- 『続日本紀』『日本紀略』『日本後紀』『公卿補任』『意見十二箇条』から、大伴家持に関連する全記事を抜き出しました。
- 底本の本文に句読点などを適宜付加し、また一部は改変しました。
- 底本における旧字体は新字体に改めました。
- JIS第二水準までに含まれない漢字には、字義や形体の近い借字を宛て{ }で囲みました。正しい表記の説明は以下の通りです。
{猿} 旁は「爰」。
{備} 旁は上「夂」下「用」。
{窃} 足は「兪」。
{欸} 偏は上「ヒ」下「矢」。
{殺} 「」(「殺」の異体字)。
{檢} 偏は手偏。
{決} 偏はにすい。
{僻} 偏は手偏。
続日本紀
『新訂増補国史体系 續日本紀』前後編(吉川弘文館 刊)に拠る。
- 745(天平17)年1.7
乙丑、天皇御大安殿、宴五位以上。詔、授従四位上大伴宿禰牛養従三位。(中略)正六位上石川朝臣名人・県犬養須奈保・大伴宿禰古麻呂・大伴宿禰家持、並従五位下。
(注)正史における大伴家持の初見。この年正月1日、聖武天皇は紫香楽宮における新京建設を公けにしており、この叙位も紫香楽宮において行われたもの。当日は正月節会にあたり、定例の叙位である。なお、当時の家持の官職は不明。万葉集によれば、少なくとも天平16年2月までは内舎人だったと見える。
- 746(天平18)年3.10
壬戌、以正五位上平群朝臣広成、為式部大輔。正五位上橘宿禰奈良麻呂、為民部大輔。正五位下石川朝臣麻呂、為宮内大輔。従五位下大伴宿禰家持、為少輔。
(注)宮内少輔に遷任された。宮内省は宮中に関する用度・料地、その他大小の庶務を司る。少輔は定員一名、従五位下相当官。当時の宮内卿は石川王か。
- 同年6.21
壬寅、以従五位下石川朝臣名人、為内蔵頭。従五位下引田朝臣虫麻呂、為木工頭。従五位下物部依羅朝臣人会、為信濃守。従五位下藤原朝臣宿奈麻呂、為越前守。従五位下大伴宿禰家持、為越中守。
(注)越中国守(正六位下相当)に任官。当時の越中は能登半島を含む大国であり、渤海国との関係から外交・防衛上重視され、また大規模な東大寺領の墾田開発計画地を抱える、政治・経済的に重要な土地であった。その意味で、前職の宮内少輔と較べても栄誉ある遷任と言える。東大寺墾田の開発は家持に与えられた重要な使命の一つであった。
- 749(天平勝宝1)年4.1
夏四月甲午朔、天皇幸東大寺、御盧舎那仏像前殿、北面対像。皇后・太子並侍焉。群臣百寮及士庶、分頭行列殿後。(中略)授正三位巨勢朝臣奈弖麻呂従二位。従三位大伴宿禰牛養、正三位。従五位下百済王敬福、従三位。従四位上佐伯宿禰浄麻呂・佐伯宿禰常人、並正四位下。従四位下阿倍朝臣沙弥麻呂・橘宿禰奈良麻呂・多治比真人占部、並従四位上。従五位下藤原朝臣永手、従四位下。従五位上大伴宿禰稲公、正五位下。従五位下大伴宿禰家持・佐伯宿禰毛人、並従五位上。正六位上藤原朝臣千尋・藤原朝臣縄麻呂・佐伯宿禰靺鞨、正六位下藤原朝臣真従、並従五位下。
(注)聖武天皇は建造途上の東大寺に赴き、「三宝の奴と仕へ奉る」と盧舎那仏を拝し、黄金産出を報告した。この詔で、三国真人(継体の後裔、または母系氏族。越前の豪族)・石川朝臣(もと蘇我氏)・鴨朝臣(大国主の後裔、大神氏と同祖)・伊勢大鹿首(天児屋根命の後裔)・橘三千代の孫(橘奈良麻呂など)の位階を上げる旨あり、続けて大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内兵(うちのいくさ)と心の中のことはなも遣はす」と誉め讃えた。
- 754(天平勝宝6)年4.5
夏四月庚午、以従五位上中臣朝臣清麿、為神祇大副。従五位下秋篠王・粟田朝臣人成、並為少納言。従四位上大伴宿禰古麿、為左大弁。外従五位下日置造真卯、為紫微中臺少忠。従五位下当麻真人子老、為雅楽頭。従五位下石川朝臣名人、為民部大輔。従五位下石川朝臣豊人、為主税頭。従五位上大伴宿禰家持、為兵部少輔。
(注)兵部少輔(従五位下相当)に任官。続紀には見えないが、万葉集によれば家持はこれより先天平勝宝3年7月、越中守から少納言(従五位下相当)に遷任されている。なお当時の兵部卿は橘奈良麻呂か。
- 同年11.1
十一月辛酉朔、任巡察使。以従四位上池田王、為畿内使。従五位下紀朝臣小楫、為東海道使。従五位下藤原朝臣武良自、為北陸道使。従五位上大伴宿禰家持、為山陰道使。従五位下阿倍朝臣毛人、為山陽道使。従五位下多治比真人木人、為南海道使。従四位上紀朝臣飯麿、為西海道使。道別録事一人。
