藤原朝臣八束
ふじわらのあそみやつか
- 生没年 715(霊亀1)〜766(天平神護2)
- 系譜など 北家房前(ふささき)の第三子。母は美努王(みののおおきみ)の娘、牟漏女王(むろのおおきみ)(『尊卑分脉』)。従って橘諸兄の甥にあたる。兄に鳥養・永手、弟に清河・魚名・御楯・楓麻呂がいる。また姉妹に聖武天皇夫人・藤原豊成室・袁比良(藤原仲麻呂室)がいる。阿倍朝臣帯麻呂の女との間に内麻呂(長岡大臣)らをもうける。
天平宝字四(760)年頃、真楯の名を賜る。後世繁栄を謳歌する藤原北家は真楯の嫡流。
- 略伝 若くして才を顕し聖武天皇の寵愛を得る。733(天平5)年には河邊東人をして病床の山上憶良を見舞わせる(06/0978左注)。春宮大進として官途に就き、740(天平12)年1月、正六位上より従五位下に昇叙され、26歳の若さで大夫となる。同年11月、関東行幸従駕に際し、赤坂頓宮で従五位上を賜わる。翌年12月、右衛士督に転任。天平15年5月、阿倍内親王五節奏舞の折正五位上に越階昇叙(薨伝によればこの頃式部大輔兼左衛士督)。同年秋か冬、安積親王を自邸に招いて宴、この時左小弁とある。この宴には大伴家持も出席している。天平16年11月、甲賀宮(紫香楽宮)で紀清人とともに従四位下に昇叙される。天平19年3月、治部卿に就任。翌年4月、元正太上天皇葬儀の装束司を務める。天平末年大和守の地位にあり、天平勝宝初年参議を拝命したという(続紀薨伝)。752(天平勝宝4)年4月、大仏開眼会では読師延福法師を迎える役を務める。同月、摂津大夫に着任。同年11月、諸兄宅の肆宴に聖武上皇・家持らと臨席、歌を詠む(19/4271)。この時右大弁。また同月の新嘗祭の肆宴でも作歌(19/4276)。勝宝6年1月、従四位上。同年の橘奈良麻呂の乱後、8月に正四位下に昇叙される。758(天平宝字2)年8月、恵美押勝らと共に官号改易に携わる。この時名は真楯とあり、肩書は参議正四位下中務卿。宝字3年6月、正四位上。宝字4年1月、従三位大宰帥(薨伝によればこの年真楯の名を賜わる)。宝字6年1月、中納言兼信部卿。宝字8年9月、正三位勲二等授刀大将。766(天平神護2)年1月、大納言(兼式部卿)。同年3月、薨ず(52歳)。称徳天皇より大臣としての葬儀を賜わる。『続日本紀』薨伝に「度量弘深、公輔の才あり。官にあっては公廉にして慮私に及ばず、聖武天皇の寵愛厚く、詔して奏宣叶納(天皇への奏上と勅旨の伝達)に参ぜしめられ、明敏にして時に誉れあり、その才を従兄仲麻呂に妬まれて病と称し家に籠もって書籍を弄んだ」旨ある。万葉には8首、03/0398・0399、06/0987、08/1547、1570・1571、19/4271、4276。橘諸兄・山上憶良・家持・安積親王らとの親交が窺える。古く万葉の撰者にも擬せられた。
関連サイト:藤原八束の歌(やまとうた)
系図へ