吉本隆明 よしもと・たかあき(1924—2012)


 

本名=吉本隆明(よしもと・たかあき)
大正13年11月25日—平成24年3月16日 
享年87歳(釈光隆)
東京都杉並区永福1丁目8–1 築地本願寺和田堀廟所(浄土真宗)



詩人・評論家。東京府生。東京工業大学卒。昭和27年詩集『固有時との対話』、翌年『転位のための十篇』を発表。31年『文学者の戦争責任』、33年『転向論』などで文学者の戦争責任や転向を問う。36年谷川雁、村上一郎と 『試行』を創刊。『共同幻想論』『最後の親鸞』などがある。






  

異数の世界へおりてゆく かれは名残り
をしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあはなかったこと
なほ欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかはるときの快感をしらなかったことに

けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうへで支配者にむかつて
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとって逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである

無関係にうちたてられたビルディングと
ビルディングのあひだ
をあみめのやうにわたる風もたのしげな
群衆 そのなかのあかるい少女
も かれの
こころを掻き鳴らすことはできない
生きた肉体 ふりそそぐやうな愛撫
もかれの魂を決定することができない
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていったが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである
秘事にかこまれて胸を
ながれるのはなしとげられないかもしれないゆめ
飢えてうらうちのない情事かれは紙のうへに書かれるものを耻ぢてのち
未来へ出で立つ

(異数の世界へおりてゆく)






 〈詩は必要だ。詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない〉。
 平成24年3月16日午前2時13分、東京・日本医科大学病院で肺炎のため死んだひとりの詩人吉本隆明の倫理である。共同の幻想としての国家を描いた『共同幻想論』は団塊世代、特に全共闘世代に熱狂的に支持され、「新左翼」の教祖的存在となって強い影響を与え、〈戦後最大の思想家〉、〈知の巨人〉、あるいは〈最後の批評家〉とも評されてはいるが、吉本自身は〈自分は一貫して詩人だ〉と誇らかに語っていたのだった。



 

 築地本願寺別院和田堀廟所、隆明の祖父母が天草から新佃島に移り住んで、築地本願寺の熱心な檀徒になった縁から設置が許されたという佃島住民のための佃墓地。白々とした小さな墓が建っていた。白御影の荒削り碑面、朝の日をまぶしく浴びて刻み文字も読み辛く、「吉本家之墓」と辛うじて認識することができたものの定かではない。
 墓前には吉本ファンが高じて作ってしまった吉本公認直筆顔写真入りのラベルを付けた清酒「横超」がデンと置かれている。
 〈市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。〉といった「庶民」吉本隆明の面目躍如といったところか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


     横瀬夜雨

    横溝正史

    横光利一

  与謝野晶子・ 鉄幹

    吉井 勇

    吉岡 実

    吉川英治

    吉川幸次郎

    吉武輝子

    吉田一穂

    吉田健一

    吉田絃二郎

    吉野作造

  吉野せい・三野混沌

    吉野秀雄

    吉野 弘

    吉原幸子

    吉村 昭

    吉本隆明

    吉屋信子

    吉行淳之介

    吉行理恵

    依田學海

    米原万里