(注)山陰道の巡察使に任官。程なく山陰地方に旅立ち、各国を巡行したはず。
- 757(天平宝字1)年6.16
壬辰、以従三位石川朝臣年足、為神祇伯。正四位下橘朝臣奈良麻呂、為左大弁。正五位下粟田朝臣奈勢麻呂、為兼左中弁。越前守如故。正五位上大倭宿禰小東人、為紫微大忠。従五位下田口朝臣御直、為大監物。従三位文屋真人智努、為治部卿。従五位下大原真人今城、為少輔。従五位上藤原朝臣宿奈麻呂、為民部少輔。従五位下石川朝臣君成、為主税頭。従三位石川朝臣年足、為兵部卿。神祇伯如故。従五位上大伴宿禰家持、為大輔。従五位上藤原縄麻呂、為少輔。
(注)藤原仲麻呂による、兵部省・五衛府を中心とする大幅な人事異動。橘奈良麻呂・大伴古麻呂・賀茂角足ら反対派の中心人物を追放・左遷し、穏健派の石川年足らを重用した。家持がこのとき兵部大輔(正五位下相当官)に任じられているのは、彼が当時は反仲麻呂派とは見なされなかったことを示すと思われる。なお万葉集によればこの年12月には右中弁(正五位上相当官)とあり、奈良麻呂の変の前後に兵部大輔から転任したと判る。
- 758(天平宝字2)年6.16
丙辰、以従四位上佐伯宿禰毛人、為常陸守。参議従三位文屋真人智努、為出雲守。従五位上大伴宿禰家持、為因幡守。
(注)因幡国守(従五位下相当)に降格。前職の右中弁から較べれば、左遷に近い人事であったと思われる。この年八月には大炊王が即位(淳仁天皇)。
- 762(天平宝字6)年1.9
戊子、以信部少輔従五位下紀朝臣牛養、為少納言。従五位上阿倍朝臣毛人、為左中弁。従四位下石川朝臣豊成、為右大弁。従五位上大伴宿禰家持、為信部大輔。
(注)因幡守から信部(中務)大輔に遷任。信部大輔は正五位上相当。前任者は高麗福信。信部卿は当時氷上塩焼、この年12月には藤原真楯に替わる。信部省(中務省)は禁中の政務、詔勅宣命、位記、諸国の戸籍などを司り、最も重んじられた役所。中宮職・左右大舎人寮・図書寮・内蔵寮・縫殿寮・陰陽寮・内匠寮、画工司・内薬司・内礼司を管す。
- 同年9.30
九月乙巳、御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。詔、遣摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人、信部大輔従五位上大伴宿禰家持、弔賻之。
(注)御史大夫(大納言)石川年足が薨じ、家持らが弔問に派遣された。年足は薨伝に率性廉勤、出雲守などで治績を残す、読書を好み別式二十巻を著す、などとある。また江戸時代に摂津国で発掘された墓誌銘には、京宅に薨じ、この年12月に摂津国島上郡に葬られたとある。なお袖中抄・人麿勘文などが伝える「万葉五巻抄」序の記事によれば、天平勝宝5年2月、「左大臣橘卿之東家」で諸卿大夫が宴を催し、古歌について論じた際、左大臣の問い(「あさもよひ…あがもへる君」という歌の歌意について)に、式部卿石川卿(年足)が答えたとある。政務ばかりでなく和歌にも通じた人だったらしい。
- 764(天平宝字8)年1.21
己未、以正五位下山村王、為少納言。(中略)従四位上佐伯宿禰毛人、為大宰大弐。従五位上石川朝臣宅嗣、為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人、為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂、為豊前守。従五位上大伴宿禰家持、為薩摩守。
(注)前年の恵美押勝暗殺未遂事件に連座した廉で左遷された。薩摩国の等級は中国、国守は正六位下相当。翌765(天平神護1)年2月5日には大宰少弐紀広純を薩摩守に左遷する記事があり、家持の任期はほぼ一年。
- 767(神護景雲1)年8.29
丙午、(中略)正五位上淡海真人三船・従五位上大伴宿禰家持、並為大宰少弐。
(注)大宰少弐は従五位下相当。なお淡海三船はこの年六月巡察使等を解任され、左遷としての任官。家持は天平神護元年2月の薩摩守解任から、二年ぶりの任官か(その間、任官の記事なし)。家持にとって大宰府に住むのは天平3年以来37年ぶり。当時の大宰帥は石川豊成、大弐は藤原北家楓麻呂。この年の続紀には大宰府について「この府は人物殷繁にして天下の一都会なり」とあり、当時の繁栄が彷彿される。なお万葉集16/3860〜3877の筑前・豊前・豊後の民謡採集を家持の大宰少弐在任中と考え、巻十六の編纂を神護景雲年間以後とみる説がある(武智雅一)。
