東海道五十三次を歩き始める
日本橋→品川宿 品川宿→川崎宿 川崎宿→神奈川宿 小田原宿←箱根関所 神奈川宿→保土ヶ谷宿と戸塚宿の間まで 保土ヶ谷宿と戸塚宿の間→藤沢宿まで 藤沢宿→平塚宿まで 平塚宿→JR国府津駅前まで 国府津駅→箱根三枚橋まで 『 東海道五十三次を徒歩で歩いて見ようじゃないですか 』 という、旧友Y君の提案に、8人の男女が賛同しました。 私などは、年齢的に考えても、生きているうちに京都まで着くのは極めて困難と思いましたが、「 とにかく、日本橋から箱根までは必ずやり通し、そこから先はまた改めて・・・ 」 と考え、その一員に加わりました。 その初日 ( 5月7日 )、まず、お江戸日本橋から、品川の宿までの7.8kmを歩きました。 個人的には、本当は川崎の宿場までの17.6kmを1日で歩きたかったのですが、初対面の人たちも多く、各人 ( 平均年齢6?歳 ) の体力がわからないので、第1回は軽く流すことになったのです。 江戸時代、江戸の人々は ( もちろん往復徒歩の ) 日帰りで、川崎大師まで遊山がてらお参りに来たというのに! 最初にお断りしておきますけれど、このページは、これから東海道五十三次を歩こうという方々のご参考になど、全くなりません。 そのためでしたら、種々の書籍のほかに、インターネットの中にも、実に数多くの素晴らしいページがあり、私たちもそれらを参考にさせていただいて歩いています。 それらの中でも特にこの地図なんて、驚異的な力作です。 作ったのはお体も丈夫ではない方らしいけれど、こんな緻密な記録を作れる能力と努力、そして22日連続で歩いて京都まで一気に踏破した根性などには、ただただ感心するばかりです。 一方、私のこのページはただ単に、私どもの記録、覚え書き程度に作っているだけです。 第1日 ![]() それに距離だって、昔の人は、例えば、廣重は1日平均41.3km歩いて12日、土方歳三は平均38.1km歩いて13日で歩き通したそうです ( 毎日歩き続けたのか、それとも途中、何日か休んだか、それはわかりません )。(*1) 「 待てよ。 そうすると、年齢差、体力差、時代の差があったって、私だって1日に20km平均は歩けるよな。 そうすれば30日以内で歩き通せることになる。 原則として月1回と言っていたから、2年半か・・・」 しかし、この獲らぬ狸の皮算用は、上記のように最初から脆くも崩れ去ったのでした。 さて歩き始めることにしましょうか。 ![]() 前々日までの天気予報では、この日は前日の雨が尾を引いて 「 曇り時々雨 」 の筈でしたが、雨の通過が早くなったおかげで 「 曇のち晴 」 となりました。 東京駅から日本橋まで歩いた分、途中芝の増上寺と高輪の泉岳寺に立ち寄り、参観と休憩をした分などを加え、品川宿より更に少し先まで歩いた分もあるので、距離的には7.8kmではなく12kmほど、約2万歩でした。 繁華街なので、交通信号で待たされる時間が馬鹿にならず、時間的には昼食、休憩、写真撮影等を含め4時間40分でした。 ![]() ![]() (*1): 余談ですが、担ぎ手が次々に交替し昼夜を分かたず走り抜ける早駕籠ですと、江戸から京都まで4日で着いたと言います。 当時の超特急新幹線ですね。 (*2): 1952年(昭和27年)、新道路法に基づく路線指定で、第二京浜国道の方が国道1号となり、それまで国道1号だった東京〜横浜間の第一京浜国道は国道15号線となった。 第2日 ![]() いつしか電柱の文字が品川区から大田区にと変わるころ、いくつかの小さな川にかかる橋を渡りますが、その川の水の汚いこと・・・ どれもこれも、もう川ではなく、見るだけで胸の悪くなるような広いドブです。 江戸時代は清く澄んでいたに違いありませんが、地域の自治体や住民の方々は、この水質を一体どう考えていらっしゃるのか、毎日見ていれば慣れてしまい、汚いとも直そうとも思わなくなってしまうものなのか・・・ 東京湾の水質は最近きれいになったと言われますが、この汚水が毎日毎日流れ込んでいるのかと思うと、全くゾッとします。 ![]() 現在はもう海岸線は遠くに去り、街道筋からは見ることは出来ませんが、江戸時代は直ぐそばが海岸でした。 往時の名残か、海苔の問屋さんなどが、道沿いに何軒もあります。 歩道には,当時の情景を描いた腰掛石?がたくさん並んでいます。 そんなことを考えているうちに鈴が森の処刑場跡に着きました。 時代小説などで名前だけはおなじみですが、火あぶり台やはりつけ台の実物を見ると、また印象は強いものです。 ![]() 川を渡ればそこはもう川崎市の繁華街で、すぐに川崎宿の宿場跡に入りますが、品川宿とは違い、往時を偲ぶ碑や建造物はほとんどありません。 街の意識の差でしょう。 鶴見辺りまで行くはずでしたが、川崎駅前で今日の日程を終えることしました。 駅ビルの8Fで飲んだ生ビールの旨かったこと!! 昼食時間を除くと約10kmを3時間半、約2万歩という、数字的にはきわめて軟弱なウォーキングでした。 「 昔の人も凄いけれど、箱根駅伝の選手も偉いね 」 というのが、今日の全員の感想でした。 *1: 国道15号線の歩道は、「 歩行者専用道路 」 なのか、それとも、「 自転車および歩行者専用道路 」 なのだろうか? 前者なら自転車に乗って走ってはならない。 おそらく後者だろうが、その場合は時速10km以下で走行できる。 しかし 「 歩行者が前にいる場合は、一時停止 」 の決まりと共に、この速度制限もまた、ほとんど守られていなかった。 守られていれば、今日私たちがあれほど何度もヒヤッとしたり 「 アッ 」 と叫んだりはしなかったはずだ。 なぜ後ろからチリンチリンと鳴らして接近を教えてくれないのかと思ったが、現在の法規ではこれは禁止されているのだそうだ。 それは知らなかった。 それにしても、自動車と自転車と歩行者とが、安全に共存できる道路がほとんど存在しないこの国は、貧しいとしか言い様がない。 歩道を自転車で飛ばしている若い女性の多くが肥満体だったのは、自分の足で歩くことをしないからではなかろうか。 同じ距離を足で歩くのと自転車に乗るのとでは、後者が1/3しかエネルギーを消費しないから。 第3日 ![]() インターネットで探した懇切丁寧な地図と道中案内のおかげで、順調に歩を進めることが出来、今日は途中の20分の休憩や新子安の駅前での昼食時間を除くと、約2万2千歩、約13km ( 途中、寄り道もしたので ) を3時間半ほどで歩いて、現在の横浜駅の裏手にあたる旧神奈川宿にたどり着き、そこから横浜駅に出て帰途につきました。 神奈川県という名前は、この宿場の名から受け継がれたものだということに改めて気がつきました。 ![]() 一方、今日私たちが歩いた道は、江戸時代には海岸沿いか、時には海の中に在った場所を通っているのでした。 ところが、その後200年ほどの間に、陸地がどんどん海を埋めて行った結果、現在では旧東海道からは、いくら左手に目を凝らしても、海など殆ど見えないのです。 現在の横浜駅周辺や 「 みなとみらい21 」 などは、200年前には海の中だったのです。 そんなことを考え考え歩いた一日でした。 ![]() *2: これもご承知の方が多いとは思いますが、ヘボン博士の名は、Dr. James Curtis Hepburnで、姓はあのオードリー・ヘップバーンと同じです。 日本人は Hepburn をヘップバーンと発音しますが、そんな発音をしても米人にはたぶん通じません。 彼らは 「 ヘッバン 」 と聞こえる発音をします。 江戸時代の日本人たちが彼をヘボンと呼んだのは、むしろ耳に素直で当然の結果でした。 本件に関して、多くのインターネットの記載は 「 当時の日本人はヘップバーンのことをヘボンと聞き誤ったらしい 」 と書いていますが、 事実は全く反対で、「 現在の人は女優オドリ・ヘッバンのことを、素直に耳に従わず文字にとらわれてオードリー・ヘップバーンと発音している 」 と書くべきです。 ( メリケン { American } 粉、カタン { cotton } 糸、プリン { pudding } などもみな同じです ) 番外 ![]() しかも、今回のウォーキングの終着点は小田原宿ではなく、箱根湯本です。 でも、小田原市内と箱根湯本の間は、過去に何度となく歩いたことがあるので、これも年齢に免じて、小田原宿まで歩いたことにしてもらおうという魂胆です。 という次第で、今回は 「 番外 」 としておきました。 貸切バスで8時半に小田原駅を出発、箱根新道経由一路元箱根につき、トイレや準備体操を済ませて歩き始めたのが朝の9時35分でした。 昨日まで何日も続いた40度前後の記録的猛暑が嘘のような、30度以下の曇天、時々小雨も降ってくるという状況でした。 ![]() ![]() コースの半分ほどは江戸時代そのまま、あるいはそれを再現した石畳の細い道です。 くだりの斜面に沿って石畳を構成する石は、多くの場合、直径20〜50cmほどで、表面がほぼ平らな場合はまだよいのですが、お饅頭のように丸かったりもします。 表面が苔で覆われていることが多いので、この日のような小雨ですと、杖をついた上に細心の注意で一歩一歩踏みしめて歩いても、ときどきツルッと滑って転びそうになります。 参加者のうちの多くの人が何度か転んだのではないでしょうか。 私も本格的な靴を穿いていたのに、2回転び尻餅をつきましたが、幸い手のひらのすりむき傷と手首の打撲程度で済みました。 骨折者が出なかったのが幸運なほどで、まさに 「 天下の険 」 でした。 ![]() とにかく、約12km ( 小田原までなら15.6km )、約2万2千歩の、時には険しい下りを降りきるのに4時間もかかったのですから、自慢にも何もならず、しかも、湯本に降りたらフクラハギと 「 すね 」 はパンパンに張ってしまっていて、これは異常な緊張を下肢に与え続けた結果だということが良く分かりました。 (*1): たとえ誰かに手を引かれたにせよ、盲人がこんな歩きにくい急坂を歩いたのでしょうか? でも、他に手段がなければ命がけで歩きとおすしかなかったのでしょう。 「 箱根八里は馬でも越すが・・・ 」 といわれるように、江戸時代、馬に乗せてもらって通っていた婦人が傾斜のきつさのため落馬し、打ち所が悪く死んだため、この名が付いたといいます。 でも、滑りやすい蹄鉄をつけ、人を乗せててこの急坂を登り降りするのでは、馬もさぞかし大変だったろうと思います。 「 一里塚 」 という言葉をよく聞きますが、ただの石の標識なのになぜ 「 塚 」 というのだろうと疑問に思っていました。 今日、畑宿で本来の一里塚というのを見て、初めて合点がゆきました ( 右上の写真 )。 これはお江戸日本橋から23里 ( 92km ) の箱根畑宿で石畳の街道の両側に作られた一里塚の一方です。 塚の直径は通常5間 ( 9m ) あります。 第4日 ![]() 横浜駅で降り、西口から10分ほど歩いて、前回切り上げた場所に着き、歩き始めたのは9時45分でした。 私の体調はというと、一昨日箱根の急坂を12km歩いたことによる脚の疲れは、風呂とマッサージとインドメタシン ( とビール? ) のおかげで何とか回復しているものの、75歳という年齢で 「 中1日の登板 」 は、やはり正直な所、結構きつかったと言えましょう。 おまけに保土ヶ谷宿 ( 程ケ谷とも書く ) を過ぎた後半、箱根駅伝でも名を知られている 「 権太坂 」 が現れ、相当苦しめられました。 ![]() 全員に 「 熱中症になりそうならいつでも中途退場して電車で帰宅してよいですよ 」 と呼びかけ、いつもは1時間に1回の休憩を30分に1回に増やしたりしました。 また、戸塚宿まで行く予定を短縮し、東戸塚駅付近で歩くのを止めました。 6人とも元気に歩き通し、3時間で約9km、約16,000歩でした。 