大伴宿禰古麻呂
おおとものすくねこまろ
- 生没年 ?〜757(天平宝字1)
- 系譜など 万葉集には胡麻呂とある。系譜は不詳であるが、万葉に旅人の甥とあり(04/0567左注)、すなわち旅人の弟田主か宿奈麻呂の子であろう。佐保・田村・坂上、いずれの家との交流も見られないことから、田主の子とするのが妥当ではないか。子に継人があり、大納言伴善男は曾孫にあたる。
- 略伝 730(天平2)年6月、叔父旅人の病を稲公と共に見舞う。時に治部少丞(従六位上相当)。733(天平5)年、遣唐留学生として入唐。帰朝後、738(天平10)年4月、兵部大丞(大日本古文書)。745(天平17)年、正六位上より従五位下。749(天平勝宝1)年、左少弁。750(天平勝宝2)年9月、入唐副使。752(天平勝宝4)年、従四位上。754(天平勝宝6)年帰朝の折、鑑真を伴う。同年4月、左大弁正四位下。同年7月大皇太后(藤原宮子)葬送の造山司。756(天平勝宝8)年聖武崩御のとき山作司。757(天平宝字1)年3月、道祖王廃太子に伴い池田王(舎人皇子の子)を推すが失敗。同年6月、兼陸奥鎮守将軍、同按察使、左大弁。奈良麻呂の乱に加担し、同年7月杖下に死す。万葉に作歌は見えない。
大伴氏の歴史へ|系図へ