- 770(宝亀1)年6.16
丁未、以従五位下息長真人道足、為大監物。正四位下田中朝臣多太麻呂、為民部大輔。従五位上大伴宿禰家持、為少輔。
(注)大宰少弐から民部少輔に遷任された。続紀に確認できる限りでは、六年ぶりの京官。民部省は戸口、田畑、山川、道路、租税のことなどを掌る。卿は中務卿・式部卿に次いで重んじられる。少輔は従五位下相当。当時の民部卿は藤原南家縄麻呂。
- 同年9.16
乙亥、以従五位下石川朝臣真守、為少納言。従五位下大伴宿禰家持、為左中弁兼中務大輔。
(注)前月称徳天皇が崩御し、白壁王が即位(光仁天皇)。左中弁・中務大輔ともに正五位上相当官で、前職から三階分の昇進。左中弁は中務・式部・治部・民部の四省を管轄、太政官内を糺判し、被管諸司の宿直を監することを掌る。前任は藤原式家雄田麻呂(のちの百川)。当時の左大弁は佐伯今毛人。左少弁は小野石根(老の子)か。また家持が中務大輔に就くのは二度目(前回は天平宝字6年1月より翌年3月頃まで)。当時の中務卿は中納言文屋大市が兼任(翌年、山部親王が任官)。
- 同年10.1
宝亀元年冬十月己丑朔、即天皇位於大極殿。改元宝亀。(中略)授従一位藤原朝臣永手正一位。従三位大中臣朝臣清麻呂・文屋真人大市・石川朝臣豊成・藤原朝臣魚名・藤原朝臣良継、並正三位。従五位上奈紀王、正五位下。无位河内王・従五位下掃守王、並従五位上。従四位上藤原朝臣田麻呂・藤原朝臣雄田麻呂、並正四位下。従四位下阿倍朝臣毛人・藤原朝臣継縄・藤原朝臣楓麻呂・藤原朝臣家依、並従四位上。正五位下大伴宿禰三依、従四位下。従五位上阿倍朝臣浄成・大伴宿禰家持・大伴宿禰駿河麻呂・佐伯宿禰三野・藤原朝臣雄依、並正五位下。従五位下佐伯宿禰国益・石上朝臣家成・大野朝臣真本・藤原朝臣小黒麻呂、並従五位上。正六位上巨勢朝臣公足、従五位下。正六位下村国連子老、外従五位下。
(注)光仁天皇即位と改元に伴う叙位。家持にとっては749(天平21)年以来21年ぶりの昇叙。
- 771(宝亀2)年11.25
丁未、授従五位下壱志濃王従四位下。(中略)正五位上大伴宿禰駿河麻呂・正五位下大伴宿禰家持・正五位上石上朝臣息嗣、並従四位下。
(注)光仁天皇即位大嘗祭における奉仕に対する叙位。大伴氏は楯鉾を立てたり開門に従事したりと、この儀式において重要な役目を担っていた。家持は同時に昇叙された大伴氏のうち唯一人二階昇叙されており、最も大きな功があったと知れる。
- 772(宝亀3)年2.16
左中弁従四位下大伴宿禰家持、為兼式部員外大輔。
(注)左中弁に式部員外大輔を兼ねた。式部省は朝廷の儀式、文官の考課・選叙を掌り、学校を管し、秀才・明経の貢人を策試する。大学寮・散位寮の二寮を管轄。当時の式部卿は石上宅嗣。式部大輔は藤原北家家依(永手の子)。
*この年正月十三日・五月廿日付の太政官符における家持の署名(「家持」のみが自筆)が現存する。石川県の文化財―書跡・典籍のページを参照されたい。
- 774(宝亀5)年3.5
従四位下大伴宿禰家持、為相模守。
(注)左中弁兼式部員外大輔から相模守に遷任。相模国は上国、守は従五位下相当。半年後には左京大夫に任じられているので、現地赴任はしなかったか。
- 同年9.4
従四位下大伴宿禰家持、為左京大夫。(中略)左京大夫従四位下大伴宿禰家持、為兼上総守。
(注)相模守から左京大夫に遷任され、上総守を兼ねた。左京大夫は正五位上相当、左京の行政司法を掌る地方官。重職のため上総には赴任しなかったはず。
- 775(宝亀6)年11.27
丁巳、以参議従三位大蔵卿藤原朝臣楓麻呂、為兼摂津大夫。左少弁従五位上小野朝臣石根、為兼中衛少将。従四位下大伴宿禰家持、為衛門督。
(注)左京大夫兼上総守から衛門督に遷任された。左右衛門府は宮城門を衛り、その出入りを巡検する官職(令外官)で、督はその長官、正五位上相当。部下に佐・尉・志、及び府生・番長・府掌・門部(200人)・物部(30人)・左右衛士(各600人)がいる。軍事上の要職である。
- 776(宝亀7)年3.6
従四位下大伴宿禰家持、為伊勢守。
(注)衛門督から伊勢国守に遷任された。伊勢は大国、守は従五位上相当。前任者は藤原鷲取。この時の介は紀古佐美。家持は兼任でないので伊勢に赴任したはず。伊勢国府は現鈴鹿市。
