歌合戦:できごと1
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第1回(昭和26年)
- ラジオからトップバッターだった菅原都々子の歌声が流れると、NHKには「紅勝て」「白勝て」という電話が殺到し、電話線がパンクしてしまったらしい。
ちょっと補足すると、当時は電話加入者が少なく、電話局で担当者が手動で交換機の電話線を切り替えていた。
これがNHK宛ての電話が多くなり、担当者が処理しきれなくなり、さらには交換機のヒューズが飛び、電話も繋がらなくなったということ。
第2回(昭和27年)
- 放送当日、出場歌手の松島詩子が会場に向かう途中で、乗っていたタクシーが路面電車と衝突し重傷を負い、出場できなくなった。
代打として指名された越路吹雪はそのとき新年会の真っ最中。
すっかり酔っぱらっていたがちゃんと歌ったらしい。
第3回(昭和28年1月)
- この回までラジオ放送でお正月番組。
ただし、この回はテレビの試験放送も行われていたらしい。
映像が残っていないのが残念。
第4回(昭和28年12月)
- この回からテレビ放送になったことに伴い(?)会場がNHKのスタジオから収容人数の多い日本劇場(日劇)へ移動。
以後、NHKホールが完成する昭和48年まで、日比谷公会堂、産経ホール、東京宝塚劇場、新宿コマ劇場などを渡り歩くことになる。
- 番組中盤の時点で予定時間を13分オーバーしていたらしい。
当時一歌手の平均歌唱時間は2分10秒なので、6組が歌えない計算になる。
司会者のトーク時間を短くするなどして努力したが、どうしても大トリの歌唱時間だけは作り出せず、藤山一郎は1コーラスのみの歌唱となったらしい。
第5回(昭和29年)
- 当時11歳のボーイソプラノ河野ヨシユキが初出場。
ラジオ放送では、間奏部分で「立派な男性です。念のため。」と解説が入った。
第6回(昭和30年)
- この年と翌年、紅組司会を男性の宮田輝アナウンサーが担当したが、客席からのヤジが番組の進行に支障をきたすほどひどかったらしい。
当時は女性歌手から「女性だけで編成されたバンドで紅組の伴奏をして欲しい」という意見が出たこともあったとか。
紅組の応援ゲストとして登場した男性タレントに「男のくせに」というヤジが飛んだこともあったらしい(この年は紅組応援は女性タレントのみだったので、翌年のことかな)。
第7回(昭和31年)
- 初出場の三橋美智也が興奮のため鼻血を出してしまった。
白組司会の高橋圭三アナウンサーは、順番を変えて別の歌手が出てくるかもしれないので「次はこの方です」と歌手名を言わずに紹介したところ、鼻に綿をつめた三橋美智也が出てきて歌ったらしい。
第8回(昭和32年)
- 平凡の人気歌手投票で1位の座から転落した小畑実が引退を決意し、紅白の舞台を最後に引退。
第9回(昭和33年)
- 渡辺はま子の歌唱曲「長崎のお蝶さん」は間奏にオペラ『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」のメロディーが使われている。そのためか、「ある晴れた日に」を一節歌ってから「長崎のお蝶さん」を歌唱した。出場歌手がメドレー形式で歌った初めてのケースかもしれない。
- 民放も裏番組で生放送の歌番組を企画し、歌合戦出場歌手もかけもちで各番組の会場をはしごした。
そのため、次に歌う歌手が歌合戦の会場に到着していないという状況が発生し、司会者が適当に話をして場を持たせた。
パトカーに先導された車に乗って歌手が会場に到着すると「男(女)来ました!」と合図されるため、紅組司会だった黒柳徹子は白組司会の高橋圭三に話を振っている間にスタッフに到着した歌手を確認して曲紹介をしたらしい(黒柳徹子談)。