東海道五十三次を歩き始める

京都まで歩きとおせるとは到底思えませんが、とにかく参加してみました



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目次

日本橋→品川宿 品川宿→川崎宿  川崎宿→神奈川宿 小田原宿←箱根関所  神奈川宿→保土ヶ谷宿と戸塚宿の間まで
保土ヶ谷宿と戸塚宿の間→藤沢宿まで  藤沢宿→平塚宿まで 平塚宿→JR国府津駅前まで  国府津駅→箱根三枚橋まで

 箱根以降は、新しい次のページをご覧下さい。

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 『 東海道五十三次を徒歩で歩いて見ようじゃないですか 』 という、旧友Y君の提案に、8人の男女が賛同しました。 私などは、年齢的に考えても、生きているうちに京都まで着くのは極めて困難と思いましたが、「 とにかく、日本橋から箱根までは必ずやり通し、そこから先はまた改めて・・・ 」 と考え、その一員に加わりました。 その初日 ( 5月7日 )、まず、お江戸日本橋から、品川の宿までの7.8kmを歩きました。 個人的には、本当は川崎の宿場までの17.6kmを1日で歩きたかったのですが、初対面の人たちも多く、各人 ( 平均年齢6?歳 ) の体力がわからないので、第1回は軽く流すことになったのです。  江戸時代、江戸の人々は ( もちろん往復徒歩の ) 日帰りで、川崎大師まで遊山がてらお参りに来たというのに

 最初にお断りしておきますけれど、このページは、これから東海道五十三次を歩こうという方々のご参考になど、全くなりません。 そのためでしたら、種々の書籍のほかに、インターネットの中にも、実に数多くの素晴らしいページがあり、私たちもそれらを参考にさせていただいて歩いています。 それらの中でも特にこの地図なんて、驚異的な力作です。 作ったのはお体も丈夫ではない方らしいけれど、こんな緻密な記録を作れる能力と努力、そして22日連続で歩いて京都まで一気に踏破した根性などには、ただただ感心するばかりです。 一方、私のこのページはただ単に、私どもの記録、覚え書き程度に作っているだけです。

第1日
2007年5月7日(月曜) 日本橋→品川宿 参加者:男4名+女3名 天候:曇のち晴

 小田原始発8:21のJRに乗り、東京駅には9:49着。 歩いて日本橋に着いたのが10時過ぎ。 記念写真を撮ったり、なんだかんだで、歩き始めたのが10:20。  ♪ お江戸日本橋七つ ( 午前4時頃 ) 発ち・・・♪ と歌われているように、昔は未明のうちから提灯を点けて歩き出したそうですが、それに比べたら随分とイージーな私たちです。

 それに距離だって、昔の人は、例えば、廣重は1日平均41.3km歩いて12日、土方歳三は平均38.1km歩いて13日で歩き通したそうです ( 毎日歩き続けたのか、それとも途中、何日か休んだか、それはわかりません )。(*1) 「 待てよ。 そうすると、年齢差、体力差、時代の差があったって、私だって1日に20km平均は歩けるよな。 そうすれば30日以内で歩き通せることになる。 原則として月1回と言っていたから、2年半か・・・」  しかし、この獲らぬ狸の皮算用は、上記のように最初から脆くも崩れ去ったのでした。 さて歩き始めることにしましょうか。

 私は今回調べて知るまでは、現在の国道1号線を歩くものだとばかり思っていましたが、日本橋からの旧東海道は、現在の国道15号線なんですね。 その15号線とは、よく知られた銀座通り ( または中央通り ) のことです。 これに対し日本橋から西北西に皇居の方向に進み大手町の交差点で外堀に突き当たって左折するのが現在の1号線 ( 第2京浜国道 ) で、旧東海道よりも内陸側を通っています (*2)。 私たちの歩いた15号線 ( 第1京浜国道 ) は、日本橋→銀座→新橋とデパートの並ぶ賑やかな道を南南西に向かっており、浜松町までは一本道です。 その先も分かれたりまた合流したりはしますが、旧東海道は基本的には15号線沿いに通っています。

 前々日までの天気予報では、この日は前日の雨が尾を引いて 「 曇り時々雨 」 の筈でしたが、雨の通過が早くなったおかげで 「 曇のち晴 」 となりました。 東京駅から日本橋まで歩いた分、途中芝の増上寺と高輪の泉岳寺に立ち寄り、参観と休憩をした分などを加え、品川宿より更に少し先まで歩いた分もあるので、距離的には7.8kmではなく12kmほど、約2万歩でした。 繁華街なので、交通信号で待たされる時間が馬鹿にならず、時間的には昼食、休憩、写真撮影等を含め4時間40分でした。