- 777(宝亀8)年1.7
従四位下大伴宿禰家持・石上朝臣息嗣、並従四位上。
(注)正月の節会における叙位。
- 同年9.18
丙寅、内大臣勲四等藤原朝臣良継薨。平城朝参議正三位式部卿大宰帥馬養之第二子也。天平十二年、坐兄広嗣謀反、流于伊豆。十四年、免罪補少判事。十八年、授従五位。歴職内外、所在無績。太師押勝、起宅於楊梅宮南、東西構楼、高臨内裏。南面之門、便以為櫓。人士側目、稍有不臣之譏。于時押勝之男三人、並任参議。良継位在子姪之下、益懐忿怨。乃与従四位下佐伯宿禰今毛人・従五位上石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持等、同謀欲害太師。於是右大舎人弓削宿禰男広、知計以告太師。即皆捕其身、下吏験之、良継対曰、良継独為謀首。他人曽不預知。於是強劾大不敬。除姓奪位。居二歳、仲満謀反、走於近江。即日奉詔、将兵数百、追而討之、授従四位下勲四等。尋補参議、授従三位。宝亀二年、自中納言拝内臣、賜職封千戸。専政得志、升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈従一位。遣中納言従三位物部朝臣宅嗣・従四位下壱師濃王、弔之。
(注)藤原良継の薨伝。763(天平宝字7)年3月か4月頃にあったと思われる恵美押勝暗殺計画の存在が初めて明らかにされている。家持は佐伯今毛人・石上宅嗣らと共にこの謀略に参加したが、罪は良継が独り被る形になり、他のメンバーは軽い処分で済んだらしい。もっとも家持は翌年薩摩守に左遷されている。
- 778(宝亀9)年1.16
癸亥、宴五位已上。其儀如常。是日、従五位上矢口王・菅生王・三関王、並授正五位下。従四位上大伴宿禰家持、正四位下。
(注)宴は大射(おおいくは)の際催されたものか。但し叙位は正月定例のものであったと思われる。
- 780(宝亀11)年2.1
二月丙甲朔、以中納言従三位石上朝臣宅嗣、為大納言。参議従三位藤原朝臣田麻呂・参議兵部卿従三位兼左兵衞督藤原朝臣継縄、並為中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿禰家持・右大弁従四位下石川朝臣名足・陸奥按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純、並為参議。
(注)参議を拝命し、初めて議政官の一員となった。八日後には伊勢守から右大弁に遷任されており、家持の政治的地位は著しく躍進した。当時の議政官は以下の通り。
・右大臣 大中臣清麻呂
・内大臣 藤原北家魚名
・大納言 石上宅嗣
・中納言 式家田麻呂 南家継縄
・参 議 南家弟縄(乙縄) 南家是公 北家小黒麻呂 大伴伯麻呂
大伴家持 紀広純(同年三月没、代わって神王) 石川名足
京家浜成 北家家依
- 同年2.9
甲辰、以参議正四位下大伴宿禰家持、為右大弁。(中略)参議従四位下石川朝臣名足、為伊勢守。
(注)伊勢守から右大弁に遷任し、間もなく帰京したと思われる。右大弁は従四位上相当、兵部・刑部・大蔵・宮内を管掌する。前任者は石川名足。左大弁と共に行政執行の中枢とも言える要職である。
- 781(天応1)年2.17
丙午、三品能登内親王薨。遣右大弁正四位下大伴宿禰家持・刑部卿従四位下石川朝臣豊人等、監護喪事。
(注)能登内親王は光仁天皇と高野新笠の子。詔に、子(市原王との間に生まれた五百井女王・五百枝王)を二世王として優遇する旨ある。家持は親友だった市原王との縁から内親王とも親交があったと推察される。
- 同年4.14
壬寅、以中納言従三位藤原朝臣田麻呂、為兼東宮傳。中務卿如故。右京大夫正四位下大伴宿禰家持、為兼春宮大夫。従五位下紀朝臣白麻呂、為亮。
(注)右京大夫に春宮大夫を兼ねた。家持の右京大夫任官は続紀に見えず。 前年宝亀十一年2月に任じられた右大弁の誤りか? 或いは右京大夫を兼任していたか。春宮大夫は春宮坊の長官、従四位下相当。前任者は是公。なお、この直前の4月3日、光仁天皇は退位、皇太子山部親王が即位している(桓武天皇)。翌日には天皇の同母弟である早良親王が立太子した。親王は立太子以前僧籍にあり、親王禅師と呼ばれ、ことに東大寺との関係が深かった。
- 同年4.15
癸卯、天皇御大極殿。詔曰。(中略)正四位下大伴宿禰伯麻呂・大伴宿禰家持・佐伯宿禰今毛人・坂上忌寸苅田麻呂、並正四位上。
