ心知るのみ

わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵眼にとめて世を去らむとす

青葉木菟夜更けになくを冥々の彼土の声とし聞くはわれのみか



 

 正岡子規に影響を受け、會津八一に傾倒、歌の道に入っていったのだが、〈もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。〉と感慨するように、詠み出された歌は、戦時下での妻はつ子との死別、生涯を通しての宿阿肺患との闘いなどに苦しみながら、己の全精力を注ぎ込んだ所産であった。
 終生貧困はついて回ったが、昭和42年7月13日、詩人八木重吉未亡人であった二番目の妻登美子に見守られ、鎌倉の自宅近くの雪の下教会から聞こえてくる正午の鐘の音につつまれて、心臓喘息の発作により永眠した。2年後、鎌倉アカデミーで教えを受けた山口瞳は『小説吉野秀雄先生』を書いて哀悼した。



 

 鎌倉二階堂の瑞泉寺、〈月観むとたどる山路に峡の門の夕映え雲をふりさけにけり〉と詠んだ愛惜の地にある「吉野秀雄墓」は墓地左手隅の崖の岩肌を背に静寂そのものといった趣で建っていた。
 この寺は〈鎌倉の花の寺〉として知られたところ、梅園もあり、梅、芙蓉、紅葉、水仙と四季それぞれに楽しむことができるのだが、いましも鎌倉は花の季節になろうとしていて、境内には椿や辛夷、ミツマタ、などが咲いており、間もなくしだれ桜やツツジも咲き始めるのだろうが、湿気を帯びた靄がゆらいでいる谷戸奥、深く切り込まれた谷の内に人影は一つ、庫裏の方からひっきりなしに訪れる参詣客の声が絶え間なく降ってくる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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