近未来都市のように開発された東戸塚駅前の冷房の利いたビルのレストランで、物凄く量が多く、びっくりするほど安く、味もほどほどな遅い昼食をとり、もちろん、生ビールも2ジョッキ呷って、この日の夏季短縮日程を終了しました。 今日は一里塚を3つ通り過ぎましたが、最初 ( 日本橋から7つ目 ) は石碑のみ。 8つ目は跡地に昔のような土盛りの塚を建設しようと地元が運動中、そして9つ目の品濃 ( しなの ) 一里塚は、宅地造成により一部が削られてはいますが、神奈川県の史跡に指定されたおかげか、昔の塚の形が木立の中に辛うじて残っているという具合でした ( 下の写真 )。 そういえば、今日のコースには、これと言って名を挙げるほどの名所旧跡はありませんでした。 この古いが立派な家は保土ヶ谷宿の街道沿いにある旅籠屋の本金子屋 ( ほんかねこや ) です。 私たちがこうやって4日もかけて歩いた現在のフルマラソンの距離を、江戸時代の若い丈夫な男たちは、( 保土ヶ谷宿の女たちが 「 戸塚まで行かず、ここに泊ってお行きよ 」 と袖を引く中を振り切って ) たった1日で戸塚まで歩いたそうです。 次回は涼風のたち始める頃、東戸塚から藤沢の宿場まで歩く予定です。 ![]() ![]() 第5日 ![]() 道の途中には江戸時代の石仏群があちこちに残っているほか、古い芭蕉の句碑などもいくつかありました。 珍しい巨木もありました。 石仏は元禄 ( 1700年頃 ) から文政 ( 1820年頃 ) までのいろいろな時代にかけてのもので、その多くは 「 庚申塔 」 です。 台座には 「 見ざる、聞かざる、言わざる 」 の三猿がいて、その上に6本の腕を持ち、剣や八方手裏剣?をふりかざした憤怒の形相の青面金剛 ( しょうめんこんごう )* の立像があるものが普通です。 私の住んでいる市にも、昔の街道筋に同じものがあります。 三猿は、人の悪事を神様に報告しないで欲しいと願う意味があるとか・・・ 国会議事堂や社保庁にも、以前は庚申塔があったのに、最近取り除いたので悪事が次々に表沙汰になったのではないかという説もあるそうです。 前回も痛感したことですが、この東戸塚から戸塚にかけての旧東海道沿いの地域の最近の開発は、実にすさまじいものです。 2002年から2005年あたりにかけて、ここを歩いた方々の書いた幾つかのホームページを参考に、私たちは歩いているのですが 「 ここが横浜市内とは思えない静かな自然・・・ 」 などという記述を読んで期待していると、 巨木の茂った美しい緑の丘を何台ものブルドーザーが轟音をあげて崩していたりしていて、そのたびに強い落胆、激しい怒りを覚えます。 戸塚は昔は富塚と表記されていたことも知りました。 実際、郵便局やマンションなどが、富塚の文字を現在も使用していました。 一里塚は、今日の行程ではすべて消失しており、3カ所中2カ所で、質素な看板が、そこに昔一里塚が在ったと記しているだけでした。 最後にお彼岸の中日で人出の多い遊行寺に詣でて今日の日程を終え、藤沢駅に向いました。 遊行寺のあたりは藤沢宿の江戸側の端 ( 江戸見附 ) にあたり、昔の藤沢の宿場の中心部分 ( 本陣 ) から京都側の端 ( 上方見付 ) にかけては、次回の最初に歩くことになります。 ![]() ![]() *: 青面金剛は庚申様や道祖神と一体となって信仰されるそうです。 神道、民俗、道教、仏教、陰陽五行思想などが渾然一体になった信仰といわれます。 青面金剛は帝釈天の使いで、元来は疫病をもたらす悪神の首領格なのですが、 江戸時代に爆発的に流行した 「 庚申待ち 」 という民間の宗教行事では、逆に病魔や災難を遠ざけるための鬼神として重用され、信仰の対象となり崇拝されたそうです。 一方、庚申塚は庚申信仰に基づいて建立されています。 庚申信仰は江戸時代から続く民間信仰で、 庚申塚とはその 「 庚申様 」 を信仰する講中の人々が供養のために建てた石塔や像を納めた堂のことで、道の交差する辻や寺の庭などに建てられました。 