(注)桓武天皇が母高野新笠に皇太夫人の尊称を与える旨の詔の後、「又仕え奉る人等の中に自(し)が仕え奉る状に随ひて一二人等冠位上げ賜ふ」(原文は宣命体)として三十数名の名を挙げ、位を授けた。
- 同年5.7
乙丑、正四位上大伴宿禰家持、為左大弁。春宮大夫如故。従五位上紀朝臣家守、為左中弁。
(注)右京大夫から左大弁に転任した。春宮大夫は留任。左大弁は従四位上相当。中務・式部・治部・民部の四省を管轄、太政官内を糺判し、被管諸司の宿直を監することを掌る。
- 同年8.8
甲午、正四位上大伴宿禰家持、為左大弁兼春宮大夫。先是遭母憂解任。至是復焉。
(注)母の喪により解任されていた左大弁兼春宮大夫に復任した。喪葬令によれば実母の服喪は1年、養父母は5カ月、嫡母・継母は1カ月。家持が左大弁に任じられたのはこの年5月なので、服喪による解任期間は3カ月以内。従って生母・養母の死ではないとの説があるが、仮寧令による解官期間と服喪期間は別物であり(町野修三)、この「母」は実母であったと考えられる。
- 同年11.15
己巳、宴五位已上、奏雅楽寮楽、及大歌於庭。授正四位上大伴宿禰家持従三位。(中略)宴訖賜禄各有差。
(注)13日に始まった大嘗祭が終了して宴が催され、大嘗宮の庭で雅楽寮の音楽と大歌が演奏された。この際に従三位に昇叙された。家持の最終官位である。家持の昇叙はおそらく大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開けるなど)によるものと思われる。
- 同年12.23
丁未、太上天皇崩。春秋七十有三。天皇哀号。(中略)従三位大伴宿禰家持・高倉朝臣福信、従四位下吉備朝臣泉・石川朝臣豊人、正五位下大神朝臣末足・紀朝臣犬養、従五位上文屋真人高嶋、従五位下文屋真人子老・紀朝臣継成・多治比真人浜成、為山作司。
(注)光仁上皇の崩御に伴い、陵墓を造成する官司の長に任命された。翌年1月7日の記事には上皇を広岡山陵に葬った旨あるが、遺跡の所在地は不詳。聖武陵西側の旧広岡村あたりかと言う。786(延暦5)年に至り田原陵(奈良市日笠町)に改葬された。
- 782(延暦1)年閏1.19
壬寅、左大弁従三位大伴宿禰家持・右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂・散位正四位下伊勢朝臣老人・従五位下大原真人美気・従五位下藤原朝臣継彦等五人、職事者解其見任、散位者移京外。並坐川継事也。自外党与合卅五人、或川継婚姻、或平生知友。並亦出京外。
(注)閏正月11日頃に発覚した氷上川継の謀反に連座し、現職解任の上京外追放に処せられた(続紀没伝に「移京外」、『公卿補任』には「移京外南」とある)。川継は故塩焼王と不破内親王の子。家持が事件に直接関与した形跡はなく、おそらく不破内親王との親交などから縁座したと考えられる(内親王は若き日家持が仕えた安積親王の同母姉妹である)。川継は伊豆三島に遠流、内親王らは淡路島に移配された。他に三方王・山上船主などが左遷されている。なおこの事件を藤原式家による陰謀と見る説もある。
- 同年5.17
参議従三位大伴宿禰家持、為春宮大夫。
(注)春宮大夫に復任した。前日には坂上苅田麻呂が右衛士督に復任しており、氷上川継の乱連座者が相次いで復権されたことになる。わずか4カ月足らずの追放処分だった。
- 同年6.17
春宮大夫従三位大伴宿禰家持、為兼陸奥按察使鎮守将軍。外従五位下入間宿禰広成、為介。外従五位下阿倍{猿}嶋臣墨縄、為権副将軍。
(注)春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼任した。二年前の780(宝亀11)年、陸奥国伊治郡で蝦夷出身の郡大領伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が反乱を起こし、陸奥按察使鎮守将軍紀広純らが殺害された。鎮守将軍は紀広純以来の任命である。785(延暦4)年の家持の没伝に「出でて陸奥按察使と為る」とあり、実際に陸奥へ下向したと判る。首謀者呰麻呂のその後の消息は不明であるが、対蝦夷戦争は以後二十年余りにわたって続く。
- 783(延暦2)年7.19
