歌合戦:できごと4
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第31回(昭和55年)
- ドラマ「3年B組金八先生」で人気者となった田原俊彦が初出場。
応援として同ドラマで共演し当時「たのきんトリオ」と呼ばれていた近藤真彦、野村義男が登場。
「哀愁でいと」の2コーラス目は3人で歌った。
近藤真彦の初出場は翌年。
野村義男は歌手としての出場はないが、のちに第47回(平成8年)の近藤真彦や、第50回(平成11年)以降浜崎あゆみのバックにギタリストとして何度も出演することになる。
- ちなみに、金八先生こと武田鉄矢がいた海援隊もこの年出場しているが、海援隊登場時にたのきんトリオの応援はなし。
武田鉄矢の紹介の際、司会の山川静夫アナウンサーは「3年白組金八先生」と言っていた。
民放ドラマのタイトルを歌合戦の舞台で使うことができなかった時代だろうか。
単に歌合戦に合わせてアレンジしただけか。
- 前年落選した高田みづえが「私はピアノ」の大ヒットで返り咲き。
曲に入る前に太田裕美と八神純子によるピアノの連弾で「潮騒のメロディ」(前年からこの年にかけての高田みづえの別のヒット曲)が一節演奏された。
- このとき紅組司会の黒柳徹子が八神純子を「八代さん」と紹介し、高田みづえがあわてて訂正。
- 初出場したロス・インディオス&シルヴィアのシルヴィアに対して、黒柳徹子が「今日はどうしてもお母様に対して歌いたいそうで…」と話しているところに水前寺清子が割り込み、ブラジルから届けられた花を紹介した。
結局シルヴィアが母親に対して歌いたかった理由は聞けずじまい。
- 第39回(昭和63年)にローラースケートでさっそうと初出場する光GENJIに先駆けて、太田裕美がローラースケートをはいて歌った。
NHK側から要求されたのではなく、自分から言い出したらしいが、自力で滑っていたというよりは、周囲にサポートされて何とか滑っていたという印象。
- この年の音楽賞レースは五木ひろし対八代亜紀で「五八戦争」と言われた。
歌合戦の前にあった日本レコード大賞は八代亜紀が受賞。
この年の歌合戦は先攻・後攻を本番中に決めるという趣向で、トリが五木ひろし、大トリが八代亜紀となった。
そして紅組が優勝。
どちらも紅組に持っていかれたため、紅組司会の黒柳徹子は白組関係者からすごくにらまれたらしいが、気分がよかったとか。
第32回(昭和56年)
- この年から第37回(昭和61年)まで紅組先攻でスタート。
毎回トップバッターの歌手を囲んで女性歌手が踊った。
- 西田敏行は自分の歌の後、桜田淳子の歌の途中まで残って、ダンスを披露。
- この年から会場の観客が全員審査に赤色か白色のうちわを見せることで参加するようになった。
限られた時間の中で、会場のそれぞれの色のうちわの数を正確に計算するための「日本野鳥の会」と、集計結果をその場で暗算するための「珠算日本一」が登場。
第33回(昭和57年)
- この年は当時としては珍しく、なつメロや他人の歌もOKだったため、半分近くの歌手がこの年に発表していない歌や持ち歌でない歌を歌った。
- サザンオールスターズの桑田佳佑は三波春夫の真似と称して着物に白塗りで登場。
「ありがとうございます」「(お客様は)神様です」などの言葉をちりばめて歌った。
当時としてはあまりに過激なパフォーマンスに会場は静まり返ったらしい。
曲のラストではメンバーの一人が桑田の股間に顔を埋めていたようだが、さすがにアップでは放送されなかった。
- 自分の持ち歌ではなく、イルカの「なごり雪」を歌った榊原郁恵は間奏で突如不安そうな顔になる。
2番の歌詞を忘れてしまったようで、そのまま2番が始まり、最初は意味不明の言葉で歌っていたが、程なく歌詞を思い出した。
- 噂によると、この年の至上命題は「年間シングル売り上げTOP 3を歌合戦で披露すること」。
1位はあみんの「待つわ」。
あみんは、この年の7月デビュー。
当時としては新人が選出されるか微妙なタイミングながら初出場。
3位の岩崎宏美「聖母たちのララバイ」は民放ドラマの主題歌として大ヒット。
当時は民放ドラマのタイアップ中はNHKの歌番組では歌えなかったが(ここ、自信なし。第22回(昭和47年)に青い三角定規が歌った「太陽がくれた季節」も、当時民放ドラマのタイアップ最中だったみたい)、岩崎宏美が、デビューした年から8回連続出場中の人気歌手ということもあってか、規制緩和で歌えることになり、歌合戦でNHK初披露となった。