 道を間違えることもなく、幸い全員元気に歩き通し ( 当たり前か? )、第1回としては成功でした。 男性たちは京浜急行で横浜に出て祝宴をあげ喉の渇きを癒したので、体重削減という目的については不成功でしたが・・・

 廣重の描いた浮世絵を見ると、この旧街道の左脇はもう海だったのですね。 そして、一番手前では女郎たちが旅人たちに呼びかけています。 それにしても、こんな吹けば飛ぶような安普請の小屋の中で彼女らは働いていたのでしょうか。 もちろん、今はそれらしきものの影すらなく 「 タンパク質の摂取量もはるかに少ないだろうに、何十kmも歩いた後でも彼女らを相手に出来た昔の男性たちの体力って凄いなぁ 」 とバカなことを感心している私が、疲れた足を引きずって歩いているのでした。

(*1): 余談ですが、担ぎ手が次々に交替し昼夜を分かたず走り抜ける早駕籠ですと、江戸から京都まで4日で着いたと言います。 当時の超特急新幹線ですね。

(*2): 1952年(昭和27年)、新道路法に基づく路線指定で、第二京浜国道の方が国道1号となり、それまで国道1号だった東京〜横浜間の第一京浜国道は国道15号線となった。

第2日
2007年6月18日(月曜) 品川宿→川崎宿 参加者:男2名+女4名 天候:曇のち晴

 初回は軽く流して・・・と書きましたが、2回目も軽く流してしまいました。 この調子では、今後も毎回軽く流すことになるでしょう。 繰り返しますが、これから東海道を歩こうと志す方にとって、何のご参考にもならないこのページです。 「 JR東海道線の8:31小田原発の先頭車両に乗る 」 と決めていたら、15両編成でなく10両編成だったため、慌ててホームを後ろの方に向かって走ったけれど、ドアが閉まってしまい、乗れなかったなどという、ちょっと間の抜けたミスなどもあり、10時に歩き始める筈のところが10時半スタートになってしまいました。 前回歩き終えた京浜急行青物横丁駅の近くから今日は歩き始めました。

 いつしか電柱の文字が品川区から大田区にと変わるころ、いくつかの小さな川にかかる橋を渡りますが、その川の水の汚いこと・・・ どれもこれも、もう川ではなく、見るだけで胸の悪くなるような広いドブです。 江戸時代は清く澄んでいたに違いありませんが、地域の自治体や住民の方々は、この水質を一体どう考えていらっしゃるのか、毎日見ていれば慣れてしまい、汚いとも直そうとも思わなくなってしまうものなのか・・・ 東京湾の水質は最近きれいになったと言われますが、この汚水が毎日毎日流れ込んでいるのかと思うと、全くゾッとします。

 第一京浜国道の歩道は田舎の車道ほどもある道幅ですが、そこをビュンビュンと、前からも後ろからも自転車が通り過ぎるので、全員が何度もヒヤリとしました。 とくになぜか肥満体の若い女性の運転者が多く、あの重量物にぶつけられたら、もうただでは済まないだろうという恐怖感がありました。*1 翌19日の新聞に、最近自転車による歩行者の負傷が急増したこと、2年先には自転車の歩道通行が全面的に禁止されるだろうという予想などが書かれていましたが、さりとてこれらの自転車がすべて車道を通ったら、今度は自動車と自転車との事故が急増することでしょう。 難しい問題です。

 現在はもう海岸線は遠くに去り、街道筋からは見ることは出来ませんが、江戸時代は直ぐそばが海岸でした。 往時の名残か、海苔の問屋さんなどが、道沿いに何軒もあります。 歩道には,当時の情景を描いた腰掛石?がたくさん並んでいます。 そんなことを考えているうちに鈴が森の処刑場跡に着きました。 時代小説などで名前だけはおなじみですが、火あぶり台やはりつけ台の実物を見ると、また印象は強いものです。

 京浜急行蒲田駅前の商店街で、2グループに別れて1時間弱の昼食をとった後、ふたたび前進。 遂に道は六郷川に突きあたります。 長い橋の歩道を渡り終わる頃、私たちは武蔵の国を出て相模の国に入りました。 眼下の河川敷の草むらは、現在は青いシートで出来た住宅街になっています。 住民たちはそろそろすごい蚊に悩まされていることだろうなと、他人事ながら気になります。