甲午、詔、以大納言正三位藤原朝臣是公、為右大臣。中衛大将如故。中納言正三位藤原朝臣継縄、為大納言。中務卿如故。従三位大伴宿禰家持、為中納言。春宮大夫如故。
(注)参議から中納言に昇進。中納言は従三位相当。陸奥按察使鎮守将軍も留任か。当時左大臣は空位、右大臣・大納言は各一名のみ、したがって家持はナンバー3の政治的地位についたと言えるが、鎮守将軍として陸奥に駐留していることが多く、議政官としての活動はほとんど無かったと思われる。当時の議政官は以下の通り。
・右大臣 南家是公
・大納言 南家継縄
・中納言 家持
・参 議 北家家依 石川名足 北家小黒麻呂 神王
紀船守 大中臣子老 式家種継 紀家守
- 784(延暦3)年2巳丑
巳丑、従三位大伴宿禰家持、為持節征東将軍。従五位上文屋真人与企、為副将軍。外従五位下入間宿禰広成・外従五位下阿倍{猿}嶋臣墨縄、並為軍監。
(注)蝦夷征戦の持節将軍(節刀を賜わり命令や賞罰を一任される将軍)に任命される。当時の情勢からして、現地に赴任したことは間違いない。なおこの年二月に巳丑の日は無く、不審。
- 785(延暦4)年4.7
辛未、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持等言、名取以南一十四郡、僻在山海、去塞懸遠。属有徴発、不会機急。由是権置多賀・階上二郡、募集百姓、足人兵於国府、設防御於東西。誠是{備}預不虞、推鋒万里者也。但以徒有開設之名、未任統領之人。百姓願望、無所係心、望請建為真郡、{備}置官員。然則民知統攝之帰。賊絶窺{窃}之望。許之。
(注)陸奥駐在中の家持らが東北防衛について天皇に建言した。要約すれば、危急時に人民・兵士を徴集するために設けた仮の郡多賀・階上を正規の郡とし、官員を常置することを要望したもの。天皇はこれを許可した。蝦夷に対する軍事行動が迫っていたことが推察される。なおこの年二月には多治比宇美が陸奥按察使(兼鎮守副将軍)に任命されており、家持は正式には陸奥按察使を退任していたはずである。続紀の「陸奥按察使」は誤記か。
- 同年8.28
庚辰、中納言従三位大伴宿禰家持死。祖父大納言贈従二位安麻呂、父大納言従二位旅人。家持天平十七年授従五位下、補宮内少輔、歴任内外。宝亀初、至従四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年、拝参議、歴左右大弁、尋授従三位。坐氷上川継反事、免移京外。有詔、宥罪、復参議春宮大夫。以本官出、為陸奥按察使。居無幾、拝中納言。春宮大夫如故。死後廿余日、其屍未葬、大伴継人・竹良等殺種継、事発覚下獄。案験之、事連家持等。由是追除名。其息永主等、並處流焉。
(注)家持の没伝。三位以上の公卿の死は「薨」と称するのが令の定めであるが、家持は死後除名されたため「死」の文字が使われている。翌月23日、長岡京遷都の主導者であった中納言兼式部卿藤原式家種継が暗殺され、翌日大伴継人(古麻呂の子)・竹良らが逮捕され罪を自白した。早良親王の怨霊を怖れたため、事件の詳細はその後続紀から削除されたが、『日本紀略』に残る(次項参照)。(訳)二十八日、中納言大伴宿禰家持が死んだ。祖父は大納言贈従二位安麻呂、父は大納言従二位旅人である。家持は天平十七年に従五位下を授かり、宮内少輔に任じられ、中央・地方の諸官を歴任した。宝亀初年、従四位下左中弁兼式部員外大輔に至った。十一年には参議を拝し、左右の大弁を歴任し、やがて従三位を授けられた。氷上川継の謀反に連座して、官職を罷免され京外に追放されたが、詔があり、罪を許され、参議春宮大夫に復任した。本官(参議春宮大夫)はもとのまま、京を出て陸奥按察使となった。陸奥にいてしばらく後、中納言を拝命した。春宮大夫は以前の通りであった。死後二十日余り、遺体がいまだ埋葬されないうち、大伴継人・竹良らが種継を殺害し、その事が発覚して監獄に収容された。調べてみると、事件に家持も連座していた。このため、さかのぼって除名処分にされた。その息子永主らは、皆流罪に処せられた。
日本紀略
『新訂増補国史体系 日本紀略 第二(前篇下)』(吉川弘文館 刊)に拠る。
- 785(延暦4)年9.24