残るは、2位の薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」。
薬師丸ひろ子は当時大学受験のため芸能活動を休止中。
歌合戦出場とならず、代わりに桜田淳子が「セーラー服と機関銃」を歌った。
薬師丸ひろ子の歌手としての初出場は第65回(平成26年)まで待つことになる。
第34回(昭和58年)
- この年の11月20日、水前寺清子の父親が他界。
この時既に彼女は自分がトリを務めることをNHKから知らされており、「(本当はNHKの発表があるまで他言してはいけないが)父親に教えていたら、大晦日まで生きていたかもしれない。」と考えることがあるらしい。
- 出産間近のため歌手としての選出を見送られた石川さゆりが大きなおなかで紅組の応援ゲストとして登場。
- ハーフタイムショーの「ビギン・ザ・ビギン」でのこと。
水前寺清子は踊りの際ペアを組んだ千昌夫に足を踏まれたらしい。
第35回(昭和59年)
- この年から3年間、オープニングの出場歌手の入場行進は歌唱順で一組ずつ時間をかけてステージ上を歩く演出だっため、レコード大賞の関係でギリギリに到着したり、間に合わない歌手がいると目立った。
- 沢田研二は、間奏部分で銃声と同時に胸から血が噴き出す仕掛け。
しかし銃声時に噴き出した血の量が思ったより少なかったようで、かなりがっかりしたような表情にも見えた。
- 沢田研二の後に歌った田原俊彦は舞台に残った血で滑って悔しそうな顔。
- 白組司会の鈴木健二アナウンサーやNHKスタッフは、引退直前の都はるみに本来の歌唱曲「夫婦坂」以外にも歌ってもらおうとしたが、都はるみは「夫婦坂」で燃え尽きたい、と固辞。
それでもなんとか歌ってもらいたいと、スタッフに客席に降りて「アンコール」と声をかけるよう頼み、観客の声を誘導したらしい。
- 鈴木健二は、都はるみを説得するため、「私に一分間、時間を下さい」と言ったはいいが、放送時間の関係から一分経つ前に「好きになった人」のイントロが演奏されてしまった。
当然、都はるみは歌う決心が付いておらず、彼女の歌声が聞こえないまま1コーラスが終わり、「アンコール案は大失敗か?」という空気が漂い始めた頃、小さいながらも都はるみの歌う声をマイクが拾い、関係者はほっと一安心。
- 安心したのもつかの間、「好きになった人」の後、総合司会の生方恵一アナウンサーが都はるみを「みそら…」と呼んでしまい、一部で大きな問題となった。
- 「蛍の光」の後、番組終了後には「アンコ椿は恋の花」も歌われた。
このシーンは後年「思い出の紅白歌合戦」でエンディングの代わりに放送されている。
第36回(昭和60年)
- 吉川晃司は自分の歌が終わり、次の歌い手であった河合奈保子のイントロが始まってもステージ中央から去らず、持っているギターに火をつけた。
出るに出れなかった河合奈保子は歌い出しのサビをまるまる1回飛ばすことになり、歌の途中何度も白組側をながめていた。
- さらに、吉川晃司は舞台中央で一度口にした酒を吹き出していた。
河合奈保子の後に歌ったシブがき隊のフッくんはそれが原因でか2回滑っている(2回目はわざと派手にこけたという話もあるし、最初から吉川晃司の計画を知っていたという説もある)。
第37回(昭和61年)
- 司会者とスタッフによる台本読みの稽古でのこと。
紅組司会の斉藤由貴は小柳ルミ子の歌唱曲「乱(らん)」を「みだ」と読んでいた。
狙ったのか天然なのか。
- 黒い交際による出場歌手の変更騒動を受けて、審査員に決まっていた蜷川幸雄が放送当日審査員を辞退。
- 礼儀にうるさい和田アキ子は、自分よりも明らかにキャリアが短い斉藤由貴(紅組司会・出場歌手)と沢口靖子(紅組応援ゲスト)が自分に挨拶に来なかったことが気に入らなかったらしい。
- 白組司会の加山雄三が少年隊の「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と紹介した。
これに動揺したのか、東山紀之は間奏の早がわりで脱ぐはずのズポンが歌いはじめで脱げてしまった。
- 当時アメリカで流行の最先端だったラップによる応援を和田アキ子、小泉今日子、荻野目洋子の3人でやったが、若い2人が恥ずかしがって見ている方も恥ずかしくなるパフォーマンス。
- 菅原洋一はマイクを間違えてしまったらしく、口は動くが歌声は聴こえない状態。
マイクを取り替えてもらって歌声が聴こえるようになると観客席から大きな拍手。