 川を渡ればそこはもう川崎市の繁華街で、すぐに川崎宿の宿場跡に入りますが、品川宿とは違い、往時を偲ぶ碑や建造物はほとんどありません。 街の意識の差でしょう。 鶴見辺りまで行くはずでしたが、川崎駅前で今日の日程を終えることしました。 駅ビルの8Fで飲んだ生ビールの旨かったこと!! 昼食時間を除くと約10kmを3時間半、約2万歩という、数字的にはきわめて軟弱なウォーキングでした。 「 昔の人も凄いけれど、箱根駅伝の選手も偉いね 」 というのが、今日の全員の感想でした。

*1: 国道15号線の歩道は、「 歩行者専用道路 」 なのか、それとも、「 自転車および歩行者専用道路 」 なのだろうか? 前者なら自転車に乗って走ってはならない。 おそらく後者だろうが、その場合は時速10km以下で走行できる。 しかし 「 歩行者が前にいる場合は、一時停止 」 の決まりと共に、この速度制限もまた、ほとんど守られていなかった。 守られていれば、今日私たちがあれほど何度もヒヤッとしたり 「 アッ 」 と叫んだりはしなかったはずだ。 なぜ後ろからチリンチリンと鳴らして接近を教えてくれないのかと思ったが、現在の法規ではこれは禁止されているのだそうだ。 それは知らなかった。 それにしても、自動車と自転車と歩行者とが、安全に共存できる道路がほとんど存在しないこの国は、貧しいとしか言い様がない。

 歩道を自転車で飛ばしている若い女性の多くが肥満体だったのは、自分の足で歩くことをしないからではなかろうか。 同じ距離を足で歩くのと自転車に乗るのとでは、後者が1/3しかエネルギーを消費しないから。

第3日
2007年7月16日(月曜) 川崎宿→神奈川宿 参加者:男3名+女4名 天候:曇

 台風4号が過ぎ去った翌日、曇で陽射しもなく、時々涼しい風が吹くという、絶好のウォーキング日和でした。 川崎駅に9時半に降り立つまでは何事もなかったのですが、「 海の日 」 の駅前の雑踏でお互いを見失い、携帯電話のおかげで迷子にならずに済んだものの、歩き始めたのは10時という不始末でした。

 インターネットで探した懇切丁寧な地図と道中案内のおかげで、順調に歩を進めることが出来、今日は途中の20分の休憩や新子安の駅前での昼食時間を除くと、約2万2千歩、約13km ( 途中、寄り道もしたので ) を3時間半ほどで歩いて、現在の横浜駅の裏手にあたる旧神奈川宿にたどり着き、そこから横浜駅に出て帰途につきました。 神奈川県という名前は、この宿場の名から受け継がれたものだということに改めて気がつきました。


 今日のコース沿いには、特別の観光施設もなく、歴史で習った 「 生麦事件 」 の跡や、ローマ字 (*1) で今も恩恵を受けているヘボン博士 (*2) の施療所跡などが主な寄り道でした。 帰りの東海道線の電車の先頭に、横浜−国府津間列車開通120周年という札が付いていましたが、たった120年前には、まだ自分の足で歩くしかなかった道を、次回からは私たちは歩くことになります。 120年という歳月を長いと思うか、短いと感じるかは、その人次第でしょうが、75歳の私にとっては、ついこの間のことのように思えるのです。

 一方、今日私たちが歩いた道は、江戸時代には海岸沿いか、時には海の中に在った場所を通っているのでした。 ところが、その後200年ほどの間に、陸地がどんどん海を埋めて行った結果、現在では旧東海道からは、いくら左手に目を凝らしても、海など殆ど見えないのです。 現在の横浜駅周辺や 「 みなとみらい21 」 などは、200年前には海の中だったのです。 そんなことを考え考え歩いた一日でした。


*1: 現在でも、私たち日本人は、ヘボン博士とは切っても切れないご縁があるのです。 ご承知のように、パスポートに記載されるローマ字の氏名は、ヘボン式ローマ字で表記する ( たとえば、シは si ではなく shi 、ツは tu ではなく tsu ) ということに、法律で決まっています。 私たちの海外旅行は彼とは深いご縁で結ばれていると言えます。

*2: これもご承知の方が多いとは思いますが、ヘボン博士の名は、Dr. James Curtis Hepburnで、姓はあのオードリー・ヘップバーンと同じです。  日本人は Hepburn をヘップーンと発音しますが、そんな発音をしても米人にはたぶん通じません。 彼らは 「 ッバン 」 と聞こえる発音をします。  江戸時代の日本人たちが彼をヘボンと呼んだのは、むしろ耳に素直で当然の結果でした。 本件に関して、多くのインターネットの記載は 「 当時の日本人はヘップバーンのことをヘボンと聞き誤ったらしい 」 と書いていますが、 事実は全く反対で、「 現在の人は女優ドリ・ッバンのことを、素直に耳に従わず文字にとらわれてオードリー・ヘップバーンと発音している 」 と書くべきです。 ( メリケン { American } 粉、カタン { cotton } 糸、プリン { pudding } などもみな同じです )