丙辰、車駕至自平城。云々。種継既薨。乃詔有司、捜捕其賊。云々。仍獲竹良并近衛伯耆桴麿・中衛牡鹿木積麿。勅右大弁石川名足等、推勘之。桴麿{欸}曰、主税頭大伴真麿・大和大掾大伴夫子・春宮少進佐伯高成、及竹良等同謀、遣桴麿・木積麿、害種継云々。継人・高成等、並{欸}曰、故中納言大伴家持相謀曰、宜唱大伴佐伯両氏、以除種継、因啓皇太子、遂行其事。窮問自余党、皆承伏。於是、首悪左少弁大伴継人・高成・真麿・竹良・湊麿・春宮主書首多治比浜人、同誅斬。及射種継者、桴麿・木積麿二人、斬於山埼椅南河頭。又右兵衛五百枝王・大蔵卿藤原雄依、同坐此事。五百枝王、降死、流伊予国。雄依及春宮亮紀白麿・家持息右京亮永主、流隠岐。東宮学士林忌寸稲麿、流伊豆。自余随罪亦流。
(訳)二十四日、天皇(桓武)は平城より(長岡京に)帰られた。中略。種継はすでに薨じていた。そこで天皇は官司に対し、犯人を捜索するよう命じられた。中略。やがて竹良と近衛の兵士伯耆桴麿(ほうきのいかだまろ)・中衛の兵士牡鹿木積麿(おしかのこさかまろ)が捕えられた。天皇は右大弁石川名足に対し取り調べを命じられた。桴麿が白状して言うことには、「主税頭大伴真麿・大和大掾大伴夫子・春宮少進佐伯高成、及び竹良らが共謀して、私桴麿と木積麿を派遣し、種継を襲いました、云々」と。継人・高成らは、ともに白状して「亡き中納言大伴家持らが共謀して、『大伴佐伯の両氏を引き込み、種継を除くべきである』と言いましたので、皇太子に申し上げて、とうとうその事を実行しました」と。残る一味を厳しく尋問したところ、全員が罪を認めた。こうして、首犯の左少弁大伴継人・高成・真麿・竹良・湊麿・春宮主書首(とうぐうのふみのつかさのかみ)多治比浜人、みな斬刑に処した。また種継を射殺した実行犯、桴麿・木積麿の二人は、山埼橋の南の河原で斬刑に処した。また右兵衛五百枝王(いおえのおおきみ。市原王の子)・大蔵卿藤原雄依(おより。永手の子)もこの事件に連座していた。五百枝王は、本来死罪となるところ、罪を減じて伊予国へ流した。雄依及び春宮亮紀白麿、家持の息子で右京亮の永主らは、隠岐に流罪。東宮学士林忌寸稲麿は、伊豆に流罪。残余の者も罪の重さに従って流罪に処した。
- 同年9.28
庚申、詔曰、云々。中納言大伴家持・右兵衛五百枝王・春宮亮紀白麿・左少弁大伴継人・主税頭大伴真麿・右京亮同永主・造東大寺次官林稲麿等、式部卿藤原朝臣乎{殺}之、朝庭傾奉、早良王乎為君止謀気利。今月廿三日夜亥時、藤原朝臣乎{殺}事尓依弖、勘賜尓申久、藤原朝臣在波、不安。此人乎掃退牟止、皇太子尓掃退止弖、仍許訖。近衛桴麿・中衛木積麿二人乎為弖{殺}支止申。云々。是日、皇太子自内裏帰於東宮。即日戌時、出置乙訓寺。是後、太子不自飲食。積十余日、遣宮内卿石川垣守等、駕船移送淡路。比至高瀬橋頭、已絶。載屍、至淡路、葬。云々。至於行幸平城、太子及右大臣藤原是公、中納言種継等並為留守。種 継照炬催{檢}、燭下被傷。明日薨於第。時年四十九。天皇甚悼惜之、詔贈正一位左大臣。又伝桴麿等、遣使就柩前告其状。然後、斬{決}。
(訳)二十八日、天皇は詔を出された。中略。中納言大伴家持・右兵衛五百枝王・春宮亮紀白麿・左少弁大伴継人・主税頭大伴真麿・右京亮大伴永主・造東大寺次官林稲麿らが、式部卿藤原朝臣(種継)を殺害し、朝廷を転覆たてまつって早良親王を天皇に戴こうと謀った。今月二十三日の夜、亥の刻(午後十時頃)、藤原朝臣(種継)を殺害した件につき取り調べさせたところ、「『藤原朝臣がいては、宜しくありません。この人を排除しましょう』と皇太子(早良親王)に申し上げ、(皇太子は)『では排除しよう』と、そのままお許しになりました。(そこで)近衛兵士の桴麿と中衛兵士の木積麿の二人を用いて殺害させました」と申した(以上桓武天皇の宣命)。中略。この日、皇太子は内裏から春宮に帰られた。当日の戌の時(午後八時頃)、皇太子を宮から乙訓寺(おとくにでら。長岡右京の寺院)に収監申し上げた。これ以後、皇太子は自ら食を絶たれた。十日余りして、宮内卿石川垣守らを派遣し、船にお乗せして淡路に移送申し上げた。高瀬橋(淀川の橋)のほとりに至った頃、すでに絶命されていた。ご遺体をお載せしたまま、淡路に到着し、埋葬申し上げた。中略。天皇が平城に行幸されるに至って、皇太子と右大臣藤原是公、中納言種継らを長岡京留守官とされた。種継は夜も松明を照らして(造営工事を)急がせ、検分していたが、燈火の下で傷を受け、翌日自邸で薨じたのである。享年四十九であった。天皇はこの事をはなはだ痛惜され、詔を出し正一位左大臣の位を贈られた。また桴麿らを召し出して、(種継邸に)遣り、柩の前で罪状を懺悔おさせになった。その後、二名は斬刑に処した。