第38回(昭和62年)
- 前年まで連続30回出場の島倉千代子が「30回という数字を汚したくない」と辞退。
三波春夫も「新旧交代の時期」と辞退。
実はNHKから「選出するつもりはないが、辞退すると発表してもよい」と事前連絡があったとか。
水前寺清子も同様の連絡を受けたが「落選で構わない」と断ったとか。
- 第36回、37回と視聴率が急落したため、この年は巻き返し策として、オペラ、シャンソン、民謡、童謡といった幅広いジャンルから出場歌手を選んだ。
- そのとばっちりを食らったのがアイドル勢。
前年出場したうちの4組が姿を消したが、初出場や返り咲きはなし。
特に田原俊彦の落選については抗議の電話が殺到したらしい。
- 司会者と出場歌手による打ち合わせでのこと。
ぼちぼち派手な衣装が板についてきた小林幸子に対して司会の和田アキ子のそばにいた男性(NHKのスタッフ?)が「今年は(曲が『雪椿』だから)人間雪椿みたいな衣装ですか?」と発言。
この時は「人間雪椿って何だ?」と、ギャグとして終わったが(この年の衣装も比較的地味だった)後にギャグでなくなる。
- 紅組トップバッターだった八代亜紀は、台本ではオープニングで紅組トップバッターとして紹介されるまでは舞台上にいるはずだった。
しかし、オープニングから歌唱までのわずかな時間で着替える必要があるため、そのことで頭がいっぱいで、紹介を受ける前に舞台からいなくなってしまったらしい。
第39回(昭和63年)
- この年から出場歌手選考の際にNHKが設けていた「ご意見を伺う会」がなくなったらしい。
- 光GENJI、少年隊が歌入り伴奏テープを使用。
光GENJIは、他の歌番組のようにマイクのスイッチが全く入っていなかったわけではなく、よく聞くと息も絶え絶えに歌う肉声が聴こえたりもする(多分、マイクを落としたらその音が入っただろう)。
少年隊は光GENJIよりもマイクの音量大きめで、生の歌声とテープの歌声が微妙にずれて光GENJIよりも聞き苦しい状態。
- 初のトリに燃えていた小林幸子は、トリに付き物の「大エンディング(曲の終わりに数十秒続くたいそうな演奏)」を楽しみにしていたが、進行が遅れていたためカットされ、普通のエンディングとなったらしい。
小林幸子番組終了後はスタッフから「おかげで時間内に収まった」と感謝されたとか。
第40回(平成元年)
- 紅組司会の三田佳子は和田アキ子に「紅組歌手の中に、知っている歌手が3人しかいない」と言ったらしい。
知っていたのは石川さゆり、小林幸子、和田アキ子あたりか?
- この年から紅白とレコード大賞の時間帯が重なるようになる。
ただし、この年の第1部は「昭和の紅白」だったので、本格的に出場歌手の時間が重なるのは翌第41回から。
- 第1部の「昭和の紅白」では、引退したり、亡くなった歌手の昔の映像も流された。
- 松山恵子に対する会場からの声援が大きくて、ラジオ放送担当のアナウンサーも大声では苦労したらしい。
- 第1部の目玉として、解散したザ・タイガースやピンク・レディーの再結成、そして引退していた都はるみの一夜限りの歌手復帰があった(ピンク・レディーは後にも再結成して返り咲いているし、都はるみも翌年本格的に歌手活動を再開した)。
- 歴代司会者の一人として出演した藤倉修一がお辞儀をしたときに頭にマイクがぶつかった。
- 中山美穂の登場は大きな三面鏡を使い、
- 三面鏡の中が空であることを観客に見せる
- 三面鏡を閉じる(裏から中山美穂が三面鏡の中に入る)
- 三面鏡を一回転させる
- 三面鏡をひらくと三面鏡の中に中山美穂がいる
という演出。
しかし、三面鏡の中が空であることを見せようと鏡が開かれたとき、中山美穂が入るための小さな扉が開いてしまった。
横で立ち会いをしていた和田アキ子は「やってもうたー」という表情。
- この年は歌手名に出身地もあわせて表示されていた(出場回数もあったり、「初出場」だけ表記されたり、年によっていろいろ)。
しかし、初出場の聖飢魔Ⅱには出身地が表示されなかった。
一説では、世を忍ぶ仮の姿での出身地を使おうとしたNHKに対して、聖飢魔Ⅱが「出身地は地獄」と譲らなかったため、出身地の表示がなかったと言われている。
- 第38回(昭和62年)から出場していた韓国のチョー・ヨンピルに加え、韓国からキム・ヨンジャとパティ・キム、香港からアラン・タムが出場。
母国語と日本語を交えて歌った。
第39回(昭和63年)から出場のケー・ウンスクはすべて日本語の歌詞で歌った。