庚申は十干の 「 庚 ( かのえ ) 」 と十二支の 「 申 ( さる ) 」 が組み合わさった干支で、庚申の年は60年に一度あり、西暦年が60で割り切れる年がたまたま庚申の年です。 庚申塚といわれる供養塔はそのほとんどが庚申の年に建てられているようです。 上の写真のいちばん右の碑にも 「 庚申講中 」 の文字が見えます。 第6日 ![]() ![]() 藤沢宿が終るあたりでは、ちょっと横道に入って永勝寺に立ち寄り、四十数基の 「 飯盛女 」 の墓を見ました。 由来その他については写真の中の説明をご覧ください。 また、その近くには、片瀬に捨てられ漂着した義経の首を洗ったと伝えられる井戸がありました ( 写真下左 )。 義経にまつわる伝説は本当に日本中にたくさんありますね。 茅ケ崎市に入ると、国道1号線の繁華な交差点に、江戸時代の一里塚が半分ほど残っているのを目にしましたが、こういうものは是非いつまでも残してほしいと思います ( 写真下右 )。 平塚市に入る手前では、有名な 「 左富士 」* が見られる南湖の鳥井戸橋を渡りましたが、今日は快晴なのに、残念ながら富士山の方角にだけ雲がかかっていて、見ることができませんでした。 さらに進んで小出川の橋を渡る手前には、関東大震災の際の地層の隆起のために、それまで水田だったところに、700年前の鎌倉時代の旧相模川の橋脚が現れたという場所があり、その7、8本の橋脚の保存工事の真っ最中でした。 橋脚は工事中のため、青いシートで包まれており、見ることはできませんでした。 工事が完成したら、ぜひ見に行きたいと思います。 国の史跡に指定されているとは言え、震災から84年もたった今頃、復元補修工事をやるとは遅すぎるように思いますが、古い遺跡を残そうという気運とお金が、現在ようやく出来つつあるという事なのでしょうか。 それにしても、昔は平塚ってこんなに田舎だったんですかね。 驚きました。 とにかく、何もないんですから ( 下の浮世絵 )。 ![]() ![]() ![]() *: 東海道を江戸から京都に向かって歩いて行く場合、富士山は右側に見えるものですが、道の曲り具合によっては、左側に見えることが稀にあります。 左富士のうちでは静岡県の吉原と、ここ茅ケ崎の南湖のものが有名で、共に広重により描かれています。 第7日 ![]() 歩き始めてすぐ、右側の春日神社には平塚という地名の起源について記した塚と碑がありました。 詳しくは写真をご覧ください。 今日の旧東海道コースは、ほとんどすべてが現在の国道1号線そのもので、したがって交通量は多く、風情などほとんど有りません。 老年及び熟年の男女たちは、ただひたすら、広い国道沿いの歩道を黙々と歩き続けるばかりでした。 大磯一の美女であった虎御前がこの井戸の水で毎日化粧したという井戸の跡がある化粧坂 ( けわいざか ) を過ぎ、大磯駅を右手に見るあたりが昔の大磯宿ですが、このあたりの松並木の中には、周囲4mほどもある、江戸時代からのものと推測される松の巨木も散見されます ( 下の写真 )。 なお、左の広重の版画では地名は大磯ではなく大礒という字で書かれています。* 左手の延台寺に立ち寄り、虎御前とその恋人の曽我十郎についての記念碑を見ました。 やがて左手に西行法師の 「 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 」 という有名な和歌で知られる鴫立庵が現れます。 私は50年近く前、新婚当時大磯に住んでいたので、ここはしょっちゅう散歩に来ていた懐かしい場所です。 ![]() 滄浪閣が明治時代に建てられた伊藤博文公の別邸であったことはよく知られていますが、もともとは小田原に建てられたもので、のちに大磯に移ったという事は、案外知られていません。 このあたりの経緯の詳細については、ここをご覧ください。 滄浪閣は長いことプリンスホテルが所有する中華レストランでした。 私も昔何度か食事をしました。 