番外
2007年8月18日(土曜) 小田原宿←箱根関所 参加者:男女計52名 天候:曇ときどき小雨

 矢印の向きに気がついた方はいらっしゃいますか? 本来なら京都に向かって小田原宿から元箱根の関所へと歩くべきところを、逆向きに歩いています。 急坂の登りは歩かず、元箱根までバスで登り、そこから小田原に向かって下ってきたのです。 要するにズルです。 実は、いつものグループではない、別のウォーキングのグループが、この催しを計画したので参加したのでした。

 しかも、今回のウォーキングの終着点は小田原宿ではなく、箱根湯本です。 でも、小田原市内と箱根湯本の間は、過去に何度となく歩いたことがあるので、これも年齢に免じて、小田原宿まで歩いたことにしてもらおうという魂胆です。 という次第で、今回は 「 番外 」 としておきました。 貸切バスで8時半に小田原駅を出発、箱根新道経由一路元箱根につき、トイレや準備体操を済ませて歩き始めたのが朝の9時35分でした。 昨日まで何日も続いた40度前後の記録的猛暑が嘘のような、30度以下の曇天、時々小雨も降ってくるという状況でした。

  
 
左:「 昼なお暗き杉の並木 」 江戸時代なら突然山賊が現れてもおかしくない。  右:「 石畳の一例 」

 コースの半分ほどは江戸時代そのまま、あるいはそれを再現した石畳の細い道です。 くだりの斜面に沿って石畳を構成する石は、多くの場合、直径20〜50cmほどで、表面がほぼ平らな場合はまだよいのですが、お饅頭のように丸かったりもします。  表面が苔で覆われていることが多いので、この日のような小雨ですと、杖をついた上に細心の注意で一歩一歩踏みしめて歩いても、ときどきツルッと滑って転びそうになります。 参加者のうちの多くの人が何度か転んだのではないでしょうか。 私も本格的な靴を穿いていたのに、2回転び尻餅をつきましたが、幸い手のひらのすりむき傷と手首の打撲程度で済みました。 骨折者が出なかったのが幸運なほどで、まさに 「 天下の険 」 でした。

 勾配は結構きつく、「 座頭転ばし 」、「 猿滑坂 」、「 女転がし坂 」 (*1) など、怖い名前の急坂が続きます。 時々元気の良い若者が登って来るのに出会いましたが、その数は極めて少なく、老若男女が続々と往き来した江戸時代の人たちの脚はなんと丈夫だったことかと、改めて驚きました。 わらじは、案外こういう道を歩いても滑らないのかと思う一方、雨の日は膝まで泥に浸かったとか、当初は竹が敷かれていたがすぐに腐るので幕府が巨費を投じて石畳にしたとかいう立て札の解説を読むと、この歩きにくい石畳の道ですら、当時としては立派なインフラだったのかと気づきます。

 とにかく、約12km ( 小田原までなら15.6km )、約2万2千歩の、時には険しい下りを降りきるのに4時間もかかったのですから、自慢にも何もならず、しかも、湯本に降りたらフクラハギと 「 すね 」 はパンパンに張ってしまっていて、これは異常な緊張を下肢に与え続けた結果だということが良く分かりました。

(*1): たとえ誰かに手を引かれたにせよ、盲人がこんな歩きにくい急坂を歩いたのでしょうか? でも、他に手段がなければ命がけで歩きとおすしかなかったのでしょう。 「 箱根八里は馬でも越すが・・・ 」 といわれるように、江戸時代、馬に乗せてもらって通っていた婦人が傾斜のきつさのため落馬し、打ち所が悪く死んだため、この名が付いたといいます。 でも、滑りやすい蹄鉄をつけ、人を乗せててこの急坂を登り降りするのでは、馬もさぞかし大変だったろうと思います。

 「 一里塚 」 という言葉をよく聞きますが、ただの石の標識なのになぜ 「 塚 」 というのだろうと疑問に思っていました。 今日、畑宿で本来の一里塚というのを見て、初めて合点がゆきました ( 右上の写真 )。 これはお江戸日本橋から23里 ( 92km ) の箱根畑宿で石畳の街道の両側に作られた一里塚の一方です。 塚の直径は通常5間 ( 9m ) あります。

