藤原朝臣宿奈麻呂
ふじわらのあそみすくなまろ
- 生没年 716(霊亀2)〜777(宝亀8)
- 系譜など 宇合の子。広嗣の弟、綱手・田麻呂・百川・蔵下麻呂らの兄。安倍子美奈(古美奈とも。広庭の孫、糠虫の女)を娶り、乙牟漏をもうける。傍妻には石川女郎のいたことが知られる(20/4491)。子には他に諸姉(百川の室で桓武夫人旅子の母)や藤原永手室・藤原藤継室・藤原家兼室・藤原園人母などがいる。770(宝亀1)年頃、良継と改名。
- 略伝 740(天平12)年9月、異母兄広嗣が叛乱を起こし、縁座して伊豆へ流罪に処せられる。天平14年、弟田麻呂らと共に流刑地より恭仁京に召還される。のち、少判事に任ぜられる。天平18年4.22、従五位下。6.21、越前守。9.14、上総守。752(天平勝宝4)年11.3、相模守。勝宝7年2月、兵部少輔大伴家持に防人歌を進上。勝宝9年、従五位上。6.16、民部少輔。759(天平宝字3)年11.5、右中弁。宝字5年1.16、上野守。宝字6年12月、恵美押勝の子二人が参議に列せられたことに憂憤し、押勝暗殺を計画。大伴家持・石上宅嗣・佐伯今毛人を誘う。翌天平宝字7年、造宮大輔(上野守は留任)。同年3月か4月頃、右大舎人弓削男広が良継らの暗殺計画を押勝に密告、家持らと共に拘束される。宿奈麻呂一人罪を問われ、大不敬罪で官位・姓を剥奪される。764(天平宝字8)年9月、恵美押勝の乱勃発直後、従四位下に昇叙され、押勝追討軍に兵を率いて参加する。この功により、乱鎮圧後の10月、正四位上大宰帥。766(天平神護2)年11.5、従三位。768(神護景雲2)年兵部卿に造法華寺長官を兼ねる。神護景雲4年7.20、参議に列する。同年8.4、称徳天皇が崩ずると、左大臣永手・右大臣真備らと協議し、白壁王を立太子させる。8.22、大宰帥に再任。9.16、式部卿兼造法華寺長官。10.1、白壁王即位(光仁天皇)に際し、正三位。この頃までに良継と改名。771(宝亀2)年3.13、内臣(うちつおみ)に任ぜられる。内臣は養老5年の房前以来の任官。この月15日の勅で待遇は大納言並とする。『続日本紀』薨伝には、この後官人の昇進や降格は良継の思うままになったとある。宝亀5年1.7、従二位。同年、娘の乙牟漏が小殿親王(延暦2年3.14安殿親王と改名)を出産。宝亀8年1.3、内大臣。同年9.18、薨ず。62歳、内大臣従二位。従一位を追贈される。806(大同1)年、子の乙牟漏の腹の安殿親王が即位し(平城天皇)、外祖父として正一位太政大臣を追贈される。『続日本紀』薨伝に政積なしとする。万葉に歌はないが、757(天平宝字1)年12.18、三形王邸の宴で伝誦された妻の歌(「藤原宿奈麻呂妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌」20/4491)がある。
系図へ