日本後紀
『新訂増補国史体系 日本後紀』(吉川弘文館 刊)に拠る。
- 806(大同1)年3.17
辛巳、勅、縁延暦四年事配流之輩、先巳放還、今有所思、不論存亡、宜叙本位。復大伴宿禰家持従三位。藤原朝臣小依従四位下。大伴宿禰継人・紀朝臣白麻呂正五位上。大伴宿禰真麻呂・大伴宿禰永主従五位下。林宿禰稲麻呂外従五位下。奉為崇道天皇、令諸国国分寺僧春秋二仲月別七日、読金剛般若経。有頃天皇崩於正寝。春秋七十。皇太子哀号{僻}踊、迷而不起。参議従三位近衛中将坂上大宿禰田村麻呂・春宮大夫従三位藤原朝臣葛野麻呂、固請扶下殿、而遷於東廂、次璽并剣櫃奉東宮。近衛将監従五位下紀朝臣縄麻呂・従五位下多朝臣入鹿、相副従之。遣使固守伊勢・美濃・越前三国故関。是日有血、灑東宮寝殿上。
(注)藤原種継暗殺事件の連座者を21年ぶりに復位。この前日には五百枝王・氷上川継らも復権されている。桓武天皇はこれを遺勅として崩御。
公卿補任
- 『新訂増補国史体系 公卿補任 第一篇』(吉川弘文館 刊)に拠る。
- 誤伝と思われる部分は[ ]で囲み、続紀・万葉による訂正を→の後に示した。また誤脱があると判断される部分には、本来あるべきと思われる文字を""で囲み挿入した。
- 本文の( )内の文字は原典にある注を示す。
- 780(宝亀11)年
参議 正四位下 大伴宿禰家持 二月一日任。九日兼右大弁・春宮大夫(中宮大夫)。
大納言従二位旅人(又名多比等)之子。[天平元年己巳生]。天平十七年正月従五下。十八年三月宮内少輔。六月[民部大輔→ナシ]。越中守。廿一年四月従五上。[八年正月薩摩守→ナシ]。勝宝[二→六]年四月兵部少輔。九年六月為大輔。宝字二年六月因幡守。[六→八]年正月薩摩守。神護景雲元年八月大宰少弐。[同→宝亀元]年[十→六]月[六→二十八]日民部[大→少]輔。宝亀元年九月左中弁兼中務大輔。十月正五下。二年十一月従四下(弁官補任。正五上者)。三年二月兼式部"員外"大輔。五年三月相模守(止弁)。九月兼左京大夫并上総守。六年十一月衛門督。七年三月兼伊[世→勢]守。八年正月七日従四上。九年正月[十四→十六]日正四下。
- 781(天応1)年
参議 "従三位" 大伴家持 六十四 右大弁。四月十四日兼任春宮大夫。同十五日正四上。五月[四→七]日兼左大弁。八月[一→八]日復任三木(イ左大弁)。十一月[十三→十五]日従三位。
- 782(延暦1)年
参議 従三位 大伴家持 左大弁・春宮大夫・陸奥守。閏正月坐氷上川継事免、移京外南。四月日←ママ詔宥罪。後更任三木。兼官如元。五月[五→十七]日更任春宮大夫。六月兼陸奥出羽按察使。
- 783(延暦2)年
中納言 従三位 大伴家持 七月[十三→十九]日任。兼陸奥按察使(元三木)。春宮大夫如元。
参議 "従三位" 大伴家持 春宮大夫。七月任中納言。
- 784(延暦3)年
中納言 従三位 大伴家持 二月為持節征東将軍。春宮大夫。
- 785(延暦4)年
中納言 従三位 大伴家持 八月庚寅日薨。廿余日其骸未葬。大伴継人・竹良等、射殺藤種継、事発覚下獄。案験之、事連家持。由是追除名。其息永主等、並處流。中納言従三位兼行春宮大夫・陸奥按察使・鎮守府将軍。在陸奥。
日本後紀云、延暦廿五年三月辛巳勅、縁延暦四年事、配流之輩、先巳放[遷→還]、今有所思、不論存亡、宜叙本位。復大伴宿禰家持従三位。可尋之。
意見十二箇条
『本朝文粋』(岩波新日本古典文学大系27)に拠る。
- (前略)其後代々下勅、給罪人伴家持、越前国加賀郡没官田一百余町、山城国久世郡公田卅余町、河内国茨田渋川両郡田五十五町、以充生徒食料、号曰勧学田。(中略)承和年中、伴善男訴家持無罪、返給加賀郡勧学田。又有勅、分山城国久世郡田卅町為四分、其三分給典薬左右馬三寮、纔留其一分充学生料。又河内国両郡治田、頻遭洪水、皆成大河。(中略)又罪人伴善男所返給加賀郡田、重亦没官、令給穀倉院、充造道橋料。重望、依旧返給件田、以為勧学田。(後略)
(注)914(延喜14)年、式部大輔三善清行が醍醐天皇に奉った『意見封事』十二箇条のうち第四条の一節。死去の際、家持が越前国加賀郡他に計二百町近い土地を所有していたことが判る。また伴善男が家持の無罪を訴え、その没官田を恢復している点も注目される。善男は家持の従兄にあたる古麻呂の曾孫。
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