第4日
2007年8月20日(月曜) 神奈川宿→保土ヶ谷宿と戸塚宿の間まで 参加者:男3名+女3名 天候:晴

 猛暑の中、照り返しの激しい舗装道路を、それほど若くもない?女性たちと、結構年とった男性たちが無理して歩く事もないんじゃないかという声もありましたが、江戸時代と違い、熱中症が心配なら中断して途中のどこからでも電車に乗って帰宅できるわけだし、「 無理しない範囲で歩いてみますか・・・ 」 ということになりました。

 横浜駅で降り、西口から10分ほど歩いて、前回切り上げた場所に着き、歩き始めたのは9時45分でした。 私の体調はというと、一昨日箱根の急坂を12km歩いたことによる脚の疲れは、風呂とマッサージとインドメタシン ( とビール? ) のおかげで何とか回復しているものの、75歳という年齢で 「 中1日の登板 」 は、やはり正直な所、結構きつかったと言えましょう。 おまけに保土ヶ谷宿 ( 程ケ谷とも書く ) を過ぎた後半、箱根駅伝でも名を知られている 「 権太坂 」 が現れ、相当苦しめられました。


 天気予報は外れて、32度よりも高くなったらしいのですが、温度がどうこうよりも、舗装道路の照り返しと、道の両側を埋める家並みが風を遮っていることとが、私たちを苦しめました。 この点では、上の浮世絵に描かれているような江戸時代の方が、ずっと楽だったろうなと思います。

 全員に 「 熱中症になりそうならいつでも中途退場して電車で帰宅してよいですよ 」 と呼びかけ、いつもは1時間に1回の休憩を30分に1回に増やしたりしました。 また、戸塚宿まで行く予定を短縮し、東戸塚駅付近で歩くのを止めました。 6人とも元気に歩き通し、3時間で約9km、約16,000歩でした。 近未来都市のように開発された東戸塚駅前の冷房の利いたビルのレストランで、物凄く量が多く、びっくりするほど安く、味もほどほどな遅い昼食をとり、もちろん、生ビールも2ジョッキ呷って、この日の夏季短縮日程を終了しました。

 今日は一里塚を3つ通り過ぎましたが、最初 ( 日本橋から7つ目 ) は石碑のみ。 8つ目は跡地に昔のような土盛りの塚を建設しようと地元が運動中、そして9つ目の品濃 ( しなの ) 一里塚は、宅地造成により一部が削られてはいますが、神奈川県の史跡に指定されたおかげか、昔の塚の形が木立の中に辛うじて残っているという具合でした ( 下の写真 )。 そういえば、今日のコースには、これと言って名を挙げるほどの名所旧跡はありませんでした。 この古いが立派な家は保土ヶ谷宿の街道沿いにある旅籠屋の本金子屋 ( ほんかねこや ) です。

 私たちがこうやって4日もかけて歩いた現在のフルマラソンの距離を、江戸時代の若い丈夫な男たちは、( 保土ヶ谷宿の女たちが 「 戸塚まで行かず、ここに泊ってお行きよ 」 と袖を引く中を振り切って ) たった1日で戸塚まで歩いたそうです。 次回は涼風のたち始める頃、東戸塚から藤沢の宿場まで歩く予定です。

 

右が道の右側の一里塚、左は道の左側の一里塚。 共に、荒れ果て、一部は削りとられ、哀れな姿に成り果てていました。


第5日
2007年9月24日(月曜) 保土ヶ谷宿と戸塚宿の間→藤沢宿まで 参加者:男3名+女4名 天候:曇

 JR東戸塚駅で降り、前回、近未来都市のようだと形容した駅ビル街+高層マンションの集合体を抜けて、再び旧街道筋に立ち戻った私たちは、いきなり驚くことになりました。 というのは、旧東海道がいきなり途絶え、階段と歩道橋を使って環状2号線の上を跨がないと向こう側の旧東街道に渡れないからです。  その後は、国道1号線を歩いたと思うとまた離れて細い旧道に入り・・・を何度も繰り返しながら、とにもかくにも一路、戸塚宿経由藤沢宿へと歩き続けました。 悪運が強いのか、それとも心がけが良いのか、私たちは5回目の今日も含め、まだ一度も雨に見舞われていません。 それどころか、先週より7〜8度は低いと思われる爽快な気温のもと、約14km、2万5千歩ほどを、4時間かけて全員元気に歩ききりました。 昼食時のビールも、前回は大ジョッキ2杯だったのに、今回は中ジョッキ1杯でした。 それほど気温の差があったわけです。