最近営業をやめて売りに出され、大磯町が歴史的建造物としてこれを買い取ろうとしたものの、値段の折り合いがつかず、 結局、今年3月末に某民間企業に買い取られたとのことです。 現在は廃墟のような淋しい状態でした。 私たちはその後もひたすら歩き、ときどき脇道の旧道に入りながらも、主に国道1号線を辿って、二宮を経て国府津の駅前まで来て、今日の日程を終えました。 約13.3kmですが、何度も脇道に入って付近の史跡を訪ねたため、実質は15kmほど歩いたことでしょう。 この距離を、正味4時間半ほど、約25,000歩で歩きました。 次回はいよいよ小田原宿に入り箱根山のふもとの箱根湯本まで歩く予定です。 ![]() ![]() *: インターネットで情報を調べていると、大礒と大磯の両方が、特に意識的にというわけでもなく両方とも混然と使われていて、ずいぶんと無神経な感じがします。 ひとつの記事の中で両方を特に理由もなく交互にほぼ同数用いているなどといういい加減なのも多く見られます。 磯と礒は、漢和辞典で調べると、ほとんど同じ意味ですが、一方が他方の簡略体というわけではありません。 地名だって人名同様、異なるどちらの字でも良いなどということはありません。 江戸時代はともかく、現在は国土地理院の地図もJRの駅名も町の公式ホームページも大磯ですから、大礒は避けるべきでしょう。 第8日 いよいよ今年最後の区間です。 東海道最大の難関である箱根の登りの入り口までということで、JR国府津駅前から箱根湯本の三枚橋までの約14mを歩きました。 メンバーは全員この界隈に何十年も居住する人たちなので、小田原城その他コースの途中にある名所旧跡は過去に訪ねたことがあるものばかりですし、沿道の景色は見慣れているし、後半はそれこそ、わき目も振らずにただただ歩くという感じでした。 それでも、「 へえ、こんな所にこんな碑が立っていたの! 」 と驚くようなことも数回ありました。*1 印象的な古いお寺もいくつか拝観しました。 車で百回以上も前を通っているのに全く気付かなかった老舗の古〜い建物が現在も営業しているのを見つけたりもしました。 また、旧東海道は現在の1号線そのものとばかり思っていたのに、数百メートル、時には1km以上も1号線から逸れて、狭い道路にしばらく入ったりする事に改めて感心したりもしました。 こういう旧道沿いには、まさか江戸時代ではないにせよ、明治か大正のころ建ったのではないかと思われるような民家や商店の建物がいくつもありました。 地元に何十年も住んでいるのに、こういう印象深い新発見は結構あるものです。 ![]() ![]() 酒匂川は、六郷川や馬入川などの 「 船渡し 」 とは異なり、「 徒歩 ( かち ) 渡し 」 と言って、歩いて渡ったようです。 身分の高い人や体力のない人は馬渡し、蓮台渡しなどの方法も使いました。*2 下左の絵では、大名が大高欄蓮台という立派な蓮台に乗っているほか、槍持ちは人足の肩車で渡っています。 広重の残したいくつもの浮世絵には、これら以外にも種々の渡り方が、はっきりと描かれています。 また、徒歩渡しだからと言って、どこを渡っても良いわけではなく、幕府が定めた場所以外での渡河は厳重に禁止されていました。 ![]() ![]() この浮世絵でもうひとつ興味があるのは、こんな遠くからでも、小田原城が城壁の最下部まですっかり見えていることと、その左の小田原の街が、現在なら田舎の小集落という程度の規模であるという事です。 その周囲は田んぼかどうかすら怪しく、ただの草原のようにも見えます。 他の絵から見ても、当時の水深は男性の胸くらいまであったようです。 現在は平常はせいぜい腰くらいまでではないでしょうか。 ![]() *1: 明治時代の小田原の人車鉄道と軽便鉄道についてお知りになりたい方は、ここをご覧下さい。 *2: 前にも書きましたが、小田原市の下水道のマンホールには、身分の高い女性が蓮台に乗って酒匂川を渡ってゆく光景が描かれています。( 右上の写真 ) |