 道の途中には江戸時代の石仏群があちこちに残っているほか、古い芭蕉の句碑などもいくつかありました。 珍しい巨木もありました。 石仏は元禄 ( 1700年頃 ) から文政 ( 1820年頃 ) までのいろいろな時代にかけてのもので、その多くは 「 庚申塔 」 です。 台座には 「 見ざる、聞かざる、言わざる 」 の三猿がいて、その上に6本の腕を持ち、剣や八方手裏剣?をふりかざした憤怒の形相の青面金剛 ( しょうめんこんごう )* の立像があるものが普通です。 私の住んでいる市にも、昔の街道筋に同じものがあります。  三猿は、人の悪事を神様に報告しないで欲しいと願う意味があるとか・・・ 国会議事堂や社保庁にも、以前は庚申塔があったのに、最近取り除いたので悪事が次々に表沙汰になったのではないかという説もあるそうです。

 前回も痛感したことですが、この東戸塚から戸塚にかけての旧東海道沿いの地域の最近の開発は、実にすさまじいものです。 2002年から2005年あたりにかけて、ここを歩いた方々の書いた幾つかのホームページを参考に、私たちは歩いているのですが 「 ここが横浜市内とは思えない静かな自然・・・ 」 などという記述を読んで期待していると、 巨木の茂った美しい緑の丘を何台ものブルドーザーが轟音をあげて崩していたりしていて、そのたびに強い落胆、激しい怒りを覚えます。

 戸塚は昔は富塚と表記されていたことも知りました。 実際、郵便局やマンションなどが、富塚の文字を現在も使用していました。 一里塚は、今日の行程ではすべて消失しており、3カ所中2カ所で、質素な看板が、そこに昔一里塚が在ったと記しているだけでした。 最後にお彼岸の中日で人出の多い遊行寺に詣でて今日の日程を終え、藤沢駅に向いました。 遊行寺のあたりは藤沢宿の江戸側の端 ( 江戸見附 ) にあたり、昔の藤沢の宿場の中心部分 ( 本陣 ) から京都側の端 ( 上方見付 ) にかけては、次回の最初に歩くことになります。

 


*: 青面金剛は庚申様や道祖神と一体となって信仰されるそうです。 神道、民俗、道教、仏教、陰陽五行思想などが渾然一体になった信仰といわれます。 青面金剛は帝釈天の使いで、元来は疫病をもたらす悪神の首領格なのですが、 江戸時代に爆発的に流行した 「 庚申待ち 」 という民間の宗教行事では、逆に病魔や災難を遠ざけるための鬼神として重用され、信仰の対象となり崇拝されたそうです。 一方、庚申塚は庚申信仰に基づいて建立されています。 庚申信仰は江戸時代から続く民間信仰で、 庚申塚とはその 「 庚申様 」 を信仰する講中の人々が供養のために建てた石塔や像を納めた堂のことで、道の交差する辻や寺の庭などに建てられました。  庚申は十干の 「 庚 ( かのえ ) 」 と十二支の 「 申 ( さる ) 」 が組み合わさった干支で、庚申の年は60年に一度あり、西暦年が60で割り切れる年がたまたま庚申の年です。 庚申塚といわれる供養塔はそのほとんどが庚申の年に建てられているようです。 上の写真のいちばん右の碑にも 「 庚申講中 」 の文字が見えます。

  第6日
2007年10月22日(月曜) 藤沢宿→平塚宿まで 参加者:男3名+女2名 天候:晴

 藤沢駅を降り、前回の終点である遊行寺の前まで10分ほど歩いた後、今日の目的地平塚宿に向って歩き始めたのがちょうど9時半でした。 今日の行程は今までのうちで一番長く、16km近く、JRの駅で3つ分です。 幸い秋晴れの涼しい日和だったし、坂もほとんどないので、約28,000歩を4時間足らずで歩くことができました。  舗装された歩道を歩いていると、上水道、下水道などのマンホールが沢山あります。 その鉄の鋳物でできたマンホールのふたには、各自治体ごとの、いろいろ工夫したデザインが施されていることに、あらためて気が付きました。

 藤沢市のものは、その名の通り藤の花のデザインでした。 茅ケ崎市に入ると、それは松並木が入ったデザインに変わります。 平塚市のものは、ほんの少ししか今日は歩かなかったので、まだ確認していません。  ちなみに、小田原市のものには、江戸時代の旅人が、橋のない酒匂川を渡るときの情景が描かれています。 蓮台 ( れんだい ) の上にはお姫様のような女性が坐っており、2人 ( 4人のはずだが、後ろの2人は見えない ) の人足が担いでいます。

 藤沢宿が終るあたりでは、ちょっと横道に入って永勝寺に立ち寄り、四十数基の 「 飯盛女 」 の墓を見ました。 由来その他については写真の中の説明をご覧ください。 また、その近くには、片瀬に捨てられ漂着した義経の首を洗ったと伝えられる井戸がありました ( 写真下左 )。 義経にまつわる伝説は本当に日本中にたくさんありますね。

 茅ケ崎市に入ると、国道1号線の繁華な交差点に、江戸時代の一里塚が半分ほど残っているのを目にしましたが、こういうものは是非いつまでも残してほしいと思います ( 写真下右 )。  平塚市に入る手前では、有名な 「 左富士 」* が見られる南湖の鳥井戸橋を渡りましたが、今日は快晴なのに、残念ながら富士山の方角にだけ雲がかかっていて、見ることができませんでした。

 さらに進んで小出川の橋を渡る手前には、関東大震災の際の地層の隆起のために、それまで水田だったところに、700年前の鎌倉時代の旧相模川の橋脚が現れたという場所があり、その7、8本の橋脚の保存工事の真っ最中でした。  橋脚は工事中のため、青いシートで包まれており、見ることはできませんでした。 工事が完成したら、ぜひ見に行きたいと思います。 国の史跡に指定されているとは言え、震災から84年もたった今頃、復元補修工事をやるとは遅すぎるように思いますが、古い遺跡を残そうという気運とお金が、現在ようやく出来つつあるという事なのでしょうか。  それにしても、昔は平塚ってこんなに田舎だったんですかね。 驚きました。 とにかく、何もないんですから ( 下の浮世絵 )。


 



*: 東海道を江戸から京都に向かって歩いて行く場合、富士山は右側に見えるものですが、道の曲り具合によっては、左側に見えることが稀にあります。 左富士のうちでは静岡県の吉原と、ここ茅ケ崎の南湖のものが有名で、共に広重により描かれています。

第7日
2007年11月26日(月曜) 平塚宿→JR国府津駅前まで 参加者:男4名+女4名 天候:晴

 出発点がだんだんとメンバーたちの自宅に近くなってきたので、朝歩き始める時間も次第に早くなり、今日は、JR平塚駅前の旧平塚宿跡をゆっくり見学ながら、午前9時過ぎにはもう元気に出発することができました。  つい3回ほど前には、猛暑と舗装道路からの照り返しで、フラフラしながら歩いていたのがまるで嘘のように、今日は晩秋というか初冬の小春日和というか、とにかく涼しくて汗も出ないほどの快適な天候でした。

 歩き始めてすぐ、右側の春日神社には平塚という地名の起源について記した塚と碑がありました。 詳しくは写真をご覧ください。

 今日の旧東海道コースは、ほとんどすべてが現在の国道1号線そのもので、したがって交通量は多く、風情などほとんど有りません。 老年及び熟年の男女たちは、ただひたすら、広い国道沿いの歩道を黙々と歩き続けるばかりでした。  大磯一の美女であった虎御前がこの井戸の水で毎日化粧したという井戸の跡がある化粧坂 ( けわいざか ) を過ぎ、大磯駅を右手に見るあたりが昔の大磯宿ですが、このあたりの松並木の中には、周囲4mほどもある、江戸時代からのものと推測される松の巨木も散見されます ( 下の写真 )。  なお、左の広重の版画では地名は大磯ではなく大礒という字で書かれています。* 

 左手の延台寺に立ち寄り、虎御前とその恋人の曽我十郎についての記念碑を見ました。  やがて左手に西行法師の 「 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 」 という有名な和歌で知られる鴫立庵が現れます。 私は50年近く前、新婚当時大磯に住んでいたので、ここはしょっちゅう散歩に来ていた懐かしい場所です。

 ここからほど近い場所に 「 湘南 」 という地名の由来を記した碑がありました。 中国の洞庭湖のほとりに湘江という川があり、その南側にある土地に、この湘南地域が似ていたので、湘南と名づけられたのだそうです。 左側に滄浪閣があります。

 滄浪閣が明治時代に建てられた伊藤博文公の別邸であったことはよく知られていますが、もともとは小田原に建てられたもので、のちに大磯に移ったという事は、案外知られていません。 このあたりの経緯の詳細については、ここをご覧ください。  滄浪閣は長いことプリンスホテルが所有する中華レストランでした。 私も昔何度か食事をしました。 最近営業をやめて売りに出され、大磯町が歴史的建造物としてこれを買い取ろうとしたものの、値段の折り合いがつかず、 結局、今年3月末に某民間企業に買い取られたとのことです。 現在は廃墟のような淋しい状態でした。

 私たちはその後もひたすら歩き、ときどき脇道の旧道に入りながらも、主に国道1号線を辿って、二宮を経て国府津の駅前まで来て、今日の日程を終えました。 約13.3kmですが、何度も脇道に入って付近の史跡を訪ねたため、実質は15kmほど歩いたことでしょう。 この距離を、正味4時間半ほど、約25,000歩で歩きました。  次回はいよいよ小田原宿に入り箱根山のふもとの箱根湯本まで歩く予定です。

 

*: インターネットで情報を調べていると、大礒と大磯の両方が、特に意識的にというわけでもなく両方とも混然と使われていて、ずいぶんと無神経な感じがします。  ひとつの記事の中で両方を特に理由もなく交互にほぼ同数用いているなどといういい加減なのも多く見られます。 磯と礒は、漢和辞典で調べると、ほとんど同じ意味ですが、一方が他方の簡略体というわけではありません。  地名だって人名同様、異なるどちらの字でも良いなどということはありません。 江戸時代はともかく、現在は国土地理院の地図もJRの駅名も町の公式ホームページも大磯ですから、大礒は避けるべきでしょう。

第8日
2007年12月17日(月曜) 国府津駅前→箱根三枚橋まで 参加者:男4名+女2名 天候:晴

 いよいよ今年最後の区間です。 東海道最大の難関である箱根の登りの入り口までということで、JR国府津駅前から箱根湯本の三枚橋までの約14mを歩きました。 メンバーは全員この界隈に何十年も居住する人たちなので、小田原城その他コースの途中にある名所旧跡は過去に訪ねたことがあるものばかりですし、沿道の景色は見慣れているし、後半はそれこそ、わき目も振らずにただただ歩くという感じでした。  それでも、「 へえ、こんな所にこんな碑が立っていたの! 」 と驚くようなことも数回ありました。*1  印象的な古いお寺もいくつか拝観しました。 車で百回以上も前を通っているのに全く気付かなかった老舗の古〜い建物が現在も営業しているのを見つけたりもしました。

 また、旧東海道は現在の1号線そのものとばかり思っていたのに、数百メートル、時には1km以上も1号線から逸れて、狭い道路にしばらく入ったりする事に改めて感心したりもしました。 こういう旧道沿いには、まさか江戸時代ではないにせよ、明治か大正のころ建ったのではないかと思われるような民家や商店の建物がいくつもありました。 地元に何十年も住んでいるのに、こういう印象深い新発見は結構あるものです。

 

 酒匂川は、六郷川や馬入川などの 「 船渡し 」 とは異なり、「 徒歩 ( かち ) 渡し 」 と言って、歩いて渡ったようです。 身分の高い人や体力のない人は馬渡し、蓮台渡しなどの方法も使いました。*2 下左の絵では、大名が大高欄蓮台という立派な蓮台に乗っているほか、槍持ちは人足の肩車で渡っています。 広重の残したいくつもの浮世絵には、これら以外にも種々の渡り方が、はっきりと描かれています。  また、徒歩渡しだからと言って、どこを渡っても良いわけではなく、幕府が定めた場所以外での渡河は厳重に禁止されていました。

 

 この浮世絵でもうひとつ興味があるのは、こんな遠くからでも、小田原城が城壁の最下部まですっかり見えていることと、その左の小田原の街が、現在なら田舎の小集落という程度の規模であるという事です。  その周囲は田んぼかどうかすら怪しく、ただの草原のようにも見えます。 他の絵から見ても、当時の水深は男性の胸くらいまであったようです。 現在は平常はせいぜい腰くらいまでではないでしょうか。

 今日は、途中あちこち見物しながらですので15kmほどになり、約22,000歩、3時間20分で歩きました。 箱根湯本の三枚橋で正規のウォーキングを終了したのち、全員でベゴニア園の近くのそば屋で忘年会を兼ねた昼食を食べ、来年のプランを相談して今日は解散しました。  それにしても、日本橋から90km、「 よくぞ歩いた! 」 とも言えるし、昔の人なら2日とちょっとで歩く距離を8日もかかったとは情けないとも言えます。  ところで、今回小休止をした小田原市内のあるお寺の門に、右のような訓戒の文章が掲示されていました。面白いのでご紹介しておきます。

*1:  明治時代の小田原の人車鉄道と軽便鉄道についてお知りになりたい方は、ここをご覧下さい。

*2:  前にも書きましたが、小田原市の下水道のマンホールには、身分の高い女性が蓮台に乗って酒匂川を渡ってゆく光景が描かれています。( 右上の写真 )

この続きは毎回書き加えて行きます。
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